第三章 TーB
「とんでもない事態になってきやがったな…」
「まあ…その分、こちらへ回す余力も無くなってるようですけどね」
眞魔国歴4011年夏の第2月…ウェラー領境界の防御壁にある館の中で、五人の指揮官はそれぞれの表情と心境で諜報員のもたらした報告を聞いた。
大麦を狙って来襲するだろう《敵》を想定してウェラー領に残った面々…ケイル・ポー、アリアズナ・カナート、ベル・マジャンディー、スターリング・ブロイエル、リーメン・ビューゲルは、眞王廟でウェラー卿コンラートが死んだなどという噂を信じはしなかった。
正確には、信じたくなかった。
信じてしまえば彼らに戦い続ける意味はなくなり、ただ生存のためだけに命長らえることは恐怖でしかなかった。
だから、彼の生存を確認するために眞王廟へと諜報員は派遣したものの、その他はウェラー領を死守するのみで対外交渉などといった計画を口に出した者はいない。
しかし…コンラート死亡の報から僅か一ヶ月の間に生じたこの国の激変には、流石に《自分たちはどうしていくべきか》ということについて考えざるを得なくなってきた。
フォンビーレフェルト卿ヴァルトラーナの死に起因するビーレフェルト家の王都への進軍。
それを迎え撃つシュピッツヴェーグ・ヴォルテール連合軍…。
何がどう転んでも惨劇は免れない状況だ。
「フォンクライスト卿ギュンター殿も、コンラートの生存を確かめようとして魔王陛下に食ってかかり、不興を買って拷問に掛けられているとも聞くしな…」
リーメンがそう呟くが、その途中…《死》という単語を言いかけて、《生存》に置き換えたことを指摘する者はいなかった。
「あの麗しい容貌のわりに、侠気のあるお方だったしな…」
「俺だって…直接行って確かめてぇよ…!」
スターリングの慨嘆に対して、ダン…っと杯を机に叩きつけるのはアリアズナだ。杯に満たされているものは酒ではなく、薄くて殆ど味のしない茶なので別段酔っているわけではない。
物資の不足もあって、酔って現状を忘れるような贅沢は今の彼らには許されないのだ。
アリアズナは鮮やかな紅の瞳を釣り上げ、苛立たしげに叫ぶ。
「一ヶ月…あいつの怪しげな死亡報告があってから、一ヶ月が過ぎたんだぞ!?もう、こっちの都合で動き出しても良い頃なんじゃないか!?」
「駄目です。閣下はなんとしてもウェラー領を死守しろと仰いました」
「ああそうさ…奴はそう言い残して行った。だが、永遠にそうしろと言った訳じゃあない!」
ケイル・ポーの言葉にアリアズナが食ってかかる。
そんなことは、ケイル自身嫌と言うほど理解していると分かってはいるのだが…。
そもそも、コンラートが出立する際に子どもっぽいほど駄々を捏ねて引き留めたのはケイル・ポーの方なのだ。
けれど、忠実なこの男は頑として意見を下げようとはしなかった。
自分たちがウェラー軍最後の砦だと自覚しているからだ。
「まずは情報です。俺達が動くのはそれからです」
「それで手遅れになったらどうする!死んでんならまだいいさ。だが、牢獄で俺達の助けを待っていたらどうする。あいつの身体を蹂躙することに好色な興味を持ってる奴はごまんと居るんだぜ!?もう殺してくれって懇願したくなるような陵辱の限りを尽くされていたらどうする!」
びくりとケイル・ポーの肩が震え、顔色は歴然として蒼醒める。
コンラートを敬愛するケイルにとっては一番辛い可能性であるに違いない。
それでも…尚、ケイルは首を振る。
「…駄目です。待ちましょう…!」
「…分かったよ」
残された指揮官の中で最高位に据えられた青年は、年齢としては最も若い。
その彼に、大人げない揺さぶりを掛けたことが自覚できていたから…アリアズナは苦々しい表情ながら一時、持論を下げた。
『畜生…帰って来いよ……っ!』
帰れないのなら、せめてこの宙ぶらりんな状況をどうにかしてくれと、アリアズナはここにいない上官に心中で吠えた。
* * *
王都へと続く街道は荒涼としており、ビーレフェルト軍を引き留める者はなかった。
寧ろ、不気味なほどの静けさにヴォルフラムは不審げに眉を顰めたほどだ。
ヴォルフラムにはこの時節にあって尚、本格的な戦闘の前線に立った経験が乏しい。
そのせいもあって、いままで知識として理解している事柄をどう繋げてみても、この事態がどういう意味を持つものなのか判じかねていた。
「それは、我々の補給線を限界まで引き伸ばす目的があるからでしょう」
ヴァルトラーナの参謀として信頼されていた、バンドゥック卿ハイデンの意見は納得のいくものであった。
報復目的とはいえ、ビーレフェルト軍は自分たちの《正義》を高らかに掲げている以上、進軍中に眞魔国内で略奪行為を行うことはできない。
一時的な《徴発》という形であってもひとたびそれを実行に移せば、シュピッツヴェーグから《略奪行為》として声高に弾劾されることだろう。
しかも、ビーレフェルト軍の得意技は爆発的な突撃力を生かした短期決戦だ。
長い補給線を連ねて王都まで軍を進め、血盟城への包囲戦を展開するだけの兵站を維持できるとは思えない。
王都の前まで来たところで後方は攪乱され、補給線を維持することも物理的に難しくなることだろう。
「フォンヴォルテール卿グウェンダル閣下は腰を据えた長期戦がお得意です。これまでは壕を築いての包囲戦か、国境沿いでの防衛戦しか経験されたことはないでしょうが、血盟城に依って籠城戦を闘うことはそれ以上に容易なはずです。あそこは、おそらく眞魔国に於いて最も豊富な兵站を蓄積している場所ですからね」
「確かに…兄上、いや…フォンヴォルテール卿の参戦は予想外だった…」
ヴォルフラムとしては、当初シュトッフェルを筆頭とするシュピッツヴェーグ軍だけを敵と見なしていたのだ。彼の行状と照らし合わせても、眞王廟の後ろ盾が無くなった今、彼を擁護する者が出てくるとは思わなかったのに…。
挑発行為によって血盟城からシュピッツヴェーグ軍を引きずり出し、《勝利》と呼べるだけの戦果をもって短期間で帰還する…。その策が(策と言えるほど立派なものだったのかと、今になれば反省できるのだが…)、兄の参戦によって大きな変更を余儀なくされた。
長期戦を免れることは困難だろう。
「フォンヴォルテール卿は我々が非道な行為に出ることが不可能であることも十分にご理解しておられるでしょうから、城下町の一般庶民は王都の外に一時避難させ、その分の糧食を軍に回すことも可能です。我らの勝算は、このままでは随分と低いものになるでしょうな」
「そこまで分かっていて、何故正面決戦を選択したのだ?」
苛立たしげなヴォルフラムの追求を、ぴしゃりとハイデンは退ける。
「私は反対したはずです。お決めになったのはあなたを初めとするビーレフェルト家の皆様であったことをお忘れですか?」
慇懃な言い回しながら、言葉の端々には明確な怒りが潜んでいる。
彼は高い能力を持つ分、矜持も高く…実践経験に乏しいヴォルフラムが自分の頭上に立つことに不快感を覚えていることは間違いない。
確かに一度は反対説を唱えながらも、感情的に主戦論を唱えるヴォルフラム達を積極的には止めなかったところから見て、《せいぜい軽い被害で失敗するが良い》との想いがあるのかも知れない。
その事を不誠実だと詰(なじ)ろうとしたが、ビーレフェルト家での会議の席では舞い上がっていたヴォルフラムも幾らか冷静さを取り戻した頭で考えると、この計画を予定通りに進めていけばハイデンが何ら妨害などしなくとも、彼の思惑通りになることに気付いた。
このまま進軍していけば、王都を囲む塀くらいは投石機で破壊することが出来るだろうが、数日も保たないうちに糧食を食い尽くして撤退することになるだろう。
それでは…単に恥をかきに行くだけではないか。
その自覚が、ヴォルフラムの自尊心を何とか現実に沿わせようとした。
「バンドゥック卿…若輩である僕に対して含むものがあることは理解できる。だが、ことは家名に関わることだ。ビーレフェルト家の血縁であるあなたにも、その名誉が損なわれることは不本意なことではないのか?」
「私にどうしろと?」
「…策を、立てて頂きたい」
苦虫を噛みつぶしたような顔でヴォルフラムが依頼すると、バンドゥック卿ハイデンは暫く何かを考えるように沈黙していたが…主が忍耐の限界を示すように苛々と手を握り始めると、ウェーブの掛かった金色の髪を掻き上げながら満足げに微笑んだ。
「…僭越ながら、幾らか意義のある策を立てましょう」
壮年に入る年代の美麗な男に、ヴォルフラムは奥歯を噛みしめる。
『僕は、何をしているんだ?』
自問すれば、自覚したくない《理由》が脳裏をちらつく。
主要な理由は《ビーレフェルト家の名誉》を護ることに他ならないし、その事については誰に対しても堂々と宣言することが出来る。
だが…ヴォルフラムには、この戦いにあたってビーレフェルトの面々には決して言えない《目的》を一つ持っていた。
それは、ウェラー卿コンラートの生死を確認することだ。
シュトッフェルは今なお眞王廟が荒廃の中にあることを隠蔽しようと躍起になっており、コンラートはそこで死んだと強弁している。
だが、ヴォルフラムにはコンラートの死が信じられなかった。
眞王廟では信じがたい光景を目の当たりにした衝撃で、《あるいはコンラートも》…と、その死を肯定し掛けたのだが、思い返してみればあの不気味な物体の動きは極めて緩慢であった。
積極的に近寄っていった兵はともかくとして、腰を抜かして発狂していた兵は回収することが出来たのである。
幾ら警備兵によって手負いになっていたとしても、あのウェラー卿コンラートがそうそう後れを取るとは思えない。
『シュトッフェルを誅して眞王廟の探索を十分な準備の元に行えば、コンラートの生死も確認できるのではないか…』
ヴォルフラムの切ない望みが達せられるのかどうかは分からない。
その前に、尊崇する兄が立ち塞がっているのだから…。
* * *
王都へと帰還する途上、グウェンダルは急報に目を見開いた。
国境の戦地に到着する寸前に呼び戻されたヴォルテール軍は、王都まで長い経路を辿る必要があった。
バンドゥック卿ハイデンにも指摘されたとおり、グウェンダルとしては血盟城に依って籠城戦を展開し、その間に使者を送るなどしてヴォルフラムと交渉するつもりでいたのだ。
正面決戦を何とか回避し、互いの間に落とし所を捜して亀裂を最小限に食い止めようと考えていたのだが…その思いはまたしても弟によって踏みにじられることになる。
ビーレフェルト軍が突然進軍速度を増し、王都とヴォルテール軍の間に立ち塞がろうとしているのだ。
兵站を運ぶ馬車などを後方に残したまま、騎兵が各自持てるだけの糧食を積んで不眠不休で爆走しているらしい。
何が何でも短期戦に持ち込み、籠城戦に入る前に《戦果》と呼べるだけのものを毟り取ろうというのだろうか?
その結果、ヴォルフラムは何を得るつもりでいるのだろうか…。
下手をすれば王都の前に広がる平原に於いてビーレフェルトとヴォルテールの二大軍団が主力部隊を壊滅させ、眞魔国には強力な軍団が不在になる恐れがあるのだ。
そうなれば、眞魔国の実りを狙ってきた近隣諸国は好機を逃さず牙を剥くだろう。
いや…今現在、まさに国境は窮地に立たされているのだ。
防衛戦が崩壊しそうな危機にあるからこそ、グウェンダルに派遣命令が下ったのではないか…!
『馬鹿者め…っ!』
弟の人形のように整った顔を殴り飛ばして、叱ってやりたい。
そして…ビーレフェルト家の馬鹿者揃いの中ではなく、自分の膝元で育んでやりたい。
人形ではなく、真の武人となるべく育ててやりたい…!
『初めから…そうしていれば良かったのだ…!』
ギュンターに何度も諭された言葉が蘇る。
『グウェンダル。周囲がいつか変わることを期待してはいませんか?まず、あなたが変わらなければ世界は変わっていかないのですよ?あなたは…この国にとって最も重要な人物になり得る、三兄弟の長子なのですから。まずあなたが弟たちに声を掛け、手を伸ばしていくべきなのです』
後悔しても始まらないが、グウェンダルには嘆くほか無い。
いや…せめてもの抵抗をしてみようか?
こちらも進軍速度を高め、ビーレフェルト軍よりも早く王都入りを果たすのだ。
『そうだ…こうなったら、何としてもヴォルフラムより先に王都入りを果たさねばならん』
そしてヴォルフラムとの交渉の中でシュトッフェルを追求し、コンラートの行方を…そうだ、ギュンターの状況も尋ねなくてはならない。
ギュンターはコンラートの生死をシュトッフェルに問いただそうとして逆鱗に触れ、監禁状態にあるとの報告があった。
「各師団長を呼べ…!」
「は…っ!」
部下に号令を掛けた後…つい反射的に《あの男》の名を呼びそうになる。
グリエ・ヨザック…彼が今ここにいてくれれば、迅速に単独行動をとり、効果的な動きが出来たのではないだろうか。
たとえばシュトッフェルの懐を探り、コンラートの生死に関する決定的な事実を掴んでくるとか…。
しかし、彼はコンラートがシュトッフェルの罠に落ちかけたとき、彼を救うためにヴォルテール軍から離脱しており、噂ではコンラートと共に眞王廟で消息を絶ったと聞く。
『グリエ…くそっ!必要なときに居ないとは、お前らしくもない…』
腹立たしげに枯れ草を蹴り、グウェンダルは別の諜報員を呼んだ。
グリエ・ヨザックには及ばぬと分かっていながら指示を出すことを、苦々しく感じてはいたがどうにもならない。
『何処にいるのだ…グリエ、コンラート…!』
王都に向けた視線の先には、その答えとなるものは映っていない。
そこにあるのは乾ききった大地と、飼い葉にもならない枯れ草の群だけであった…。
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