第三章 ]ーA
「ルッテンベルク軍だ!」
「英雄達の帰還だぞーっ!!」
わぁあああ……っ!
怒濤のような歓声が街中に響き渡り、色とりどりの花弁が真っ青な空と白い石畳に散り広げられていく。
『こんな日が来るなんてねぇ…』
アリアズナは鼻腔を擽る華の香りを楽しみながら、心地よさそうに馬上で瞼を閉じた。
強い陽射しの中で散る欠片が、瞼を閉じていてもちらちらと揺れているのが分かる。
かつて…やはり英雄としてこの街に迎えられた時、宙に舞ったのは色紙の群だった。
野の花ですら蕾が開かなくなり、散らして播(ま)くなんてもってのほかという時代だったのだ。
それがどうだろう?
鮮やかな夏の花が惜しげもなく摘まれて、その花弁を散らしている。
ふと傍らを見やると、緊張気味だったアルフォードのもとに花を一輪持ってきた子どもがいた。
向こうっ気の強そうな…いかにも悪戯坊主といった風情の少年は、どこか挑むようにしてアルフォードに花を差し出す。
鮮やかな黄色い花弁が美しいが、茎の部分を少年が堅く握りしめているためか、やや萎(しお)れている。
少年は、昂然と上向けた顔の割に緊張しているのだろう。
見れば、少し先の建物の陰から興味津々といった顔で、同年代の少年少女が様子を伺っている。
どうやら少年は彼らの仲間で、度胸試しをしているらしい。
もう一つには、幼いながらも《人間》の…それも、《勇者》と呼ばれる男を見定めるつもりもあるのかもしれない。
コンラートは王都にアルフォード達を迎えるにあたって、全ての民に通達を出している。
《来訪する人間勢は我が友軍であり、その待遇については指揮官アルフォード・マキナーを准将級の客員士官として扱い、以下、その部下については…》云々と、帯同している雑役夫の役割まで明確にしているのだ。
実際、アルフォードは降将でも、ましてや捕虜としての扱いも受けていないのは明白で、帯剣を認められている上に騎馬による王都入りを果たしている。彼の部下達にしてもそれは同様で、多少の怯えは見せながらも…どうにか軍隊としての体面を保ちながら歩みを進めている。
だが、真価というものは見てくれで分かるものではない。
想定外の事態が起こったとき、どのような対処をするかで判じられるものだろう。
興味を持って見守るアリアズナ達の前で、アルフォードは確かにその真価の一部を顕すことに成功していた。
ふわりと騎馬から降りると少年と同じ目の高さに屈み、阿(おもね)るのではなく…居丈高になるのでもなく、悠然と礼をして花を受け取った。
少年は満足したように、お日様みたいな笑顔を浮かべて…こちらもその年頃の少年に出せる精一杯の《悠然》とした態度でくるりと背を向けると、仲間達の元へと歩を進めた。
《わぁ…っ!》と歓声を浴びて迎えられた少年は、おそらく小英雄として仲間達から崇められることになるだろう。
『へぇ…なかなかやるじゃないか』
《自然体》というのは意外に難しいものだ。
アリアズナはピュっと口笛を一つ吹くと、アルフォードの健闘を称えた。
「へぇ…」
「なかなか、まともそうな連中じゃないか」
周囲で結構な緊張感を呈していた王都の住人達も、一様に表情を和らげている。
彼らとしても、幾ら尊崇する魔王陛下の通達があるとはいえ、他国の軍…それも、つい先だってまで交戦していた人間を武器携帯のまま受け入れるなどなまなかなことではなかったのである。
だが、幾千の言葉で説得されるよりも、自分たちの目で確認したこの《空気感》の方が雄弁に彼らを納得させたのだった。
これが平均的な人間ではないにせよ、少なくとも自分たちの前になる連中については《血も涙もない》というようなことはなく、品位を持った者たちなのだと…。
* * *
「どーやら良い塩梅(あんばい)になったみたいですね」
「まぁ、このくらいの芸当は見せてくれなきゃ勇者として拙いだろうさ」
王都入りする軍勢を眼下に臨む高台から、望遠鏡を使って観察しているのはグリエ・ヨザックと村田だ。
《禁忌の箱》廃棄の為に忙しく立ち回っていた彼らは、《融和政策》の一環としてあの少年に入れ知恵していたのである。
何しろ、村田としては単に《禁忌の箱》を破壊するだけで事は終わらないのだ。
人間世界と魔族の理解と協調が得られなければ、いくら《禁忌の箱》を破壊したところで世界の状況は変わらない。
眞魔国ではもともと要素の祝福があり、溢れ出てきた創主の力によって制約を受けていた彼らを解放したからこそ、有利の実りの奇跡は実現した。
また、これは実のところ奇跡であって奇跡ではなく、魔族の農民達が根気強く耕し続けた土地だったからこそ一気に芽吹くことが出来たのだ(実際、一揆などで田畑が荒れていた領域では、この奇跡は起こっていない)。
…ということは、実は《禁忌の箱》を破壊しても人間世界に於いてはあの奇跡は起こりようがないのである。
要素の祝福に縁遠い土地である上に、多くの農民達が田畑を放棄して兵士や盗賊になりはてている現状を考えれば、人間世界の復興は眞魔国よりも遙かに困難であり、より多くの苦労を伴うものになる。
村田は別に、それを《気の毒》だと考えているわけではない。
単に《面倒だな》と思っているのであり、有利のことを考えればいっそ《迷惑だ》と思っているくらいだ。
きっと有利は人間世界についても復興の目処がつくまで《何とかして助けなければ》と思うことだろう。
だが、村田としては極力《自分たちのことは自分でやれ》と思っているし、総合的に考えればそれが世界の為でもあるだろう。
かつて眞王に率いられた軍勢が創主を屠った時、人間達は眞王と魔族を称えて友誼を誓い合った。
ところがどうだ…ほんの数百年もしないうちに人間達は恩義を忘れ、自分たちの領域に住んでいた魔族をあらぬ罪で追い立て、異なる領土に住んでいてさえ《呪わしい存在》として認識した。
そこには風習などの相違という面もあったろうが、最大のものは自分たちよりも魔族の方があまりにも優れているとの認識…強い《劣等感》に起因しているのではないかと思う。
村田はかつてグウェンダルに、精神状態の基盤としての《十界論》について説いたことがある。そのうちの《畜生界》にあたるのが、《忘恩の徒》だ。恩を仇で返し、恥じるところがない生命境涯に人間がある限り、何度でも同じ事が起こる。
そうなって貰っては困るのだ。
人間側にも尊厳を持った王に出現して貰い、眞魔国と同等の誇りと自意識を人間に与えて貰わなくてはいけない。
《畜生》ではなく、《仏》の境涯で広い世界を見ることの出来る人材が、どうしても必要なのだ。
『育ってくれよ?勇者君…』
村田の眼鏡がきらりと光り、アルフォードを見つめる。
彼は、傍らで見つめるヨザックが自分をどう見ているか気付いてはいないだろう。
* * *
『きっと、狡いことをしていると思ってらっしゃるんだろうな』
ヨザックは苦笑気味に唇を釣り上げながら村田を見る。
策謀家の村田は同時に偽悪的な部分があり、自分の行動を常に《腹黒い》と考えている。
だが…彼の働きによって達成される現実はどうだろう?
どんな善意の徒であっても成就することの出来ない、《愛と平和》《個の尊厳》が護られた社会になるのだ。
きっと、村田一人であればそんな社会は目指さなかったろうが、彼には力強い《羅針盤》があるのだ。
そう…どんな混迷の大海原にあっても、真っ直ぐに明るい未来を指し示し航路を逸らすことのない《羅針盤》…渋谷有利がいるのだ。
たった一人では単なる策謀家に終わる村田健。
たった一人では単なる夢想家に終わる渋谷有利。
この二人の力が合わさったとき、無限の未来が拓かれていくのだ。
ヨザックは村田から《十界論》についての講義を受けたことはない。
だが、彼は肌合いと天性の勘によって正しく彼らの関係を認識しているのだった。
太陽のような有利が光を失わずに輝いているからこそ、村田は世界を救う方法を示すことが出来るのだと…。
単なる知識である《知恵》を、人を幸福へと導く《智慧》に変えていくのだと…。
* * *
天を舞う花弁に包まれながら、強い存在感を放つ騎影が帰還兵達の前に現れた。
緋色のマントを翻(ひるがえ)し、漆黒の軍服にしなやかな体躯を包むその青年こそ…帰還兵達が待ち望んでいた者だった。
風になびき、獅子の鬣(たてがみ)を想起させる豊かな髪…引き締まった白皙の顔貌に映える琥珀色の瞳…。
凛々しい鼻筋と、少し薄めだが…以前の、そもすれば酷薄とも見られる色が無くなり、悠然とした余裕すら滲ませるその唇。
ああ、彼は…。
彼こそは…っ!
ルッテンベルクの獅子…今や、眞魔国第27代魔王に就任した、獅子王レオンハルト卿コンラート陛下であった。
「お……」
「おおぉぉおおお…………っっ!!
ルッテンベルク軍の男達の体腔内で、熱く弾ける感情の粒達。
縒(よ)り合わさり、火花を噴き上げ…熱く、熱く染め上げられていく想いに、男達は狼の遠吠えにも似た絶叫を上げ、我知らず騎馬から降りると、跪(ひざまず)いて騎士の礼をとっていた。
「立ってくれ…君たちは跪くべきではない」
朗々と響き渡るその声音は慕わしく…そして懐かしい。
以前よりも暖かみと深みを増したかに思われるその声に、《泣かない》と言い張っていたケイル・ポーは《どぅ…》っと瞳から涙を溢れさせていた。
だが、誰も彼をからかう者はいなかった。
誰もが…皮肉屋のアリアズナですら、例外なく瞳一杯に涙を湛えていたからだ。
ゆっくりと立ち上がる男達の前に、コンラートは優雅な動作でふわりと降り立つと、こちらも瞳を潤ませて語りかけてきた。
「ご苦労だった…君達の苦闘の日々に、感謝する…っ!」
右の拳を堅く握り、こめかみに当てるルッテンベルク式敬礼…。
万感の思いを込めて為されるその動作に、兵士達は居住まいを正し…びしりと背筋を伸ばして同じ姿勢をとった。
「コンラート陛下万歳!」
「獅子王陛下…万歳……っ!!」
わぁぁあああああ………っっ!!
ルッテンベルク軍だけでなく、見守っていた観衆…そして、つられて人間達までもが貰い泣きしながらルッテンベルク式敬礼をしていた。
人間達もまた、旅の途上ゆっくりと親しくなっていく過程で知ったのだ。
人間と魔族の間に生まれた混血達が、眞魔国の中にあっても差別と偏見…陰謀のなかで藻掻きながら、この日まで戦ってきたのだと。
ましてや、その当人であるルッテンベルク軍の兵士達に《冷静でいろ》等と言える者は誰もいなかった。
「ご苦労だった。本当に…本当に…!」
コンラートは涙こそ零さなかったが、それでも感情の高ぶりを押さえかねるように言葉を詰まらせながら、歩み寄ってボロ泣きしているケイル・ポーを抱きしめた。
「う…ぅうう…うーっ!…閣下…い、いや…へ、陛下ぁあ……っ!」
泣きじゃくり、喘ぐようにして抱き返すケイル・ポーは、自分の中でほろほろと…この日までの苦労が溶け去り、煌めくものに昇華されていくのを感じるのだった。
『報われた…俺も、みんなも…コンラート陛下も…っ!』
最高の気分だった。
この先どんな苦難が待ち受けていようとも、笑って立ち向かっていけると思うほどに…。
* * *
装備を外し、宛われた宿舎で湯を浴びてからもルッテンベルク軍の兵士達は高揚感のただ中にあり、そわそわうきうきと語り合っていた。
何しろゆっくりと休んだ翌日には、歴戦の勇者達を労(ねぎら)う目的で大規模な宴が催されるのだ。
大規模とは言っても人数面のことであり、この御時世ゆえ山海の珍味を並べるような豪奢を極めたものではないそうだが、兵士達にとっては寧ろその方が願ったり叶ったりだ。
《気取らずに、たらふく食べてガブガブ飲んで褒められまくって綺麗な姉ちゃんにモテまくる》…そんな素敵な情景が今から脳裏に浮かんで、精一杯のお洒落をしようと、普段は野放図な兵士ですら鏡を覗き込んで容貌の確認をしている。
アリアズナなどはもう足取りが弾むようであり、各人に手渡された給金(これは、人間の軍勢にもアルフォードから飯炊きの少年に至るまで、眞魔国軍規に準ずる給与が与えられている)を握りしめて、今にも街に飛び出しそうになっていた。
だが、娼館に駆け込もうとしたその脚がぴたりと止まる。
ウェラー領(ここはレオンハルト領と名前を変えるのだろうか?)には娼館がなく、ルッテンベルク軍にも当然の如く慰安婦のような役割を持つ者はいなかったので、自己処理ばかりしていたアリアズナはそっち方面の欲望が溜まりまくっているのだが。ふと…目にした少年、カールを見た途端に萎えてしまった。
カールが不細工だからではない。
旅の途上で、少々…哀しくなるような交流をしたからだ。
幼い頃に戦乱で親を亡くし、孤児院で育てられたというカールは自分と年少者を養う目的で、軍の中で男娼のようなことをしていたらしい。
らしい…というのは、人間の軍がルッテンベルク軍の旗下に入ってからは、眞魔国軍規を更に厳しくした形のルッテンベルク軍規のもとで扱われるようになり、旅の途上に発覚したこの《男娼》としての役割は消滅しているからだ。
きっかけは、ガリガリに痩せているカールを見かねてアリアズナが夕食の肉を分け与えたところ、夜更けになって寝床にやってきたカールが《肉のお代を払います》といって、服を脱ぎだしたことだった。
アリアズナらしくもなく大慌てで服を着せつけ、事情を聞いてみたところで…思わず泣いてしまいそうな人間世界の状況を知ったのだ。
眞魔国にも幼い子どもが性的な目的で売り買いされることが無いとは言わない。好事家という者は何処の世界にも根深く存在するからだ。
だが…こんなにも痩せ細った子どもが当たり前のように性欲処理に使われているのだと思うと、居たたまれないものを感じてしまう。
自分が抱いてきた娼婦達の中にも、実は望まずしてそのような境遇に身を落とした者がいるのではないかと思うと…なんだか急に哀しくなってきた。
ケイル・ポーが言うように、苦労を惜しまず自由意志で恋の相手を選べる女を口説くべきなのだろうか?
「あー、アリアリさん!」
「あー、よーう…、カール……」
カールの方でもアリアズナに気付いたらしい。たかたかと駆け寄ってきた。
記憶力の悪い彼は人の名前を覚えることが苦手らしく、特に滑舌が難しいアリアズナの名は発音できない様子だ。
『こんな…訳が分かってないような子によぉ…よくまー、色事なんか出来るもんだぜ』
カールの方は自分の身の上についてさほど頓着していないようだが、そんな彼ですら辛かったのだという話を、ぽつらぽつらしてくれたことがある。
前戯などされずに突っ込まれて痛いとか、縛られたり無茶な姿勢をとらされたりすることも辛かったのだけど、何よりも…自分が人として扱われないことが嫌だったのだという。
『《痛い》って言ったら、不思議そうに《痛いのか?》って言われたんだ…』
春の空みたいな瞳を霞(かすみ)がかかったみたいに曇らせて、カールは呟いた。
《痛いのか?》…だと?
痛くないわけがない…!
そんなことを感じる存在だとも思われていないのだという事実が、この痩せぎすの少年を打ちのめしたのだ。
『ああ…畜生…!そいつを出してこい!今すぐ拳骨で死ぬほど殴ってやる!』
苛々してそう叫んだら、ほわりと花が咲くみたいな顔で笑った。
そんなに踏みつけられて育ったのに、どうしてこの子はこんなふうに笑うことが出来るんだろう?
不思議でならなかった。
『俺はねぇ…それでも、愛されてたんだよ?母ちゃんは最後まで俺を抱きしめてくれた。俺を拾ってくれたリーシュラ様も、母ちゃんの死を理解できなくてボーっとしていた俺を抱きしめて、《可哀相だ》って泣いてくれた…』
『でもよぅ…』
《そいつは、お前を売った金で喰ってたんだろ?》…そう言いかけたが、口にすることは躊躇(ためら)われた。
彼を支えているのは、孤児院の仲間に愛され、彼らを支える為に肉体を使ってきたという矜持だ。
それを頭から否定することは、彼の存在とこれまでの人生を丸ごと踏み躙ることになるだろう。
必要なのは、これからどう生きて行かせる事ができるかなのだ。
「…よう、街に出るのか?」
少し離れたところから、幾らか敵意を込めた眼差しが送られる。
孤児院の仲間のマルクだ。きっと、彼はカールが好きなのだ。友達以上の思いで…。
「うん!魔族ってすごいねっ!俺みたいな飯炊きにまでちゃんと給金をくれたんだ!あのね?これで土産を買うんだよ?」
「お前の分は買わないのか?」
何となくそういう気がして聞いてみたら、案の定そのつもりであったらしい。
こっくりと満足そうに頷いた。
「じゃあ、こいつで旨いもんでも買いな」
アリアズナは財布から札を数枚抜くと、カールに握らせた。
娼館で一人、女を抱くのとほぼ等価の額だ。
「え…?でも……」
「そんな鶏ガラみたいな身体はいらねーよ。せめてあっちの野郎位には肉をつけろ。…じゃねぇと、飯炊きの仕事だってままならねぇだろ?いいか?お前は給金を貰ってる以上、軍人だ。立派な兵士なんだ。兵士は、自分の体調管理も出来なくちゃならねぇ!」
最後の方は、アリアズナらしくもなく軍人っぽい口調で威厳をもって言ってみた。
すると、カールは普段のほやほやした顔を心持ち引き締め、背筋を伸ばしてルッテンベルク式の敬礼をした。
「はいっ!アリアリどのっ!」
「おう」
走り去っていくカールの後ろ姿を見ながら、アリアズナは皮肉げに口元を歪めた。
分かっている。これは偽善的な行為であって、何の根本的解決になるものでもない。
だが…。
『コンラートが、きっと何とかしてくれる』
清廉な気質を持つ彼ならば、きっとカールのような哀れな子を同情から一人救うだけでなく、そんな仕組み自体をどうにかしてくれる。
『俺は、そのために戦えるんだ…!』
アリアズナは力を込めて脚を踏み出した。
この一歩一歩が、あの哀れな子ども達を救う道へと続いているかのように…。
『取りあえず、飲み屋の姉ちゃんを必死で口説く…!』
…と、下の処理について強く決意しながら………………。
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