第三章 ]ーF
血盟城の大広間では、一通りの式典が終わるとルッテンベルク軍の兵士や貴族達も思い思いに行動するようになり、特に前者については敬愛する二人の魔王陛下や異世界のウェラー卿、伝説の大賢者のお姿などを十分に堪能すると、城下町へと流れていった。
自分たちが主役の宴とはいえ、豪奢な雰囲気と気取った貴族達の中にいるのは気兼ねだったのだろう。
* * *
「驚きました…」
「そう?」
有利の手を引いてバルコニーに入ったコンラッドは、カーテンの陰に隠れるようにして思い人の細い肢体を抱き寄せた。
少しだけ酒を嗜んだ息はシェリーの香りを漂わせ、言葉と共に有利を酔わせようとしているかのようだ。
「えと…嫌……だった?あのさ、俺…色んな所でちょろちょろとはあんたが婚約者だって言ってたんだけど、王都の人達にはまだちゃんと言ってなかったから…そのぅ…あんた狙いの人が変なちょっかい出してこないように牽制したいなー…とか思って…」
上目づかいに不安そうな顔を見せる有利は、その行為が彼にしては策略的だったのが気に掛かっているのだろう。
そもそも、あの宣言には嘘がある。
《既成事実》と有利は言ったが、実のところ…腹の子は、コンラッドが孕ませたものではないのだから。
だが…そんな嘘をついてまで、《俺のものだ》と宣言してくれた有利に、コンラッドがどんな感情を抱いたか…彼はまるで分かっていないようだ。
「何を言ってるんですか?俺をこんなに喜ばせて、どうするおつもりですか?」
「え?」
「今すぐ…昨夜の続きをしたくなるではありませんか」
「やややや…っ!そ、それは無理デスからっ!」
頬を真っ赤に上気させて暴れるが、そのまま抱き込んで肩口に顔を埋めてしまう。
リボン越しの素肌に唇が触れれば…びくりと感じやすい身体が震えるのが分かった。
「しませんよ…」
くすくすと鎖骨に触れながら笑いかけるが、何しろ接触面が広いものだからなかなか緊張は解けない。
「嬉しかった…」
「マジで?」
本当に、嬉しかった。
己の嫉妬深さを恥じてはいるのだが、自分ではどうにも出来ない衝動に駆られてしまうことがある。
《この方は俺のものだ…!》そう叫ぼうとする自分を客観的な位置にある自分自身が常に冷笑を湛えて監視している。
そいつは、《馬鹿かお前は?この方は王だ。全ての民が仕える存在であり、誰の所有物にもならない。お前のように下賤な男の手が触れることを赦されただけでも有り難く思え》などと、至極尤もなことを言うのだ。
なら、せめてこの身が有利のものであることを証明して欲しい。
彼のために全てを尽くすことを赦して欲しい…。
そう願うコンラッドの想いを汲み取るように、有利は宣言してくれたのだ。
『コンラッドは俺のものです。誰にもあげませんっ!』
可憐なドレス姿で仁王立ちになり、堂々たる布告を果たした男前な態度に全力で惚れ直してしまった。
「そっか…怒ってないならいいや」
えへー…っとはにかむように笑って、有利はぽてっとコンラッドの腕に身体を預けた。
「なんか…緊張が解けたら眠くなって来ちゃった…」
「控え室に参りましょうか?」
「うん…」
ドレスを纏う今だけは《俺は男だから!》という意識が幾らか薄れるのか、お姫様抱っこで運ばれても文句は言わなかった。
それどころか、少し甘えんぼになっているらしく…おずおずと伸ばした腕をコンラッドの頚へと絡めてくれた。
「へへー…今日はこうさせてね?あんた狙いのお姉さん達に諦めてもらわなくちゃいけないからね!」
「俺も有り難いですよ。あなた狙いの不届き者を牽制できますからね」
「俺狙いはいないだろー?ツェリ様にお願いして精一杯綺麗にして貰ったけど、口開いちゃったからなぁー…。幾ら眞魔国人ご一同が双黒贔屓でも、喋ると色気もへったくれも感じないんじゃない?」
「いえいえ、そんな剛胆な行動とざっくばらんな口調も、とても愛くるしくて素敵ですよ?」
「太っ腹で名付親馬鹿一代なあんたの腐れ眼に、こういう時は感謝するよ…」
嫉妬と羨望の視線を集めながら、異世界の主従カップルは控え室へと移動していった。
* * *
『不思議だな…』
レオンハルト卿コンラートは玉座の肘当てに取り付けられた宝玉を指先で弄りながら、自分自身の心を分析していた。
有利の男前な宣言を、もしも数週間前に受けたのであれば強い絶望感に駆られたことだろう。
だが…今、コンラートの心は平穏であり、少しばかり《羨ましいな》とは思うものの、それは同僚に結婚を先越された未婚者の感慨とさほど変わるものではなかった。
『何故だろう?』
コンラートの有利への想いは、一体どういう種類のものだったのだろう?
《愛》であるには違いないはずだった。
だが…そこにコンラートの責任による負債を背負わせた罪悪感や、国や民を救って貰ったという感謝などの様々な感情が絡み合う内に、純粋な思慕から粘質な情感を纏うようになった節はある。
きっと、コンラートの純粋な感謝と思慕の想いだけでは、帳尻が合わないと思いこんでいたのだ。
有利は何の見返りも求めずに救いの手を差し伸べてくれたから、その行為に報いるためには、コンラートも最上級の感謝と愛を返したいと思ったのだ。
だが、《恋》としての《愛》は寧ろ迷惑なものだったから、《それでは、どうすればいいのだろう?》と悩んだのだ。
素晴らしい贈り物を貰ったから、自分として考えられる最高の返礼品を用意したのに、《それは貰うと困る》と言われたようなものだ。
代換品が思いつかなかったのだ。
しかし…コンラートが《恋》に比べれば軽いと思いこんでいた《友情》というものは、意想外なほどの重みで有利に受け入れられた。
コンラートにとっても何の障害もなく与え、与えられるこの想いに…初めて頭の頂点から爪先までいっぱいに浸す満足感を得たのだった。
『俺は、ユーリが大好きだ』
今は、胸を張って言える。
身体を重ねることはなくとも、いつ再会しても昔通りに笑い合うことの出来る友人たり得ると、自信を持って告げることが出来る。
『新しい縁(えにし)も繋ぐことができたしな…』
まさか、自分の言葉が有利の子の名前として採用されるとは思わなかったが、これもまた不思議な縁というものだろう。
有利と全く同じ容貌で育つだろうリヒトは、どちらの世界で育つことになっても、良くも悪くも有利の影響を受けずにはいられまい。
リヒトが成育していく過程で、何かの力になれるのだとしたら…こんなに嬉しいことはない。
それは、きっと有利への想いが友情へと昇華したからこそ得られた役割なのだ。
『リヒト…俺は君の名付け親として、君の誕生を待ち望んでいるよ?』
リヒト…有利以上に、コンラートの為に運命を狂わされた存在。
そんな彼にはどうか名を贈り、償いではなく…まっさらに想いで愛して欲しいと有利は望んでいることだろう。
今なら、そうしていける気がした。
『何もかもが元通りになるのではなくとも…人は、違ってしまった世界をそれでも精一杯生きていく内に、また違う形の幸せを構築することが出来るのだろうか?』
コンラートのこの気づきは、後日…確信となって再認識されることになる。
* * *
「良かったですね…」
「ああ」
チン…っと硝子製の杯が交わされて澄んだ音を立てる。
大広間の壁際に佇むギュンターとグウェンダルは、彼らの愛する者が心の再生を得られたことに深い感謝と充足感を覚えていた。
コンラートは、もう大丈夫だ。
彼は肩書きだけでなく、これまで得ようとして藻掻いていた全てのものを、求めた完全な形ではないのだとしても…納得のいく形で自分の掌中に収めたのだ。
「これで、憂いなく戦場に赴くことが出来るだろう」
「あなたは付いていきたいのでしょうけどね」
「…まあな」
グウェンダルとギュンターの役割は、コンラート達が《禁忌の箱》の埋まった地点を確保した段階で、アニシナの装置内の《後方支援予備魔力桶》に組み込まれることである。
有利が《巨大魔道装置》に搭乗して出撃する際、その後方支援として眞魔国側から魔力防御壁を送る役割なのだ。
それまでは、コンラートの事を心配しながらも、残された業務を肩代わりすることになる。
「アニシナは、ほぼ装置を完成させたそうだ。最後調整を済ませ次第、お前の薬も作ると言っていた」
「そうですか…。なにやら、ユーリ陛下の言いぶりを耳にすると怖いような気もしますが…」
ギュンターの瞳は今も視力を失ったままである。
それを治癒するための薬…いや、正確には《失明をもたらした毒を、毒によって中和する》という話だが、とにかくその薬剤をアニシナが開発するらしい。
「目から芽が出るんじゃないかとか、飛び出すんじゃないかとか、色々と縁起でもないことを言っておられたな…」
「……恐ろしいですね…。ですが、それでもこの目が再び物を映してくれるのなら…試してみたいです」
「見たいか?」
「ええ…王として、堂々と黒衣を纏うコンラートの勇姿や、ユーリ陛下や猊下のお姿を是非拝見したいですね」
そんなことを語り合っているところに、ふと声が掛けられた。
「やあ、フォンヴォルテール卿にフォンクライスト卿…」
「猊下!」
宴用の黒い長衣を纏う村田は優雅な出で立ちで、今日はいつも付き従っている異世界のヨザックに加えて、こちらの世界のヨザックも連れていた。
オレンジ髪の大柄な男二人が居並ぶ間に置かれてすら、村田の存在感が掻き消されることはない。
「レオンハルト卿とも緊急に話がしたい。別室に集まって貰えるかな?」
「は…っ!」
グウェンダルとギュンターの頬に緊張が走る。
こちらの世界のヨザックを筆頭とする隠密集団は、戦に向けた情報収集のために人間世界に散っていた。
おそらく、その情報が戦略を固めさせたか…あるいは、急な対応を必要とする事態が生じているのだ。
「何かありましたか?猊下…」
様子を見て、既にコンラートもこちらに向かって動き出している。
戦に向けた動きが、現実のものとして肌合いに感じられた瞬間であった。
* * *
夜も更けてきた頃、宴の大体の収束を感じて…という顔で、村田達は別室に集まった。
グウェンダルとギュンター、二人のヨザックにコンラートが一緒だ。
有利とコンラッドは既に宴を抜け出して控え室に移動しているらしいので、声を掛け掛けることは遠慮した。コンラッドはともかくとして、有利を性交中に慌てさせるのは可哀想だったからだ(←性交中なのは決定事項なのか…)
アルフォードとガーディー、アーダルベルト等にも声を掛けたかったが、彼らはルッテンベルク軍の指揮官達と共に城下町に流れているらしい。
正式な作戦会議までに伝えられればいいから、今日は原案を練るべきだろう。
「呪術…ですか?」
噂には聞いていたが、先の大戦ではそこまで大きな被害を受けなかったため、戦略的意義をそこまで認めなかったコンラートは怪訝そうに眉を顰めた。
「ああ、あちらの世界で信奉されている《神》には、少々物騒な性質を持つものもある。殆どは迷信に過ぎないが、中には実体化して物理的な攻撃を仕掛けてくるものもある」
「ですが、先の大戦で発現しなかったものが、今になって何故危険視されるのですか?」
「先の大戦では戦場が国境付近だったし、集結間近の時期にもまだシマロンは国としての体面を保っていた。一応は軍人だけが戦闘行動に関係していたんだ。ところが…今度は事情が違う。眞魔国は《禁忌の箱》を廃棄するために旅立つと周辺諸国に喧伝しているだろう?」
それは眞魔国の目的が人間世界の制圧を目論むものではなく、諸悪の根元である《禁忌の箱》を始末するだけのものだから邪魔してくれるなという意味合いを持つものであったが、それをまるっと信用してくれる者は少数であった。
いや、少数でも居ただけ驚きも知れない。
こちらの世界のヨザック達は、勿論賄賂なども使いはしたのだが…それでも、人間世界で進軍するに際して、《抵抗せずに素通りさせる》と約束してくれるという国を、《禁忌の箱》が埋まる土地まで数珠繋ぎに確保することが出来たのだ。
しかし、当然その約定は絶対的な秘密事項であり、彼らは周囲に気取られることなく行いたいと考えている。
それでも噂を聞きつけた周辺諸国が騒ぎ出し、約定を取り付けた国に対して圧力を掛けてきたり、自力で眞魔国軍を阻止すべく活動を始めた国も多いと聞く。
「居たたまれない話だけどね…《魔族が攻めてくる》って事が、人間世界にヒステリックな反応を起こさせているのさ。それこそ、小さな子どもや女性までが《悪魔から世界を救う》と誓って、集団自決や呪いの準備をしている」
忌々しげに村田が舌打ちをする。
彼としても、人間世界がここまで終末的な追い込まれ方をするとは思っていなかったのかも知れない。
「集団自決…!?」
「そうさ。僕と渋谷のいた国でも…昔あったそうだよ。敵に辱められたり捕虜になる前に、自ら死ねと言って軍人が市民に武器を持たせたり、崖から飛び降りるように指示するんだ」
「そんな…っ!」
コンラートは絶句して顔を青ざめさせた。
前の大戦では、眞魔国側から人間世界…特に、市街地に入り込むことは少なかったのでそこまでの過剰反応が起こったことはなかったのだ。
その後の小規模な闘いでは散発的に悲劇が起こることはあったが、それでも…軍人が護るべき民に向かって《死ね》と告げる事象は確認されていない。
「こちらの世界では軍人よりも寧ろ、教会がそれを奨励しているようだね。彼らにとって魔族は宗教的な意味でも絶対的な敵だ。ただ殺されるならともかく強姦されたりすれば、魂が穢れて天国に行けない…そう言われた娘達は、常に懐刀を仕込んで自決の準備をしているというよ。呪術についてもあからさまに非人道的な方法…人間の生贄が使われているそうだ」
「何ということを…っ!」
それでは、ルッテンベルク軍の進軍は市民達のパニックによる集団自決や呪術による生贄を阻止することも意識に入れておかなくてはならないのか。
《禁忌の箱》を廃棄して《はい完了》とは行かないのだ。
魔族も人間も、《禁忌の箱》によって世が滅びないのであれば、長い時をこの世界の中で共に過ごしていくことになる。
リヒトを初めとする後世の民に癒しがたい傷を残さないためにも、いま何が出来るのかを真剣に考えておかなくてはならない。
「こうなると、ルッテンベルク軍の中にフォングランツ卿が居てくれるのは幸いと言えるかも知れないね。彼は法石を使えるし、例の魂の事件で安易に使うことで創主に介入される危険も知っている。彼を上手く使えば、強い法力が集結している場所などを特定できるはずだ」
「なるほど…呪術を使った木偶人形などを送り込まれたりしたら、呪術を使っている現場を押さえないと延々闘わされることになるでしょうからね」
「ああ…それに、確実に味方の死骸は焼却して行かなくてはならないよ。仲間の死骸を不死の戦士として使われたりすれば、兵士の消耗度は生ける敵を相手にする時の比ではないからね」
「……っ!」
恐るべき通達に、コンラート達は息を呑む。
そこまで凄惨な戦場になるのだろうか?
その時…コンコンっと部屋の扉が叩かれた。
「村田、ここにいるの?」
「渋谷!」
慌てて駆け出した村田は、彼らしくもなく性急な動作で扉を開いた。
そして、可愛らしいドレスを纏う有利に微笑みかけたのだった。
「ウェラー卿と、しっぽりやってるのかと思ったのよ」
「あのなー、俺だってちっとは考えるっつーの」
「ふぅん…」
何を考えたのかは不明だが、多分…しっぽりやりかけて思い直したのだと思う。
村田の指が《つぃん》…っと有利の首に巻かれたリボンを摘んで持ち上げると、その下にあった鎖骨付近には鮮やかな朱華が散っていたのだ。
「む…村田っ!?」
「猊下…」
軽く手を重ねて、コンラッドが困り果てた声を上げる。
「よくまあここまで痕をつけておいて途中で止められたもんだね。コスプレ好きでガーターマニアの君のことだから下着だけ脱がして《自分で裾を上げてご覧》プレイとかしてるまかと思ったよ」
「それは前にやりましたから」
言わなければいいのに、コンラッドは極めて真面目な顔で報告していた。
「……じゃあ、わざと胸だけぽろんと露出させて、他の服はなかなか脱がせてあげないプレイは?」
「すみません…それもやりました……」
申し訳なさそうに頭を垂れるコンラッドに、村田が拗ねきった顔で呟いた。
「僕……君のことが一層嫌いになったよ……」
「お前ら、いい加減にしろよーっ!」
地団駄を踏んで有利が憤慨すると、漸く二人はお口にチャックをした。
かなりの手遅れ感は否めなかったが…。
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