第二章 XーB 『初めてユーリを目にしたとき…僕は、その美しさを《不吉》と感じた』 母と兄と…美麗な種族である魔族の中にあっても群を抜く美貌の家族に馴染んでいたはずの瞳を持ってしても、有利の美貌には言葉を失った。 小作りで形良い鼻…やはり小さめだけれどぷっくらとした質感がなんとも可憐な唇…。 若木のように伸びやかで華奢な体つきは、前後を忘れて抱き寄せたくなるような魅力を醸し出していた。 ことに、見事な漆黒の双弁は愛くるしくつぶらで、純粋な輝きは平伏してその情を請いたくなるようなものであった。 魂を抜き取られる…。 そんな恐れを感じさせるほどに、有利の麗しさは想像の範疇を越えていた。 しかも、礼儀作法を修得していないことが丸分かりのがさつな動きから、彼が庶民暮らしであることは明白に見て取れた。 これまでも庶民から魔王が抜擢されることはあったが、それは往々にして魔王の政治嫌い、《お気に入り》の家臣による政治の腐敗…異常な浪費による国庫の危機を招き寄せていた。 しかも、《眞王の指名》という肩書き故に、滅多にその魔王が失脚することはなかった。 あまりの無能ぶりに意を決して反逆を企てた者は、いずれも悲惨な失脚…ないし、死を迎えている…。 『こんな者が魔王になれば、また悲劇が起こるのではないか…』 頭ごなしにそう決めつけて勝手に反感を募らせたヴォルフラムは、何としても有利が魔王に就任する前に、その意志を挫く決意でいた。 『あの時…僕は、それが《正義》と信じて疑わなかった』 《正義》…なんと曖昧で、それでいて人々を官能の渦に飲み込む言葉だろう? 古来より《我こそが正義》と確信しきった者ほど、酸鼻を極めるような残酷な行為に手を染めてきたことを、ヴォルフラムは知識では知っていたはずなのに…自分に当てはめることが出来なかった。 続けざまの《求婚の儀式》に《決闘の申し込み》という出鱈目な行為に激怒し、この無礼な少年を叩き潰すためには何をしても良いのだと…それこそが《正義》なのだと信じ切っていたのだ。 だからこそ決闘の場で幾度も自分の言を違え、ついた筈の勝負を蒸し返すことが平気で出来た。 『なんて見苦しい行為だったのだろう?』 見苦しい。 そう…見苦しい事ばかりだ。 ヴォルフラムが、有利に対してなした行為は…。 その最たるものは…決闘の後、冷静になった頭で自分の行為を反芻した結果、有利の潔さと懐の大きさに惹かれたことで、自らの卑怯さには一言も触れないまま…彼の《婚約者》としてふんぞり返っていたことだ。 彼の《求婚》が、眞魔国の風習に疎いが為の過誤であったことなどすぐに分かった。 なのに…《あれはなかったことにしてくれ》という有利の懇願を無視し続けた。 『このまま…なし崩しに傍に居続ければ、きっとユーリも僕を好きになる』 幼稚な思いこみを、本当に信じていられたのは最初の内だけだった。 有利の瞳が…無自覚なまま誰を見詰めているかなど、傍にいればいるだけ明瞭に感じられるのだから。 ウェラー卿コンラート。 ヴォルフラムの兄。 かつては憧憬の対象であり、有利に会った頃には侮蔑の対象であった男。 彼は、最初から有利に近しい位置にいた。 何もかも分かったような顔をして、有利を丸ごと受け入れているように両腕を伸ばして甘やかせて…そして、時折切ない眼差しで見詰めるコンラートに、ヴォルフラムは相変わらずつっけんどんな態度をとり続けていた。 本当は…何かとちょっかいを掛けてくるコンラートが気になってしょうがなかったくせに、《僕はお前が大嫌いだ》という態度をずっと崩さなかった。 彼を慕う気持ちを認めてしまえば…根拠もなく彼を貶めてきた自分の罪を直視することになるからだ。 だから、ヴォルフラムは決して兄に素直な態度など取るものかと意固地になって…彼が国と王とを裏切ったように見えた間は勿論のこと、帰って来てからも頑なな態度をとり続けた。 『こんな奴よりも、僕の方が絶対にユーリを幸せに出来る』 そう信じていた。 そう…信じて、いたかった……。 その間にも、ヴォルフラムは有利にどんどん惹かれていった。 無茶苦茶をやっているように見えて、結局は信じられないくらい大きな事を成し遂げていく…おそらくは、《天命》を受けているのだろう少年と共に世界を見詰めることは、常に大きな衝撃をもたらしてきた。 今までヴォルフラムが信じ切っていた世界が彼によって塗り替えられていくことを、驚きと喜びを持って歓迎していく自分が以前よりも好きだと思えるようになっていった。 『僕は変わっていっている、ユーリだって変わる…変わった僕を、成長した僕を…愛してくれるはずだ。だから、決してコンラートのもとになど行かせない…!』 だから、見せつけるように《婚約者》であることを誇示し、微笑むコンラートの瞳の奥にあるものを…無視し続けた。 コンラートが有利を見詰める目が日増しに熱さを増していくことに気付いても、ヴォルフラムは彼が決して心を明かさないであろう事を知っていた。 コンラートは決してヴォルフラムの思い人に手を出したりしない。 どんなに酷い扱いを受けたとしても、彼は決して弟を裏切ることなど出来ない。 彼は…ウェラー卿コンラートとは、そういう男なのだ。 分かっていて、甘えて…ヴォルフラムは兄を踏みつけ続けてきたのだ。 その真心と優しさを、泥の中にねじ込んできたのだ…。 けれど、創主を倒した有利が地球へと強制送還された後…やっとのことでヴォルフラムは目が醒めた。 有利を失ったことに次第に慣れていったヴォルフラムに対して…コンラートは決して諦めなかったからだ。 ゆっくりと…けれど、着実に魔石を集めて…とうとう、本当に地球に旅立ってしまった。 愛おしい者の元へと旅立つコンラートに、初めてヴォルフラムは純粋な敗北感を覚えたのだった。 『敵わない…ああ、僕は…この男には生涯勝てないのだろう……』 それが分かっても…ヴォルフラムには婚約破棄の旨を、ヨザックを通じて届けて貰うことしかできなかった。 * * * 「僕は…ずっと、怖かった」 ぽつりぽつりと…彼らしくもない途切れがちな話を締めくくるように、掠れる声でヴォルフラムは呟いた。 「色んなことを認めることが、とても怖かった…。コンラートを認めれば、今まで彼にしてきた行為がどれほど残酷で不条理なものであったか理解してしまう。ユーリの求婚が過誤であったことを認めてしまえば、ユーリとの結びつきが消え失せてしまう…。怖くて怖くて…僕は、逃げていたのだ。ずっと…」 宝玉のような碧の瞳は厳しく眇められ、その苛烈な性質でもって、自分自身を激しく責め立てているように見える。 自分の尺度に合わない事象を無視し…見なかったことにして平気でいられるには、彼の性分は一本気過ぎたのだろう。 「本当は、コンラート自身に言わなくてはならないのだと思う。だが…いつも《今更改めて言うのも…》と、勇気が出なかったのだ。そこで…申し訳ないのだが……その、練習台になって貰えないだろうか?」 「俺でよろしければ、どうぞ…」 思いがけない申し出に、やや緊張しながらも…別にレオ自身は何もしなくて良いのだからと平静に努める。 「…で、では…行くぞ?」 ヴォルフラムは咳払いをして立ち上がると、腰に両手を当てて仁王立ちになり…胸を反らして声を張り上げた。 「……今までのことを、許してくれるのだろうな!?」 しぃ……ん……… 暫く、沈黙が続いた。 グウェンダルは眉間に皺を寄せ、レオは複雑な表情を浮かべて口を歪めている。 笑って良いのか怒って良いのか泣いて良いのか…何とも微妙な心境なのだ。 「…………駄目だろうか?」 「ええと…言いにくいんだが……多分、その謝罪で許してくれる人というのは、かなりの被虐趣味が無いと難しいかと…」 秋葉原用語で言うならば、相当な《ツンデレスキー》でないと難しいというところか。 「そ…そうか……」 「ヴォルフラム…お前が長きに渡って失礼な態度を取られていたとして、今の謝罪を受けて《気にするなよ》…等と笑顔で言えるのか?」 「………難しいですね」 長兄の適切な指摘に、ヴォルフラムの喉が《ぐぅ》…と鳴る。 「それでは…うむ。……コ、コンラート…すまなかった!」 びしぃっと腰を90度に屈曲させて謝れば、なるほど誠意は伝わりそうであるが…。 「ええと、ヴォルフラム…多分、佳境に入ったときの謝罪はそれで良いと思うんだけども…。突然その謝罪だけをされると意味が分かるかどうか…」 「そうか?では……」 その後、延々謝罪の練習は続いた。 一度やり込むと納得が行くまで続けてしまうタチらしいヴォルフラムは、グウェンダルとレオが《もう大丈夫》と太鼓判を押しても満足しなかった。 『折角この僕が数年来の想いを告げようというのだ!中途半端で良いわけ無いではないか!』 そう言い張るヴォルフラムに、レオは次第にこの弟の特性というものが理解できてきた。 『この子は…やはり素直な子なのだ。だが、気が強く、一度自分が正しいと信じたことが後で過っていたことに気付いても、その都度必要に応じて修正するという柔軟性に欠けているから…罪悪感がある分、余計に意固地になってしまうのだ』 だとすれば…本当の弟も、その態度の通りにレオを憎んでいるわけではないのかも知れない。 『少なくとも俺は愛しているのだと…伝えることが出来たなら、何かが変わっていくのだろうか?』 そう簡単に行くとは思えないけれど、それでも…コンラッドは成し遂げたのだ。 レオに不可能ということはないのではないだろうか? 「よし!やはりあいつには言葉よりも態度だな!僕はこれで行くぞっ!!」 いい加減色んなパターンをやりすぎて煮詰まっていたのだろうか…。 ヴォルフラムは叫ぶように決意表明すると、しんみりと物思いに耽っていたレオに向かって強烈なタックルを決めた。 「好きだーっっ!!!」 「うぉっ!?」 ドゴォオン……っっ!! 不意を突かれて吹っ飛んだレオは、グウェンダルのテーブルの上にひっくり返り…ヴォルフラムに押し倒されているかのような体勢で横倒しになった。 「何です!騒々しいっ!!」 ズゴーンっっ!! まるでこの部屋の主であるかのような堂々たる態度で現れたのは、鮮紅色の髪を持つ小柄な女性…フォンカーベルニコフ卿アニシナであった。 「うわぁっ!!」 「何です、大の男がみっともないっ!」 いや…吃驚するなと言う方が無理だろう。 グウェンダルの机は確かに大ぶりで重厚な造りではあるが、その引き出しの幅も奥行きも極々一般的な寸法であり、幾ら小柄とはいえ女性が一人収まるようなサイズには見えない。 なのに、何故だかアニシナは《当然》と言いたげな表情で引き出しから上体を覗かせており、机に乗り上げているレオとヴォルフラムに呆れたような眼差しを送っているのだ。 「まぁあ…よくよく見れば何です?コンラート、あなたユーリ陛下という婚約者がいながら実の弟と禁じられた獣道を踏破しようとしているのですか?どうしてもというのなら止めはしませんが、きっちり陛下を説得なさい。無惨に心を引き裂いて泣かせようものなら…筆舌に尽くしがたい拷問に掛けますよ?あなたは残念なことに魔力持ちではありませんからね。私の崇高な実験の役には立ちませんから…報復という極めて純粋な理由から車裂きにしますよ?」 最初の衝撃が大きく…また、ぺらぺらと良く回る舌について行けず、レオは呆然としてアニシナを見守り続けてしまった。 「フォンカーベルニコフ卿…あなたは一体、どうやってここに?」 「何です?コンラート…あなた、えらく愚鈍な印象ですね。おや…?」 アニシナはレオの頬に手を当てると、ごきりと音を立てて方角を自分側に揃えた。 「いつものコンラートではありませんが、この異常な似かた…。何と言うことでしょう!何を使ったのか知りませんが…このフォンカーベルニコフ卿アニシナをもってしても不可能と言われた《生体増殖》に成功したのですね!?どうやったのです。吐きなさいっ!」 がくがくと揺さぶる力は女性のものとは思われないくらいに強く、レオは頸椎捻挫を起こしかねない勢いで揺さぶられた。 「えぇい…っ!強情なっ!!どうせあなたのことですから、ユーリ陛下をダブルあんあん言わせるために増殖したのでしょう!?いい加減にしておかないと、華奢な陛下を抱き潰してしまいますよ!?私でしたら、その発明を更に意義深いものに発展させることが出来ます。さあ、お吐きなさいっ!」 どさくさに紛れてとんでもないことを言うアニシナに、レオはすっかり困り果てて目を白黒させていた。 「止めないかアニシナ!この男はコンラートがゾウガメミドリプラナリクンのように増殖したわけではないっ!我々の住む世界とは幾らか異なる眞魔国からやってきた別人だっ!」 「何ですって?平行世界の住人…ということですか?」 アニシナはぴたりと動作を止めると、漸くレオから手を離し…《どっこいしょ》と全身を引き出してきた。 「一体…どうやってこんなところから……」 「あまり深く考えすぎるな…アニシナの魔道装置というのはそういうものだ。レオ、お前の世界では目にする機会はなかったのか?」 「ええ、あまりご縁がなかったですね。何か魔道に関わる実験に長けているとは伺いましたが…彼女はあまりカーベルニコフ領から外出しない方でしたから」 「私がカーベルニコフから外出しないですって?」 ぴくりと柳眉を跳ねさせると、アニシナは机の上に仁王立ちになって(降りればいいのに…)、両腕を組んで鼻を鳴らした。 「聞き捨てなりませんね!そちらの世界での私は自閉気味だと言いたいのですか?」 「自閉かどうかは存じませんが、とにかく社交界に顔を出される機会が少なかったのです」 「私も実験に忙しい身ですからね。確かに、社交界等という無駄に着飾った馬鹿どもがへらへらと無目的に踊り狂う場所には顔を出したりはしていません。ですが、王都にはこの図体と魔力だけは無駄に大きいグウェンダルなどがいますからね。出てこないことには実験動力に事欠くではありませんか」 「その辺りの事情はよく分かりませんが…。少なくとも、フォンヴォルテール卿に会うために王都に出てくる…といった関係ではなかったようです」 「……何ですって?」 「何だと?」 よほど思いがけない言葉だったのだろうか? アニシナとグウェンダルが同時に(妙にぴたりと合致したタイミングで)疑問を発するものだから、レオの方が驚いてしまった。 「お二人は…こちらでは仲がよろしいのですか?」 「いいものか!私は何かと言えばアニシナの実験に巻き込まれて、腕が腐ったり空から落とされたり姿を変えられたり…とにかく、とんでもない目にばかり遭わせられているのだぞ!?」 「何を言いますか!私の崇高な実験に好意で付き合わせてやっているのにっ!」 ぎゃいぎゃいと言い争う二人は一般的な《仲の良い男女》には見えないものの、その分…《腐れ縁》とも言うべきものに結ばれた、芸歴の長い夫婦漫才師のようであった。 「それよりも、レオ…私はそちらの世界ではこの悪魔と縁を切っているのか?」 「悪魔とは何です!失礼なっ!!」 「茶々をいれるなっ!」 見事な間合いだ。 「俺も詳しいことは知らないのですが…シンニチ情報によると、確か…数十年前までは確かに、魔道実験に付き合わされていたとのことです。ですが…何か大きな喧嘩をしたとかで、お二人は公式な場で顔を合わせることがあっても口をきくことは絶対に無かったのです」 「喧嘩…?」 「ええ、何でもフォンヴォルテール卿のある発言にフォンカーベルニコフ卿が随分と立腹されたそうで、それからずっと…そのような関係であると……」 「私の発言のせいだと?一体どんな魔法の呪文を使って、アニシナと縁切りしたのだ!?」 「……縁を、切りたいのですか?」 腰に手を当て、上目づかいに睨み付けてくる鮮やかな瞳に…グウェンダルは急に言い淀むようにもにもにと唇を枉げた。 「いや…私はただ、あの無法な実験に巻き込まれたくないだけで…」 「どうなんです?縁を切りたいのですか切りたくないのですか!?」 ずずぃ…っと詰め寄るアニシナに、グウェンダルは気圧されるように一歩引いてしまった。 体格の上では遙かに大きな青年が、華奢な女性に威圧されている姿はまさに《尻に引かれた旦那》だ…。 「…………切りたければ、ここまでお前の実験に付き合ったりするものかっ!」 ぶっきらぼうに投げつけられた言葉はどう聞いても捻くれた愛の言葉にしか聞こえず…アニシナも満足そうに(見ようによっては、獲物を捕らえた猫の顔で…)微笑んだ。 「そうですか。では、切りたくはないのですね?」 「…………そうだと言っているだろう!」 「それは良いことを聞きました。では、遠慮無く…」 「うぉっ!?」 アニシナはがしりとグウェンダルの襟元を掴むと、信じられないような膂力を見せてその身体を引き出しに詰め込むと、はみ出た尻に一発蹴りを入れて流し込んだ。 「それでは、ごきげんよう!」 「え…え?」 呆気にとられるレオの前でパタンと引き出しは閉じた。 恐る恐るレオとヴォルフラムが引き出しを開けてみたが…そこには、筆記用具と編み棒、毛糸しかなく…人どころか犬猫でも収めることは不可能と思われる空間だけがあった。 「………」 「…………」 二人はもう一度パタンと引き出しを閉じると…暫くの間、言葉もなく引き出しを見詰め続けていた…。 |