第三章 ]UーA



 



『ああ…これは負ける筈だ』

 ヘルバント・ウォーレスは眞魔国軍の布陣を観るにつけ、心から納得してしまった。
 それは奇妙なほどに敵愾心を誘うことはなく、爽やかな理解というものに昇華していった。

 まず、夜が明けるとヘルバントが疑問に思っていた峡谷内の軍勢についての謎が証された。
 今回の眞魔国軍には殆ど魔力を使う兵がいないと認識していたのだが、法力除け加工を施した幌馬車のには数人とはいえ、強い魔力持ちの兵が配備されていた。彼らは殆どが衛生兵であったのだが、同時に近距離に於ける《防壁》展開能力を持った者達であった。

 しかも、やはり襲撃を予期していた彼らは幌馬車の中に複数の打ち上げ花火を仕掛けており、矢の飛来に併せて発射できるような仕組みを構築していた。

 馬が暴走しなかったのも突然の音や光に過剰興奮しない馬を精選していたこと、更には目隠しと耳栓をさせた馬を、信頼関係の篤い乗り手が常に落ち着けさせていたことが大きな要因であった。

 ロンバルディア軍の配置が見抜かれていたことについては流石に《極秘事項》とされたものの、卓越した諜報力を持つ兵がロンバルディア国の内外で早期に情報収集をしていたことは疑いない。

『魔力も使っていただろうが、それで言えば俺達だって法力を使う。こいつらは奇妙な技で騙し討ちにするのではなく、確かな情報と戦略によって勝利を手にしたんだ』

 それは、教会の用いる理解不能な呪術等から比べれば十分ヘルバントにとって理解しやすいものである。

 それに、彼らは戦士としての高い気品を持っている。

 夜明けと共に…コンラート王はロンバルディア軍の死者に対する弔いの儀式を行ってくれたのだ。

『こういう行為は、偽善的なものじゃない…この男がそういう気質を持っているからこそやるんだろう…』

 先を急ぐ為に死体の回収作業までは手伝えないことを詫びるコンラート王に、ロンバルディア軍は確かな信頼を覚えたようであった。



*  *  *




「少し、慣れてきたかい?」
「これは…コンラート陛下!」
「コンラートで良いよ。俺は君の王ではないからね」
「は…しかし、今はあなたの軍に所属して飯を喰わして頂いております。呼び捨てには出来かねます」
「では、好きなように呼んでくれ」

 真面目な顔でヘルバントが言うと、コンラートは面白そうに唇の端を挙げた。

「飯の出所は大事かい?」
「はい、この上なく」
「生真面目なのか巫山戯ているのか分からない男だな、君は」

 コンラートは軽やかに笑うと、眞魔国軍の中で客員士官として扱われるようになったヘルバントの肩をぽうんと叩いた。

 峡谷を抜けてゾーンウォーツ国の領土を間近に控えた彼らは、山岳地帯で十分な警戒網を敷きながら野営に入った。

 今のところゾーンウォーツ国からの手出しは一切無い。
 ロンバルディア国軍の情報が伝わっているのだとすれば、あちらはあちらで警戒したまま眞魔国軍をやり過ごす気なのかも知れない。

『ひょっとすると、融和策さえ採ってくるかも知れないないな…』

 何しろ眞魔国軍は圧倒的な優位に立ちながら剣を引いた上、ヘルバントの身ひとつと引き換えに食糧を分け与えたのだ。
 魔族に対する敵愾心が幾ら強かろうとも、直接交戦した際の勝率と天秤に掛ければ話し合いを求めてくる可能性は高まる。

『俺を必要としたのも、実はそういう理由なのか?』

 疑り深い…と言うほどではないのだが、ヘルバントは生来の性質として常に複数の可能性を頭に浮かべる癖がある。

 一時的な興奮から《俺は一軍と引き替えにするほどの価値を持つ男だ》という自負を持ったものの、ヘルバントの策を完璧に読み取っていたコンラートにとって、人間世界の地形に関する知識がそこまで有用なものだろうか?

『だとすれば…俺の価値とは何だろうか?』

 諜報に関するもの以外ではあらゆる自由を保障されている事から考えても、ヘルバントの役割とは人間世界に対する《宣伝要員》なのではないだろうか?

 《これこの通り、魔族とは知的で友好的な存在ですよ》と示し、強い反発を避けながら進む事が目的なのだとすれば、なるほどこれは上手いやり方だろう。

 《ロンバルディア軍を壊滅させた》となれば他の国々は戦々恐々となり、敵わぬ事が分かっていてもやけっぱちになって襲いかかってくるか、悪くすると今までは敵対していた国同士が手を連合を組む可能性もある。

 しかし、今回の遣り口であれば《眞魔国軍は平和的交渉が可能な組織》という宣伝の他、《人間世界の優秀な人材を必要としている》という点で人間達の矜持を満足させることも出来るのだ。

 様々な可能性を頭に浮かべながら、ヘルバントはコンラートを見やる。
    
「何か?」
「いえ…」

 思いつきをそのまま口にすることは流石に出来なくて曖昧にぼやかすが、コンラートはヘルバントの心情をある程度汲んでいるのか、それ以上問いただすことはなかった。

 野営の為の篝火(かがりび)に照らし出された横顔は魔族らしい美麗なものであったが、混血であるためか近寄りがたいというほどではない。
 どこか親しみも感じさせるのは、基本的に笑顔を浮かべているせいだろうか?

『この男は、一体何を考えているんだろう?』

 ふと、疑問が湧いてきた。

 《極力争いを避ける》というコンラートの基本方針は、《禁忌の箱》を滅ぼすという遠征の目的には合致しているだろう。
 だが…眞魔国の国内事情を考えれば、とても最上の選択とは言えないのではなかろうか?

「…ひとつ、お聞きしてもよろしいでしょうか?」
「俺に答えられることであれば、極力答えよう」

 快く受け入れられたことで、逆にヘルバントは言葉を探すことに苦労してしまい、ばりばりと頭をかいた。

「聞きたい…とは言うものの、俺も上手く質問を纏める自信がないのですが…」
「構わないよ。疑問というのはえてしてそういうものだろう?」

 ヘルバントの心情をある程度察しているのか、コンラートは言葉を急がせることはなかった。

「ええ…そうですね。まさにそうです。俺は、疑問に思っているのですよ。コンラート陛下、あなたは何故それほどまでに人間に対して友好的な手法を用いようとしているのですか?」

 この場合、ヘルバントは自分自身を《人間》としての立場には固定せず、第三者的な立場から客観的に、《人間》と《魔族》の関連を捉えている。

 自分の損益に関わらず、まさに《好奇心》として知りたいのだ。

 ヘルバントの物言いも猜疑のような陰湿なものではなく、どこか真実を求める敬虔な学徒の風情であったせいか、コンラートは興味深げに瞬いた。
 その仕草に促されるようにヘルバントは言葉を続ける。

「あなたが人間に対して憎悪を抱いていない事は、傍に居れば分かる。だが…あなたは、あなたの身に流れる人間の血によって、長きにわたり眞魔国内で苦渋を嘗めたとも聞いています。ましてや、即位したばかりで遠征中というお立場を考えれば、眞魔国内で政敵が良からぬ噂を流すこともあるのではないですか?下手をすれば、内乱の火種となるのでは…」
「嬉しいな…心配してくれるのかい?」
「そのように綺麗な顔で微笑まれると困りますな。誤魔化されそうになります」

 とは言うものの、ヘルバントの方はコンラートの思考回路に対する興味の方が強く、誤魔化されてやるつもりはない。

「そういうつもりはないんだけどね。そうだな…。君が言っているようなことも通常であれば十分起こりえると思う。実際、数年前…俺はまさに君が懸念するような理由によって軍籍を剥奪され、犯罪者として逃亡せざるを得なくなったからね」
「ええ…そのように伺っております」

 ヘルバントも当然その話は耳にしていた。
 何しろ、このことは人間世界でも有名な話なのだ。

 彼が眞魔国と袂(たもと)を分かつのではないかと囁かれた時期には、旧シマロン王家…《禁忌の箱》解放の衝撃によって崩壊した大シマロンの、更に大元となった本来の《ベラール家》の歴史を知る者達を中心に、コンラートを人間世界に取り込もうという動きがあったと聞く。

 だが、コンラートの方は丁重にその誘いを断ることで、彼の忠誠心が裏切られてもなお眞魔国の上にあるのだと示していた。

 そのことは、コンラートにとって父方の血脈である人間世界が、それほど《慕わしい》存在ではない事を示してもいた。
 それが…何故これほどのリスクを冒してまでこのような手法をとり続けているのか?

「だが…現時点の眞魔国に於いて、その心配はない」

 コンラートはきっぱりと断言するが、《心配ない》と言われて《そうですか》とは言いにくいものである。

「何故か…と、聞いてもよろしいでしょうか?」
「構わない。知られたからと言ってどうと言うこともないからね。まず一つには、俺が現在眞魔国で魔王の名代を務めているフォンヴォルテール卿グウェンダルを信頼しているということ…」

 ふわりと…作り物ではない喜びの表情が、宵闇の中にも鮮やかにコンラートの口元を掠めていく。

「もう一つは、《禁忌の箱》の消滅が確認されない限り、人間世界でも十分に活動できる混血軍…ルッテンベルクを率いる俺を陥れることは、俺のことをどれほど良く思わない連中にとっても首を絞めることになる。世界自体が滅びてしまえば彼らが治めるべき国など残らないからね」

 なるほど、眞魔国では人間世界よりも強烈に《禁忌の箱》に対する危機感を抱いているらしい。もともとあの《箱》は魔族が創主を封じる為に作り出したものだというから、より多くの情報を持っているのだろう。

 しかし、それでもなお疑問は残る。

「ですが、それでは…《禁忌の箱》が消滅されたらどうですか?その報が伝えられるやいなや、反旗を翻す者が出るのでは…?」


「やれるものなら、やってみるが良いさ」


 一瞬…凄みのある笑顔でコンラートが嗤うものだから、彼のそんな表情を初めて見たヘルバントはぞくりと背筋を震わせる。
 けれどもそんな雰囲気は長くは続かなかった。

「そういう手合いがもし居たとしても、《禁忌の箱》という諸悪の根元の消滅に対して何ら貢献することなく、火事場泥棒のように国を手に入れようとするような輩についていくほど、我が国の民は愚かではないと信じているよ。もし…万が一にもそういうことがあれば、俺は今度こそ眞魔国を棄ててやる」

 後半はどこか笑い含みの余裕を感じさせたものだから、少なくとも眞魔国の国内事情的については殆ど懸念がないのだろう。
 万が一組織だった動きが眞魔国内に生じたいとしても、自分の指揮する軍団に対して絶対的な自信を持っているのかもしれない。
 
 しかし、それでもまだヘルバントには納得しかねるものがある。

「お国事情の方はまあ何とか分かりました。ですが…そうだとしても少々解(げ)せない。あなたにとって人間に損害を与えないことが不利益にはならないのだとしても、その不利益を起こさせないようにしたいという欲求はどこからくるのでしょう?俺が知る限り、あなたが人間に対してそれほどの好意を示すべき動機が思い当たらない。確かにあなたの父君は旧シマロン王家の血筋に連なるとの噂はあるが、それがあなたを引き寄せる手札とならないことは過去の事例が物語っている」
「動機…ねぇ……」

 コンラートは些(いささ)か困ったように苦笑してしまう。


「《大切な人を喜ばせる為》…というのでは、納得して貰えないだろうか?」


「…………はぁ…?」

 ぱかりと口を開けて、ヘルバントは絶句してしまう。
 からかわれているのだろうか?

 だが…それにしては、淡く湛えられたコンラートの笑みは清く…澄み渡った誠心を含んでいる。

 強い風に顔を向けたコンラートは精悍な横顔の曲線を宵闇の中に浮き上がらせながら、その異名の由来となった長めの頭髪を靡かせている。
 その様子は…どこか神々しいような風格を呈していて、ヘルバントを奇妙な心地にさせた。

 まるで、自分が生きている人物…いや、魔族と相対しているというよりも、伝説の中の存在にまみえているような心地がしたのだ。

「今、俺がしていることは広い意味では世界の崩壊を阻止するという、とても大きな規模での動きなのかもしれない…けれどその動機は、ある意味ではとても素朴で…人によっては、取るに足らないと感じるかもしれないことなんだよ」
「…恋人ですか?」
「いいや…友人だよ。最愛の…誰よりも大切な友人だ」

 閃くような微笑みは、まるで夜空を斜走する流星のような衝撃をヘルバントに与える。 目にしただけで、何か素敵なことが起こりそうな予感を覚えさせる…そんな、笑みだった。

「ユーリ…眞魔国を救った双黒の少年の噂は、人間世界にはまだ流れていないかな?」
「いえ…噂だけは聞き及んでおります」

 実際問題として、人間世界に比べれば《マシ》という程度の状況であった眞魔国が突然凄まじい実りの時を迎え、夏だというのに秋の盛りを思わせる収穫を得ているというのだ、《一体何故…!?》と、人間の国々ではそれこそ血眼になってその原因を突き止めようとしたものだ。

 《双黒略奪計画》を企てた連中もいたようだが、彼らは眞魔国の土を踏むことなく闇に葬られたと聞く。
 諜報や警戒網に関しても、現在の眞魔国は鉄壁の布陣を敷いているらしい。

『なるほど…その双黒がコンラート陛下にとっての《大切な人》なのであれば、それも無理からぬことだろう』

 こと、双黒の魔王陛下の身柄を護ることにかけては、コンラートは絶対的な自信を持てるだけの配備をしているのだろう。

「眞魔国に奇跡の実りを与えた、双黒の少年…あまりに信じがたい、お伽噺のような話しか聞いておりませんので、少々眉唾のように感じておりました。枯れた田畑や野山に一瞬にして緑が芽吹き、それどころか…春夏を越えて一気に秋の実りにまで到達したのだと…。それは、誠に真実なのですか?」
「そうだ。彼は眞魔国内部で解放されかけていた《禁忌の箱》のひとつ、《鏡の水底》を封印し、眞王廟の巫女達と連携して眞魔国内の要素を一気に解放したんだ」
「それでは、人間世界でも《禁忌の箱》が滅ぼされれば、眞魔国のような実りが得られるのですか?」
「いいや…それは無理だ、ヘルバント」
「何故です?」
「考えてもみてくれ。人間と魔族を分ける大きな因子はなんだい?」

 際だった美しさ…長命…そういったものの《源》となる存在。

「それは…精霊の力、ですか?」

 かつて、人間世界に於いても精霊や要素は人々の暮らしの傍でそっと息づいていたという。
 湖に供え物をする者、木陰からちいさな小人の声を聞く者…昇る太陽に祈りを捧げる者…素朴な土着信仰が各地域で見られたのだそうだ。

 だが、ある時点を境に人間はそれらの存在から分断されることになった。
 他動的なものではなく…能動的な事由によって。

「精霊…要素……色んな呼び方があるね。さて…ヘルバント、彼らは何故人間には助力してくれないか分かるかい?」
「我々が…讃えなくなったからでしょうか?」
「流石だね。その調子だと、理由についても察しはついているかな?」
「……神によって、排斥されたからでしょうか?」

 《どうだろう?》という顔をして、コンラートが試すような表情を見せるから…ヘルバントはもう一つ付け加えた。

「失礼…不正確な物言いでした。神ではなく…神を奉じる人間が、《もう信じてはならない》と布告を出したからですな」
「…そうだね」

 満足げに…けれど、どこか寂しげにコンラートは頷く。

「その布告を出した時期からそうだったのかどうかは分からない…だが、少なくとも現在の教会がその力の源としている法力が一体どういう力なのか、何故要素達を排斥しようとしているのかは分かるかい?」
「絶対的な存在によって、意識統一を図るためでしょうか?」

 固定された価値観によって信奉対象を一本化することで、教会という存在に疑惑や反抗の余地を与えないほどの服従を可能にする為だろうか?

「ああ…そういう面もあるだろう。だが、もう一つある。彼らにとって要素の力がとても邪魔なものだからだよ。彼らの法力と要素は相反する力だ。何故なら…神や法力というものは極めて《禁忌の箱》…その源となる《創主》に近い存在だからね」
「……神が最も呪われた存在だと…?」

 その告発は、幾ら不信心者のヘルバントとはいえど衝撃に値するものであった。

 人間世界に於いても《禁忌の箱》及び《創主》については悪しき存在だと見なされている。
 だが、《神》や《法力》についていえば魔族に対して大きな力を持つことから、《聖なるもの》として長く認識されてきたのだ。その価値観を一瞬にして覆すことは流石に難しい。

 だが…何故だかヘルバントは《なんて事を!》と憤る気にはならなかった。
 魔族から見た推測とはいえ、彼が知る様々な事例をつぶさに繋げていくと、教会が《聖なる存在》とはとても思えないからだ。

 その大きな要因となっているのが、教会を守護する軍組織《聖騎士団》の存在である。

 聖騎士団…随分と崇高そうに響くが、その名を耳にした者は熱狂的な教徒でない限りぞくりと背筋を震わせるのが普通だ。
 それほど、彼らは敵対する者に容赦がない。

 現在の聖騎士団は教主の意向で教会総本山である聖都テンペストの護りに徹しているのでまだ良いが、かつては戦慄を催すような戦闘で大陸を血に染めたものである。

 もともと唯一の《神》を奉じる教会は強い力を持って各国の王を従えていたのだが、《禁忌の箱》解放後は特に強烈な性質を帯びるようになっていった。世界が滅びの道を突き進んでいるのが明白になるに従って、救いを現実世界以外のものに求めたくなる者が増えたからだ。
 
 そういった手合いは自分が餓えてもなけなしの収入や食糧を教会に奉じていくから、常に彼らはどんな国の王よりも裕福で、自分たちの思想に巨大な自信を持っている。

 《我らは正しい》
 《だから、我らのなす事は全てが輝かしい正義である》

 絶対的な正義を確信した彼らにとって、敵対者とは人間ではなく悪魔なのだ。
 悪魔が敵である以上、一切の同情を持つことはなく捕虜という概念もない。
 武器を手放して命乞いをするものも、抵抗できない負傷兵にも容赦なく剣が振るわれ、枯れ草の上に並べられて介錯も無しに生きたまま焼かれる。
 
 聖騎士団に所属しなくとも、教会と結びついた《信心深い》王を仰ぐ国では同様の価値観が軍の中にある。それは軍紀以上に厳密なものであり、違反者には家族ぐるみで苛烈な罰が与えられるのだ。

 それでもヘルバントは、心のどこかで教会を全否定することに抵抗感を覚えてしまう。
 幼い頃から刻まれた価値観がそれだけ根強く定着しているのかもしれないが、教会の教義の中には聖騎士団のように苛烈な思想だけでなく、暖かな因子も含まれている…そう、主張したくなるのだ。

「……信心深い連中が聞いたら、憤死するでしょうな…」

 ヘルバント自身は不信心者で通っているので、自分の身に照らしては主張できない。
 その代わり、彼の知る《信心者》の姿が無意識に浮かんでくるのだった。

「俺の祖母は熱心な神の信奉者でしたが、誰に対しても優しかったし…病苦や夫の死による哀しみを信仰によって乗り越えてきました。そんな力をくれるものが邪悪であると認めるのは…辛いですな」
「君達の祖先が信奉した神と、現在の神とは似て非なるものではないのだろうか?しかも、以前の神が持つ性質を全て否定するのではなく、同じものだと思わせながら少しずつ変わっていったのだとすれば…善意と悪意が混在した教義のどこに感銘を受けるかで、同じ宗教を奉じていても人の性質は代わってくるのではないだろうか?」

 神の教義の中には、極々素朴な倫理観…《人には優しくしよう》《毎日一生懸命働こう》…そういった、誰もが《大切なことだね》と頷き合い、幸福な生活を創出する為の智慧も含まれている。

 だが、その一方であまりにも熾烈な《敵》に対する教えが含まれているのだ。
 それらは《ひとつのもの》として生まれたにしては、あまりにも違和感がありすぎる。

「教義が時間の経過と共に変質してきたと仰りたいのですか?」
「いや…寧ろ、積極的に変質《させられた》という可能性を、俺は懸念するよ」
「意図的に…誰かが、操作したと?」

 先程のコンラートの発言に誘導されてはならないと思うのだが、ヘルバントの卓越した記憶力によって引き出された情報は、確かに一つの可能性を示唆していた。

 教会が単なる一宗教であった頃には、今ほど激しい排斥は行われていなかったはずだ。彼らが劇的に代わったのは…それは、人間世界の力ある王国によって国教に制定され始めた時期と一致する。

 しかも、その時期に平行するようにして発生したのが、人間世界に於ける魔族の排斥だ。
 その原動力となったのは、教会の教義ではなかったろうか?

 ヘルバントが目にした文献では一致して、

[《創主》を屠り人間と協調して暮らしていた筈の魔族はある時期以降、人間に対して支配的な態度に出るようになり、《仕方なく》人間達は悪逆非道な性質に堕してしまった魔族を人間世界から追い出したのだ]

 …と、書かれていた。

 しかし、それらはあくまで教会の側に立つ歴史家の記述であり、客観的な証拠と捉えるには確証に乏しい。
 少なくとも、《世界から魔族を滅亡させる》という思想が根強い人間に対して、魔族の対応がより邪悪であったとは言い難い。

 魔族の中には排斥行為に対して激しく抗った者もあったが、悲惨な戦が続く中で争いによる悲劇を避けるように、眞魔国という国に固まって防御につとめ、彼らの方から積極的に国外を攻めることはなくなったのだ。

『……どう考えても、魔族の方が平和的な集団だよな……』

 人間として生まれ落ちた以上、人間の味方はしたい。
 だが、人間である以上に敬虔な学徒として真実を欲するヘルバントには、そこまで進んだ思考をひねくり回して人間の弁護を試みることは出来なかった。

 魔族を閉め出してからというもの、教会は人間世界に於いて絶対的な精神・文化における精神基盤となっていった。
 彼らの価値観が人間にとっての《普通》になり、かれらの教義が《正しいこと》になった時、それに相反するものは全て《悪》になった。

 土着信仰は全て神に敵対する悪魔と見なされ、それらを奉じる者たちも徹底的に地域社会から排除され…悲惨な場合は《魔物狩り》によって虐殺される事例も発生していった。

 そのような中で、目に見ることは出来なくとも…彼らに信奉されていた存在もまた、祈りを失って力を減じていったのだろうか。

 恐れ、怯え…精霊や魔物といった不思議な存在は人間世界から眞魔国へと逃れていったのか…。

「人間は…自分たちを祝福してくれる存在を、自ら追い出したということですか?」
「そうだね…。たがら、人間世界ではたとえ《禁忌の箱》を消滅させても眞魔国ほどの奇跡は起こらない…。そのことに、ユーリはとても胸を痛めていた。殆どの魔族が《自業自得だ》と断罪する中、彼だけは…《でも…それでも、助けてあげられないのかな?》と、泣きそうな顔で聞くんだよ。俺を…救ってくれた時のように…」

 コンラートの眼差しは天に向けられ、敬虔な貌が星明かりに照らされる。
 
『眞魔国の方向を見ているのか…』

 追われる者であったコンラートが眞魔国の魔王にまで上り詰めた原動力も、この少年であると聞く。だが、そんな物理的な恩恵よりもなによりも…コンラートは《ユーリ》という少年の存在そのものに深い感謝と敬意を抱いているようだ。

 まるで、かつて人間が自然界に対して抱いていた、素朴で敬虔な想いのように…。

『どういう子なんだろうか…?』

 眞魔国の奥深くで珠玉のように護られているのだろう少年に、一時的に参入しているだけのヘルバントがお目通り願うことなど出来ないとは分かっている。
 しかし、生来の好奇心がふくふくと胸に膨らんできた。
 このコンラートという男を、そこまで駆り立てる人物とは一体どのような人となりをしているのだろうか。

 その少年の心から発したという《助けてあげられないのかな?》という想いが、コンラートにも受け継がれたというのなら、その大元の《どうしてそこまでしてくれるのか》と言う問いに答えられるのはその少年をおいて他にはいないということだろう。

「だから俺は、可能な限り生命力に富む植物の苗にユーリの祝福を吹き込んで貰ってから人間世界に上陸したんだ。その苗を田畑に埋め込み、実りを得ることが出来るかどうかは人間に掛かっているが…せめてその可能性を広げたい、そう思ったんだ」

 魔族に与えられた苗を実りをもたらす貴重なものとして護り育むのか…呪われた植物として忌み、廃棄するのか…それは、人間の判断に委ねられているということか。
 実際、魔族といち早く接触したカロリア自治区ではそれらの苗の栽培が始まっていると聞く。

 だが…その一方で、教会が《呪われた行為だ》とカロリアを非難しているという噂も伝ってきた。

「……反発も強いでしょうね」

 その言い方が我ながら《他人事》に感じられて、ヘルバントは鼻を鳴らした。
 生来の癖なのだが…急に、自分のそういった態度に不快感を覚えたのだ。

「難しいだろうね。だけど…やりたいんだよ」

 伸びの良い低音が、切なげな響きを載せて囁かれる。

「ユーリと…そして、これから生まれてくる彼の子ども…リヒトにとって、この世界が少しでも過ごしやすいものになって欲しい…その為なら、俺はどんな事でもしたいんだよ」
「………子ども?その方は少年と聞いていますが…えらく早熟なことですな。それとも、魔族は婚期が早いのですか?」

 その問いかけに対しては、コンラートは曖昧に苦笑するだけだった。
どうも答えにくい状況があるらしい。ますます興味深い…。

「眞魔国だけでなく、出来る限り広範囲にわたって平和な領域を広げたい。だから俺は種や苗を運び、君のような人材を身内に取り込んでおきたいんだよ」
「…俺、ですか?俺はそのような平和的な活動に協調できるほど出来た人間じゃありませんよ?」
「気づいてないのかい?」

 恐縮…と言うよりは、はぶてた子どもみたいな言い回しをするヘルバントに、コンラートはからかうような表情を浮かべた。

「君は実に客観的な視点に立って、世界を見ることの出来る器の持ち主だよ」
「買いかぶっておられませんか?」
「いいや…おそらく、俺は君よりも正しく君という人物の価値を認識しているよ?拒絶ではなく、盲信でもなく…君は、きっと正しく物事の姿や在り方を見定めることの出来る男だ。良いところも悪いところも含めて、君は己の目で見、耳で聞いたことから判断することが出来る。誰かの言葉に踊らされることなく、真実を見極める目を持っている…そう、信じているよ?」
「橋渡し役として買ってくれていると言うことですか?」

 あまり《嬉しい》という気分にはならなかった。
 コンラートの方もそれは察しているようだ。

「まあ、そんなところかな。不服かい?」
「正直…戦略家としての手腕を買われる方が自尊心は満足します」
「そちらにも勿論期待はしているさ。だが…分かって欲しいな、君の価値というものを。一体全体、人間世界の誰が昨日まで絶対的な敵であった集団に身を投じ、真実をその手で掴み取ろうとする勇気を持つ者がいるだろうか?」
「………面はゆい感じがするので勘弁してください。自分が立派な男だと勘違いしそうです」

 憮然とした顔で口をへの字に枉(ま)げるヘルバントに、コンラートはくすくすと笑みを零しながら手を振った。

「勘違いではなく、理解してくれる日を待つよ。おやすみ、大戦略家殿」

 《言うべき事は言った》と判断したのだろうか?
 コンラートはもう振り返ることなく、マントを翻して野営地に向かった。

『理解…ねぇ……』

 できる日が来るとは考えにくい。


 だが…それでも、コンラートに(不本意な分野とはいえ)認められているという認識は、ヘルバントの心を温めるのだった。

  





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