第三章 ]TーB





 



 ぞろり…
 ずぞぞぞ……

 ぼってりとした白い革の裂け目から、じくじくと滴(したた)るように…大気を浸食するかのように…おぞましい気配を漂わせながら赤黒い瘴気が溢れ出してくる。
 その裂隙の奥は深い闇に包まれていたが、次第に目が慣れて来るや…更に恐るべき情景が人々から言葉を奪い取った。

「……っ!」

 眞魔国軍の兵士達はおぞましげに眉根を寄せ、反射的に口元を覆って吐き気を凌(しの)いだ。
 
 一方…アルフォードや彼についてきた人間達は、その《地獄》の中で苦鳴を上げる存在を理解した途端……


 …絶叫をあげた。


「あぁぁああ…あぁ…っ…あぁぁああああ……っっ!!」


「おい…カール、カール…っ!?」

 身悶えしてぶるぶると震え、開ききった眼裂を閉じることも出来なくなっているカールをアリアズナは抱きかかえた。

「どうしたってんだ?おい…そんな怖けりゃ、幌馬車に入ってろ!」
「あれ…あれ………」

 カールはぶるぶると震える指を、怪物の裂け目に向けた。

 何という呪わしさ…
 何という惨(むご)さだろう…!

『畜生め……っ!』

 アリアズナは突き上げるような憤りと共に、怪物の中に潜む者達を見やった。
 一体どのような感情を持って、これほど悪逆な行為に手を染める者がいるのだろうか?

 そこには…十代前後と思しき幼い少年少女が手足を杭で磔(はりつけ)にされて、どろどろとした瘴気のようなものと共に白い革を裏打ちしているのだ。

 誰もがガリガリに痩せ、苦悶と憎悪で雁字搦めになっている。
 ぼっかりと深い穿たれたような瞳には、夢や希望といった明るい光など片鱗も見て取ることは出来ない。


 ぅぅうう…
 ああぁぁぁぁ……

 
 怨念に満ちた呪詛の声が大気を震わせるたびに、周囲の大気が不気味にくすみ…それでなくとも立ち枯れていた木々が一層生気を失い、ぼろぼろと朽ちたり腐敗しては崩れていく。

 呻く声自体が呪詛となって、周囲にぶちまけられているのだ。

「あれ……っ…は…っ!」

 その様を驚愕と憤り哀しみの綯(な)い交ぜになった様子で見詰めながら、カールは縋る縁を求めてアリアズナの襟元にしがみつき…息も上手くできない様子で、からからに乾いた喉を唾で何とか調整しながらようようのこと言葉を綴る。

「知ってる奴らなのか…?」

 恐ろしい予感に、ぞ…っとアリアズナは背筋を震わせた。

「まさか…まさか、あの連中は……お前の?」

 その懸念を、カールはがくがくと頷くことで肯定した。
 
「あれ…俺っ…の…友達だよ……仲間だよ…っ!」
「なん…だとぉ…っ!?」

 壊れてしまいそうなカールの慟哭(どうこく)に、アリアズナは絶句するしかない。

「あぁあ…っ!リネラ姉ちゃん…バッソ…っ!」

 では、あれは孤児院の子ども達だというのか。
 身体を売らされるだけではなく、呪いの生贄にまでされたというのか…っ!

「こん畜生…っ!」


 アリアズナの叫びが鋭く響いた。



*  *  *




 アーダルベルトは極めて迅速に呪詛を送る老人を捕らえた。
 森の中に潜んで、泣きながら呪詛を送っている最中に捕まえたのだ。
 あまりにもあっさりし過ぎていて、いっそ罪悪感が沸くくらいだったが…老人のしぶとさを舐めてはいけない。

 問題はそこからだった。

「おい、爺さん。今すぐあの怪物を止めろ!」
「誰が止めるか…!魔族め…喰らえっ!」

 びしっと神を模した不気味な像をぶつけられる。
 痛くはないが、心理的になんか嫌だ。

「馬鹿野郎!そんなの効くかいっ!」
「何故だ!」
「何故ってお前…」

 法石を組み込んだ神の像は、確かにある程度魔力のある者になら効果があったろう。だが、アーダルベルトをはじめ
、今回の遠征に付き従っている者達は殆どが魔力を持たない。
 物理的には何の意味もない攻撃なのである。

 しかし…老人は法石の効果云々よりも、《神の像》が効かない事の方に衝撃を覚えているようだった。

「神よ…お護り下さい…っ!」
「はいはい、良いからよ。それよか怪物を止めろや。このまま進んだらカロリアの女、子どもまで死ぬだろうが」
「し…仕方のない犠牲なのだ!」
「はぁ…?」

 イラ…っとこめかみを震わす怒りに駆られて、危うくアーダルベルトは老人を殴りつけるところだった。

 …が、すんでの所で止める。

 自分もまた、同じ考えで惨劇を起こしたことを思いだしたからだ。

『畜生…嫌なことを思い出させるぜ…』



 かつて、アーダルベルトは婚約者を失った痛みから眞王を呪い、《坊主憎けりゃ袈裟まで憎い》方式に眞魔国と魔族を呪い、人間を扇動して辺境の街を襲った。

 女も子どもも…老人も赤ん坊も死んだ。

 いや…言葉を繕うべきでは無かろう。

 死んだのではない、殺したのだ…。

『そうだ…俺が、殺した…っ』

 直接手を下さなかったといえ、手引きをしたのは間違いなくアーダルベルトなのだ。
 その罪を…こんな風に振り返り、胸を抉られるような後悔に苛まされる日が来るなんて、あの頃は考えもしなかった。
 きっと、この老人もそうなのだろう。

 憎しみに心を奪われている者は、他者の痛みや苦しみを分かろうとはせず…ただひたすらに自分の願望を成就させることに執心してしまうのだ。



「おい、来いよ…」
「な…何をする!」

 アーダルベルトは荷袋のように老人を抱えると、ルッテンベルク軍の元に走った。

 アーダルベルトでは説得できずとも、あそこなら…この皺くれた老人の心に、何かを響かせることの出来る者が居るような気がしたのだ。



*  *  *




「リネ…ラ……」

 アルフォードは呆然として、己が切り裂いた怪物の断面を見詰めた。
 眩い光を放っていた聖剣はくすみ、やけに重たく感じる。


 何故…何故、こんなことに…誰が…何の為に?


 沸き上がる疑念が脳内でぐるぐると逆巻き、手や肩が細かに震えるのを止めることが出来ない。
 しかし愛しい娘や可愛がっていた子ども達がアルフォードに向けた声は、救いを求めるものなどではなく…

 …明確な、そしてあまりにも強い憎悪だった。

「アルフォード様…憎い…憎い……」
「どうして…?勇者のくせに…どうして………」
「僕らを見捨てた」
「裏切った…っ!」
「大嫌い…っ!」

 千の矢で射抜かれるよりも酷い言葉の責め苦に、アルフォードは喉を掴んで喘いだ。
 子ども達の声は音調がやたらと上下したり歪んだりしているが、それでも…聞き覚えのある口調に胸が塞がれる。

 貧しくとも、支え合って生きてきた子ども達が何故このような目に遭わねばならないのか。
 そして…どうしてこんなにもアルフォードを憎むのか…!

「違…う。違うんだ…俺は……君達を助けたくて…っ!」
「嘘…っ!」

 赤黒い血の涙に頬を濡らす子ども達は、ぼっかりと開いた地獄の深淵のような瞳でアルフォードを睨め付け、鳥獣のように鋭い声で否定する。

「あんたは、臆病者だよ」
「魔族が怖くて、人間を裏切ったんだ…」
「僕たちはもうあんたなんか信じない!」
「神様!この裏切り者に死を!」

 怒りと憎悪が子ども達から噴き上がるに連れて、ぞわわ…じゅわりと赤黒い闇が世界を浸食していく。
 裂けた血管のような裂隙が大地に広がって、アルフォードの足下からもブーツに絡みつくようにして伸び上がってくる…。


「死を!」
「死を…!」


 死おぉおおお……っ!


 地を揺るがすおぞましい声音に、生きとし生けるものは全身の毛を逆立てて慄然とした。
 瘴気が姿を変えたかのような暗雲までがぞわりと山間から這い登り…天空を汚そうとその領域を広げていく。

「うぉ…派手にやってんな…っ!」

 そこへガサガサと大きな物音を立てて、草むらの中からアーダルベルトが飛び出してきた。
 背中に荷袋のように背負っているのはリーシュラ神父ではないか。

「おいアルフォードよう、こいつが呪詛を掛けてた奴だ。知り合いか?」
「リーシュラ…あなたは…なんて事を……っ!」

 リーシュラがこんな呪詛を仕掛けたというのか?
 彼を父とも慕い、尊敬している子ども達を…こんな怪物に仕立て上げたというのか!?

 深い絶望に胸を切り刻まれて絶句したが、非難の矛先は変わらずアルフォードへと突きつけられる。
 
「アルフォード…全て、全て貴様のせいだ…!お前さえ裏切らねば、我々とてここまで追いつめられたりはせなんだ…!」

 老人の眼球は真っ赤に血走り、まるで瞼を剥ぎ取られたかのように見開かれ…瞬き一つしない様子が強い異常性を伺わせた。
 彼は自分の正当性を頭から信じ込んで、このような凶行に及んだのだ。

 盲進しているのだ。
 魔族と裏切り者を呪う為なら、愛しい子ども達を犠牲にすることは《正義》なのだと…。

「おいおい、爺さん…そりゃ責任転嫁ってもんだぜ」
「うるさい…魔族め…魔族めぇえ…っ!」

 アーダルベルトは理不尽なリーシュラの言葉を正そうとするが、枯れ木のような腕を振り回して暴れる老人に辟易する。

「離せぇ…離せぇぇ…っ!呪われる…っ!魔族に触れられたら呪われるっ!」
「テメェ…今以上に呪われることなんかあんのかよっ!十分呪わしいっつんだ!」

 それでなくとも武骨なこの男にリーシュラを納得させるような素敵台詞を吐くことは…やはり、不可能だった。
 本人もその辺りはよく自覚しているのか、苦虫を噛みつぶしたような顔をしてリーシュラを取り押さえることだけに集中した。

「魔族…」
「魔族…っ!」

 リーシュラを拘束するアーダルベルトに、子ども達の声が怒りを増す。

「魔族だ…っ!」
「リーシュラ様をお助けしろ…っ!」

 白い革の合間からうねうねと赤黒い瘴気が溢れて動きにくいようだが、怪物は腕と思しき部分を振り上げると…ブゥン…っと遠心力をつけて、勢いよくアーダルベルトに振り下ろした。

「うおっとぉっ!」


 ズボガァ……ン…っ!


 動きは鈍いが、一度当たった時の破壊力は凄まじい。

 アーダルベルトはすんでの所でリーシュラごと身を反らしたが、湧き起こった激震は地を裂き、震わせ…カロリアの街に《禁忌の箱》開放を思わせる裂隙を作り出したのであった。

 地は震え、天は啼き…地獄が再びカロリアを襲おうとしている。

 おそらく、物理的な衝動というよりも法力が土の要素を発狂させている為に、これほどの天変地異が起こっているのだ。



*  *  *




『また…カロリアが破壊される…っ!』

 怪物のもたらした激震によって破壊されていく街路や家屋に、フリン・ギルビットは蒼白になって立ち竦んだ。
 指先が白く変じるほどに服を握りしめ、眼裂が切れそうなほどに目を見開く。

『私は…間違ったの!?』

 やはり、魔族と契約など交わすべきではなかったのか。
 追いつめられた食糧事情の中で、領民を救う最後の手段だと思ったのに…それが、カロリアにとっての致命打になるとは…!

『甘かった…っ!』

 卑怯を承知で、魔族から糧食を受け取りつつも近隣の国々に密告するという手口を採るべきだったか?

『いいえ…いいえ…っ!フリン…落ち着きなさい…!その案も確かに浮かんだ。状況によっては実行しようとも思った…。でも、ギリギリで止めたのは何故!?』


 そこまで誇りを失った人間が、この地上に生きる価値があるのかと己に問うたのだ。


 約定を違え、裏切り…欺(あざむ)きながら微笑んでみせる。
 ここ十数年というものの、そんな行為には何度も手を染めてきた。

 だって、フリン自身何度も手痛い裏切りを受け続けてきたからだ。
 領民を護り、自分自身生き抜いていくためには、フリンだって狡くならなくてはならいなと思ったのだ。
 それは領主としての義務だとさえ思った。

 けれど…それでも、フリンは問うたのだ。


『あの男を、裏切って良いの?』


 ウェラー卿コンラート…混血であるがゆえに反逆者の疑いを掛けられ国を追われ、それでも民のために戦ってきた男…。彼が捕縛されかけたという《原因》は全くの虚偽ながら…フリンの養女リタと通じて子を為し、眞魔国を裏切ろうとしたというものであった。

 それを知った時、フリンはすぐさまカロリアの警備を強めた。
 
 疑いを解き、再び眞魔国の要職に戻るためにコンラートがリタとカロリアとを血祭りに上げて、国への忠誠を証明すると思ったのだ。

 だが…彼はそうしなかった。
 おそらく、全くそんな選択肢は彼の中には存在しなかったに違いない。

 複数の情報筋からそれを確信した時、フリンの中に沸き上がってきたのは激しい羞恥だった。

『何という男なの…っ!』
『自分が、恥ずかしい…っ!!』

 どうしてあんなにも綺麗に生きられるのだろう?
 真っ直ぐに…太陽のように、ああ…《獅子王》とはまさに百獣の王たる彼に相応しい冠名ではないか!
 
 それに引き換え…自分という女は一体何をやっているのか…!

 羞恥や後悔といったものがドロドロと身の内でうねり、それでも《人間世界と眞魔国…女と男では違うのよ》と言い聞かせて心の平衡を保とうとするけれど、フリン本来の正義感や倫理…コンラートへの憧憬がそんな自分を叱責する。

 微妙な均衡の中から、最終的にフリンが選び出した答えはこうだった。


『裏切られた時のための手は全て打とう』
『けれど…あの男が裏切らない限り、その手は決して使わない…!』


 そうだ、フリンは決めたのだ。
 ならば最後まで貫いてみよう。

「お前達…!女子ども老人を避難させなさい…!」

 硬直していた使用人達に、鋭い声で命令する。

「奥様…ですが、どこへ…!?」
「非力な者については眞魔国の軍艦に乗せて貰えるよう、私が頼みます…っ!そして、少しでも武器を手に出来る者はこの館の前に集まるように言いなさい…!」
「まさか…奥様…っ!?」

 驚愕に喉を奮わせる侍従に、フリンは凛とした面を向けて宣言した。


「カロリアを護ります。私は…レオンハルト卿コンラート陛下と共に、怪物と闘う…!」


 ブーツに仕込んだ隠し刀を確認すると、フリンは駆けだした。


 フリンが信じると決めた男を、信じ抜く為に。



*  *  *


 

 激震がカロリアを襲った瞬間、リタは訳が分からないまま街路で転倒した。
 最初は揺れているのが周りだとは思わず、自分が何かおかしくなってしまったのかと思った。

 久方ぶりに目にしたコンラートが一層凛々しさに磨きを掛けていたことに驚喜し、その直後に憎いバルバロッサを思わせる鮮やかな赤毛の男を目にしたからだ。
 感情がでんぐり返ってどうにかなったのかと思ったのだ。

 しかし…リタ以外の住民達が同様に転倒し、街路に巨大な裂隙が発生するに至って、これが巨大な規模の地震であることに気付いた。
 
 コンラートに少しでも美しい姿を見て欲しくて結い上げた髪は崩れ、巻き上がる砂塵にまみれて肌もくすんでいく。いや、それどころか転倒した拍子にスカートは破けているし、肘や膝も擦り剥いているようだ。

『何もかも…上手くいかない……』

 リタは悔しげに奥歯を噛みしめるが、それでもどうにか起きあがった。
 地震と建物の崩壊はなおも続いており、暢気に転がり続けることは死を意味すると思われる。

『そうよ…私は、生きていくもの』

 バルバロッサに処女を奪われ、孕み…青春を毟(むし)りとられるようにして日々を過ごしてきた。
 だが、それでもリタは持ち前の精神力の強さを失うことはなかった。

 《絶対幸せになってやる》…そう信じて生きるのだ。

『どこかで容色を何とか整えて、もう一度コンラート様にお目通りしよう…!』

 妻にして欲しいなどと夢のようなことを考えているわけではないし、愛妾だとしても眞魔国の王たる彼が、コブ付きの女を欲しがるとは思えない。
 それでも、少しでも希望があるのなら…せめて一夜の情を得たい。

 ただ一度で良いからあの凛々しい男に抱かれることが出来たな…リタの人生は変わるような気がするのだ。

『もしも、子種を頂くことが出来たら…っ!』

 リタの胸に狂おしいほどの渇望が込み上げてくる。

 人間の世界で魔族の精を得ることは周囲の非難と迫害を買うことになるけれど、そんなものリタにとってはもうどうでも良いのだ。
 バルバロッサに踏み躙られた段階で、世間体などそこいらのドブに捨てたも同じだ。

『コンラート様…!』

 愛しい男を求めて被災地を駆け抜けていくリタだったが…彼女の人生はあまりにも躓きに満ちたものであった。
 よりにもよって…彼女の最大の《枷》が視界に入ったのだ。

『…キリク……っ!』
 
 鮮やかな赤毛を持つその子どもは、リタの腹から産み落とされた《鬼子》だ。

 産みたくなんかなかった。

 毎日毎日…どうにかしてこの腹の子がいなくならないかと呪い…バルバロッサの目を盗んでは、およそ胎児に悪いと思われるあらゆる手を試みたのだが、それでもキリクは産まれてしまった。

 自分の脚の間から血に染まったキリクがずるりと出てきた瞬間、リタは恐怖に絶叫したものだった。

 《生まれてきた子には罪はない》…そう言ってフリンはキリクに愛を注ぎ、リタに対しても《恨みは分かるけれど、それでもこの子はお前の子よ》と、少しでも愛を分け与えるようにと諭してきた。

 理屈としては分かる。
 基本的に情に篤い性質のリタは、彼女なりに子どもを愛そうとして何度か自分から近寄ってみたことはある。

 けれど…身体と心がついてこなかった。

 今も、キリクの真っ赤な髪を見ると鼓動が不規則に…大きくなり、ぐらぐらと視界が揺れるような感覚すら起こる。胃が迫り上がってきて吐きそうになるし、ど…っと嫌な汗が全身に噴き出してくるのも気持ち悪かった。

 キリクの方でも母に全身で拒絶されていることは分かるのか、何度か泣いて縋ろうとして…その度に弾き飛ばされてから不用意に近づくことはなくなったが、時折…泣きそうな目でじぃ…っとリタを見詰めているのが分かった。

 その目が、更に嫌だった。

『私だって踏み躙られたのに…っ!』

 あの目を見ていると、まるでリタの方が悪いように感じてしまう。
 自ら産んだ子を愛せない自分が、酷く非人情な存在であるように感じてしまうのだ。

『嫌だ…こっちを見ないで……!』

 リタの願い通じてか、幸いにもキリクはこちらに気付かない。

 どうやら、見知った大人達からはぐれたらしいキリクは顔を真っ赤にしてわんわん泣いているが、誰も声を掛けようとする者は居なかった。
 誰もが自分たちのことに手一杯であり、こんな非常時に手の掛かりそうな子どもを救う余裕など何処にもないのだろう。


 うわぁぁ〜ん……っ
 わぁあああ〜……っっ!


『止めて…泣かないで…っ!』
 
 見捨てていくことを責められているようで、何とも言えない不快感が沸いてくる。
 一度として抱いたこともなければ、愛の言葉を囁いたこともない子ども…。

 その子が声を限りに泣き叫び、呼ぶ名は……。

 
「母しゃま…母しゃまぁぁ…っ!!」


 一層激しくなる振動の中で、とうとうキリクはしゃがみ込み…その言葉しか知らないみたいに叫び始めた。

『行かない…行くものか……っ!』

 《母しゃま…母しゃま》…どんなに呼んだって、決して行かないのに…!

 心の中で絶叫するリタと呼応するように、キリクは泣き叫ぶ。
 母を呼びながら…。

『どうして呼ぶの…っ!』

 全て捨てて、幸せになりたいのに…!
 どうして…見捨てきれないのか…っ!

 リタと同じように、敵対する国の兵士に蹂躙されて孕んだ女達は平気で子どもを縊(くび)り殺したり、荒野に捨て去ったりしていたのに…どうしてもリタは直接手を下してキリクを殺すことが出来なかった。
 産まれる前は腹を何度も叩いて死なせようと出来たのに、形ある《子ども》として存在するようになると勝手が違うのか、手出しが出来なくなってしまった。

 痩せっぽちのちいさな子ども。
 産まれた時から不幸せを背に負っている子ども…。

 憎くて怖くて堪らないのに、どこかで強く…《哀れ》だとも思ってしまうのだ。

 その時…ぐらり、ゆらりとキリクの上で瓦礫が揺れた。
 第一波で破損したのだろう壁材の一部が、剥がれそうになっているのだ。

「…っ!」


 揺れている…揺れている。


 あとほんの少し放っておけば、キリクの小さな身体をぺちゃんこに押し潰すことだろう。
 そう…リタが手を下さずとも、キリクは死ぬ。

「…っ……っ……!」


 揺れる…揺れる……。


 リタの心もまた、揺れる………。


 
 ドオン……っ!!



 一際大きく大地が揺れ動いた瞬間…リタは、駆けだしていた。
 






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