第二章 ZーA







 十貴族会議の席でレオの世界の《歴史》が語られ、有利と村田が先鋒として出動することが告げられると、一同は暫くの間…無言であった。

 有利の魂がジュリアのものであることだけは伏せられたものの、それ以外は赤裸々に語られた異形の歴史に、誰もが異世界の自分の存在を反映させたのだろう。

 有利が生まれなかったという唯それだけの違いではないようだが、それでも大きな鍵となった彼を誰もが見詰め、自分たちの幸運と異世界の悲運とを忸怩たる思いで比較しているのかも知れない。



「ひとつ、提案したい」
 
 沈黙の中から最初に口を開いたのは…フォンビーレフェルト卿ヴァルトラーナであった。

「なんです?」

 彼の性格を知るギュンターが、やや緊張した面持ちで問う。
 口にはださないものの、おそらくは誰もが緊張してヴァルトラーナの発言を待っていたことだろう。


「あちらの世界の安全が確保された段階で、私の妻を送り込んで頂きたい」


 ざわ…っ

 意図を掴みかねて人々がざわめく中、顔の半分に分厚いガーゼを貼り付けた男は重ねて発言した。

 その傷を作った張本人がアンシアだということは全員知っているが、それでも尚…彼が深く妻を愛していることもまた熟知されているのだ。

 喧嘩が絶えないのも深い愛情ゆえの行為なのだと…。

「あちらの世界で事態を迅速に収束し、《禁忌の箱》の処理に集中して頂くためには《私》の説得が必要なはずだ。その為には私自身が出向くよりも、妻が行く方が効果的かと思われる」
「それは…勿論、有り難いですが…何故、危険な地に大切な奥様を送って下さるのですか?」

 レオに問われても、ヴァルトラーナは淡々と答えるだけだった。

「先程申し上げたとおりだ。陛下が君の世界に行くと決めておられるのならば、可能な限り安全かつ早急に問題解決が為されるべきだ。私は、その為に必要と思われる提案をしただけだが、何か不満でもおありか?」
「ありません。ただ…感謝の思いがあるだけです」
「君に感謝される謂われはない。私は唯、陛下の御為に申し上げているだけだ」

 ヴァルトラーナは思いがけない申し出をしたとはいえ、それは少なくともレオに対する好意のゆえではないらしい。
 
「他に、この場で話し合うべき事柄は?」
「…ありません」

 まだ呆然としているギュンターの言葉に頷くと、ヴァルトラーナは華麗な動作で席を立つ。

「では、宴の時間まで私は自由というわけだ。早速、妻に《業務内容》を伝えに行こう」

 鮮やかすぎるその行動の意図を誰もが掴みかね、ヴァルトラーナの影が扉の向こうに完全に消えてからも…暫く口を開く者はいなかった。



 こほん…と咳払いをしたシュトッフェルは、誰もが胸に過ぎりながら…それでも敢えて口にはしなかったことを話題にした。

「ふん…ヴァルトラーナめ、随分と処世術を上げてきたものだな。陛下に取り入るために妻を差し出すとは…。私もあやかりたいものだ」

 同じ発想をしつつも、何かが心に引っかかっていた人々は一様に厳しい眼差しを送り、ことに…深く伯父を敬愛しているヴォルフラムは雷のような怒りを湛えてシュトッフェルを一瞥した。

『ヴァルトラーナは…そういう男だろうか?』

 誰もがヴァルトラーナの人となりを鑑みて、果たしてシュトッフェルの言うとおり《取り入る》為の方策としてアンシアを送り出そうとしているのか…と、疑問を抱いた。

 確かに彼は度し難いほど頑固な権威主義者であり、それ故に優れた才能を磨り潰し、世に出るべき人物をその家門ゆえに登用しなかった罪はある。

 だが…彼がシュトッフェルに比べて《厚顔》であると断じる者はこの場には居なかった。

 彼は良くも悪くも誇り高い人物であり、その美意識とあからさまに《取り入る》行為とは結びつき難いものであったのだ。

『何を考えておられる…?』

 ヴォルフラムは眉根を寄せて…伯父の真意を測りかねていた。



*  *  *




 十貴族会議の開催されたその夜、血盟城では宴席が設けられた。

 宴とはいえ、十貴族の交流を主眼に於いた場であるため昔のような馬鹿騒ぎや贅沢すぎる催しが行われることはなく、美味な食事が卓上に並んで美しい音楽が奏でられてはいるものの、殆どの者が踊ることよりも語り合う事を望んだ。

 ことに参加者達の興味は、レオと…そして、驚くべき提案をしたヴァルトラーナとに向けられていた。

 ヴァルトラーナは宴の初めから黙々と酒杯を干し続けていたが、酒精にそう強くない体質であるのか…数刻もたたないうちにその目は据わり始め、舌は呂律が回らなくなってきた。

 その内、妙なことを口にするのではないかという懸念を感じたのだろうか?
 アンシアとヴォルフラムだけを誘うと、カーテンで仕切られた小さなフロアに移動した。

 そこは大広間と繋がってはいるのだが、そこから内部が伺い難い構造になっており、少しだけ他に聞かれたくない…けれど、絶対的に秘密というわけでもないような、個人的な話題を持ち出すときにはうってつけの場となっている。



「ヴォルフラム…結婚生活は、どうなのだ?」
「はい、伯父上…とても上手く行っていると思います」
「幸せなのか?」
「はい」
「そうか…」

 ソファの横にヴォルフラムを座らせたまま、先程から同じ話題がループし続けているのだが…ヴォルフラムの方はここ近年の精神鍛錬の賜物なのか、はたまたこの伯父に対する愛情が深い故なのか、その都度律儀に返事を寄越している。

 実際、幸せな話題なのだから文句を言う謂われもない。
 
「ヴォルフラム…私がアンシアと結婚したときのことを、覚えているか?」

 自分の話題が出たことで、アンシアは微かに睫を揺らしたものの…特に口を挟むことはなかった。
 
 彼女は夫と直接対峙する時には遠慮容赦ないが、他者との交流に於いてその会話に身を乗り出していくような態度を取ることはない。

 既に異なる眞魔国への派遣依頼は受けているようだが、特にその任務に対して怯えているようでも…気負っているようでもなかった。

「ええ勿論ですとも。とても華やかなお式でしたね」

 今から数年前…眞魔国から有利という存在が失われ、グウェンダル統治下で平穏な暮らしを送る中にも、民にとっては何処か寂しさを拭いきれなかった時期のことだ。
 大貴族の結婚とあって、国中…とまでは言わないものの、少なくともビーレフェルト領はお祭りムードにわきかえっていた。

 剛直な気質のアンシアは領民に人気があり、ヴァルトラーナ以上に慕われていたのも原因の一つだろう。

 ちなみに、二人の婚約期間は非常に長かったのだが、なかなか結婚に至ることはなかった。
 二人の間に肉弾戦に近い喧嘩が絶えなかったせいもあるが、求婚の度に何故かアンシアの方から《まだ、早いわ》との返事が打ち返されたのだという。

「私は…それまで、何度も何度も何度も何度も…アンシアに求婚し続けていた、ちょうど…ユーリ陛下に求婚し続けていたお前のようにな」
「…………伯父上」

 《ぐむぅ》…っと、ヴォルフラムの喉が鳴る。

 思い出すだけで恥ずかしい…けれど、それでも…甘い痛みを伴う過去の記憶が、硝子細工で出来た夢のように脳裏に蘇ってくるからだ。

 有利の仕草…言動、愛らしい微笑み…全てがヴォルフラムの胸をときめかせ、結局…《妻》としては手に入れることの出来なかったものだ。
 
 グレタのことは勿論愛しているが、それとは全く異なる次元の愛情が今でもヴォルフラムの中には存在しているのだ。
 それは友情だとか…尊敬といった美しい形に昇華しているものが殆どだが、中には兄と彼とが仲睦ましげにしているのを見るとき、鈍い刃先で心を抉る感情も残されている。

『伯父上は、恋を実らせた…』

 羨ましいと、素直に思う。
 どんなに喧嘩をしていても、心から《ああ、この人だけが僕の唯一の存在》と感じることの出来る者と結ばれるという幸福は、得がたいものであることだろう。

「求婚が受け入れられた時、私は自分という存在がありのままでアンシアに受け入れられ、私自身もアンシアに受け入れられたことを知ったのだ」

 噛みしめるように呟くヴァルトラーナに、平静を装いながらもアンシアの頬が薄紅色に染まる。
 この二人は…やはりこうしていると美々しく睦まじい夫婦なのだ。
  
 ヴァルトラーナの頬に大きなガーゼがなければ更に決まっていただろうが…。 
 
「その時、私は初めて…アンシアがそれまで見せた拒絶の意味を知った……」
「…教えて頂けるのですか?」
「お前は、きっと聞く耳を持っているだろう」

 ヴァルトラーナは優しく囁くと、お気に入りの甥の金髪をくるくると指に絡めて笑う。

「ヴォルフラム…私は、随分と長い間…アンシアを哀しませてきた。そして度し難いことに…私自身は、彼女が一体私の何に対して不満を持っているか理解できなかったのだ」
「どういう…ことでしょう?」
「私は…アンシアを愛しながら、それでもどこか…低く見ていた」
「それは、十貴族ではなかったからですか?」

 ヴォルフラムの素早い切り返しに、ヴァルトラーナの唇が苦みを帯びた形に歪む。
 
「そうだ…よく、分かっているな。流石は我が甥だ…」
「僕もそうでしたから…」

 ただし、ヴォルフラムが低く見ていたのはアンシアではない。

 有利と…コンラッドに対してだ。

 有利を魔王として敬愛しつつも、それでもヴォルフラムの中には常に彼が混血であり、庶民の中で暮らしてきたという事実が厳然として存在し、そもすればそれは…蔑視の対象になっていた。

 コンラッドを尊敬しつつも、混血である彼を無条件に高く評価してはならないという意識がどこかにあった。

 それがとても下らないことだと認めるには、強い羞恥心を感じざるを得なかった。 

『僕は、そんな下らない思いこみのために何度あいつらを傷つけたのだろう?』

 言葉の刃で抉り、頑なな態度で傷つけた…。
 それがどんなに恥ずべき行為であったのか、本当の意味で自覚したのは、多分…有利を失ってからだと思う。

 あれから、ヴォルフラムは変わっていったと思う。
 少なくとも、変わりたいと願い…行動してきた。

 その言動の変化に周囲は幾らか戸惑ったようだが、それでも…全ては良い方向に変わっていったと思う。

 少なくとも、ビーレフェルト領に根強く蔓延っていた混血蔑視の地方条例は改善され、魔族達の心の底までは急に変わるものではないのだとしても、身分を理由に本来持ちうる権利を蹂躙される者の数は激減したと思う。

 当初、その動きに最も反抗したのがこの伯父だった。
 怒りを込めて苦情をねじ込んでくる伯父を、ヴォルフラムは時間を掛けて説得していった。

 幾度かの遣り取りに業を煮やした伯父が口をきいてくれなくなった時期もあるが、それでもヴォルフラムは何か珍しい物を手に入れたときや…季節の挨拶にかこつけて伯父と対話した。

 ヴァルトラーナの態度は、少しずつではあるが変わっていった。

「私は、歴史と伝統というものを重んじている。それは今でも基本的には変わりない。だが…《禁忌の箱》の開放という未曾有の危機の中で、その歴史と伝統は何の役にも立たなかったこと…眞魔国に平和を取り戻したのは混血であるユーリ陛下であり、ユーリ陛下が創主に取り込まれそうになったその時、我が身を省みず救おうとしたのは…《あいつ》だったということは…流石の私にも幾ばくか思考の材料を与えはした…」

 嫌いなのは嫌いなのか…。
 ヴァルトラーナの口元は珍妙な形に歪んでいる。

 認めてはいるらしいが、どうにも気にくわないらしいヴァルトラーナは、子供じみていると分かっていても《あいつ》の名を口にしたくないらしい。

「だが、それでも私はなお…陛下が人間と手を組むことを国の指針とされ…グウェンダルがその路線を忠実に護っていることに対して怒りを覚えていた。我々十貴族が護り続けた伝統を破壊するつもりか…とな。お前は、そんな私に十貴族の害悪を説いたのだったな」
「説くなどと…大それた事をしたつもりはありませんが…」

 実際、ヴォルフラムにその意識はなかった。
 ただ、有利とコンラッドに対して自分が行ってしまった恥ずべき罪を告白しただけだ。
 その行動の根幹となっていたのが、ヴォルフラムが純血であり、十貴族であったゆえの《過大評価》によるものだったのだと…。

「《罪》…愛する者に与えてしまった酷い仕打ち…その存在を、私はお前の話で初めて意識した。アンシアが、十貴族としての私と…下位の貴族である自分をどう見ているのか…初めて、考えた。私は一人の魔族としてアンシアを愛しているし、その才を認めてもいる。だが…それでも私は個人としてはとても尊敬に値しない者であっても、位が高ければそれで…彼女よりも重く扱ってきた…」

 アンシアは当時のことを思い出しているのだろうか?どこか物憂げに瞼を伏せて…自分の夫を見詰めている。

「あるきっかけで…その基本方針は破壊された。衝撃的な出来事のせいで…な」



*  *  *




 ヴァルトラーナはアンシアを伴い、シュトッフェルが主催する宴に列席したことがあった。
 当時、有利は地球に強制送還されて眞魔国はグウェンダルの治世下に置かれており、政治経済全てが安定してはいたものの…それ故に、宮廷内の権謀術策が再び勢いを取り戻しつつあった。

 度し難いことではあるが、王朝の爛熟期というものはえてして政(まつりごと)に長けた人物よりも、自分により多くの利益を与えてくれる人物を欲するものである。

 一度は内乱を企てて蟄居の身となり、権勢潰えたかに見られたシュトッフェルもまた…じわじわとその権力を蘇らせつつあった。

 夜ごと宴を開いては有力な貴族を招き、美しい娼婦や男娼を宛ってはその機嫌をとるという分かりやすい手法であったが、グウェンダルの清廉すぎる政治形態…身分よりも能力を重視したその登用方法に馴染めない者達は、挙ってシュトッフェルを盟主と仰ごうとしていた。

 その中に、ヴァルトラーナも頭数として配されていたのである。

 不愉快を感じつつも、ヴァルトラーナは個人的な好悪としてシュトッフェルよりもグウェンダルを《より嫌っていた》。
 この為…《連盟を組み、グウェンダルを失脚させてはどうか》という話題を遠回しに振られたとき、ヴァルトラーナは頷きかけたのである。

『お待ち下さい…!』

 その時、アンシアは顔色を変えて…鋭い声で耳打ちしてきた。
 気が強く容赦ないものの、このような席でヴァルトラーナの会話に口を挟んだことの無かった彼女が、初めて切羽詰まった様な声を上げたのである。

『フォンヴォルテール卿の政に、これまで落ち度があって?彼の失脚を望むことに、どんな大義名分があるというの?あなたは…フォンツュピッツヴェーグ卿と共に眞魔国を混乱に陥れた者として歴史にその名を刻まれるおつもりですの!?…正気の沙汰とも思われませんわ!』

 声は潜めたものではあったが、何事かと傍で耳を峙てていたシュトッフェルには全て聞こえていたらしい。

 か…っと顔に血の気を登らせたシュトッフェルは、脂っこく怒りの籠もった眼差しでアンシアを睨み付けると、居丈高に叫んだのである。

『差し出た真似をするものだな、ヴェローナ卿アンシア…。君は何時からそのようにお偉い身分になったのだね?ヴァルトラーナ殿の婚約者とはいえ未だ結婚まで行き着かぬ身で、もう十貴族に肩を並べたおつもりかね?』
『私は…そのような……』
『そうでないというのなら、我々十貴族の高邁なる会話に差し出口を叩くものではないわ!さあ、今すぐ跪いて赦しを請うが良いっ!』

 怒号に近いシュトッフェルの声は衆目を集め、宴席に参じた人々はいずれも好奇の眼差しでアンシアを見詰めた。

 誇り高きヴェローナ卿アンシア…。
 だが…一地方貴族に過ぎない彼女に、怒りを感じた十貴族への謝罪を回避する手段などない。

 少なくともその場に居合わせた貴族達…シュトッフェルの派閥下にある取り巻き連中にとって、それは自明の理であった。
 舞踏のために流されていた音楽が止まり、楽団員達も固唾を呑んでその状況を見守ったが、文句を言う宴客もいなかった。
 彼らもまた、踊りの足を止め…突如没発した諍いに見入っていたからだ。


 アンシアは顔色を真っ青に…次いで、真っ赤に染め上げ、アーモンド型の瞳を怒りに釣り上げては居たけれど…それでも、ゆっくりと腰を沈めようとした…。






→次へ