第三章 ]TーE



 


「君の母上は、素晴らしい方だね」

 誰の声だろう…。
 綺麗な声。

 とても響きの良い…やさしい声。

「うん…うん……っ!」

 聞き覚えのある涙混じりの声は、誇らしさと慕わしさを載せてあどけなく響く。

 そぅ…っと、リタの頬に掌が添えられた。
 まだだるくて瞼を開くことは出来ないけれど…少しだけ冷たくて心地よい掌の感触と、仄かに伝わる馨(かぐわ)しさがとても心地よかった。

『気持ちいい…』

 口元が綻ぶのが自分でも分かった。
 相手もそれを認識したようで、安堵したような声が優しく降り注がれる。

「リタ殿…俺はあなたを尊敬します。母君フリン・ギルビット殿共々…あなた方は、俺の人間に対する意識を改めさせてくれた…」

 褒めてくれる…どうしてだろう?
 そんなに褒められるようなことをした覚えが無くて戸惑うが、それでも浮き立つような心地に全身の痛みが和らぐような気がした。

「だ……れ…?」

 ようようのこと絞り出した声は掠れていたけれど、ちゃんと伝わりはしたらしい。
 気付いた男は、笑いを含ませた声で名乗ってくれた。

「失礼…俺は、レオンハルト・コンラートという者です」
「……っ!……くっ…」
「ああ…無理をしてはいけない。あなたは重傷を負っているんですよ?」

 反射的に起きあがろうとする身体に激痛が走り、苦鳴が喉を突く。
 けれど、気遣わしげに注がれた声と、包帯越しに疵をさすってくれるてが心地よくて…リタはすぐに息を整えることが出来た。

「コンラート様…私……どうして…」

 考えが纏まらないまま何とか瞼を開ければ、ぼんやりとしていた視界に…確かに愛おしい青年の姿が映し出された。
 左目は包帯で巻かれているらしく、片眼視で遠近感がおかしいのが勿体ないが…それでも、コンラートの姿は感動的なばかりの美しさでリタの心を弾ませる。

 幾人かの怪我人が簡易寝台に寝かされているこの場所は、どうやら大型の幌馬車か何かの中らしい。怪我人への刺激にならないよう押さえた薄明かりの中、コンラートの造作を心と身体に染み込ませようと、リタは必死で目を凝らした。
 
『なんて綺麗なのかしら…?』

 胸が清々しくなるような男ぶりに、リタの心は甘酸っぱい感動に浸されていく。
 お伽噺に出てくる王子様のようなこの青年が、眞魔国に君臨する魔王陛下だなんて…。

 《魔族はおぞましい…あるいは、淫らな姿で人を惑わす》等と世迷いごとを言っていた連中を、笑ってやりたいような気分だ。

「あなたは、瓦礫の中でこの子を抱きかかえたまま気を失っていたんのですよ。この子は擦り傷だけで済みましたが、あなたはかなりの傷を負っておられます。どうか…ご自愛なさって下さい」
「は…はい……」

 ベッドに横たえられた状態でできる可能な限りの動きで頷くと、リタはうっとりとコンラートを見詰めるのだった。
 切れ長の琥珀色の瞳にはきらきらと輝く銀色の光彩が散っていて、端正な顔立ちの中で薄目の唇がふわりと微笑んでいる。

 コンラートは武人らしい大きな手でリタの頬を撫で、心配そうに寄り添うキリクの頭を一方の手で撫でていた。

『あ…』

 正常な視力でキリクを見ても、今まで程の拒否感を覚えない自分に驚いた。
 それだけではなく、無意識のうちに伸ばして手で…リタもまたキリクの頬についた傷を撫でていた。

「…痛い?」
「いたくないよ。かあしゃまこそ、いたくない?」
「痛いけど…平気」

 まだ、真っ赤な頭髪やそれに誘発されるバルバロッサの記憶はリタの心を苛むけれど、それでもキリクを気遣って自分の恐怖心をある程度御せるようにはなったらしい。

「平気…私、生きていける……」

 自分に言い聞かせるように…吐息と共に誓いのような言葉を紡げば、コンラートの掌は一層やさしく親子を撫でた。

「ええ…あなたは、素晴らしい人生を歩むことが出来る。そうなるべき方だと思います」
「ありがとう…ございます……」

 本当に、心から嬉しくて…胸がいっぱいになって、リタはコンラートを見詰めた。

 ただ…あまりに清廉なその姿に幾らか気後れてしまい、とてものこと《元気になったら抱いて下さい》などと口走ることは出来なかった。
 きっと彼がリタを高く評価してくれるのは、この複雑な関係にあるキリクを庇ったことからきているのだ。そんな彼に対して、キリクの前で《抱いて》と迫ることは難しかったし、彼に軽蔑されるのはもっと嫌だった。

『この方に、敬意を払われる存在でありつづけたい…』

 それは、子種を頂くような行為をねだるよりももっと強い願望だった。

「《禁忌の箱》を始末したら、またこの街に帰ってきます。その折には、沢山の花を見舞いとしてあなたに捧げたい…」
「お待ちしております。どうか…ご無事で使命を達せられますように…!」

 辛うじて無事だったらしい右手をとられて、手の甲へと優雅なキスを送られる。
 敬意を込めて為される口吻に、リタは泣きたいような感動を覚え…実際、ぽろぽろと涙を零してコンラートの後ろ姿を見送った。

 パタン…と扉が閉じた後、親子でほぅ…っと息をついた。

「あの方が、かあしゃまのすきなひと?」
「そうよ…憧れている方…大好きな方よ……」
「ぼくも、すき。お目々がキラキラでとってもやさしくて、だいすき」
「ええ…本当に素敵よね…っ!」


 枕元の椅子にちょこんと腰掛けたキリクと横たわったリタは、看護の衛生兵が訪れるまで夢中でコンラートについて語り合ったのだった。



*  *  *




「もう…行っちゃうんだね?」
「おうよ。お前さんもカロリアで頑張れよ?」

 出立の装備を調えたアリアズナに、カールが向けた瞳には涙が浮かんでいた。

 次の地点を目指して出立するアリアズナに対して、カールはこのままカロリアの復興を支援する部隊に回されたのだ。
 その配置には心情的な配慮も含まれている。

 リーシュラ孤児院の子ども達が怪物の動力になっていたことは、表向きカロリアの民には伏せられている。だが、リネラ達がこの地で出来る限り復興の手伝いをしたいと申し出た為、カロリアの民や残留する眞魔国軍との間を取り持つ意味でもカールの存在は重要だと考えられたのだ。

 どのみち、マルクはともかくとして戦闘時にカールが役立つ可能性は低い。
 そう言った意味でも、カールが残留することは必須事項なのだ。

 それでも…別れの辛さにカールはぽろぽろと涙を零してしまう。

「アリアリさん…寂しいよぅ……」
「馬ー鹿、永遠の別れって訳じゃないんだ。めそめそすんな!《禁忌の箱》を始末したら帰ってくるさ」
「うん…うん……待ってるから…」

 そう言った後…感極まったようにしゃくり上げると、勢いよくカールが飛びついてきた。

「アリアリさん…っ!帰ってきたら俺を抱いてくんない?」
「…はぁ…っ!?」
「商売抜きで…俺を抱いてよぉ……っ!」
「いやいやいや…お、お前……」

 べそべそと泣きながら頬をすり寄せるカールに、アリアズナは困り果てて左右を見回した。
 仲間達はみんな薄笑いを浮かべて見守っているし、カールに対して想いがあるらしいマルク(こちらは共に出立することになっている)は射るような視線を送ってくる。

 カールを弟のように大切に想っているのは確かなものだから、別れに際して無碍にも出来ない…。きっと、カールにとってその身体だけが大切な人に捧げられる唯一のものなのだろうと分かっているからだ。
 
 心意気のひとつとして受け止めてやりたい。
 でも、アリアズナは基本的に男色家ではないのだ(コンラッドと有利のエッチなシーンに興奮したのは確かだが…)。

 結局、アリアズナにできたことは結論を先送りすることだけだった。

「……か…帰ってくるまでに、お前さんがしっかり飯を喰って抱き心地の良い身体になってたらな…!」
「うん、頑張ってご飯捜して食べるから…いっぱい抱いてね?」
「ははは……ああ…うん……」

 引きつった笑いを残して、アリアズナは頷くのだった。



*  *  *



 
「ご無事の帰還を、お祈りしております」
「うん…必ず、帰ってくるよ」

 頭を垂れるリネラと、まだ複雑な表情の子ども達を前にしてアルフォードは力強く頷いた。
 


 あれから、目覚めた子ども達は自分たちが信じ込まされていた事と現実とのギャップを受け止めかねて、未だ混乱した状態が続いている。
 無理もないことだろう、彼らにとって辛い日々を生き抜いて来た原動力はリーシュラと神への信頼であったのだから、それが突然否定されれば、《今までの苦しみは何だったのか》という怒りと哀しみでパニックになってもおかしくはない。

 しかも、彼らは被害者であると同時に加害者でもあるのだ。
 自分たちが傷つけたカロリアの民に何の罪もないことを理解すると、今度はどっと罪悪感が押し寄せても来た。

『僕たち、間違ってたの?』
『死ぬべきなのは、あたし達なの?』

 爪で肌を引っ掻くような自傷行為を繰り返したり、突然叫んだり暴れたりする子ども達を、アルフォードやリネラ、そしてギーゼラを中心とする眞魔国衛生兵達は粘り強く支えた。
 
『今までのことが全部嘘って訳じゃないんだよ。リーシュラがいたからみんなが生きてこられたのは事実だ。…だけど、だからといって、今後も身体を売ったり生贄になり続けることはないんだ…!』
『時間が掛かっても、リーシュラ様を説得してみせる…。あの方と一緒に、今度は誰も傷つくことのない生活を遅送れるようになる。必ずなるわ…!』
『これからは、別の生き方を捜していきましょう?』

 そう語るアルフォード達に、子ども達は少しずつではあったが心を開くようになってきた。

『みんな…幸せになろう?』

 そう囁きかけるアルフォードの微笑みが、全ての子ども達にとって眩しく感じられるようになった頃…眞魔国軍主力部隊は出立の日を迎えた。



 今まで…特に憎しみの感情を抱いていたバッソが、立ち去ろうとするアルフォードの袖を不意に掴んだ。
 そして、怒ったような声で鋭く告げたのだった。

「生きて帰れよ…!」
「バッソ…」

 カロリアで再会してから、一度として親しみの感情を示したことのないバッソの言葉に、アルフォードは驚き…そして、微笑みを浮かべた。

「ああ…生きて帰る。《禁忌の箱》を滅ぼして…必ずみんなの元に戻ってくるよ」
「約束だからな…っ!」

 拳を突き合わせる動作と共に、バッソは複雑な心境を現すように怒りと笑いの混じり合った微妙な表情を浮かべて見せた。


 フォォォオオ……ン……


「ああ…集結の角笛だ」
「……うん…」

 流々と吹き鳴らされる角笛の音色に導かれ、歩を進めるアルフォードを子ども達は見守った。


 再び…彼らにとっての英雄となった男が、無事に帰ってくることを心から祈りながら…。



*  *  *




 別れに際して、尽きせぬ想いを交わした者達は予想外に多かった。

 当初は眞魔国と手を結んだ為に恐るべき怪物に襲われたのだと恨みに思う者も多かったが、兵の救援活動や、衛生兵達が看護の際に見せる言動や仕草が、ゆっくりとカロリアの民に伝わっていった。

 敵意を持たず、かといって何かを腹に収めて企んでいるわけでもなく…毅然として与えられた任務を遂行していく魔族達には、民を納得させるだけの高潔な気品というものがあったのである。

 これまで語り伝えられてきたどんな噂よりも雄弁に、間近で目にする魔族達の姿がカロリアの民の誤解や疑いをほろほろと解きほぐしていった。


 何より…彼らを率いる魔王レオンハルト卿コンラートの圧倒的な存在感もあった。


 夢物語の登場人物であるかのような美麗な容貌、人間世界にも語り伝えられる雄壮な伝説の数々…。優雅でありながら謙虚な物腰…そういったものが娘や子ども達を中心に、熱狂的な崇拝の念を抱かせたのである。



「コンラート様…!どうか…どうかご無事にお戻り下さいますように…!」
「ああコンラート様…あなたの行く手に星々の守護があるよう、毎日お祈り致しますわ…っ!」
「まおう様!僕たち、いっぱいいっぱいおいのりするね!」

 縋り付かんばかりの民の熱狂ぶりにも引いた素振りは見せず、コンラートは優雅に微笑むと丁寧な謝意を示して馬首を廻らす。

「ありがとう…皆さんの心を抱いて、我ら眞魔国兵は進みましょう…!」


 きゃあああぁぁぁ…っ!



 黄色い歓声見送られながら、眞魔国兵は進軍の途についたのであった。


  
  


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