第二章 ZーB 『何故…アンシアが跪き、赦しを請わねばならない?』 ヴェローナ卿アンシアがこんな下衆に、《出過ぎた真似をして申し訳ありません》と謝罪するのか? 能力によって登用される自信も才覚もなく、財力と地位にものを言わせて栄達しようとしている宴客どもの中で、おそらくは唯一…眞魔国と民の幸福を念慮している女が、何故跪かねばならないのだ? 不意に、甥の…ヴォルフラムの言葉が脳裏を過ぎった。 『僕は、とても愚かでした…』 本当に、価値を見いだすべきは裸一貫の生命体として、どれだけの叡智を持つかということであったのに…ずっとずっと長い間、自分はその事に盲目であったのだと…。 愛しい人と結ばれなかった理由はそれだけではなかったけれど…それでもやはり、自分は有利に愛を囁く資格など無かったのだと…。 『私にはあるのか?アンシアに愛を囁く資格が…』 愕然とした。 これまで何度も劇的な舞台を設定し、およそ女と生まれた者であれば心ときめかずにはいられないような状況を作り上げて求婚を続けてきた。 そして、必ず囁いたのだ。 『アンシア、私と結婚してくれ。君は…十貴族の一員となるのだ』 どうして…気づかなかったのだろう? その言葉を口にする度に…アンシアの瞳が哀しげに眇められるということに…。 ああ…あの言葉を吐くたびに、ヴァルトラーナはアンシアに対して《お前はまだ私よりも下位にいる女だ》と告げていたようなものだったのではないか。 『愚か者は…私だ…!』 雷に打たれたかのような衝撃が我が身を貫くと…後は勢いよく身体が動いた。 アンシアの細腰に腕を回してその身体を抱き上げると…ふわりと広がった紫紅色のドレスが翻り、豪奢な華のように彼女を見せた。 そして、ヴァルトラーナは氷雪のような瞳でシュトッフェルを睨め付けたのだった。 「君は、我が妻となるべき女性を跪かせるに足る男ではない。それでも…長い付き合いを考慮して、一つだけ助言しておいてあげよう」 「な…な、な……」 顔色を白黒させて狼狽える男に、ヴァルトラーナは鮮やかな微笑みを残すと…小気味よいほど切れのある足取りでその場を後にした。 シュトッフェルとその取り巻きとを、絶句させる捨て台詞を残して。 「シュトッフェル…君は、その度量に応じた地位に満足することだ。さもなくば、無様な反逆者として歴史に名を刻まれることになろう…」 その言葉はシュトッフェルにとって耐え難い屈辱であるとともに…その企みに盟友と仰ぐつもりであったヴァルトラーナの助力が寄せられない事を、その勢力の前で言明されるという致命的な発言でもあった。 油断し切っていた頚を、匕首で掻き斬られるようなものだ。 『ヴァルトラーナ殿は、シュトッフェル殿を見限られた…!』 宴客達の殆どは、その日…シュトッフェルに対する見解を新たにした。 彼は過去から蘇ろうとしたが…結局は、再び過去のものへと戻っていく存在なのだと…。 * * * 「その夜…アンシアは私の求婚を受け入れてくれたのだ」 ふぅ…っと吐く息は酒気を帯び、熱い。 蘇る想いがそうさせているのだろうか? 「そんなことが…あったのですか……」 ヴォルフラムは伯父の恋物語よりも、恐るべき告発の方に慄然として…秋の深まりのためだけではない寒気に背を震わせた。 ヴォルフラムが知る情報では、ヴァルトラーナはシュトッフェルが摂政の座から滑り落ちた段階で、彼を見限っていたものとばかり思っていた。 実際、会議や宴の席で彼らが親しげに言葉を交わす情景はあまり見られなかったからだ。 だが…グウェンダルが統治する時代、シュトッフェルのヴァルトラーナ懐柔策が効を奏していれば、眞魔国は大貴族同志相打つという大規模な内乱に晒されていたかも知れないのだ。 眞魔国の治世が安定し、外交もスムーズに行われていたとはいえ…大シマロンを初めとする反魔族派もそれなりに権勢を保っていたというのに、そんな内乱が長期化していたら一体どうなったことだろう? 『考えたくもない…』 有利が命を賭けて護ったこの眞魔国が…血と泥濘に穢され、踏みにじられていたかも知れないなんて…! 「あれから…私は、今までの自分を振り返るようになった。…というより、客観的な視点から物事を見るようになったのだ」 「その結果が…今日の提案というわけですか?」 「そうだ…」 ヴァルトラーナはアンシアの肩へと腕を回し、その胸元に額を寄せていく。 瞑目するその表情は、妻に及ぶかも知れない危険を何とか回避できるようにと祈っているように見える。 「提案は受け入れられた。それで十分だ…。ヴォルフラム…今宵の話は酒席での戯れ言として記憶の中だけにとどめ、他に漏らすな」 「何故です?この機に、シュトッフェルを完全に処分しては…」 手を切ったとはいえ、十貴族同士の哀れみから庇い立てをしているのではないか…そう感じて憤るヴォルフラムに手を翳すと、ヴァルトラーナは大人の余裕を見せて制止する。 「焦るな。今はまだ…早い」 「何故です。既に何年も経過しているのでしょう?時間が経過すればするほど立証が難しくなって行くではありませんか」 「だから焦るなと言っている。ふふ…成長したとはいえ、やはりお前は直情的だな…」 「あなたにそう評されては、ヴォルフラム様も不本意でしょうね」 くすくすと銀の鈴を転がすような声が、大人の女の艶をのせて響くから…ヴォルフラムはつい頬を染めてしまう。 「ヴォルフラム…時代は変わる。ユーリ陛下が戻られればその動きはより迅速なものになるだろう。ただし、変化には必ず軋轢が生じるものだ。その変化によって得をする者がいれば、必ず損をする者が出てくるからな」 「伯父上…まさか……」 「私はこの国を愛している。私なりにな…。だからこそ願うのだ…変化が不可避のものであるのならば、その時…流される血が最小限度のものであることを」 《損をする者》とは、現制度に於いて特権を所持する貴族のことではないか。 この男は、十貴族制度が無くなることを…あるいは、貴族制度自体が形骸化していくことを予測しているのではないか? ヴォルフラムは有利から、ある程度それに近い話を聞かされたことがある。 彼が住む地球では殆どの国で貴族という存在が失われるか、肩書きだけのものになっているそうだ。 だが、その変化は過激な反乱として国中をひっくり返すような戦いに展開していったことが多く、そこを周囲の国につけ込まれて属国化した例も多いのだという。 また、その後成立していった《民主主義》体勢の中でもやはり格差は現れ、差別の根絶には至っておらず、制度の限界は厳然として存在する。 『そっくりそのまま俺の世界の仕組みを持ち込めばいいってもんじゃないと思う。眞魔国には眞魔国の良いトコかがいっぱいあるわけだし、そこはちゃんと残していきたい。それでもね…俺、時間が掛かっても良いから…ヤナとこは変えていきたいんだ。少なくとも、混血とか人間とか…そういうもので無条件に差別されるような現実だけは、絶対に変えたいんだ』 その為に…有利は、《最後の王》になりたいのだと言っていた。 制度が十分眞魔国に行き渡ったところで、民の代表に為政者の座を渡すのだと…。 流石に衝撃的すぎるその考えを知る者はごく僅かだ。 ヴォルフラムやグウェンダルなどは、打ち明けられたものの…執拗に反対し続けている。 王政・貴族制の弱点…能力によらず、眞王の指名ないし家名によって高い地位に就くという弊害は確かにあるだろう。だが、ヴォルフラムは貴族としての誇りを失いたくはないと思うのだ。 《全ての民が平等》というのは聞こえは良いが、民は誤解しないだろうか?《平等》という利益を得ることのみに目を惹かれ、それと背中合わせの負債…《責任》も負わなくてはならないのだということに気付かないのではないか? そして気付いたとき…彼らは自らの選択でその《平等》を放棄するのではないだろうか。 『僕は、貴族としてこの能力と精神とを鍛えてきた。だからこそ領民に対して責任を持つし、領民にその責任を肩代わりさせようとは思わない。彼らは僕に奉仕するかわりに、僕に守護されるという《権利》も持っているのだ』 始めてみれば分かると思うが、領土を収めるというのは煩雑で面倒なことの方が多いのだ。いままでそんな責任を負う立場になかった商人や農民が、持続的にそんな負債を負い続けることに果たして耐えられるのだろうか? しかも、有利はおよそ考え得る最高の王だ。 世界滅亡の危機を回避した最強の救世主にして、希有な双黒を持つ美貌の王…。 有能な臣下を心から服従させ、心優しく気さく。 こんな王を廃して、誰が面倒な政治に関わりたいと思うだろう? そんなことより、なるべく長く有利に統治を続けて欲しいと願うのではないだろうか? 『僕は、その為に必要な手立てを講じることには労を惜しまないが…ユーリが本当に望むこと…《王政廃止》に協力はできない……』 ヴォルフラムの表情が苦い思案に沈んでいることに気付いたのだろう。ヴァルトラーナは身を起こすと、真っ直ぐに甥の碧眼を見詰めた。 「ユーリ陛下とお前の未来図にはまだ合致せぬ点が多いようだな」 「はい…残念ながら」 「いや、悪いことではないだろう。なにもユーリ陛下の考えが絶対的に正しいわけではないだろうし、おそらく…陛下自身、なさりたいことと現実の間に挟まれて悩んでおられる面はあるのだと思う。だとすれば、お前の役割は《貴族として》ユーリ陛下の案に具体性を与えることだろう。お前には出来るはずだ…私を、説得できたのだからな」 ヴォルフラムは、はっとして伯父の瞳を見返した。 おそらく、ヴォルフラムの発言は有利に煙たがられるだろう。 全面的支持に比べて反対意見を根強く主張する者は、どうしたって面倒な存在になるのだから。 けれど…その役割は絶対に必要なのだ。 何故ならヴォルフラムは有利を愛しており、その想いに一片の曇りもないことを有利自身知っているからだ。 そうであればこそ、ヴォルフラムは陰に回って反逆を企てかねない《貴族としての発想》が出来る。どうすればその反逆の芽を事前に取り除き、懐柔することが可能なのかも分かるだろう。 血気に逸って、《反逆者》として粛正をして回れば反対勢力はどんどん地下に潜伏していき、大義名分よりももはや《反抗し続けること》そのものが目的化してしまう危険性がある。 そうさせてはならないからこそ、ヴァルトラーナは過去の《内乱》を蒸し返すことを止めたのだ。 『僕は、そういった意味でユーリにとって必要な人材になれるだろう』 瞳に浮かぶ静かな歓喜に、ヴァルトラーナはにっこりと微笑んだ。 この男にしては珍しいほどの、曇りのない笑顔であった。 「待つのだ、ヴォルフラム…。ユーリ陛下を支えたいと思うのなら、じっくりと腰を据えて学び…己を鍛えろ。変化の時を迎えるとき、陛下をお支えするのだ。それが…愛する者への最上の奉仕だ」 「……分かりました…」 ヴォルフラムは敬服して頭を垂れた。 この伯父がやはり、尊敬に値する男であったことに深い感激を覚えながら…。 「それにしても…伯父上がそんなにもユーリを認めているとは思いませんでした」 「ああ、認めてはいる。だが、敬愛しているのとは違うから私の前で陛下を賛嘆するのはやめてくれ」 「はぁ…」 ヴァルトラーナは酔いのためなのか元々の性格のためなのか…子どものように唇をへの字に枉げている。 「私が認めているのは…ユーリ陛下の必要性だ。おそらく…これから、世界は旧態然とした発想では乗り切っていけない時代を迎える」 「時代が変わる…国と国のあり方が変わるということですね?確かに、現在でも貿易は活発化し、商人や大農家の収益が上がったことで一般庶民の生活や、学力も底上げが著しいですね」 「そうだ。国家同士が昔のように敵対し続けているのなら、私はどんな手を使ってもフォンヴォルテール卿の治世が続くようにし向けただろう。必要とされない変革など、国を混乱させるだけだからな。だが…ユーリ陛下はやはり時代に求められている存在なのだ。帰ってきて貰わねばならない…眞魔国が、《過去の大国》に成り下がらないようにな」 やはり、この男は特権階級としての靄に目を覆われてさえ居なければ、天才的な頭脳を持つ男なのだ。 『無事に…帰ってこい、ユーリ…!』 あちらの世界に渡る者は、必要とする魔力の関係で必要最低限に絞られる。 要素が不安定であることと、人間世界での行動が求められるために純血魔族は特に必要でない限りは送り込まれないことになっている。 ついていくことが出来ないことは辛いが、ヴォルフラムにはこちらで有利を迎える為に出来ることがあるはずだ。 この伯父と協力しながら眞魔国の土壌を固めていくことが、今のヴォルフラムに出来る最善のことであるはずだ。 『あと…一つくらいは出来るかな』 あと一つだけ出来ること…それは、彼の無事を祈り続けることだろう。 * * * ヴァルトラーナ達の事を気に掛けつつも、残された十貴族達が話題に困ることはなかった。 もう一方の噂の主…レオがいるからだ。 「あちらの宮廷は酷い状況のようだな?」 フォンウィンコット卿オーディルはここ近年膝痛に悩まされており、普段なら宴には息子のデル・キアスンだけ残して帰ってしまうことが多いのだが、コンラッドに相似したレオの存在が余程気に掛かったのか、夜更けになっても彼を離すことなく熱心に話し込んでいた。 「そう…ですね……」 シュトッフェルはレオ達一群からは離れた場所でフォンラドフォード卿などと談笑しており、ツェツィーリエはフォンロシュフォール卿ゆかりの青年と舞踏に耽っているようだが、レオは幾らか声を潜めた。 「ふむ、言い難かろうな。まあいい…それより、君は王になるそうだな?眞王陛下の勅命を得られればそれも可能だろう。だが…その時、君は《彼ら》をどうするつもりだ?」 《彼ら》が誰を指すのかは自明であったが、レオは一瞬…息を呑んだ。 「…第26代魔王陛下には、自発的に退位して頂こうと思います。こちらの世界でそうであるように…上王陛下として執政の責務から免れることは、ご本人にとっても幸福なことかと存じます」 「上王陛下についてはそうだろう。では、フォンシュピッツヴェーグ卿は?」 「摂政の職は解任させてもらいます。その後は…やはり、こちらと同様に自領の統治に専念して頂いてはどうかと」 「ふむ…猊下が言っておられたように、君を罠に掛けた罪に問うた後で…ということだな?」 「そのつもりです」 それでなくとも混乱の続くあちらの眞魔国に於いて、新魔王就任と同時に十貴族二人を厳罰に処すことは難しい。だが、軽い罰で済んだとしてもあの二人がその事に感謝するとは思えない。 こちらのヴァルトラーナは何故か不思議なほどレオに協力的ではあるが、あちらで劇的な変化が起きているとは到底思えないからだ。 「難しい舵取りになろう。敵…いや、同じ国人に対してこの言い方は拙かろうが、君にとって対抗勢力となる存在も難しいが…私がそれ以上に懸念するのは、君が兄弟に対して自分の意志を貫くことが出来るかどうかだ」 「兄と…弟に、ですか?」 「そうだ。君の人となりをまだ私は完全に理解できているわけではないだろうが、会議や宴の中で耳にした過去、そして…こちらの世界のウェラー卿コンラートの傾向から考えて、君は肉親を相手にするときには冷静になりきれないのではないか?どうでも良い相手なら上手に転がせるくせに、肉親相手では何かと攻め倦ねてしまうとか」 「……そう…かもしれません」 村田にも指摘された事柄を突かれてレオは口籠もりそうになるが、それでは拙いのだと思い返す。 どうしたってそれはあちらの世界での課題になってくる。特に、ヴァルトラーナの元で同じ価値観を共有するヴォルフラムへの対応策については、十分に手立てを講じておく必要があるだろう。 「君は勤勉な男だから、あちらに行くまでに時間を無駄にすることはないだろう。おそらく、こちらの兄弟とは良く話をして、方策はある程度練っているのだろう?」 「十分ではないかも知れませんが、その人となりについては以前よりも理解が深まったと思います」 「ほら…それがいかんのだ。お前は硬すぎる!」 「はあ…」 もどかしげに苦言を述べるオーディルは、いつしか呼称が《君》から《お前》に変わっていることに気付いていない。 「こちらのコンラートをそっくり真似ろとは言わんが、お前はもっと甘えた方が良い。多少ぎこちなくとも、まずは兄弟を抱き寄せ…甘えてみせろ。そら、そこにフォンヴォルテール卿が居るではないか」 オーディルは手招きしてフォンヴォルテール卿を呼ぶと、その意図を伝えて絶句させた。 「……抱き合うの、ですか?」 「そうだ。君も弟に抱きしめられればそう悪い気はせんだろう?」 「悪い気はしないかも知れませんが…そこに至る過程でかなりの羞恥を余儀なくされるかと…」 「だからいかんのだ。フォンヴォルテール卿…君も、コンラートの方から歩み寄ってきてくれたからこそ兄弟関係が成り立っておるが、そうでなければレオンハルトの世界と同様、お互いの間に深くて長い川を流しておったことだろう…」 「…返す言葉もございません」 眉間に深々と皺を寄せて返答するものの、それでもグウェンダルが及び腰であることに変わりはない。 何となく先程からじわ…じわ……っと少しずつ距離が離れていく。摺り足で後方に逃げているのだ…。 「この際だ、過去の贖罪も含めてコンラートを抱きしめてはどうだ?」 「嫌です」 嫌悪があるわけでもなかろうに、グウェンダルの額には変な汗が滲んでいる。 そこまで恥ずかしいのか…。 「…オーディル殿……失礼ながら、この方法はフォンヴォルテール卿攻略法としては向いていないのでは…。おそらく、フォンビーレフェルト卿も俺が抱きしめようとしたら全力で殴りかかってくるかと…」 「そうか?ふむ…難儀な兄弟だな」 《うるぅむ》…と喉を鳴らすオーディルは、《名案》を却下されて幾らかご機嫌斜めな様子だ。 「ジュリアなどはキアスンとどんなに酷い喧嘩をしても、最終的には《ゴメンね、大好きよ》と大きな声をあげて抱きついて、それでおしまいにしていたがな」 懐かしげに目を細める老人に、レオは胸を締め付けられる想いがした。 こちらのオーディルも、ジュリアの魂が有利へと引き継がれた事実は知らされていない。レオの世界の話でも、ジュリアの魂は単に《次代魔王となるべき魂》と表現されていたし、運ばなかった事情も《諸事情》と曖昧に濁されていた。 彼は事実を知ったとき…どんな反応を示すのだろうか? 「オーディル殿…ひとつ、伺ってもよろしいでしょうか?」 「なんだね?」 「もしも…次代の魔王の魂が、ご息女のものであったとしたら…その決断をされたことをどうお考えになりますか?そして…死を賭して委ねられた魂を運ばなかった俺を、どう思われますか?」 どきん…どきん……っと胸の中で鼓動が跳ねる。 心なしか、傍らに佇むグウェンダルの頬にも緊張が走っていることが分かる。 唐突な問いかけが、事実をオーディルに告げているのと同意になったりはしていないだろうか? しかし、レオの懸念を一蹴するように老人は笑った。 闊達な響きを持つその笑い声は、娘のことを何もかも理解している…力強い父のものであった。 「もしも次代の魔王の魂となることを娘が依頼され、それを受け入れたとすれば…娘はその時点で残りの生涯を悔いなく生きていくことに全力を尽くしただろう。そして私が見る限り、ジュリアは生ききった…。誰一人、その事を否定する者はおらぬだろう。生涯が短いとか長いとか…あの子にとってそんなものはおそらく、どうでも良いことだった。あの子は何時だって目の前にあることに興味津々で、やりたいと思うことをやり遂げることに熱心だった」 オーディルの瞳は老人とは思えないほどの熱さを帯び…煌めくような輝きを持って天井を見上げる。 それを貫いた向こうに、娘の姿が見えるかのように…。 「負けず嫌いなあの子のことだ…魂になるとすれば、それに邪魔な事柄は完璧に排除しただろうな」 「おい…ウィンコットの旦那、何の話をしてんだ?」 少し離れた場所で有利やコンラッドと会話していたアーダルベルトが、ジュリアの名に刺激されたのかずかずかと入り込んできたが、オーディルは気に掛けなかった。 それどころか、挑むようにして堂々と言い切ったのだった。 「たとえ話さ。ジュリアが例の魂だったら…という、な…」 アーダルベルトは物言いたげにレオに視線を送る。 『なんだってそんな微妙な話題になったんだ?』 と、責めているようだ。 だが、彼は彼で興味はあるのか…結局その話題を逸らすことはなかった。 彼にしても、何一つ言い残さなかったジュリアが一体何を考えていたのか…知りたいのは間違いないだろう。 「そりゃあ…ジュリアが自分の魂を量り売りするようなことがあれば…俺は最大の邪魔者になったろうな」 「ああ、そうだとも。あの子なら、絶対お前さんに《魂になる》などとは打ち明けなかったことだろうよ。命がけで邪魔をしてくるのは自明だからな」 「それは俺でも同じ事だと思いますが…」 レオは不本意げに唇を枉げた。 「確かに事前に相談したりすれば何としても止めるだろうから、あの子はお前相手でも相談しなかったろうな」 「何も言わずとも、俺なら運ぶものと思ったでしょうか?」 「賭…だろうな」 「確信はしないだろうと思われますか?」 「それはそうだろう。おそらく、あの子は自分が何の説明もなく大仕事を押しつけられたりしたら、絶対にやらない女だったからな。自分の意志は通したいが、自分がやられて嫌なことを他人が何処までやってくれるかについて、《絶対》と確信できるほどおめでたい子ではなかったからな」 「……そうでしたね…」 そうだった…ジュリアは自分がしたいことは何としてもやるが、頭ごなしに押しつけられると頑としてやらない女だった。同時に、人にも何かを強要することのない女だった。 「だから思い通りにいかなかったのだとしても、それはそれで仕方のないことだ。あの子が賭に負けたという…唯それだけのことだからな」 「負けて…ジュリアは悔しがったりはしないでしょうか?」 「そりゃあ悔しがるだろうさ。地団駄踏んで文句の限りを言い尽くして…だが、それでも最後にはこう言うだろう。《ゴメンね、大好きよ》…とな。それが、あの子のやり方だ」 からりとしたオーディルには、亡き娘を偲ぶという湿っぽさは微塵もなく…ただ懐かしさだけがそこにあった。 思うままに生涯を駆け抜けた娘の死を、彼は酷いものとは思っていないのだ。 父だからこそ…愛していたからこそ…娘を理解して、その死を受け入れているのか。 『ありがとうございます…』 口にすれば意図を問われるだろうから、決して伝えることは出来ないが…レオは胸を暖かな思いで満たした。 盟友の父が、娘の意図を代弁してくれたことに感謝の念を抱きながら…。 |