第三章 ]TーC



 



 赤い。
 紅い。
 朱い。

 目の前が、《あか》で染まっている。

 腕の中に抱え込んだ子どもの髪だけでなく全てがあかく見えるのが、自分の目に入ってきた血のせいなのだとリタが気付くまで…暫く時間が掛かった。

「母しゃま…っ!」

 呼びかけてくる声がキリクのもので、自分がこの子を抱きしめているのだと気付いたのは更に後のことだった。

「母しゃま…いたい?いたい?……」

 ぼろぼろと涙を零しながら、キリクは袖口を伸ばしてリタの顔を拭こうとする。瞬く間に変色していく布地を見て、リタは自分の出血量がかなりのものなのだと気付いた。

 どうして助けたりしたのだろう?
 憎くて…怖くて堪らないはずなのに…。

「……痛くないわ。キリク…あんたは…?」

 どうして、こんな偽善的な言葉を口にしているのだろう?

「いたくないよ…!母しゃまが…たすけてくれたもの…!」

 相変わらず涙を瞳一杯に溜めながらも、何故だかキリクの顔は輝いた。
 咄嗟に抱え込まれたとはいえ、色んな場所に瓦礫がぶつかっているようなのだが…リタが自分を助けてくれたのだという事実がそれほどに嬉しいのだろうか?

 戸惑うリタに対して、キリクの方も何と声を掛けて良いのか分からないようだったが…それでもおずおずと頬をリタの胸元にすり寄せ…あどけない声で囁く。

「母しゃまの…抱っこ……」
「……っ!」

 思いがけない言葉を受けて、《そう言えばそうだ》…等と間の抜けたことを考える。
 そうか、リタは初めてこの子を抱いたのだ。

「母しゃま…」
「キリク…」

 額から血を流しながらも、キリクの顔はぱぁ…っと嬉しそうに輝いた。
 ちゃんと落ち着いた声で呼んだのすら初めての様な気がするのに(しかも戸惑うような声だし)…それでもこの子は嬉しいのだろうか?

 興味が湧いて、無意識のうちにキリクの顔を見詰めていた。

『あら…この子、こんな顔をしていたかしら?』

 初めて、この子を真っ直ぐ見たような気がする。
 
 髪の赤は他のものまで真っ赤に濁って見えるせいであまり目立たず、その代わり…その造作が奇妙なほどはっきりと見て取れた。

 いつも、近寄るだけで怖くておぞましくてちゃんと見たことがなかったのだけれど、こうしてみると意外と可愛らしい顔立ちをしている。
 一重瞼だがおっとりとした印象の目元は何処か死んだ母を思い出させるし、唇の感じはやはり早くに亡くした父に似ている。

 なにより…その瞳の中にあるのはバルバロッサの酷薄な性質ではなく、素朴で暖かなものだった。
 ちょうど、リタの父母がそうであったように…。


『ああ…この子の中には、私と…私に連なる家族がいるんだわ……』

 ひたひたと…暖かい潮が胸に満ちてくる。
 これまで決して得られなかった《気づき》というものが、リタの心に穿たれた傷口を埋めようとしている…。

 まだ、この子を愛せる自信はないけれど…。
 そもそも…この瓦礫の間から無事に抜け出せるのかどうかすら分からないのだけれど…。

 それでも、リタはキリクを救うために駆けだした自分を嫌いにはなれなかった。

『最後まで貧乏籤なのかもしれない…』

 何もかも思い通りに行かなくて、踏みつけられ…押し潰されていく。

『でも…もう、良い……』

 きゅ…っと、力の入らぬ手で精一杯腕の中の子どもを抱きしめてみた。
 不思議と、《どうにも運が悪くて諦めざるを得なかった》…というような敗北感は無くて、奇妙な迄の満足感がゆっくりと身体に沁み渡っていく。

『この子…私の、子なんだわ……』

 初めてその事を、《酷い》とは思わない自分に驚いた。
 そして…この子を見捨てなくて良かったと、すとんと自分の行為を受け止められた。

 少なくとも、そう悪い気分で死ぬことにはならない気がする。

「母しゃま…っ!」

 舌足らずな声、暖かい体温…擦り寄ってくるちいさくて柔らかな感触…。
 そういったものが意想外の心地よさを感じさせることに驚きながら、リタの意識は再び薄れ始める。


『この子が助かった時、ほんの少しだけだったけど…私が愛をあげられたことを、覚えてくれていたら良いのにな…』


 そんな願いが心を掠めた瞬間…ふぅ…っとリタの意識は途切れた。



*  *  *




 カロリアの街に及んだ影響は、怪物とアーダルベルト達が対峙する高台からまざまざと被災状況を見て取ることが出来た。

 至る所で火の手が上がり、二次災害も広がっていく。

「てめぇ…っ!あの怪物を本気でほっとくつもりか!?」

 激震の及ぼす影響に、アーダルベルトも目を剥いた。

 住居の中に逃げ込んでいたカロリア住民は悲鳴を上げながら街路に飛び出し、ルッテンベルク軍の指示で次々に軍艦へと載せられていく。
 魔族に対する恐怖心よりも、あまりにも呪わしい姿の怪物が実際に繰り出してくる被害の方が勝ったらしい。

「カロリアを破壊するつもりか!?それも…なんだありゃあ…あの中で磔になってる連中はお前を慕ってる連中じゃないのか?なんだってあんな酷い目に遭わせていやがるっ!」

 顔色を赤黒く染めて本気で怒るアーダルベルトに対して、子ども達は口々に悪口雑言を投げつけた。

「知った風な口を利くなっ!」
「魔族め…親切ぶったって騙されないぞ!」
「お前達がこの世界に及ぼす災厄を、僕たちは防ぐんだ!」
「私たちは正義をもたらす神の使者だっ!」
「僕たちが人間を護るんだ!」
「俺たちが正義だ!」


「違うっ!」


 子ども達の前に、泣きはらした目をした少年が駆けてきた。
 色んな所で転んだのか…膝や肘は赤黒く擦り剥けていたけれど、疾走してきたために声も割れているけれど…それでも、少年は喉の保つ限界の声量で絶叫した。

「違う…違う…っ!こんなの、違う…酷いっ!正義なんかじゃない…っ!」

 それは、カールだった。

「カール…お前も魔族の味方をするのか!」
「裏切り者!」
「人間の敵!」

 仲間達の罵倒に、カールは真っ向から抗弁していく。
 その澄んだ瞳に、賢者と呼ばれる人間にも得られぬ真理を湛えて…。


「じゃあ、みんなの言う人間って何だよ…!何処にいる、誰のことだよ…っ!」


 意表を突かれたのか、急に…子ども達の怨嗟の声が止まった。
 自分たちの《正義》が概念的なものに過ぎないことを痛打され、護りたい《誰か》を思い浮かべることが出来なかったのだろう。

「みんな…みんな、手…痛いだろ?足…痛いだろ?そんな釘で手足刺してさ…そんなの、ひどいじゃないか!魔族はそんなことしなかった!武器で向かってこられたら勇敢に戦う魔族でも、頭を抱えて怯えてる俺は助けてくれた!」
「きっと、お前のケツにぶちこもうって魂胆だったんだ!」
「違う…っ!」

 声が割れんばかりの勢いでカールは叫ぶ。
 《馬鹿にするな》と言いたげに、ダン…ダンっと脚を踏みならし、怒りを露わにした。
 
「アリアリさんは俺が布団に忍び込んでも何もしなかった…!それだけじゃないっ!俺がみんなに買うお土産に給料を注ぎ込んだら、《飯食えっ!》…て怒って、自分のご飯をくれたんだ!ほんとのお兄さんみたいに優しいんだっ!魔王陛下だって、俺みたいな下っ端にまで優しく微笑んで下さるんだ!」
「きっと…なにか魂胆があるんだ……」

 子ども達の声が震える。

 自分たちの主張に根拠が乏しかったからだろう。
 こんな無力な人間の子どもに阿(おもね)ったところで、何の見返りもないことは彼らも知っているからだ。

「そうさ…魔族は悪いものだもの……きっと想像も付かないくらい恐ろしい魂胆があるんだ」
「誰も魔族を見たこともなかったくせに、何で悪いって分かるんだよ…!手足を釘で打ったりする以上の悪いことを、どこにいる魔族にされて、どんな人間を護ろうって言うんだよ…っ!」
「それ…は……」
「見ろよ…っ!みんながその怪物で壊した街を…っ!」

 カールの指し示す先に、子ども達のぼっかりと開いた瞳が反射的に向けられた。
 その時…おそらく、初めて彼らの瞳にカロリアの街が映し出されたのだろう。

 濛々と立ち込める粉塵の中で逃げまどう人々…泣き叫ぶ声。
 崩れた瓦礫の下敷きになった父を救おうとする兄弟…彼らのもとに迫り来る火の手。
 せめて赤ん坊だけでも救ってくれと、瓦礫の隙間から差し出してくる母。
 救おうと手を差し伸べた者の上にまで、無情にも降りかかってくる瓦礫…。


 その地獄絵図を作り上げたのは…自分たちだ。


「でも…でも……私たちは……」

 リネラと思しき少女の瞳に、微かに人がましい表情が戻ってくるが、受け入れがたい現実から逃れようというのか…懸命に尤もらしい理由に縋り付こうとしている。

「魔族を倒さないと…」
「何でだよ…見えないのかよ…!?街の人達を助けてるのは、魔族だよ!?」

 もどかしげに、握り拳を上下させながら訴えかけてくるカールに、子ども達の視線が再び街へと向けられる。

 迅速に瓦礫へと縄を掛けて牽引したりテコを使って押しのけたり、怪我人を救い出しては治療を施しているのは確かに魔族と思しき装束の軍人達だった。


 だが…その姿に、子ども達は感動するどころか怒りを露わにして騒ぎ出したのだった。


「見ろ、あいつらも裏切り者だ…!」
「何を…っ!」

 信じがたいものを見るような目で、カールは呆然として仲間達だった筈の怪物を見やった。
 姿形だけでなく、心の奥底まで不気味な何かに染め上げられたかに見えたのだろう。

「魔族に触れて、お礼なんか言ってる…神様の怒りを受けるぞっ!」
「殺したって良いんだ、あんな奴ら…裏切り者だもの…っ!」

 ざわざわと子ども達を取り巻く瘴気が蠢く。
 カールの想いとは裏腹に、子ども達は挫(くじ)けかけていた意気を揚々と高ぶらせていった。

 不自然に折れ曲がっていた白い革人形がむくりと身を起こす。

「止めろ…っ!」
 
 カールの制止は…届かない。
 怪物は…明確な殺意を込めて、ぐうぅん…と腕を持ち上げた。
 それが振り下ろされた時、再び悲惨な破壊と死がカロリアを襲うのだ。


「止めろぉお…っ!」


 絶叫して両腕を広げるカールにマルクが取り縋り、アリアズナが背後に庇う。

「カール、退け…駄目だ!みんな聞いてねぇよ…っ!」
「マルク、そいつを抱えて行け。俺達が何とかしてやるっ!」
「アリアリさん…駄目だよ…っ!こんなの…やだぁあ……っ!」

 泣き叫ぶカールと彼を抱え上げようとするマルク、今にも彼らを踏み潰さんと上体を反らす怪物…。



*  *  *




『俺は…どうしたら……』

 それらを前に半ば跪き…強張ったまま聖剣を握りしめるアルフォードに…

 …厳しい叱責の声が轟(とどろ)いた。


「立てっ!アルフォード…っ!」
 

 アルフォードの背を撃つように、濁った空気を一瞬にして清浄化させるような…凛とした声が響き渡る。

 強張ったままの動きで振り返った先には…獅子を思わせる頭髪を風に靡かせ、鋭い眼差しを送る男がいた。
 レオンハルト卿コンラート…数々の修羅場を潜り抜けた男が今、何かを掴めと言いたげに鋭い眼光を叩き込んでくる。

「アルフォード、剣を持て…!」
「コンラート…陛下……」
「今こそ、君の真価が問われる時だ!」

 剥き身の魔剣を手に、コンラートはアルフォードと眞魔国弓兵部隊の間にいる。
 アルフォードが退けば、彼らが怪物に立ち向かうつもりなのか?

 人間の生み出したおぞましい存在を、また魔族が倒すのか?


『何をしている…アルフォード・マキナーっ!』


 自分で自分を叱責し、ズン…っとアルフォードは足場を固めた。

 そして…青眼の構えで巨大な聖剣を振り上げると、再び怪物に対峙する。

「僕たちを斬るんだね?」
「裏切り者…」
「使い魔め…!」

 キィィ…っと、幼獣のような叫びを上げて子ども達が吠え立てるが、アルフォードの瞳は穏やかだった。
 
「何て思われても良いよ。それでも…俺は、必ず君達を助ける…!」

 讃えられなくても良い。
 尊敬なんかされなくて良い。

 ただ…助けたい。
 

「行け…聖剣よ…っ!」


 さっきのように、半信半疑で振るったりはしない。
 過たず…子ども達と呪詛を繋ぐ楔(くさび)を斬り裂くのだ。


「おぉぉおおおお………っ!!」


 再び光を取り戻した聖剣が振るわれた時、今度現れたのはただ《断ち切る》為の光ではなかった。
 目を射る光ではなく、包み込むように暖かい光が怪物を取り巻くと…白いブヨブヨとした革が千々に熔け崩れると、子ども達に絡みついていた瘴気も疾風に吹き飛ばされる灰燼の如く大気の中に四散していく。

「わ…」
「ぁああ……っっ!」

 子ども達の驚愕の声が長く長く続いて…そして、不意に消えた。

 同時に怪物の形状も幻のように消えてしまい、その代わりに出現したのは茨を絡ませた円形の木枠と…そこに無惨な姿で打ち付けられた子ども達だった。

「リネラ…っ!」

 アルフォードが駆け寄るが、蒼白の顔色となった子ども達は殆ど息をしていないかのように脱力したままだ。

 先程のように邪悪な気配はもうない。
 だが…その代わりに、胸が拉(ひし)がれるほどに哀れな姿を見せる子ども達に、アルフォードの瞳からはぼろぼろと涙がこぼれ落ちる。

「今…外してやるからな…。こんな…こんな釘…っ!」

 リネラの掌に深々と穿たれた釘に指を掛けて引き抜こうとするが、がっちりと打ち貫かれた金属は微かに揺れる程度であった。
 傷口は赤黒く凝り固まり、鉄錆のようにがっちりと手足と釘とを癒合させてしまっている。

「アルフォード、手伝うぜ!工具で一気に引き抜かないと、腱を余計に傷つけるぞ?」
「アルフォード様…俺もっ!」

 ガーディー・ホナーがすかさず工具を抱えて駆け寄り、涙を瞳に一杯浮かべたカールとマルクとが横に駆け込んでくる。

 コンラートもまたアルフォードの横に立って子ども達を痛ましそうに見やった。

「すぐに治癒を施そう。手足の拘束を解き次第、ギーゼラの幌馬車に運ぶんだ」
「コンラート陛下…大丈夫でしょうか?」

 先程までの英雄ぶりが嘘のように泣きじゃくるアルフォードにコンラートは苦笑する。

「大丈夫だ」
「はい……」

 力強く保証されて、アルフォードは袖口でぐいっと涙を拭いた。
 言葉少なに、諭されたような気がしたのだ。

 
 《お前がどっしりと構えていなくて、誰がこの子達を支えるんだ》…と。

 




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