第二章 XーD








『俺について来い…』


 差し出された手を、大賢者は取ってしまった。
 その事によって、自分の身がどうなっていくのか…聡明な彼には先の先まで見通せていたというのに、何故あの男の手を取ったのだろうか?

『《彼》は知っていた。誰よりも…その意味を、おそらくは眞王よりも理解していた』

 それでも、抵抗できなかった。

 初代の大賢者…《双黒》というものを、眞魔国に於いて希少にして貴重な存在と位置づけることとなったその男は、眞王に捕らわれていた。

 ある意味では誰よりも憎み、嫌悪していたというのに…どうしても離れることが出来なかった。
 
 何故だろう?

 記憶の中に《答え》らしきものはあったけれど、いつも村田には納得出来なかった。
 何故なら、とても不条理だったのだ。

『聡明な筈の男が、どうしてこんな理由で輪廻の鎖の中に自分だけでなく…後世の魂後継者まで組み込んでしまったんだ?』

 《良い迷惑だ》…ずっと、そう思ってきた。
 渋谷有利に出会うまでは…。



*  *  *




「村田…どうかした?」
「いや、何でもないよ」
「本当?まだ具合悪いんじゃない?またお粥さん食べる?」
「もう良いよ。大丈夫…」

 眞王の間へと向かう道すがら、物思いに耽っていたら有利に気取られてしまった。
 普段は何とも鈍いくせに、こんな時だけは吃驚するほど敏感なのだ…この友人は。

 肩を支えてくる腕は、細いけれど…意外なほど力強い。そして伝わってくる体温はちいさな子どもみたいに高くて、村田の心の芯にまで沁み込んでくるかのようだった。

『暖かい…』

 この温もりを…何としても守り抜きたい。
 それだけが、村田の切なる願いであった。

 だが…村田は、有利の意志に従うと決めてしまった。
 決めた以上は全力を尽くす。拗ねたりへたれている暇はない。

 村田はすぐに有利とコンラッドから詳しい話を聞くと、幾つか質問した後…眞王の間に向かうことを決意した。



*  *  *




「ウルリーケ、良いかい?」
「はい、そろそろこちらに来られる頃だろうと…眞王陛下も気付いておられました」
「ふん…勘の良さだけは相変わらずだね」

 鼻を鳴らすと、村田は大扉を巫女達に開かせてゆっくりと薄暗い部屋へと脚を踏み込んでいった。

 相変わらず荘厳さだけは過剰に醸し出す空間は、ひんやりと常世離れした空気を保っている。
 高い天井…堅牢な壁…無駄なほど広大な部屋の中に、その男は居た。

「良く来たな…大賢者、ユーリ、ウェラー卿…」
「君に聞きたいことがある」

 鷹揚に来客を歓迎する眞王は、創主が滅びてからというものの…すっかりそうすることが習慣になってしまったらしく、だらけきった体勢でカウチに寝そべっていた。
 
「ん?何を聞きたいのかな?こちらとは異なる眞魔国から来た男達のことか?」
「…何処まで知っている?」

 腐っても眞王と言うべきか(肉体はとっくの昔に腐敗を通り越して白骨化し、そろそろ化石になろうとしているところだろうが…)、村田の言わんとするところを、既に眞王はある程度把握しているようだった。

「そいつらが居たと思しき地点で、どうやら《俺》が発狂しているらしい気配を感じた。そして、そいつが飛ばした男達がユーリに拾われた…まあ、その位だ」
「では、君はその地点を特定できるんだね?」
「出来るさ。ただし…」
「分かっているよ。力は足りないだろう。そこは僕達の方で何とかする」

 実に嫌そうな表情の村田に対して、眞王は珍しく心配そうな眼差しを浮かべた。

「行きたいのか?ふん…お前も無茶をするようになったものだな。あちらはどうやら崩壊寸前だぞ?何しろ眞王廟総出で《液状封印》をやっているのだからな。それも…許容範囲を大きく超えている。その後、一体どうするつもりなのやら…」
「分かっているって言ってるだろ?それでも渋谷が行くというのなら、僕は道を拓かなくてはならない」
「その為に、俺をまた使う気だな?国の開祖を捕まえてこき使うことだ…」
「当然使う。だが、その前に聞いておきたいことがある。ウェラー卿を地球に送る前後のことだ」
「ふむ…?」

 ごろりとカウチの上で寝返りを打ちながら、眞王は少々不快げに眉根を寄せた。
 《今更そこを聞いてくるか…》という顔だ。


「君、その頃から既に…創主と精神融合を起こしていたんじゃないのか?」


 背後で息を呑む気配が伝わってくる。
 おそらく、コンラッドだろう。有利にはまだ意味が分かりかねているようだ。

「創主を封じるために君が採った手段は、創主と綯い交ぜに混ざり合うことだった…そうだね?《液状封印》ってやつだ」
「村田…それってエライ手段なの?」

 言葉の意味は分からないながらも、何やら大層な響きに有利が問うてくる。

「ああ、そりゃあもうエライこっちゃだよ。箱という物体の中に封じていた創主が少しずつ滲み出ててくるのを防ぐためには、出てきた分を少しずつ取り込んでいかなくちゃならない。それが《液状封印》だ」
「壊れたコップから零れてくる珈琲なんかを雑巾で食い止める感じ?」
「ああ、良いね。まさにそんな感じだ」

 雑巾に例えられた眞王の方は随分と不本意なようで…眉根が憮然と寄っている。

「最初は出てくる量も少ないから良い。だけど、雑巾にも限界がある。しまいには吸いきれなくなってびちょびちょになって…雑巾自体がもはや、珈琲なのか雑巾なのか分からなくなってくる。まあ…そんな珈琲は飲みたくないけどね。正確に言えば、生ゴミか雑巾か分からない…ってくらいかな?」
「生ゴミ…」
「燃やしたり肥料に出来たりする分、生ゴミの方がまだマシかな?どちらかといえば、核廃棄物の方が近いかも知れないね。とにかく…眞王はまさに、自分自身の自我を失いかけていた…そうだろう?」

 眞王はやはり憮然としながらも、不承不承頷いた。
 こうしてみると、随分と表情豊かになったものである。

「………そうだ。俺はあの頃…記憶が部分的に途切れていることに気づき始めていた」
「君の記憶にない期間に、ウルリーケ以外の巫女が動いたという形跡があったんだね?」
「よく分かることだ…」

 手の内をすっかり見抜かれていると悟り、眞王は気怠げに前髪を掻き上げた。
 弟に痛いところを突かれた兄のような顔だ。

「物質世界と君が繋がるためには、巫女を介在させるしかないじゃないか」
「まぁ…な。ある日、ウルリーケが気付いたのだ」

 言葉を受けて、ウルリーケが一礼すると…少女にしか見えないその小さな身体を楚々と動かして、眞王と大賢者の前に立った。

「私が眞王陛下の命を受けて為そうとしたのと、全く真逆の行為に手をつけようとしていた巫女がおりました。私が叱責すると、《眞王陛下が直々に、私に命じられたのです!》と、半泣きで言うのです」
「その事を、君は覚えていないんだね?眞王…」
「ああ、そうだ」

 眞王は憮然とした表情で、カウチの留め具辺りをカリカリと指で弄る。
 実体がないくせに…そういうところで現実世界の物体に触れて自分の存在を主張したがるのだ、この男は。

「私は、一人一人の巫女を丹念に調べておかしな行動を取っている者が居ないか調べました。その結果…ウェラー卿が旅立たれる直前に、《これからウェラー卿に持たせる瓶を取り戻すように》との命令を受けた巫女が現れたのです。それも、複数…」

 おそらく、創主にとってもその魂が地球へと運ばれることがどれ程の意味を持つことなのか理解できていたのだろう。眞王側に気取られるという危険を冒してでも、必死で留め立てしようとしたのだ。

「その内の一人が命令に従い、俺を襲撃した連中を眞王廟に招き入れたのですか?」
「……そのようです。私は迅速に手を回して処置したつもりでしたが、暗殺集団《バンシン》に侵入され…ウェラー卿は負傷したまま旅立つことになりました。彼らの本部に問いただしたところ、やはり《眞王陛下の命令である》との指令を、眞王廟の巫女から受け取ったのだと申しておりました」
「そうだろうね…」

 村田は得心いったように頷いた。

 コンラッドを襲撃した連中の特徴を詳しく聞いたときから、村田は何かおかしいと思っていたのだ。
 何故なら…《バンシン》はかつて、眞王の闇黒面を支える暗殺集団として、大賢者自身が立ちあげたもの…つまりは、眞王廟直属の組織だからだ。

 《バンシン》…眞魔国の歴史の闇に常に関わってきたこの組織は、決して眞王に楯突くことはない。彼らが独自の判断で眞王廟を襲い、その意志の代行者であるコンラッドを狙うことなど考えられない。

「…何故、そのことを俺に教えてくださらなかったのですか?地球に旅立つ際には間に合わなかったのだとしても…眞魔国に帰ってきてから幾らでも時間があったでしょうに!」

 流石に不快を示してコンラートが尋ねると、普段は小綺麗な仮面のように動きのない巫女の顔に、珍しく動揺が浮かぶ。

「それは……」
「知られたくなかったのさ…。そうだろう?」

 村田の指摘を受けると、ウルリーケは救いを求めるように眞王へと視線を送ったが、促すように頷かれて…漸く観念したようだった。

「はい…。眞王陛下が過った命令を下された等と世に知られれば、この国は大混乱の坩堝に叩き込まれます。これまで、どのような齟齬があり…争いがあったとしても、《眞王陛下は常に正しい》という揺るぎない指針があったからこそ、この国は大きな内乱もなく歴史を刻み続けたのです。禁忌の箱の封印が解かれつつあるというこの未曾有の危機を前にして、もしも…眞王陛下が過った…それも、創主に意識を取り込まれて命令を発したなどと知られれば…この国は終わる。そう思ったからこそ、厳に秘したのです」

 ウルリーケの立場としては、やむを得ない面もあろう…村田としてはそう思うが、コンラッドにとってはやはり納得の行かない答えであったらしい。

「俺を信用しては下さらなかった…そういうことですか?」
「秘密保持という意味では、そういうことになるでしょうね」

 しれっと言い切るその様子は、幾ら見た目が若くとも百戦錬磨の大局というべきか…悪びれた風もない。
 コンラートは眦をぎりりと釣り上げると、ウルリーケと眞王とを睨み付けた。

 ふぅ……

 それでもコンラートは意識して呼吸を整え、冷静さを取り戻すと…努めて落ち着いた声で問いかけてきた。

「その…複数の命令の中に、フォングランツ卿アーダルベルトに、ジュリアの魂が俺の元に渡ることを知らせようとしたものはありましたか?」
「ありました。ですが、知らせる直前に差し止めることが出来ました」
「そうか…」

 コンラートは左の掌で顔を覆い…嘆息した。

「では…あちらの世界では、その命令こそが君の手を擦り抜けて…伝わってしまったんだな」

 創主に取り込まれた眞王が放った、《命令》…それがたった一つ行き違っていた。
 それが、大きく二つの世界を変えていく要因となっていたのか…。

「分かりません。私には、自分が存在する世界のことだけで精一杯です…」
「精一杯…そうでしょうね。事は、おそらくあなたの器を逸脱して…精一杯やったところでどうにもならないところまで来ていたはずです。何故…全て自分で背負ってしまおうとされたのですか?」
「そうするしか…無かったのです!眞魔国のためにはそうするしか…っ!あの時の私が、一体誰に頼れたというのですか…っ!?」

 ウルリーケが初めて、感情を吐露させるように強い語調で叫ぶと…コンラッドは幼い少女を苛めてしまったような居たたまれ無さを感じたのか、激昂していた感情を収めた。

「申し訳ありません…失礼が過ぎました」
「いいえ…」
 
 そう呟くウルリーケの顔貌は相変わらず無表情ではあったけれど…光線の加減なのか…隠しきれぬ想いがどこからか滲み出てくるのか…急に年老いてしまったかのように背を丸め、疲れ切った老女のような気配を漂わせた。

 それをどう思ったのだろうか?とたとたと有利が歩み寄り…


 ウルリーケの頭を…撫でた。
 ちいさな少女を慰めるように…。


「ユーリ陛下…?」

 不思議そうにきょとんとしているウルリーケに、有利はふんわりと柔らかく微笑むのだった。
 無意識のうちに…多くの人々を癒してきたその面差しで…。 

「ウルリーケは…頑張ったよ。800年もこの眞王廟の中に閉じこもってさ…眞魔国の人達の幸せを、一所懸命祈ってたんだよね?」
「……っ」
「でもね、もう…眞王も、巫女さん達もさ…そろそろ、肩の荷を降ろしても良い頃なんじゃないかな?だって、ずっとずっと…創主からこの国を…世界を護るために気を張ってきたんだろ?だったら、もう良いんじゃないかな?ちょっと失敗しちゃったこととか、みんなに思い切って…《ゴメンね》って言ってもさ」

 ウルリーケは何かに耐えるように唇を噛みしめていたけれども…有利にそぅ…っと抱き込まれては、もう抗しきることは出来なかった。

「お疲れ様、ウルリーケ…。今まで、本当によく頑張ったね」
「う………っ」

 ウルリーケは堪えきれぬ嗚咽に肩を震わせ、その後は…涙と共に、堪りに堪った鬱憤を吐き出したのだった。


 青春前に眞王廟の言賜巫女となり、800年にも渡ってときめきもなく淡々と仕事を続けてきたこと…。
 強まっていく創主の存在感を懸念するなか、最大の庇護者であるはずの眞王自身が創主に取り込まれ、異常を来していく事へのいい知れない怯え…しかも、それを誰にも相談できなかったこと…。

『私こそがこの眞王廟の砦として機能せねばならない…っ!』
『眞王陛下が創主に侵されつつあると知られれば、眞王廟の権威は失墜する…。そうなれば国政に対する影響力も下落して、混血のユーリ様が魔王として就任することは不可能になる…!』
『隠さなければ…隠し通さなければ……っ!』

 眞王の発言の中から整合性のあるものないものを選別し、異常を来していないと思われる時期に尋ねていったが、それでも尚ウルリーケの手を擦り抜けてしまう事柄があった。

 しかも…ウルリーケ自身、自分が受け取った指令が眞王の本意であるのか、心の底から信じられないという恐怖があった。

 眞王は、もともと自分が何をどう考えた結果、このような命令を下している云々…といった注釈を加えない男であった。
 神の如き天才である…彼にだけ分かる次元の大いなる先手であるのか…それとも、異常を来した故の整合性のない命令なのか…。
 判別できないままウルリーケは狂おしく日々を過ごしてきた。


 怖かった。
 本当は、毎日毎日…恐ろしくてしょうがなかった。
 叫んで、何もかも投げ出してしまいたかった…!

 自分の選んだ命令が過っていたとしたら…この世界を地獄の底に突き落としてしまうかも知れない。
 その負債は、ウルリーケの身一つで背負うにはあまりにも大きな重責であった。



*  *  *




「うん…うん。大変だったね」

 有利はこくこくと頷くが、次第にその動きは機械的なものに変わらざるを得なかった。
 何しろ…長いのだ、ウルリーケの話が………。

「聞いておられますか?ユーリ陛下…!その時、もう酷かったんですから!新参者の巫女が我が物顔で何と申したか分かりまして?」
「うぅう〜ん…なんて言ったんだろうねぇ……」

 ある意味、禁忌の箱に近い何かを開けてしまったのだろうか?

 ウルリーケの口から滔々と流れ出てくる愚痴の波にあっぷあっぷしながら、有利はその情報の中から、コンラッドなり村田なりが必要な事物を拾い上げてくれることを期待しているようだった。

「なるほど、色々と参考になったよ」
「色々、分かった?」

 村田が重々しく頷いたことで、有利はほっと胸を撫で下ろした。
 ウルリーケの凄まじい愚痴パレードの中から重要な事物を抜き出すには、有利という人材は能力気力共に、この時…はなはだ疲労しきっていたのである。

「眞王、君…渋谷を初めて眞魔国に引き寄せたときにも創主につけ込まれたね?」
「………空間の狭間に落とさなかっただけ感謝して欲しいな」
「その頃には、創主は創主で渋谷を利用するつもりでいたんだろうさ。自分達の強力な器になるからね。だから敢えて、眞魔国へと招き…《人間》の世界に落とさせたんだ。しかも、ご丁寧に地球で《人間》の不良どもに便器に叩き込まれるという入念さでね…」
「うっわ…俺にトイレのトラウマをくれたのは創主だったの?嫌な連中だな〜」

 創主は、魔王に人間を憎ませるつもりだったのだろう。憎しみの感情が高まればつけ込みやすくなるからだ。

『おかしいと思ったんだ…。幾ら眞王が根性悪だとは言っても、掌中の珠のように大切に護り育ませた渋谷を、あんな方法で眞魔国へと運ぶなんて…』

 だが、この時には創主にとっての《邪魔》が入った。
 予想外に迅速な動きを見せてコンラッドが有利を救いに到着し、守護してしまったからだ。
 
 その後も、創主にとってコンラッドは随分と目障りな存在になっていったと推測される。
 彼の助力を得て有利は王としての自覚を持ち始め、次々に難題を解決して魔剣や魔笛などのレアアイテムまで揃え始めたのだから…。

 おそらく…コンラッドを有利から引き離し、《禁忌の箱》の鍵となる左腕を移植させたのも創主の影響があるのではないだろうか?
 だが、流石にそれを口にすることは憚られた。

『渋谷が、傷つく…』

 真実なのかどうなのかを確認したところで、今更なんの意味もない。
 
 それに…離反したように見せかけている間、無惨に有利を傷つけてしまったことで心の負債を抱え…今も重い悔恨の念を抱き続けているコンラッドが、《あの命令そのものが、有利を傷つけるために創主が仕組んだことだ》と知れば…より傷つくだろう。
 
『僕はウェラー卿のことを気にくわないけど、それでも…彼を認めてはいるからね』

 少なくとも彼は、有利を護るために村田と同じように我が身を惜しまない。
 その想い故に…創主の張り巡らせた罠の中から有利の肉体と心とを救ったことは、いかな村田と言えど評価しないわけにはいかない。

 そして…何と言ってもコンラッドは、有利にとって無上の幸せをもたらす存在だ。
 コンラッドの傍にいれば、有利は最高の笑顔で笑ってくれる。

 それが、村田の評価基準に於けるコンラッドの《価値》であった。

 ならばその価値のために、余計な事物は掘り起こすべきではないだろう。

「村田…どうかしたの?」
「ううん、何でもないよ。少し疲れただけ」
「うんうん、マジでくたびれたよね!」

 《疲れ》という言葉に反応したのか、有利は《はふぅ〜》…っと長い吐息を漏らして膝を突いた。
 精も根も尽き果てたらしい…。

「ね…渋谷。君、とっても疲れただろう?」

 ぺたりと石畳の上に座り込んでしまった有利に、片膝をついて村田が寄り添う。

「………物凄く正直なところをありのままに言わせて貰うと…すっげぇ疲れた…。お袋の愚痴も大概だけど、800年分の巫女さんの愚痴って…奥が深いよな」
「うん、そうだね。だから…君は絶対に眞王だのウルリーケだのの二の舞になってはいけないよ?付き合う僕がへとへとになっちゃうからね」
「え…?」

 不思議そうに見上げてくる有利の頬を掌でそっと包み込むと、村田はこつん…と額を当てて、しみじみと語るのだった。

「今度だけは、君が満足するまで付き合ってあげる。だから…お願いだよ?絶対に…《永遠に眞魔国を護る》だとか、《世界中を自分の力で平和にしてやる!》なーんて…少年漫画の主人公みたいに盛り上がっちゃうのは止めてくれ。そういう、使命感の異常肥大を来したなれの果てが《アレ》だからね」

 《アレ》扱いされたのは勿論…眞王陛下であり、むっつりと仏頂面を浮かべてカウチに寝そべっている。
 それなりに傷ついているらしい。

「そうは言うがな…俺が何とかしていなければ、この世界はとっくの昔に崩壊していたんだぞ?」
「ああ…そうさ。分かっているから僕は、嫌でも何でも協力しただろう?だが…もう二度と、僕はあんな想いはしたくない」

 一生分の記憶を背負うのだって、老人にとってはとてつもなく大きな重責になったりするというのに、村田は四千年にわたって記憶を継続させられた。
 そして…ずっと忘れさせては貰えなかった。


 この…眞王という男が、誰よりも眞魔国を愛していたことを…。


 どんなに遣り口が気にくわなくても、自分に残酷な選択を迫ってくるのだとしても…この男に抵抗できなかったのは、結局の所そこだったのだ。
 
 《眞魔国を愛している》…その純粋さを、大賢者は結局の所…愛していた。
 
『なんて不幸なんだろうと思ったよ』

 けれど、村田もまた有利に出会ってしまった。
 そして漸く大賢者の気持ちが分かったような気がしたのだった。

『僕は…渋谷の事だけは、ずっと忘れたくはない』

 もう、必要もないから魂を受け継ぐたびに…なんてのはゴメンだけれども、それでも…やはり《村田健》という生涯の中にあっては、決して忘れず刻んでおきたいと思うのだ。
 そこについてだけは、大賢者の想いに寄り添える。
 少なくとも、有利に深く関われたという点に於いてだけは…大賢者と眞王に深い感謝を捧げても良いくらいだ。

『だけど…僕はやはり村田健だから、大賢者とは違う道を歩む』

 大賢者は、眞王がその身を眞魔国の為に襤褸屑のようになるまで使い切ってしまうことに心を痛めながらも、それが眞王自身の望みであるが故に、止めることが出来なかった。

『だが、僕は違う。決して…渋谷を同じ目になど遭わせるものか…!』

 村田個人の身がどうなろうとも、そんなことは構わない。
 だが…有利だけは、眞王と同じ道は歩ませない。

 どんな手を使ってでも、幸せにしてみせる。 

「村田?」 

 焦点が合わないくらいの至近距離からゆっくりと顔を離していけば…村田はいつも通りの顔に戻っていた。

「さあ…血盟城に向かおう。僕は、レオとやらの話を聞く必要があるようだ」
「……苛めないであげてね?」

 怯えたような顔で有利が見上げてくるものだから、村田は皮肉げな表情を浮かべてくすりと嗤う。

「不必要に苛めたりはしないさ」



 《必要があれば…分からないけどね?》最後の呟きを聞いたのかどうなのか…有利はぶるりと背筋を震わせていた…。

 
 

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