第三章 ]T.闘いの刻(とき)








  

 王都前の平原には夏の草が鮮やかに生い茂り、馬の蹄で蹴散らされた草いきれが濃い香りを放っている。つい数ヶ月前には考えられなかった光景に、誰もが感慨深いものを感じながら視線を廻らせているようだった。

 しかし、すぐにそのような感慨に浸る暇はなくなる。 
 
 忙(せわ)しく行きかっていた馬たちが定められた位置につくと、小さく鼻を鳴らす《ブルル…》という音の他には兵達の私語も聞かれなくなった。

 彼らは今、待っているのだ。

 彼らに旅立ちを告げる者を。

 この旅立ちが我が身に与えるものが、栄光であるのか死であるのかを正しく占う術はない。
 それでも…彼らは強い確信を胸に、この場に列する栄誉を誇りに思うのだ。

 バサ…
 バササ……

 はためく部隊旗は戦場でも見分けが付き易いよう色鮮やかな配色が為されており、共に掲げられた獅子王旗には黒地に金の獅子が跳ねる様が意気揚々と描かれていて、誰もがその旗を誇らしげに見詰めていた。

 彼らはルッテンベルク軍を基盤として、更に法力の影響が少ない他軍の兵を編成し直し、練兵を重ねた《禁忌の箱》廃棄のための軍勢である。

 また、法力の影響を受けにくい事に加えて彼らにはもう一つ共通要素があった。


『人間に対して過剰な敵愾(てきがい)心をもたないこと』


 この遠征が、ただ《禁忌の箱》を破壊して終わり…というものではないことを、その要素が証明していた。

 遠征の目的に即して、軍勢の中には魔力の強い者も幾人か配置されている。
 湖畔族を主体とする彼らは治癒力に優れた衛生兵であり、人間の土地でも魔力を発揮すべく、抗法力加工の施された幌馬車に搭乗している。

 この《加工》についてはフォンクライスト卿ギュンターが秘術を使ったという話だが、有利が聞いてもどのようなやり方かは教えてくれなかった。幌の随所に銀色の糸が絡みついている様子から、兵士の幾人かは秘術の正体に察しをつけているようなのだが…ギーゼラを初めとして、誰も口にはしたくないようだ。

 更に馬車には重要な物資が積まれている。
 兵達の腹を満たす糧食の他に、政略的な意味合いを持つ物資が積まれているのだ。

 その目的と用途については後述する。



「おお…っ!」
「陛下のお出ましだ…!」


 カツ…
 カッカッ……


 緋のマントを風に靡かせながら、長身の魔王が跳ね橋を渡る様は一幅の絵画のようだ。
 
 悠々たる騎馬姿は気負いなく…それでいて、見る者が居住まいを正さずにはおられぬような風格に満ちている。
 兵達は心地よい緊張感に包まれながらぴしりと背筋を伸ばし、軽やかな蹄の音に耳を澄ませた。

 凛とあげられた王の顔(かんばせ)…引き締まった体躯の精悍さに、兵達の士気と鼓動の音が高まる。

「うぉ…」

 だが、思わず歓声を上げそうになる兵達を翳した手で軽く制し、レオンハルト卿コンラートは乗馬を止めると高らかに声を上げた。


「諸君…これは、世界の崩壊を食い止めるための遠征となる」


 《おお…っ!》…と呼応しようとする兵達をもう一度制し、コンラートは言葉を連ねた。

「だが、もう一つ忘れてはならぬ事がある。この遠征の主眼はあくまで《禁忌の箱》の廃棄である。決して、その道程に於いてこの主眼以外の行為に耽溺してはならないっ!」

 既に中将以下、一兵卒に至るまでその旨は通告されているが、旅立ちに際して誤解のないよう改めてコンラートは通達した。


「自らを《正義》と位置づけてはならない!」


 おそらく、魔族・人間を問わず出陣に際してこのような呼びかけをした指揮官は皆無だろう。

「魔族を《正義》、人間を《悪》という単純化された図式に填め込む者は、この進軍過程に於いて必ず後世の国交に疵を残すことになるだろうっ!」

 その理由については既に詳細が伝えられていた。
 コンラートは人間世界を征服するのではなく、不可侵か友好かのいずれかによって国交を成立させようと考えている。


 これには道義的な問題だけでなく、政略的な意味合いも強い。


 もともと魔族に対して強い敵愾心を持っている人間世界を征服した場合、必ず非人道的な報復措置が採られるだろう。国としての纏まりすらなくなった集団は、ただ《復讐》の為だけに、自らの命すらも武器に変えて《自爆行為》をしてくるはずだ。

 その時、犠牲になるのはおそらく軍人ではなく…無力な一般市民なのだ。
 極力そのような禍根を残さぬ形で、コンラートは人間世界に出陣しようとしている。

「良いか?これは聖戦などではない!極めて理性的な目的を持つ、有害物廃棄のための行程に過ぎないのだ!目的の妨げとなるような行動に出る者は、軍紀にただして粛正する!」

 これは、ルッテンベルク軍以外の十貴族軍から配備された者達に、特に肝に銘じさせなくてはならないのだろう。彼らはこれまでの戦いに於いて、人間の市街地を襲った時に強奪などの行為を上官から黙認されていたのだ。
 眞魔国軍紀によって禁止はされていても、戦闘による報償が滞っている以上《仕方がない》と見なされていたのだ。

 だが…今回の道程に於いて、人間世界で一例でも虐殺や強姦強奪が発生した場合、その噂は幾倍にも拡大されて喧伝され、人間世界を恐慌状態に陥れるだろう。
 
「我々は概念的な正義のためではなく、これから産まれ出(い)ずる命を憎悪の連鎖から解き放つべく闘うのだ!」

 《正義ではない》と、コンラートは告げる。

 だが、自国の栄光と欲のためではなく…世界を害する《毒》を廃すべく進む軍が、正義でなくて何だというのだろう?


『魔族は…凄い…っ!』


 帯同するアルフォード達は、胴が震えるような想いでコンラートを見詰めた。
 
『その中でも、このコンラートという男は希有な存在なのだ』


 その想いは、遠征の途上で更に強まっていくことになる。  



*  *  *




「いよいよ…行っちゃうんだな……」
「一緒に行きたい?」
「うん……でも、分かってるから。行かないよ?」
「大人になりましたね」



 王都防壁の上から、有利はコンラッドと共に遠征軍を見送った。

 共に旅立ちたい気持ちは山々だが、魔力を《禁忌の箱》の破壊時に集中しなくてはならない為、有利はよい子でお留守番をしなくてはならない。

 創主の力から眞魔国の実りを護るため、国境沿いに展開して巫女と共に魔力を発揮し続けている水蛇の上様や、土の要素使いのエルンストも、その時には一斉に有利の元に集うことになっている(出張仕事が長すぎて、既に上様などは拗ねまくっていると聞くが…)。

 ただ、エルンストの力の一部は遠隔通信の道具として魔石化され、紅の蝶のこれまた一部によって運ばれることとなっている。この通信情報によって村田が随時、助言・指導をもたらすこととなっているからだ。



「ああ…花が手向けられてる……」

 夏の終わりなので、まだそれほど数は咲いていないだろうに…細い花弁が幾重にも重なった可憐な花、カリナが捧げられていく。

 《私を忘れないで》…そういう花言葉を持つ、秋の花だ。 

 有利も手にしたカリナを手に取ると、遠征に赴くコンラート達に祝福を与えたくて…《ふぅ》…っと息を吹きかけた。

『エルンスト…力を貸して?』
『御意!』

 
 わ……ぁ……っ!


 空一杯に…白い花弁が散らばる。

 本物ではないけれど、羽毛のようにふわふわと舞い降りていく白い花弁は兵達の掌に触れると、《ほぅ》…っと良い匂いをさせて霧散し、旅立ちの不安をひととき癒やすのだった。


「お願い…生きて、帰ってきて……っ!」


 兵達の視線を浴びながら声を限りに有利が叫ぶと、白狼族達の発生させた風に乗って、花弁ごとその声は遠征軍に届けられる。

 先頭に立つコンラートが、笑顔で手を振った。



 有利を安心させようとするように、お日様に透かした蜂蜜みたいな微笑みで…。



*  *  *




 ザザ…
 ザザザザ………


 眞魔国軍を載せた軍艦は白い波を作り出しながら、力強く航行している。

 先程から水面をせわしなく海鳥が行きかっているのは、大船のもたらした波に驚き、飛び跳ねた捕まえようとしているのだろう。

 その様を見るともなく見やりながら…コンラートは誰に語るともなく囁いた。

「カロリアか…」

 茫洋とした表情で海を見るコンラートに、血色の瞳を皮肉な笑みに浸してアリアズナが尋ねる。

「懐かしいかい?」
「ふ…っ」

 やはり苦みを帯びた笑みが、コンラートの唇にも浮かんだ。

 その名は、少々コンラートの心に複雑な感情をもたらすからだ。
 おそらくは、声を掛けてきたアリアズナも同様だろう。

 遠征軍は先程、眞魔国のファリアット港から軍艦に兵と物資とを運び入れて出航したところである。
 入港目的地はカロリア…かつて、その地に住まうリタという女との関係を疑われ、コンラートは反逆の罪に問われて王都を追われたのだ。

 その後も支配者がコロコロと変わったカロリアだが、現在は女領主フリン・ギルビットが有力な武器商人と《深い仲》にあるらしく、かなりの発言権を持っているという。このためヌメノリアという国の傘下には置かれつつも、カロリアはある程度の自治を認められているのだそうだ。

「フリン・ギルビットか…」

 その名を口にすると、少しコンラートの表情も和らぐ。

「《女傑》と呼ぶに相応しい女性だったな。…ユーリも、会いたがっていた」



 まことに不思議な縁で、有利もあちらの世界でフリン・ギルビットに会っているらしい。
 しかも、彼はフリンに捕まって牢に入れられ、大シマロンに売られるところだったというのに…カロリアの自治を取り戻すべく天下武に出場してまんまと《禁忌の箱》まで手に入れたのだそうだ。

『あ、そうだ!もしも人間の領土でピッカリ君…じゃなくて、ヒスクライフって人に会ったら知らせてね?その人も凄くいい人なんだよ』

 言った後で、有利は少し瞼を伏せ気味にしていた。

『あ…でも、どうなってるんだろうな?ベアトリス…って娘さんが居る筈なんだけど…』

 その娘は、《生きていれば》十代後半の娘に成長しているらしい。
 だが…あちらの世界で海賊に襲われた際、海に転落しそうなところを有利が助けたと言うから、こちらでどうなっているのかは不明だ。

『俺が関わらなくても少しずつ違ってることもあるから、何かの拍子に助かってくれてると良いんだけどな…』

 祈るように、有利は囁いた。



「フリン・ギルビットか…30〜40才位だそうだが、なかなかやり手みたいだな。このご時世に多くの戦災孤児を養いながらも、誰一人娼婦紛いのことはやらせていないらしいぜ?」
「リタのことがあったから、余計に拘るのかも知れないな…」

 リタという女に、実はコンラートが直接会ったことはない。
 だが、聞くにつけ酷い境遇を科せられた女性なのだと思うのだ。

 十代半ばという若さでグレナダ公子バルバロッサの陵辱を受け、望まぬ妊娠をした上に魔族が迫ってくるとみるや、娼婦のように売られたリタ…。
 
 どれほど矜持を傷つけられ、悔しさと怒りに身を震わせたことだろう。

 誇り高いカロリア領主フリン・ギルビットもまた、養女の受けた屈辱に、義母として…女としての怒りを感じたに違いない。

「ヨザックに聞いたがね、やっぱりカロリアが一番話の通りが早かったって言うぜ?《あのウェラー卿が王になられるような国であれば、この近在に勃興する獣の統治国に比べれば随分とマシでしょうよ》と、気っ風の良いところを見せてくれたそうだ」
「そうか…光栄だね」

 銀色の髪をきりりと結い上げた、鋭い眼差しの女性が思い起こされる。
 最後まで怒った顔しか記憶にないが…それでも、コンラートの行為は《獣よりはマシ》と評価されたらしい。


 ザザザ…
 ザザ…


 海風に頬をなぶらせながら、コンラートは苦笑する。
 
 カロリアに於ける第一歩が、《他の人間の国に比べればマシ》であることを祈ったのだ。

「娼婦っていやぁさ…あんた、知ってるかい?カールのこと…」
「ああ、そういう生業(なりわい)をしていたらしいな…」
「可哀想…とは言わないのか?」

 コンラートが淡々と応えたせいか、少し反発を含んだ声が返ってくる。
 アリアズナはすっかり、あの痩せぎすの子ども贔屓になっているようだ。

「彼には彼の事情があったろうからな。既にやってきたことを《可哀想》などと表現すると、余計に誇りを傷つけてしまうかも知れない」
「へぇ…ちょっと意外。あんた、自分の領土には娼館を置いてなかったから、そういうの《不潔よーっ!》とか言うのかと思ったぜ」
「不潔も清潔もないさ。本人が納得してやっていて、俺が気に入れば娼婦も抱いていたろう?」

 そうだ、彼は王都の花街では《夜の帝王》などと謳われていたのだった。
 それも街の噂になるくらい気っ風の良い姐さんや、技巧に誇りさえ持っているような女が《金なんか要らないから抱いてくれ》と懇願してきたと聞く…。

「なら…さ、なんであんたの領土には娼館を置かなかったんだよ」

 気軽に抜きたい時に苦労したせいか、アリアズナの声はちょっぴり拗ね気味だ。
 カールに対する話とは矛盾すると分かっていても、単純な男心としては割り切れないものがあったらしい。

「逃げ場にしたくなかったからだよ」
「ああ…」

 アリアズナが少し理解の色を瞳に浮かべた。
 ウェラー領に身を寄せることとなった女性達の、《身の上》というものを思い出したらしい。

「俺や父が連れてくる混血集落の女性達には身体を売っていた者が大勢居たが、それは殆どが貧しさのために身を売らざるを得なかったか…あるいは、身を汚されて自棄になっていたせいだった。そういう女性はウェラー領に来ても生活が苦しいと、つい野良仕事よりも簡単に金が入る娼婦業に戻ってしまい、生活能力が身に付かなかった…。個人的な売春は取り締まれないが、せめて娼館をなくすことで野良仕事に専念して欲しかったのさ」
「ふぅん…。じゃあ、カールなんかはどうするんだ?今は男娼をさせちゃいないが、この遠征が終われば給料も出なくなるだろ?」
「そこは彼の選択次第だが…男娼をもうやりたくないのなら、手は幾らでもあるさ。俺の領土に引き取って手に職をつけさせることも出来る。だが…彼は強い仲間意識を持っている子だ。決して自分だけ安寧を愉しむような事は出来ないだろう?」
「ああ…そうだな……」

 意外と頑固なあの少年は、なんとしても自分の仲間達を救うつもりでいるのだ。
 
「結局…あいつが住んでる世界ごと救ってやんなくちゃなんないのかよ?」
「救う…か」

 コンラートは意味ありげに微笑んだ。

「俺は、自ら救われようとする者しか救う気はないよ?」
「まあ…な」

 救う手段はこの軍艦に積載している。



 だが…選ぶのは、あくまで人間なのだ。 



*  *  *




 ニァー……
 ニャーー………


 夜明けが迫る港の上空で、騒がしく海鳥が鳴いている。
 水平線の彼方に朝日と共に…群れなす軍艦が見えた為だろうか。

 このカロリア自治区始まって以来とも言える軍艦群はとても全てが停泊出来るはずもなく、物資を入れ替わりに降ろしては再び眞魔国に帰るのだという。

 そう…彼らは魔族だ。

 3年前…土台を同じくする《ルッテンベルク師団》が訪れた時には陸路からの侵攻であったため、港に魔族を迎えるのもこれが初めてのこととなる。

 カロリアを傘下に置くヌメノリア国については、領主フリン・ギルビットが鼻薬を嗅がせているお陰で黙認しているが、さて…周囲の国々はどのような行為に出てくるだろうか?

『早く、荷下ろしを済ませて貰わなくては…』

 正直、実りの奇跡が起こったという眞魔国からの物資は喉から手が出るほどに欲しい。
 だが…一方で、近隣諸国からの激しい糾弾は何としても逸らしたいのだ。

『最悪の場合は、情報を他国に流すことも…』

 考えの中にはあるし、そう判断した時の連絡経路も確立している。
 
 しかし…

『できれば…そうしたくはないわ…』

 約束の糧食を受け取りながら、その後ろ手で情報を意図的に漏洩する…それは、フリンが嫌悪したグレナダ公子バルバロッサ並みの汚い行為だろう。

 しかも相手はかつて…グレナダ公国から見放されて生贄の様に捧げられたフリンの館に、指一本触れなかったばかりか、おそらくは故意に…糧食を放置していった者達なのだ。

『聖職者達は魔族を凶暴な野獣だという…けれど、私には人であるはずのバルバロッサの方がよほど獣(けだもの)に見えたわ…っ!』

 かつて…あの男は、フリンの目の前でリタを陵辱したのだ。
 《抵抗すれば、少々年増だがお前の養母も犯してやる》…そう脅されたリタは、バルバロッサの臣下に羽交い締めにされたフリンの前で自ら脚を開き…犯されたのだ。

 その男が要塞から引きずり出されて処刑された日、フリンは心の中で喝采を送ったものだ。

 輝かしい英雄の姿は、リタの心にも鮮烈に残されたらしい。

 リタは敬虔な教会信奉者であったが、処刑に立ち会ったコンラートの凛々しい姿を目にした瞬間に勢いよく教徒の印を叩き割り、二度と教会に入ることはなくなった。
 祈っても祈っても助けてなどくれない神よりも、魔族の男の方がよほど素晴らしい存在に見えたのだろう。

『けれど…あの娘のためにも、魔王に長居して貰っては困るわ』

 リタの産んだ子は鮮やかな赤毛で、バルバロッサの子であることは明らかであった。

 当たり前だ。あの子は結局バルバロッサしか男を知らず、次いでは報われぬと知りながら…魔族の男に夢中になってしまったのだから。

 しかも風の噂にリタは、自分との子を為したという疑惑によってコンラートが正規軍を追放され、独立軍を率いて闘う身となったことを知った。

『ああ…その噂が真(まこと)であったなら、どんなに幸せだったろう…っ!』

 情に篤いリタは、産まれた子を自分なりに可愛がろうとしたけれど…呪わしいほどに真っ赤な髪を見るにつけ、錯乱しかけてしまう…。

 《この子が、せめてあの方と同じ…深茶色の髪であったなら…!》…そう、狂ったように髪を振り乱しながら叫ぶリタに、キリクと名付けられた幼児は幾度も土を頭にまぶした。

 《母しゃまは、ちゃいろがお好きなの》…何度小さな手を止め、土を払ってやったことだろう…。
 だが、キリクの求める手はフリンではなかった。
 キリクの瞳はいつもリタを見詰め、その愛に飢えて…眠りながらも涙を零すのだ。

 《母しゃま…母しゃま…》…ぽろぽろと涙を零すキリクを見るたびに、フリンは胸を塞がれる思いがする。

『せめて…良い薬粉でもあれば……』

 紅以外の色に染め変えることが出来れば…と、グリエ・ヨザックと名乗る眞魔国の諜報員にもその旨を伝えたから、ひょっとすると良い薬粉が手に入るかも知れない。
 気休めかも知れないが…せめて、一度だけでも抱いてやって、優しい言葉を掛けて貰いたいと思うのだ。


 ザァアアア………
 ザアァァアア……

       
 波の上を滑るようにして軍艦の群がはっきりと肉眼視されるようになってきた。


 
 多くの人間達の思惑を受けながら、魔族が人間の領土に脚を踏み込もうとしている。



*  *  *




 華美な装飾を施した軍服を纏い、苛立たしげな足取りで部屋の中を何度も往復していたホイツァー公国軍最高司令官ケルトリッチが、伝令の伝えた報告に声を上げた。

「魔族がカロリアに入港したか。いよいよ…こちらにも来るのか……っ!」

 カロリアを傘下に置くヌメノリア国はホイツァー公国の隣国であり、距離にして騎馬で2日という近さだ。
 このため、《カロリアに魔族が来る》という噂に最も強く反応したのもホイツァー公国であった。
 ホイツァー公国はすぐに事の真偽をヌメノリア国に問うたが、《カロリアには自治があるから》とかなんとか、のらりくらりと交わして相手にならない。

 おそらく、魔族から得られるであろう糧食に目が眩んでいるのだ。

『くそ…っ!アルフォードめ…バンツァーがあんな勇者気取りの儒子(こぞう)に目を掛けたりするから、軍備がこれ程消耗しているのだ!』

 バンツァーは既に失脚してその甥が現公主を勤めているが、一発逆転を狙って投資をしたツケは大きく、ホイツァー公国の財政・軍備は極めて劣悪な状況にある。
 それこそ、手段を選んでいられないほどに…。

「はい。いよいよ……」
  
 伝令ではなく、傍らにいた辛気くさい老人が呼応してきたものだから…ケルトリッチの表情が嫌そうに歪んだ。
 老人の底光りしたようにぎらつく瞳が、えもいえぬ不快感を誘ったのだ。

 だが、この男…リーシュラは公主の前で数万の兵に勝る《戦士》を見せ付けた重要人物でもある。機嫌を損ねるようなことがあれば、その力は別の国へと持ち去られ…ホイツァー公国を滅びの危機に陥れかねない。

『しかし…奇妙なものだな』

 凄まじい力を持つ異形の《戦士》…いや、《狂戦士》と呼ぶに相応しい怪物をあれほど自在に操れるのであれば、何故この男はこれまで出し渋っていたのだろう?

 ホイツァー公国の支配下にあるガリアノスで、男が世話をしている孤児院の子ども達はいつも食うや食わずの様子であり、いつ見てもガリガリに痩せていたと聞く。
 しかも、それでも食うに困るのか…子ども達の幾人かは身体を売って生計を立てる有様だという。

 教会の教義に明らかに反するであろう行為を、目を瞑るのを越えて奨励していた向きさえあるこの男が…なぜ今になって《神の力》を駆使して戦士を生み出したりしたのだろうか?

 神に力があるのなら、もっと早く子ども達を救えたのではないのか?

 ぶるる…っ

 何故だか妙な寒気を感じて、ケルトリッチはリーシュラから離れた。
 なにか、気付いてはならない点に思考が及んだような気がしたのだ。

『聖職者などと呼ばれる手合いを敵にすると、色々と恐ろしいからな』

 少なくともあんな戦士をけしかけられれば、太鼓持ちの巧さでここまで出世した感のあるケルトリッチなどひとたまりもないだろう。
 闘犬の前に置かれた仔豚のように、喰い殺されたくはない。

「カロリア…」

 ゆらりとリーシュラが立ち上がり、何処かへ立ち去ってもケルトリッチは咎めようともしなかった。
 行くというのなら、是非そうして貰いたかったのだ。

 だから、ケイトリッチは廊下を歩くリーシュラが何を呟いているのか聞き取ることは出来なかった。



「もうすぐだ…もうすぐだよ、私の可愛い子ども達…。お前達の貴い犠牲が、恐ろしい魔族から世界を救うのだ…!」

 ぶつぶつと呟きながらリーシュラは首飾りを手に取る。
 彼が信奉する神を模したその首飾りには、ぶよぶよとした白い革が固定されている。水牛の皮を人型にくりぬいたものを、棘の付いた車輪に磔(はりつけ)にしているのだ。

 その皮が時折、ゴボ…グボボ…っと蠢いて…その都度奥の方から聞くに堪えない悲鳴が響いてくる。

 その声に硬く目を閉じ…血が出るまで唇を強く噛みしめながら、リーシュラは歩いていく。


 この苦しみから子ども達を救うためには、一刻も早く魔族を屠らねばならないのだ。








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