第三章 ]TーA
「きゃあぁぁああ………っっ!!」
女の絶叫がカロリアの港に木霊する。
叫ばれた相手のアリアズナは呆然として女を見詰めた。
「え…?な、何だぁ…?」
港に降り立つコンラートに向かって結構な速度で突撃してきた女性がいたものだから、咄嗟にコンラートを背に囲い込む形で庇ったのだが…アリアズナの姿を目にした途端、その女性は調子っぱずれな絶叫をあげたのだ。
魔族が《見るのも怖い》というわけでもないだろう。
今、この港に降り立っている連中が全て魔族であることなどカロリアの民が知らぬはずがないし、この女性は自ら瞳を輝かせて駆け寄ってきたのだ。
「失礼ですよ、リタ!下がっていなさい…っ!」
銀色の髪をきりりと結い上げた女性に叱責されると、リタの瞳に理性の色が戻った。
銀髪の方には見覚えがある。現領主のフリン・ギルビットだろう。
「は…はい……」
リタはまだ震えが収まらぬようで、がくがくと怪しい足取りでその場を離れていく。
『あれがリタかい…』
それでは、おそらくアリアズナを真っ赤な髪を持っていたというグレナダ公子と混合したのだ。
それほどに傷が深いのかと思えば気の毒だが、若い女性に《黄色くない》悲鳴を受けたこの心の疵はどうしろと言うのか…。
「まことに…申し訳ありません。不作法な娘で…」
「いえ、お気になさいますな。俺の方も配慮が足りませんでした。アリアズナ…悪いが、これを被っていてくれ」
「ええぇええ……?」
アリアズナは手渡されたバンダナにげんなりとした。
海賊よろしく、すっぽり髪を覆えと言うことか。
「失礼しました、フリン・ギルビット殿。久方ぶりの再会ではありますが、急ぐ身ゆえ用件のみのご挨拶となりましょう」
「こちらこそ、おもてなしも出来ず申し訳ありません」
簡素な挨拶を済ませると、早速フリンは約束の品の検分に入った。
* * *
「これは…!」
荷物を確認してすぐ、フリン・ギルビットの顔色が変わった。
魔族が持ってきた物資は、殆どが種子や苗…そして肥料だったのである。
すぐに口にすることの出来る物もあったが、これは数が少ない。
「どういうことですの?」
ここで舐めた真似をされては体面が保たない。フリン・ギルビットは鋭い眼差しを更に釣り上げてコンラートを睨め付けた。
このご時世を女だてらに渡って行くには、舐められたら最後なのだ。
周囲からは、高台や家屋の窓から領民達が見ている。
彼らは魔族がやってくることに反対はしながらも、《糧食が手に入る》との言葉によって説得されたのだ。
もしもこの場でフリンが失態を示せば、彼らを統率することは困難になる。
「伝達を承ったグリエ・ヨザックが申し述べたはずです。俺は交渉の道具として用いる糧食を、領民全てに行き渡るようにして頂きたいと」
「私が独り占めするとでも!?」
か…っと頭に血が上るが、綺麗な顔をした魔王陛下は悠然とフリンの怒りを手で制する。
「いいえ、領民とは今現在このカロリアに住む民だけを指し示すものではありません。これから産まれてくる未来の子ども達に…実りを残して頂きたいのです」
「…何を……」
《魔王》などと呼ばれる男の口から、およそ出てくるとは信じがたい台詞であった。
清廉な男であるとは信じていた。
だが…このように夢想的な物言いをする男だったろうか?
「既にお伝えしているとおり、この遠征の目的は《禁忌の箱》を破壊することです。ですが、それが達成されたとしても、実るべき種子が地に播かれていなければ…また、地が耕され、水が蒔かれていなければ、食物は実りません。あまりにも長きに渡って荒廃してきた人間の地では、多くの田畑が荒れ果て…見放されていると聞きます。その大地を、再び拓いて頂きたいのです」
「何故…あなた方魔族がそのようなことを?」
「極めて利己的な理由ですよ。また、あなた方への挑戦でもある…!」
くすりと魔性の笑みを湛えながら、コンラートは薄い唇を挑戦的に釣り上げた。
「ひとつには、《禁忌の箱》が破壊されても相変わらず人間達が田畑を荒れたまま放置していれば、食い詰めた連中が眞魔国の実りを狙って捨て身の侵略を企てるでしょう?可能であれば、それを防ぎたいということ…」
コンラートの声は伸びやかな低音であり、殊更に大きく響かせようと張り上げているわけでもないのに、不思議とフリンや…周囲の人間達の耳に入った。
「また、我々はあなた方人間に手を差し伸べるが、駄々を捏ねて転がっているものを抱き上げてまで助ける気はない。あなた方が一年後、豊かな実りを実現させていれば交易を願い出るが、今回の種子を飢えに負けて未来に託すことなく腹に収めてしまったとすれば…」
びぃん…と、大気が静まりかえり…コンラートの声だけが、朗々と港町に響き渡った。
「俺はあなた方人間を軽蔑します。フリン・ギルビット殿」
ひゅう…っと喉が鳴ったのが自覚できて、フリンは微かに頬を上気させた。
コンラートの眼差しがあまりにも峻厳であり…どんな手練れの武人よりも鋭い斬り込みでありながら、その言葉の奥底には《受けて立ってみろ》という、強い父性愛のようなものが感じられたからだ。
『試されている…っ!』
そう感じた瞬間、腹蔵に籠もる全ての精神力を駆使してフリンは背筋を伸ばした。
「分かりました。その挑戦…受けましょう。ですが、私も言わせて頂きますわ」
「なんなりと」
「そこまでの大言造語を吐き、我々に無為な野良仕事をさせておいて《禁忌の箱》を滅ぼすことが出来なかったその時は…あなたの墓標に《裏切り者》と書いて差し上げますわ!」
「その時、生きておいででしたら…どうぞおやり下さい」
くすりと苦笑するコンラートに、再び頬が上気する。
そうだ…《禁忌の箱》が破壊されなければどのみち荒れ果てた土地はどうにもならない。
その時、フリン達にコンラートを責めるような余裕は残されていないだろう。
「それでは、用件は済みました。兵と荷を降ろし次第、眞魔国の軍艦も我々もこの地を去ります。その後…我らに関与した咎(とが)により、他国からの責めを受けられませんよう!」
「ご心配ありがとう…と、申しておきますわ。ですが、あなた方と契約を結んだ以上、利益と不利益の計算はしております」
「見事ですな、女領主殿…」
最後だけは清廉な…青年らしい微笑みを送って、コンラートは踵(きびす)を返す。
小憎らしいくらい様になっている男ぶりの良さに、フリンを初めとするカロリアの女達はときめかせてはならぬ胸の鼓動を持て余すのだった。
ゴウン……っ!
その時、不意に地響きがカロリアを襲った。
…ドン…っと突き上げるような振動は、《昔》を知る者達の身体に激しい動揺をもたらす。
「ひ……っ!」
咄嗟に11年前の《禁忌の箱》開放を思い出してフリンの身体は硬直したが、倒れかけたその身体を素早く反転してきたコンラートが抱きとめた。
ああ…何と言うことだろう!
逞しい体躯の感触と、仄かに香る芳しいにおいにくらりと眩暈がしてしまう…。
『く…っ!なんなのこの男…っ!どうしてそう…一々恰好良いのっ!!』
色々と人生経験を踏む内に、誑し込めば使えると思われるような男と幾度も床を共にしてきたフリンだったが、これほどの男ぶりを見せ付けられたのは初めてだ。
リタでなくとも…これは、女と産まれた者であれば…いや、男であってもある種の趣味を持つ者であればひとたまりもないだろう。
この男には色んな意味で、早くカロリアを出て行って貰わなくてはならない。
「フリン・ギルビット殿…あの奇怪な生物に見覚えは?」
「……っ!?」
のんびりとコンラートの感触を堪能している場合ではなかった。
フリンの開大した瞳には…信じがたいものが映し出されたのだ。
異形の怪物…そうとしか表現できない《生物》。
いや、生物などと称することすら恐るべき冒涜であるように感じられる…。
そいつは、山ほどの大きさを持つブヨブヨとした身体を淫らがましくうねらせながら…カロリアの街にのし掛かろうとしていた。
* * *
「なんだい…ありゃあ……っ!えらくブヨブヨしてんなぁ…。や、つか…でかすぎだろ。えー?人間の領土って、こんな妙な生き物いったけ!?」
アリアズナは呆気にとられてそのブヨブヨを眺めていたが、高級士官としていつまでも呆然としているわけにはいかない。
「荷下ろし中断…!」
カロリアを周辺諸国が襲うことは想定していたため、兵達の行動も迅速だった。
「現在の持ち場で総員待機!コンラート陛下からの命令があるまでは、各部隊長の指示に従え!」
このような事態に際しては、高級士官からあまり複雑な命令が出ると現場が混乱する。
眞魔国の士官は下級であっても意思統一が図られているから、任せておけば整然とした軍隊行動が取れるはずだ。
そこへ、フリンから得られる情報は無いと判断したらしいコンラートが歩み寄ってきた。
「あいつは人間も知らぬ新兵器らしい。おそらく…呪術を用いたものだろう。おい、アーダルベルトとアルフォードはいるか?伝令もだ」
「おうさっ!」
「はいっ!」
随分と血色の良くなったアーダルベルトはコンラートの呼びかけに嬉々として応えると、《得意領域の仕事が来たな?》と言いたげに怪物を見やった。
一方…アルフォードの方は、《これが人間の産みだしたもの》…とでも言いたげに、眉根を寄せておぞましげに怪物を見る。
「アーダルベルトは呪術師を見つけて身柄を確保してくれ。それが無理なら、なるべく上位の敵兵を捕縛するんだ。アルフォードは直接怪物の対応にあたり、聖剣を使って侵攻を阻止しろ。陸上にある兵は長槍と弓を装備の上、怪物とカロリアの間に入れ。その後は別命あるまで射撃部隊長の指示に委ねる。艦上の兵は避難を希望するカロリア住民を艦に搭乗させて良いが、甲板上に留め置き船室に入れてはならない。その他は各艦長の判断に委ねる」
「了解しました!」
「了解、魔王陛下殿っ!」
すぐさま伝令に走った兵や、つるっと応えたアーダルベルトとは対照的に、アルフォードの返事は一拍遅れた。
ごくりと息を呑んだからだ。
そうだ。これが、勇者としてのアルフォードに与えられた役割なのだ。
次々に襲いかかって来るであろう《非常識》な敵については、聖剣の力で打ち倒すという役回り。
『君が人間世界の本当の希望になるためには、宣伝効果の意味からも早い段階で聖剣の力を見せ付ける必要がある。聖剣を発動できる君が眞魔国軍にいることが、僕たちの行為の正当性を示すことになるからね。上手くいけば、呪術による切羽詰まった反応を止められるはずだ』
そう大賢者に告げられたのだが…果たして、アルフォードに出来るのだろうか?
かつては、確かに聖剣の力を発動させることが出来た。
11年前に《禁忌の箱》が開放された時などは、逆巻く竜巻に放り出された一家を救うために渦の回転を止めたり、沸き立つ大地の熱を冷ましたりと、自分でも信じられないような奇蹟を起こしてきた。
だが、軍を起こして進軍していく過程でその力は失われて久しい。
『だからこそ、やらねばならないんだ…』
己を奮い立たせるようにギュっと奥歯を噛みしめて顔を上げると、アルフォードは力強く叫んだ。
「了解しました!」
「頼む…!」
身を翻してアーダルベルトとアルフォードが立ち去ると、コンラートは土の要素の魔石を抱える紅の蝶にも頼み、上空からの映像を眞魔国に流した。
* * *
眞王廟の作戦本部では、港に着くなりの異常事態に村田が興奮気味だった。
人間世界からの映像は非常事態以外は切ることになっていたのだが、カロリアの現状を確認したくて少し前から繋いでいたのだ。
流石に人間の領域だけあって画像は歪みがちだが、見えないことはない。
「うっわ…素敵にえげつないなぁ…」
「感心するなよこういう状況で…っ!な…何とかなんないのか!?」
街を見下ろす山の上に居るようだが、それ自体が山のように巨大なその怪物はゆっくりと…枯れた木々を薙ぎ倒しながらカロリアに迫りつつある。
緩慢な動きなのがせめてもの幸いだが、止めることが出来なければ幾ばくもしないうちに街へと到達するだろう。そうなったら、船で離脱したとしても港は崩壊させられるに違いない。
ただ…村田としては《こいつら、アホか?》と思わなくもない。
どうせなら全ての荷が降ろされたところで襲いかかってくるべきなのだ。軍艦は荷下ろしをやめて命令を待っている。必要があれば兵や住民を載せて海に逃げるつもりだからだろう。
このタイミングで襲いかかってくるということは、相手は軍人ではないはずだ。
あるいは、民間の呪術師が軍に使われているかだが…今のところ、まだ人間の軍人の姿は見られない。おそらく、怪物がカロリアと魔族を蹂躙し尽くしたところで襲いかかってくる手筈なのだろうから、近隣まで来ているのは確かだ。
『そのままゆっくり待たせてあげるなんて勿体ないよね?』
村田はすぐさま諜報部員達に指示を送ると、軍隊の探索行動をとらせた。
あちらはあちらで斥候を出しているだろうが、こういう時は速度勝負だ。少しでも発見は早い方が良い。
紅の蝶にも更に上空を飛ぶように指示し、全体的な状況の把握に努める。
「それにしても惜しいなぁ…魔力に余裕があれば人間の領域にも全国ネットでお伝えしたのになー。《神の生み出した奇怪な怪物が無辜(むこ)の民を襲う!》…とかね」
「猊下…お言葉ですが、そのようなやりようは魔族相手には通じても、人間相手ではそれこそ魔族の見せた幻影だと思われるのがオチですよ?」
しかも、そのような手法を用いる魔族に対して更に強い恐怖と疑心を持つことになるだろう。
今実際に自分が見ているものすら、魔族が作り出した幻影だと思われかねないのだから。
今回の旅は三蔵法師が天竺を目指したのにも似ていて、結果と同時にその過程自体も大切になってくる。
魔族と人間が、互いに交流に足る相手であるかどうかを認識しながら進めていく旅なのだ。
「ふーんだ、分かっているさ」
「なー、村田…。本当に、俺が行かなくて大丈夫なのかな?」
「どうせちょっとした生贄程度でぽっと出の呪術師が出現させた怪物だよ?そんなのが出てくるたびに君がいってたんじゃ魔力なんかあっという間に消耗しちゃうって。そんな時のために奥さん!勇者GH(グレートスーパー)の出番ですよ!」
「誰が奥さん…って、まぁ…奥さんみたいなもんか」
一瞬憤りかけたものの、ちらりと横目でコンラッドの姿を確認してから《えへへ…》と微笑みかける有利は、かなり良い勢いで現状を忘れていた。
「ユーリ…」
「コンラッド…」
「見つめ合うな!」
苛立たしげに村田に叫ばれたこと以上に、怪物に動きがあったことが有利を慄然とさせた。
* * *
ズルル…
ズルゥ……
忌まわしい怪物はのろのろと…けれど、着実にカロリアへと近づいて来る。
ズシン…ドォン……っと、その度に枯れ木がへし折られ、辛うじて人型めいた形状を持つ怪物が鬱陶しそうに枝を払った。
怪物はのろぅり…と頭を上げると、カロリアの街に視線を送った。
《目》と呼ぶにはあまりにも粗雑な形状だが、太い杭か何かで打ち貫かれたような裂け目が、おそらく目の機能を果たしているに違いない。
その証拠に、怪物の形相が変わった。
魔族と思しき軍人達の姿を見るや、四つん這いでもったりと動いていた怪物は上体を仰け反らせ、おぞましい叫びを上げて威嚇してきた。
ゴボォォォオオっ!
グブォォ……っ!!
くすんだ曇り空を引き裂くようにして蠢く腕…指も関節も不明瞭なそれが激しく動かされたかと思うと《ドォン》…っと大地を叩き、勢いをつけて突進してきた。
ドドド…
ズドドド……っ!
「全軍、構え…っ!」
カロリアと怪物の間に素早く展開した弓兵は弓を構えるが、まだ射ない。
敵の突撃を受けた際には恐怖心によって早射をしてしまいがちだが、それでは無駄矢を打つことになる。
十分に引きつけたところで射なくてはならないのだ。
この為、射撃の掛け声を任される射撃部隊長には剛胆で距離感に優れた者が選ばれる。
それに、今回については射撃はあくまで援護なのだ。
「参る…っ!」
怪物の前に唯一人突撃していく男がいる。
暴走ではない、命じられているのだ。
勇者として、怪物に聖剣の力を振るえと。
「おおおぉぉぉぉ………っっ!」
聖剣が、光と熱を放つ。
アルフォード・マキナーの振り上げた剣から眩いばかりの光柱が立ち…天と怪物とを共に斬り裂いた。
ザ…ン……っ!
聖剣の放つ光がブヨブヨとした白い革を切り裂いた瞬間…
…その断面から、《地獄》が表出した。
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