第三章 TーA
眞王廟からヴォルフラムが伯父の亡骸を運び出していたその頃、血盟城には十貴族の一員である男が来訪していた。
「執政殿はまだ来られぬのですか?」
「申し訳ありません、今暫くお待ちを」
血盟城の来賓室において、美麗な菫色の瞳を苛立たしげに釣り上げながら声を荒げているのは、柔和な見た目の割りに気が短いフォンクライスト卿ギュンターであった。
彼は一ヶ月前、眞王廟でウェラー卿コンラートが消息を絶ったという報を受けてからというもの、何度も書状を送っては事の次第をシュトッフェルに問いただしていた。
しかし、返答らしい返答がやってくるはずもなく、《直接伺う》という要望も一方的に蹴られてきた。
《埒があかない》…とうとう痺れをきらしたギュンターは、約定も取り交わさないまま直接来訪することにしたのである。
直接会ったからと言って、あの瓢箪鯰のような男が正直に事実を話すとは思えないが…。
『けれど、何らかの形で糸口でも掴むことが出来れば…っ!』
ギュンターは爪が食い込むほどに指を組み合わせ、唇を噛みしめてコンラートを想った。
『あなたが、死ぬはずがない…!』
ウェラー卿コンラート…彼は一種天才的な男だった。
慎重で…勇敢でありながら狡猾な部分も持ち合わせたあの男が、そんなに簡単に死ぬはずがない。
少なくとも、死んだかどうだか分からないような中途半端な末期を遂げるはずがない。
そんなことは許さない。
『万が一、死んでいるのだとしたら…』
その可能性を考えれば、ぶるりと背筋が震えるのだけれど…。
『必ず、私があなたの同胞達の元に亡骸を運んであげます…!』
報告の通り眞王陛下に誅殺されたのか、噂の通り血盟城の地下深くで拷問死しているのか…そのいずれでもないのかは分からない。だが、可能な限り生前の姿に戻して、彼が最も愛していただろう大地…ウェラー領に還してやりたい。
あるいは、その死の詳細を同胞達に伝えてやりたい。
『いいえ…死んだことを前提に考えるなんて、気が弱くなっている証拠ですよ!生きてます…あの子は、きっと生きていますとも…!』
きゅ…っと唇を噛みしめて、ギュンターは己の心を鼓舞した。
コンラートの消息については、兄であるフォンヴォルテール卿グウェンダルとも話をした。
彼もまた信じているのか…信じたいのか、弟の死については疑問視していたから、ギュンター同様シュトッフェルに詳細な報告を求めて書状を送り続けていたようだ。
しかし、《魔王陛下の勅令》という形で国境防衛戦の指揮を命ぜられた彼は、殆ど強制的に配下の軍を率いて最前線に出向くことになったのだった。
『コンラートを…頼む』
出立に際して、言葉少なに…けれど、溢れ出してしまいそうな感情をぎりぎりの所で耐えながら呟いたあの男の表情を、ギュンターは忘れることが出来ない。
深い愛情を持っているのに、いつも大切なところで弟を護れないことへの悔恨…怒り…そういった感情が綯い交ぜになって、爆発しそうなのを耐えているようだった。
いっそ爆発してしまえばいいのに…とも思う。
だが、十貴族の一員…それも、精強なヴォルテール軍を擁するグウェンダルが執政に対して牙を剥くことは、彼個人のみならず、その家門とシュピッツヴェーグ家の諍いにも発展することになる。
《今は内乱などしている場合ではない》…切羽詰まった国の状況を想うからこそ、グウェンダルは大胆な行動に出ることが出来ないのだ。
なお、クライスト家は伝統的に優れた剣士や参謀なども排出しているのだが、《禁忌の箱》暴発後には比較的早期から防衛戦に組み込まれていた為(シュトッフェルの計略めいたものをひしひしと感じていたわけだが)、もはや疲弊して軍団としての規模は為しておらず、師団…下手をすれば旅団クラスの規模にまで縮小されている。
それ故に、ヴォルテール軍に比べるとシュトッフェルの監視や警戒も薄い状況にある。
よって、ギュンターがシュトッフェルに噛みついても《十貴族同士の正面対決》というほどの緊張感を持たれる心配はない。
その分、ギュンターが舐められてしまうという切ない状況にはあるのだが…。
こうして、来訪したにも関わらず一昼夜放置されているところから見ても、どれほど軽視されているか分かるというものだ。
「…くそっ!」
玲瓏な顔立ちに似合わぬ、口汚い言葉を吐いてティーカップに悲鳴を上げさせていると、扉が叩かれて漸くシュトッフェルが姿を現した。
「やあやあ、ご足労頂き光栄至極…。麗しのフォンクライスト卿に、こちらがお願いしたわけでもないのにご訪問頂いたというのに、何のおもてなしも出来ず失礼致しました」
慇懃無礼を絵に描いたようなシュトッフェルの物言いに、ギュンターは内心怒り筋を浮かべながらも優美な礼をとった。
「執政殿にはご機嫌麗しく…。この度は、約定も取り付けずの急な来訪をお許し下さい。お忙しい執政殿のお時間を長く割いては申し訳ありませんので、単刀直入に申し上げる。ウェラー卿コンラートに、会わせて頂きたい」
シュトッフェルの、頭髪よりは幾分濃い色彩の眉がぴくりと跳ねた。
「おや…妙な事を言われる。軍師として名を謳われるギュンター殿が、あの男がどうなったのかご存じないとは思えませぬが?」
「噂だけは存じております。ですが…眞王廟で消息が失われたというだけでは、到底彼の死を信じるには足りません。彼が死んだと言われるのであれば、その遺骸に会わせて頂きたい」
「困ったことを申される…。あの逆賊は偉大なる眞王陛下に誅殺されたのですぞ?その遺骸など、おそらく微塵に砕かれておるのでしょう…。遺骸を晒せと仰るのなら、私としてもその首を血盟城の城門にでも掛けておきたいぐらいですからな…!ははは…お互い、残念なことですな!」
カァ…っと込み上げてくる感情に、普段は優しい色を湛えた菫色が燃え立つような焔の色に変貌する。
「逆賊、ですと…?」
『真に国を憂い、貴様の卑劣な罠によって冤罪を掛けられてもなお、眞魔国防衛のために奔走していたコンラートを、貴様如きが逆賊と呼び、首を晒すというのか…!』
叫んで、掴みかかってやりたい。
だが…そうした瞬間、ギュンターは彼が所属する家門全てに大きな影響が出ることを認識していた。
国の英雄として称えられたコンラートが、この男の罠によって逆賊と呼ばれる身に墜とされたくらいだ。権勢において劣るクライスト家など如何様にも料理されてしまうだろう。
怒りを噛み殺しながら、何とかして情報の糸口を得ようと思考を展開していたギュンターだったが…その時、思いがけない人物と眼があった。
「…魔王陛下…っ!」
窓の外…中庭の花壇の前で馬車から降りてきたのは、華麗なる魔王陛下ツェツィーリエであった。
かつての天真爛漫さは幾らか失われたものの、何処か退廃的な影を滲ませた姿は多くの男達の心を掴んで離さない。
だが…幾らか例外はあるものだ。
ギュンターは、麗しいけれど王としての自覚を欠片も持ち合わせない魔王陛下を憂慮をしており、ツェツィーリエもまた口煩いこの男を嫌っていたのだ。
もともとは《気が合わない》という、ささやかな軋轢に過ぎなかったのだが、コンラートを巡る思いの食い違いから、その摩擦は年々強化されていた。
それでも、彼女はコンラートの母だ。
『今までは母として何らあの子に為すことがなかったとしても、死んだかどうかも分からないというこの状況であればあるいは…!』
「失礼…!」
「お…フ、フォンクライスト卿!?」
シュトッフェルの脇を素早く擦り抜けると、ギュンターは中庭に向けて直走った。
これほどの俊足を見せたのは士官学校で教官を務めていた時分以来だ。
「魔王陛下…!」
「ま…あ、ギュンターではないの。どうしたの?そんなに息を切らして…」
取り巻き連中に旅の疲れを心配されていたツェツィーリエは、先程までうっとりするような笑みを湛えていた顔に、如何にも《嫌い》と言いたげな渋面を浮かべてみせる。
しかし、ここで引き下がるわけにはいかない。
「君、魔王陛下に対して突然の声を掛けるなど…それも、華のように繊細なこの方が長旅の疲れに倦んでいるときに声を掛けるなど、無礼ではないか」
ツェツィーリエに対する忠心は間違いなさそうだが、それ以外に対する興味や関心が薄そうな美しい男が間に割ってはいる。
直接は声を出さない面々も、麗しの魔王陛下を護るようにギュンターを取り囲んだ。
「失礼しました。けれど…どうしても伺いたいことがあるのです」
「まあ…何かしら?面倒な事でなければいいのだけど…。あなたのお話って、いつもくどくて私を疲れさせるんですもの…」
ふわぁ…っと浮かべた欠伸さえ、この女性が浮かべると大輪の華が広がるようなはなやぎがある。
「ウェラー卿コンラートのことです」
ぴく…っとツェツィーリエの長い睫が震えた。
「彼は、本当に眞王廟で亡くなったのですか?陛下は、それを確認なさったのですか…!?」
「あなたったら…何故私をいつもいつも、そのように苦しめるの!?」
勢い込んで問うたギュンターに対して、ツェツィーリエは一方的に苛められた少女のように拗ねて、潤んだ大きな瞳に真珠のような涙粒を浮かべて見せた。
「酷い…なんて酷い人!コンラートの裏切りと死に、私が傷ついていないとでも思って!?」
「貴様…何ということを!恥を知れ…!」
ツェツィーリエと取り巻きに罵倒されながら、ギュンターの頬からは血の気が引き…膝から下がぐずぐずに崩れていきそうになった。
『この方は…ご自分の事だけを考えておられるのだ…』
自分の息子が裏切りを為すような子かどうかを確かめることも…
死んだかどうかを確かめることもせず、
ただただ辛いこと、苦しいことから目を背けて…自分だけの幸せな花園の中に浸っていようとしているのだ。
「あなたの…息子なのですよ?」
ギュンターは、発した声が震えていることで…初めて自分が泣いているのだと気付いた。
『可哀想に…可哀想に、コンラート…!』
コンラートは家族を愛している。
ギュンターは、それを知っている…。
だからこそ、悔しさと哀しさで涙を止めることが出来ない。
「あなたを慕い、あなたの治世に尽くそうと…どんなに非道な扱いを受けても耐えて耐えて…あなたを愛し続けたあの子に、あなたは一欠片も報いるつもりがないというのですか…!?」
「ま…っ!」
ツェツィーリエはなおも何か言い返そうとしたようだが…この時、初めて取り巻き連中の間から覗き見たギュンターに心を揺すられたようだった。
「ギュンター…あなた……」
「何故、現実を見据えようとなさらないのですか…!?あなたの名を叫びながら戦場で死んでいく兵士達に心及ばぬというだけでも、国母たる陛下としては問題がおありになると言うのに…ましてや、コンラートは御自分の血を分けた子ではありませんか…!間違いなく魔王陛下の嫡子でありながら、混血と詰られ…貶められるあの子の苦悩や哀しみを分かろうともせず、どうしてご自分だけの愉しみに耽ることがおできになるのですか…!」
滂沱の涙を流しながら、ギュンターは叫んだ。
喉奥に滲む、鉄臭い味を感じるほどに。
「何故、死んだというのなら…せめて遺骸だけでも探し出して、抱いてあげようとは思われぬのですか…!あなたに、母たる資格などない…!」
「ギュンター……」
このような叱責を正面から受けることなど、今まで無かったのだろう。
ツェツィーリエは涙を止め…何かを言おうとして口を開き掛けたのだが…
「その無礼者を引っ捕らえよ…!」
シュトッフェルの声が空を裂くと、様子を見守っていた衛兵達が涙に暮れる美貌の大貴族を押さえ込み、縄を掛けた。
ギュンターは、抵抗はしなかった。
この程度であれば、個人的な罪としてギュンター一人が罰せられるだけで済む…そういう計算もあったが、それ以上に大きな絶望感が彼の体腔を満たしていた。
『この国は、もう駄目だ…』
こんな王と執政とが権力の座にある国が、今日この日まで過酷な世界状況の中で権勢を維持してきたのが誰のお陰なのかも分からず、現実から逃避し続けている国が…保つはずがない。
『滅びるのだ…何もかも……』
ただ、この状況の中で残していくことになる友のことだけが心残りではあった。
『すみません…グウェンダル』
戦場に赴く途上であろう友に、ギュンターはちいさく詫びた。
* * *
グウェンダルがその友たる男の報を受けるのは、暫く時間が経過してからである。
それは、彼が戦場に向かう途上にあったからではない。
戦場が、変更されたからだ。
「何だと…?」
グウェンダルは紅鳩便によってもたらされた急報に愕然とした。
発信元は血盟城…シュトッフェルであったが、そこに記されていたのはギュンターのことではなかった。
『計画を変更し、急ぎ王都に帰還せよ』
国境線に関わる、急を要する戦力投入だというから急ぎ軍備を整えたというのに…その途上にあって方向転換を要求してくるとは一体どういう事なのか…。
実際、グウェンダルの調べでも国境は極めて危険な状況にあり、下手をすれば戦線が崩壊し…一気に略奪の手が伸びるという報告が為されていた。
だからこそ、文句も言わずに準備を整えたというのに…。
『何を考えている?あの男…』
グウェンダルにその答えと思しき事実を突きつけたのは伯父ではなく、王都へと向かう途上…諜報員の一人が寄越した報告だった。
それによると、眞王廟にコンラートの死の真偽を調べようと踏み込んだヴァルトラーナが警備隊の手に掛かって死亡し、更には…眞王廟がもはや神聖なる眞王陛下の魂の住処ではなく、不気味な怪現象の潜む巣窟と化していることが明らかにされ、市井に報じられたというのだ。
『眞王廟は混沌の中にある』
『もはや眞王陛下の威光は失われ、魑魅魍魎が跋扈する眞王廟に叡智の光が差すことはあるまい』
『我々ビーレフェルト家は、この事実を秘匿した上に先代家長ヴァルトラーナを死に至らしめたシュピッツヴェーグ卿シュトッフェルを、これ以上執政の座に置くことは許さない』
それが、ビーレフェルト家督を継いだヴォルフラムが発した宣言であった。
『馬鹿者…!』
その報を受けた途端、グウェンダルが叫んだのは弟と伯父…どちらに対してだろう?
ある意味、その怒りと嘆きは弟に対して大きく感じられたかも知れない。
《眞王廟は力を失っているのではないか》…その疑念は、グウェンダルの中にも以前からあった。
だが、同時にそれを明らかにする事への畏れもあった。
『今…あのような魔王陛下と執政であってもどうにか国としての枠組みを保ち、十貴族の反乱を防いでいるのは眞王陛下の御威光によるものだ』
それがなくなれば、十もの大貴族がそれぞれの思惑を持つこの国など一溜まりもない。
それぞれが勝手に《国を想い》行動すれば、一国として規律をもった行動などできよう筈もなく、激しい内乱の中でこの国は滅びるだろう。
『何故…市井に知らせる前に、私に相談しなかった…!』
それが悔やまれてならない。
グウェンダルがシュトッフェルよりも先にその事実を知らされていたならば、そのことをもって彼を操縦し、この国を今よりはましな状況に導くことも出来ただろうに…。
『ヴァルトラーナか…』
彼は、最悪の時期に最悪の形で死んだのだ。
彼がそもそも存在しなければ、長兄を慕うヴォルフラムは何を於いてもまずグウェンダルに相談を持ちかけただろう。
彼が死ななければ、それなりにこの国の形は維持されただろう。
だが…そのどちらもが失われた。
熱しやすいビーレフェルト家は復讐を果たすまでその怒りを収めることはないだろうし、こうなってはシュピッツヴェーグ家としては、戦場の雄と謳われるヴォルテールの力を借りないわけにはいかない。
そう…王都への帰還とはすなわち、《兄弟相伐て》という残酷な命令に他ならないのだ。
『シュトッフェルの権力を保つために、弟を殺せと言うのか…!』
堪えようのない怒りが込み上げて報告書を握りつぶすが、その内容まで消去できるとは思っていない。
弟の怒りはよく分かる。
弟に、荷担してやりたい。
だが…兄弟揃って執政に剣を向けることは、母であるツェツィーリエに背くことと同義なのだ。
しかも、《眞王廟は力を失った》との報を受けては他の十貴族も黙ってはいまい。
国境沿いの地味な防衛戦などにかまけている間に、精強な兄弟軍が王権を奪取するという恐怖を与えれば、それを防ぐために王都へと反転してくる恐れがある。
それでなくとも危機に瀕している国境線はたちまちの内に瓦解するだろう。
グウェンダルは…国を思うからこそ投げ出せないものがある。
たとえ死に瀕した国家とはいえど…その枠組みを一日でも長く保つために、グウェンダルは最愛の弟を伐ち、自分に国家を私する気はないのだということを十貴族に向けて証明せねばならないのだ。
『ヴォルフラム…!』
血を吐くような叫びが、グウェンダルの胸腔内に木霊した…。
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