第二章 ZーC







 十貴族会議の後、有利と村田が旅立つための準備は着々と進められた。
 
 有利はヴァンダービィーア島の火口で魔剣モルギフを鍛え直し(ポイッと投げ込んだらピョーンっと帰ってきただけだが…)、アニシナは《王命》の名のもとに正々堂々と魔力持ちをかき集めて、《時空の彼方に飛んでっちゃえっ!でも行き先は風だけが知っているドキドキワクワクロケット団RS・改》の開発に熱中していった。


 そして…グウェンダルが国内・諸外国への対策を完了し、眞王がアニシナの魔道装置の機動具合を確認し、両者からGoサインが出た日、眞魔国中で同一日に流布されるよう徹底された…御触書が出された。

 御触書には、双黒の魔王と大賢者が異世界を救う為に旅立つこと…その目的と出発日時、段階を追って出立する同行者、不在中の政治を取り仕切る者が誰なのか等々が明記されていた。

 殆どの民にとって、その御触書は不安と寂しさを掻き立てはしたものの、大きな動揺を誘うには至らなかった。何故なら政治を直接取り仕切るのは以前にも眞魔国の《魔王代行》を勤め上げたフォンヴォルテール卿グウェンダルであったし、魔王陛下にしても永遠の別れというわけではないのだ。



 特に純朴な民はこう思った。

 以前も長きに渡って不在の時はあったが、陛下はちゃんと帰ってこられたではないか。
 今度も、魔王陛下は大賢者様やウェラー卿と共に偉大な勲をたてられ、吟遊詩人の喉を熱く震わせるような英雄譚を描いて下さるに違いない。
 お帰りの暁には国をあげて凱旋パレードが行われ、陛下とウェラー卿の結婚式が華々しく執り行われるに違いない…。

 だから、笑顔で見送ろう。



 そして、少し擦れた…というか、魔王陛下の治世に対して思うところのある者はこう考えた。

 今こそ好機だ。
 以前は懐柔に失敗したが、いい加減今度のことでフォンヴォルテール卿も魔王陛下の冒険癖に辟易していることだろう。
 何とか取り入って、健全なる貴族社会の礎を再構築しようではないか!

 

 まあ…何はともあれ、大抵の眞魔国人にとって魔王陛下の旅立ちはそれほど大きな痛手とはならなかったのである。

 だが、何事にも少数派というのはつきものである。
 
 幾らかの魔族…特に、夢と希望を糧として生きる純粋な青年というものは、憧憬の対象が予想外の動きを見せるとき…時として衝撃的な感情を抱いてしまうものなのである。



*  *  *




「ちょっとあんた…何とか言ってやってよ。キースったら、御触書を見てからってものの部屋から一歩も出ようとしないんだよ?」

 城下町ではちょいと名の知れた宿屋の女将さんがそうぼやくと、強面の旦那はごま塩頭をばりばりと掻きながら鼻を鳴らした。
 実に面白くない…という顔だ。

「あれだけ好きだった学校にも行かないし、大体…あの子がうちの勘定の清算をしてくんなきゃ、段々帳尻が合わなくなってくるんだよ!」

 女将さんは宿の切り盛りや接客に掛けては、この界隈ではピカ一の手腕を誇るのだが、残念ながらやや丼勘定な面がある。
 ここ近年はやたらと頭の切れる長男が積極的に経理をやってくれていたから、ますますその分野に於ける脳の機能は退化している節があるのだ。

「何て言ってやがるんだ?あいつは…」

 旦那は大口の泊まり客のために遠くの市場に出かけていたから、競りの合間に噂話で御触書のこと自体は聞いていたものの、息子が引き籠もっている間のことは今やっと知ったのである。

「それがねぇ…あの子、《大臣になるんだ》って息巻いてたじゃない?そしたらあの御触書でしょう…?すっかり気落ちしちゃってね、《もう魔王様なんて信じない》《陛下は民に約束したことを裏切ったんだ》って言って、泣いて泣いて…もう、あたしゃ可哀想になってね…。陛下も罪なお方だよ。あんな大口叩いてさ、すっかり平民の子どもを不相応な望みでのぼせ上がらしちまったんだ…」
「……おめぇは、陛下のなさりようが不満なのかい?」

 無骨なタチの旦那は、普段は女将さんの滔々と流れるようなお喋りに《ああ》とか《いいや》とか、簡潔な返事を寄越すだけなのだが…この時だけはどうしてか、瞼の中に半分消えてしまっている細い目で、じぃ…っと女将さんを見詰めながら問いかけてきた。

 木訥としたこの男としては不思議なほど、声は剣呑なものを含んでいる。

 それでも、基本的にお喋りな女将さんのこと…夢見がちな息子の夢が潰れやしないかと前から冷や冷やしていたこともあり、すっかり魔王陛下に対して批判的な口調で捲し立てた。

「そりゃあそうさ。だって、あんた…御触書をちゃんと見たかい?魔王陛下はたまたまウェラー卿のそっくりさんを拾っただけなんだよ?その男が恩義を感じて、こっちの世界で一騎士として忠誠を誓ってくれるってんならともかく、何だってぐちゃぐちゃになった眞魔国に行って、助けてやんなくちゃなんないのさ。陛下はこっちの王様なんだよ?わざわざあっちに行ってやる義理なんかないじゃないのさ。それを無理押しして行くってんなら、そりゃ単に魔王陛下の趣味の話だよ。それで巻き添えになったうちの子が可哀想じゃないかい」 
「可哀想…?」

 もっさりと旦那の眉が揺れる。
 《ぴくり》と跳ねるには、旦那の眉は太すぎたのである。

「おめぇは、三軒隣の婆さんの面倒をいつも見てるな?」
「ああ…そうさ?急に何言い出すのさ」
「そんで、隣町の奥さんが子どもを亡くしたってんで一時頭がおかしくなって…うちの子を攫ってった時も、奥さんを責めたりしなかったな?その後もちょくちょく尋ねていったり、子どもと遊びに行ったりしてたろ?」
「そうだけど…」
「子どもが喰いたがってた祭りの飾り菓子を、物乞いの子が切ないような目で見てたら…おめぇ、こっそりやっちまったろ?《何でだ》って子どもが泣いても、《悪い悪い》で済ましてたじゃねぇか」
「……」

 仕事を黙々とこなす旦那は今まで、そんな女将さんのことをどうこう言うことはなかったけれど…思い出を語るその口調からは、それが何もかも愛おしかったのだという事が伝わってきて…年甲斐もなく女将さんは頬を染めてしまう。

「そんなおめぇが、寂しいことをいうもんじゃねぇよ…」

 女将さんは旦那の言わんとするところを多少は了解したのか、やや語調が弱くなるが…それでも納得は出来なかったようだ。

「そりゃ、あたしは唯の宿屋の女将ってだけだもの。婆さんやら気の毒な奥さんに親切にしてやったって、何だってことのもんでもないさ。でも、陛下は一国の王様なんだよ?物事の規模が違うじゃないのさ」
「だから赦せねぇ…てんなら、しょうがねぇさ…。だがな、少なくとも俺は…あのお方が好きだ」
「あんた…」

 普段は寡黙な旦那が、こんなにも饒舌になるのを女将さんは初めて見た。

「あのお方は…もともと、この国から魂を運ばれはしたものの…別の世界でお育ちになったっていうじゃねぇか。家族や友達もそっちの方が大勢居たんだろう…。なのに…命を賭けて、この国を…この世界を救って下さったんだぞ?《俺には関係ねぇ》…って、元の世界に戻ることだって出来たんじゃねぇのか?随分と安全で平和な国だって話だしな」
「そりゃあ……」
「それが、こことは違うっていっても…やっぱり眞魔国には違いない国がズタズタになってるって聞いて、いてもたても居られなくなって…どうしても助けに行きたいって言う魔王様をよぉ、どうしてそんなに悪し様に言えるんだ?」


 流石の女将さんも効果的な反論が出来ずに口籠もってしまう。
 確かに、その話はずっと吟遊詩人達が歌い継いできたのだ。
 異世界からやってきた魔王陛下は世界に平和をもたらして、自分は何の恩恵も受けないまま元の世界に帰っていったのだと。

 それでも、この国を愛していた魔王陛下は更に《平等》なるものを国に流布するために帰ってきたのだと…。
 
 それが先送りになったからと言って、一概に《嘘つき》呼ばわりすることが妥当かどうかということに、女将さんはやっと思い至った。
 魔王陛下のやりようは、正しいとか正しくないとかいう話ではなくて、きっと…その行為を愛せるかどうかということなのだ。

「悪かったよ…あんた。そうだね、魔王陛下は…帰らないって言ってる訳じゃないんだしね…」
「そうさ。俺は…魔王陛下を信じる。陛下は…必ずご無事で戻ってこられる」


 ガシャーン…!


「綺麗事ばっかり言うなよ、クソ親爺!」

 頷き合う二人の間に、突然花瓶が投げつけられ…テラコッタ地の床が青臭い水と細茎の秋の花で満たされた。

「キース…」

 数日で、キースの顔は面変わりしてしまったようだ。
 少年らしいふくよかさを持っていた頬は削げ、以前は理知的だった目元は泣きはらしたせいか腫れぼったい印象になっている。
 無造作に散らばる朱髪は艶を無くして鉄錆に近い色合いとなり、てんでばらばらに額や頬に落ち掛かっている。

 大臣を目指して勤勉に励んでいた少年は、反社会的活動に身を投じる地下工作員のようであった。

「そうやって、親爺みてぇな馬鹿が上のやることをうんうん頷いて呑みこんじまうから、世の中は変わっていかないんだよ!魔王陛下は裏切り者なんだ…!無事に帰ってこられるかも分かんないのに、約束したことを後回しにする嘘つき野郎だ!」

 ぐい…っと、万力のような旦那の手がキースの襟元を掴むと、満足に寝食していなかった少年は抗いようもなく引き上げられる。

「なんだよ!不敬罪で俺が捕まると、宿の評判が落ちるからかよ?」
「いいや…おめぇがどうにもならねぇ馬鹿野郎だからだ!」  

 皮肉げにせせら笑うキースの横っ面が…顔の造作が歪むほどの勢いで引っぱたかれた。

 バシコォン…っ!

 大柄ではあるが厚みの乏しい少年の身体が宙を舞い、勢いよく壁に叩きつけられると慌てて女将さんが庇いに入るが、旦那はもう殴る気はないらしく…ただ、仁王立ちになって息子を睥睨した。

「俺には学はねぇが…それでもこれだけは分かる。約束ってのは、お互い必死になって繋ぎ止めておかなくちゃ、護りきれるようなもんじゃねぇんだ。ちいさなことでも…大きな事でも、そりゃあそいつの器に合ったそれぞれの度合いで大変なもんだ。それを、お前はなんだ?」

 旦那の太い指が、びしりと息子に突きつけられる。
 痛風のせいで動きが悪い旦那にしては、ここ数年見せたこともないような力強い動きだ。
 興奮と怒りが痛みを上回っているのかも知れない。

「おめぇは大臣になる、魔王陛下を支えるなんて言いやがったくせによ…そんなにまで簡単に放り投げちまうのか?おめぇは魔王陛下を裏切りもんだの嘘つき呼ばわりしてるが、それだけの批判ができる程お偉い男なのか?おめぇは…自分だけのことしか考えてねぇ小者じゃねぇか!」
「う…」
「おめぇは、結局のところ甘えてるだけだ。大臣なんてのは、天変地異のせいで勘定してた実りがなかったっていやぁ《備えが無かったのか》と叩かれ、たっぷり溜め込んでりゃあ《何で腐らせたんだ》と叩かれる…予定してたことが上手くいくとは限らねぇなかで、それでも最善を尽くして魔王様の為に尽くすもんじゃねえか。実際、フォンヴォルテール卿は、魔王陛下の《必ず帰ってくる》って言葉を信じて万全の準備を整えておられる…それに対してよ、おめぇが一体どんだけのことをしたってんだ?ああ…っ!?」

 獣の唸りのような銅鑼声に、キースは怯えたように頬を引きつらせる。
 先程の平手打ちからこっち…無口な筈の父が怒濤の発言を叩きつけてくるのに、キースは為す術なく翻弄されているのである。

 沢山の本を読み、有識者に聞いて回った話は何一つ役に立たず…《学がない》とどこか馬鹿にしていた男の、今まで生きてきた礎のうえに立つ…力強い《信頼》というものに対して抗弁できない。

 父の思いの前に、自分の憤りが如何にちっぽけで一方的なものであったのかが分かるくらいには、キースは《優秀》な少年だったのである。

「今、おめぇに出来ることは何か、本気で考えろ!魔王様のもとで大臣になるなんて息巻いてたのが、唯の妄想じゃねぇと言うのなら、その証を見せてみろっ!!」

 びりびりと頬の皮膚が震えるような叫びに打たれ…キースはふらりと立ち上がった。

 いま何をしなくてはならないのか分かったわけではない。
 だが…このままここで座り込んで泣いていることは出来ない。
 いま、何かをキースは証明しなくてはならないのだ。

「くそ…くそぉおおお……っ!」

 何に対して怒っているのか自分でも分からないまま咆哮を上げると、キースは駆けだした。
 行き先は血盟城前の広場…今日の正午、魔王陛下と大賢者の《射出》が行われるという会場だ。

 もう、人だかりで何も見えないかも知れない。
 間に合わないかも知れない。

 間に合って、傍に行くことができたとしても何を伝えられるというわけでもない。
 確かに父が指摘したとおり、キースはただ机の上で勉強をし…せいぜい、親の手伝いという形で経理に携わっていたに過ぎないのだ。

 その勉強にしても、本当に《大臣》になるためのものだったのだろうか?
 
 単に得意な分野の勉強に集中することで他の面倒事から逃げ、大きな夢を語ることで、自分まで大きな存在になったと思いこみたかっただけではないのだろうか?

『…畜生!』

 衝動の赴くままに、よれよれのシャツと汚れたズボンのままキースは走った。
 何かを得たくて、ひたすらに走った。



*  *  *




 ゼ…ゼ……
 …ゼ……ハァァ……

 迫り上がる息で脇腹や鎖骨の下がやけに痛い。
 鉄錆のような苦みを帯びた空気が《ヒュゥゥ…》っと喉奥を通過し、過負荷に耐えかねた肺が張りつめているように感じられる。

『そういえば…』

 最初の内はがむしゃらに全力疾走していたキースだったが、ふと思い出して方向転換すると丘に向かっていく。荒れた獣道は丈の高い茅に覆われていたが、手に擦り傷を作りながら登ってきた甲斐はあった。
 
「よう、キース。えらい勢いだな」
「ここからならよく見えるぜぇ!」

 馴染みの高台にはキースの友人達が十数人ほど陣取っており、わいわいと盛り上がっていた。

「見え…ゼェ……は、まお…へ、か……」

 立ち止まった途端にどぅ…っと汗が額やら鼻の頭に噴き上がってくるが、キースは拭くこともせずに広場を見やった。
 殆ど豆粒のようではあるが…確かに、そこには夥しい人だかりに囲まれた魔王陛下と大賢者がおり、巨大な魔道装置が圧倒的な存在感を放っていた。
 
 目をこらすと、群衆に向かって魔王陛下が何か声を上げているようだった。

 《わぁぁ……!》と歓声が沸き上がったところから見て、きっと《必ず帰ってくる》とか、そういう約束の言葉があったに違いない。

 まだ、その言葉を素直に信じることは出来ないけれど…それでも、キースは魔王陛下の動きを見詰めた。

 大賢者とお揃いの黒衣を纏った姿は相変わらず美しく…背に、巨大な剣を背負っている。
 きっと活性化した魔剣モルギフなのだろう。
 
『あれを持って、突っ込んでいかれるのか…』

 剣の大きさに比べて、遠目にも魔王陛下の身体は小柄で…華奢だ。
 傍らの大賢者に声を掛けて魔道装置に向かおうとしたが、ぴたりと足が止まったかと思うと…身を翻して駆けだし、ウェラー卿コンラートに飛びつくようにして口吻た。

「うぉぉ!」

 ひゅう…っ!と友人達が口笛を鳴らすと、その内の一人がもっとよく見ようとして単眼鏡を手にした。

「おい、貸してくれよ」

 キースは渋い顔をする友人から単眼鏡を奪い取ると、単純な倍率調整しかないそれで魔王陛下の様子を伺った。

 奇跡的に照準の合ったその映像の中で、魔王陛下は泣きそうな顔をしていたけれど…コンラートがやはり悲痛な表情の中から懸命に笑みを浮かべようとしているのに応えようというのか、やはり…胸が締め付けられるような笑顔を浮かべて唇を重ねていく。

 それは…切ない口吻だった。
 歓声を上げていた友人達もしぃん…と、静まりかえって、儀式のようにも見えるその光景を見守る。

 それでも、魔王陛下の方からゆっくりと唇を離していけば、絡み合っていた指も…振り切ろうとする想いを反映するように、ゆっくり…ゆっくりと離れていく。

 伏せていた顔を勢いよく上げると、魔王陛下は精一杯の笑顔を浮かべてぶんぶんとコンラートや、辺りに犇めく群衆へと手を振った。
 そして…大賢者に手を取られて、魔道装置の中へと入っていく。これは、二人きりしか入れないような小型のものだ。

 もう一方の魔道装置…良く似た形をしているけれど、少し大型のものは四人乗りで、御触書にあったとおりだとすれば二つの世界のコンラートと、あちらの世界のグリエ・ヨザック、そして…フォンビーレフェルト卿ヴァルトラーナの妻アンシアの四人が乗り込むはずだ。  

 送り出す為の魔力の関係なのか、こちらの世界のグリエ・ヨザックは行かないことになっている。それでも、王と親友の旅立ちが気がかりなのか…すぐ傍に佇んでいた。
 今も、泣き笑いのような表情を浮かべている。

 大賢者は装置に収まってから暫くの間、憮然としたように佇んでいたが…ちょいちょいとグリエ・ヨザックを招き寄せると、襟元を掴んで引っ張り降ろし…やや強引に口吻をした。
 歯と歯がぶつかり合うような口吻はほんの一瞬の触れ合いであり…甘い余韻もなく突き飛ばすように大柄な男から離れると、大賢者は魔道装置の蓋を閉めるようにフォンカーベルニコフ卿へと指示を出した。

 閉まっていく蓋の中に、気丈な笑みを浮かべた魔王陛下と、冷笑を浮かべた大賢者とが隠されていく。

 完全に閉まると同時に、フォンヴォルテール卿を初めとする《動力源》の魔族達が装置の末端に取り付けられた椅子に向かっていったが、ふと…脚を止めると、暫くの躊躇の後に…背後からコンラートを抱きしめた。

「おい!キース、いつまで見てんだよ。それ俺のだぞ?早く返せって!」
「待って…もーちょっと……」

 コンラートは驚いたように振り返ったが、感極まったように兄の腕へと額を寄せると何事か囁きかけていた。
 そして…少し離れた場所でもぞもぞしていたフォンビーレフェルト卿ヴォルフラムが、助走をつけたかと思うと…二人の兄へと飛びかかるようにして突進してきた。

 兄二人が体躯に優れた男達でなければ、勢いよく吹き飛んでいたに違いない。
 幸いにしてどうにか衝撃を受け止め切れたらしい兄たちは、苦笑しながらも《可愛くて堪らない》という顔をして、弟の金髪をわしゃわしゃと掻き回した。

「もーっ!返せよ!!」
「あ…っ!」

 単眼鏡を取り替えされてしまったので、しょうがなしに瞳を目一杯眇めていると、三兄弟は何か声を掛け合ってから離れ…長兄と末弟とが魔道装置に向かっていった。

 ゴォォォォォォ……

 装置に全ての人員が収まると、この高台からも聞き取れるほどの轟音と振動が鳴り響き、びりびりと大気が震える。
 
 コゥ…コゥ…コゥゥゥゥゥ………ッ!

 魔王陛下と大賢者の収まる長卵形の固まりの基部が鮮やかな紅の炎を噴き上げたかと思うと…一際大きな轟音と共に天高く舞い上がり、人々の視界から消えた。

「行って…」
「しまわれた……」

 射出は、成功だったらしい。 
それは幸いなことなのだけど、お祭り騒ぎをしていた友人達も急にしぃん…と静まりかえってしまい、暫くの間誰も口をきく者はいなかった。
 静寂の中で風の音だけが響き、丈の高い茅が揺らぎ…枯れた芝が舞い上がる。



 どれほどの時間、その場で呆然とし続けていただろう。

 不意に、広場でざわめきが起こった。何か変化があったらしい。

 よく見ると…魔道装置の中央部近くに座っていた言賜巫女ウルリーケが立ち上がり、コンラートに何か話し掛けてきたのである。
 コンラートは頷きながら話を聞くと、共に出立する予定の者達に声を掛ける。

「お…魔王陛下と大賢者様は、突撃に成功されたんじゃないのか!?」

 ォオオオオ……!

 人混みの方でも何か知らされたのだろうか、威勢の良い歓声が上がったことからキースの予想が合っているだろう事が裏付けられた。
 キースの友人達も肩を叩き合い、笑ったり安堵したように涙ぐんだりしながら沸き返っている。

 その中で…ふと、キースは奇妙なことに気付いた。
 四人乗りの魔道装置に入っていくメンバーが、御触書のそれと違うのだ。

「あれ…アンシア様がお入りにならないぞ?」
「ホントだ。どうしたんだろうな?」

 また友人から単眼鏡を借りて広場の方を見ると、アンシアとヴァルトラーナは何か話し合っており、幾らか物憂げな顔をしていたように見えたのだが…すぐにアンシアが笑顔を浮かべると、群衆に向かって何か叫んだ途端に《どぅっ!》と笑い声が上がった。

 すると、魔道装置に入り込んでいたグリエ・ヨザックが照れたように頬を染め…何かアンシアに答えると、また群衆が笑いさざめく。

「あはは、大賢者様…グリエ・ヨザックと仲良さそうだったもんな。こんなギリギリになって、《やっぱり一緒に来て》なんておねだりなさったんじゃないのか?」
「お熱いなぁ…!」
「いやあ、腕っ節が強いと言ってもアンシア様も女性だからな。もしかして、直前になってヴァルトラーナ様から離れがたくなったのかも知れないぜ?」
「やれやれ…どいつもこいつもお熱いこったなぁ…あやかりたいぜ!」

 あははは…!
 
 気楽に笑い合う友人達の中で、キースだけが頬を強張らせていた。

『そんなことが…あるのか?』

 市井に流れている情報や噂が本当に真実であるという保証はないものの…それでも、アンシアが異世界に向かうことに大きな意義があるのでなければ、最初から計画人員に含まれたりはしなかったはずである。
 和解が困難な異世界のヴァルトラーナを説得するための切り札…その彼女が、こんな直前に人員から外されるという事があるのか?

 叡智をもって知られる大賢者が、そのような選択をするか?

『何か…あったんじゃないのか?』

 もしかして、アンシアを送り込む必要が無くなった?
 ヴァルトラーナが予想以上に友好的で、説得の必要がなかった…?
 
 キースは懸命にその可能性に取り縋ろうとするが…陽気に笑い合う友人達のように楽観的なタチではないためなのか、もう一つ思い浮かんだ可能性がどくん…どくんと拍動しながら頭蓋腔を埋めつくしていく。


『アンシア様を送り込んでも…無駄って事になったんじゃないのか?』   


 時間の経過の中で、向こうの世界ではこちらの想定と異なる事態が発生しているのではないか。
 ヴァルトラーナはもはや、説得の通用する状態ではないのではないか…。

 不測の事態が起きていることを民に知られまいとして…彼らは、敢えて朗らかな態度をしているのではないか?

「おい…キース、尊敬してた魔王陛下が旅立たれて寂しいのは分かるけど…元気出せよ。ほら…次の魔道装置も動き出したぜ?コンラート様が、ちゃんと魔王陛下をお護りしてくれるよ」
「うん…うん……」

 友人に肩を抱かれて、キースは自分が泣いていることに気付いた。
 
『コンラート様……っ!お願いです…陛下を、お護り下さい…っ!』

 友人の腕を掻き寄せて、キースは瞑目する。
 何に縋って良いのか分からないけれど、今はただ何かに向かって夢中に祈りたいのだ。
 

 どうか…どうか、ご無事でお戻り下さい…!


 祈るほかに何が出来るだろう?今は思いつかないけど…それでも、旅立っていったあの方のために、キースは何かを始めなくてはならない気がした。
 何かをしていなければ…心が壊れてしまいそうだから、というのもあるのだが…。
 


 空の彼方に、コンラート達を載せた魔道装置が高々と撃ち上がり…そして、夢幻のように消える。




 後にはただ囂々と吹きすさぶ風の音だけが響いていた…。





第二章了



第三章に続く



 

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