第二章 XーA







 重厚な家具の中にファンシーな色彩が混ざり込む…ある意味、悪夢にも似た配色の空間で、レオは黙々と手を動かしていた。

 手の中にあるのは編み棒と、毛糸の固まりである。

 その毛玉を編みぐるみ…と呼ぶことは困難だろう。
 有利辺りが思い切り気を使って表現するとすれば、《蓑虫》というところか。

『……自分、不器用ですから………』

 レオはげんなりとして、手元の不格好な固まりを見詰めた…。



 グウェンダルの部屋に入ってから、有利とコンラッドがレオの世界についての説明をしてくれた。
 今後のことは後の話し合いの中で決めていくことにしているから、今のところ、レオの生い立ちやあちらの眞魔国に於ける政治状況などを客観的に語っただけである。

 グウェンダルは内心の動きがどうなのかは分からないものの、淡々と全てを聞き終えた後、小さな溜息と共に《そうか…》と呟いた。

 それきり、彼は何か物思いに耽るように黙り込んでしまった。

 有利とコンラッドが去ってしまった後、残されたレオは暫く手持ち無沙汰に腰掛けていたのだが、不意にグウェンダルが動いたかと思うと…椅子をレオと対面する形に運び、突然問いかけてきた。

『君は、編みぐるみを作ったことがあるか?』
『ありませんが…』
『では、作ってみると良い』

 そう言うと…グウェンダルは編みぐるみの基本形を教え、レオが作りたかったもの…《仔犬》に必要な毛糸を渡してくれた。

 別に《黒犬》と言った覚えはないのだが…渡された毛糸は、限りなく漆黒に近いものであった。

 それからレオは黙々と手を動かしているのだが…真っ黒な毛玉が増殖していくばかりで、犬とか猫とか以前に…何かを模した作品が出来上がっていく気配はない。



「フォンヴォルテール卿…どうも、上手く行かないようなのですが…」
「つまらないか?」
「もう少し、可愛いものができれば楽しいのでしょうが…正直なところ、俺には才能がないようです」
「では、練習することだ。一つくらいはまともに出来るようにな」
「何故です?」
「あちらの世界の、《私》に接近するためだ」
「……!」

 武芸の達人が、弟子に諭すようにその言葉は語られた。
 手に持っているのが編み棒なのがなんだが…。
 
「コンラートは…。む…いや、君もそうか…」

 何と呼びかけたものか逡巡するようにグウェンダルが唸るもので、レオは慌てて訂正した。

「いいえ…俺のことはレオとお呼び下さい。似てはいても…あなたの弟君はこちらのウェラー卿コンラートなのですから」
「そうだな。では…君も、私のことは練習台だと思ってくれ。私は君の兄になることは出来ないが…おそらく、とてもよく似ているのだと思う。だとすれば、攻略方法は同じだ」
「攻略…ですか……」

 自分を攻略対象として器質的に語る男は、やはり政治家として一流の手腕を持つ者らしい表現をする。
 …というより、叙情的な表現が苦手なのかも知れないが。

「コンラートは…幼い頃、とても人見知りをする子だった。君は?」
「多分…一緒だと思います」

 誰とでも朗らかに喋ることが出来るという気質は、全く素因がないという訳ではないのだろうが…多分、意識をして鍛えた面が大きいと思う。
 
 昔は初めて喋る相手に対しては酷く緊張したし、相手が自分のことをどう思っているかがとても気になった。
好きになって欲しい者が相手であれば、一層その傾向は顕著になった。

「あいつと私は兄弟ではあったが、直接顔を合わせる機会は少なく、話す機会に至っては更に少なかった。初めて会った舞踏会の席でも、互いの名前を呼び合ったものの…何を話して良いのか分からずに、そのまま別れてしまった。それから…随分と長い間、兄弟らしい口を利いたこともなかった」
「ですが、今では随分と砕けた雰囲気でしたが…」
「それは、あいつから歩み寄ってくれたからだ。今まで…あまり自覚したことはなかったんだがな…。あいつは、ユーリの…陛下のために、そうしたのだろう?」
「その…ようです」

 先程コンラッドが説明した流れから読み取ったのだろう。
 だが、グウェンダルがその事で不快を顕すことはなかった。

「あいつは異世界から帰って来た後、急に私のところに顔を出すようになった。何を考えているのか分からないが、いつもにこにこして…何処で知ったものやら、《編みぐるみの作り方を教えて欲しい》等と言いだしてな?何日もただ黙々と二人で並んで編みぐるみを作り続けたものだった」
「コンラッドは上手かったのですか?」
「まさか!今の君と一緒だ」

 珍しく、口元を笑いの形に変えてグウェンダルは吹き出した。

「だが、何日も作る内にどうにか形になってな…初めて小さなタヌキを作ったときには、今までの作り笑いでない表情で、初めて弾けるように笑ったんだ《出来ましたよ!》と、誇らしげに微笑んでいた」

 グウェンダルの表情は軟らかく解れ…一瞬、本当に優しい顔で笑った。
 レオがぽかんと見惚れているのに気付くと、すぐに咳払いをしていつもの顔に戻してしまったが…。

「あれから…私たちは不器用ながら、それなりに会えば会話をするようになった。主には仕事上の話だったが…それでも、今までのように腹の中に何か含んだまま擦れ違うということはなくなった。おそらく…コンラートはそうやって、幾多の貴族達のもとを巡っていったのだろう。中にはあからさまに侮蔑の眼差しを送る者もいただろうし、あいつを性的な意味で狙う者もいた。そういった意味では、あいつは君とはまた違った形で苦労してきた男だ」
「そう…でしょうね」

 一見華々しく見えるレオの軍人生活とは異なり、コンラッドが戦後過ごしてきた日々は光輝に欠くものだ。実際、そのことを旧来の友人達には責められたと聞く。
 それでも、泥臭く…先の見えない路を、彼は一歩一歩進んできたのだ。

 その日々が、いつか必ず有利を迎える礎になると信じて…。

「今のあいつと君を分けたものは、偶然によるものも多いだろう。だが、少なくともあいつがやってみて上手く行った事柄については、真似てみるのも悪くはないと思わないか?ああ…ちなみに私は見たとおり強面で通っているからな。いきなり《可愛い物好きでしょう》などと切り出してはいかんぞ?火になって否定するからな」
「はい、心得ておきます」

 こっくりと頷くと、何故かグウェンダルは眉根を寄せた。

「…………そう素直に出られるとやはり調子が狂うな。私には、やはりあのくらい捻くれた男の方が合わせやすいらしい」
「すみません…」

 困った顔をすると、どうしたのだろうか…グウェンダルは口元を押さえて俯いてしまった。
 
「どうかしましたか?」
「いや…何でもない。ところで…君は、あちらで要職に就いている者の中に頼りに出来そうな当てはあるのか?」

 話を逸らせたいのかな…とは思いつつも、やはり何となく素直に従ってしまう。
 憧憬を抱いていた兄の意外な一面に驚きはしたものの、レオを思って語りかけてくれる言葉が、心の隅々にまで染み渡ってしまうからだ。

「最も頼りにしているのはオーディル殿ですが、何しろ俺は謀反人として扱われておりますので…まずはその疑いを払拭しないことには、身を寄せていってもご迷惑をおかけするだけでしょう」
「遠慮も何もなく、泣きつける者は居ないのか?」
「残念ながら…」

 苦いものを噛み砕いたように…グウェンダルの頬がいつも以上に歪められる。

「母も…やはりそうなのか?」
「…ええ。十貴族会議の席で、俺を謀反人と断定して迅速に討伐軍を差し向けるか、ウェラー領に封じ込めて事情を調べていくかで意見が分かれたときも、母は判断を拒否されたそうです。最終的な決定を委ねられることに…あの方の繊細な心は耐えられなかったのでしょう」
「繊細…か……っ」

 かつん…っと、思いのほか強く編み棒が卓上に置かれると、グウェンダルは口元ではなく、目元を押さえてしまった。

「自分の息子が反逆者として処断されるかも知れないという重大な局面にあっても…あの方はそうなのか…っ!全てを、自分以外の者に押しつけてしまわれるのか…っ!」
「フォンヴォルテール卿…」


「すまない…」

 
 一瞬、耳を疑った。
 レオと相対する位置で目元を覆う男の口からその言葉が漏れたと判じるまでには、少々時間が掛かってしまった。
 あまりにも唐突で…何故、彼が謝るのか理解できなかったから…。

「どうなさったのですか?何故…俺に?」
「そうだな…本来は、あちらの世界の私が君に言うべき言葉だろう。だが…せめて今、私から言わせてくれ。家族でありながら…君が最も助けを必要としているときに、何一つしてやれなかった《私に似た者》の言葉として…謝罪をさせてくれ」

 そして、もう一度…今度は目元を覆う手を外し、真っ直ぐに目を見てグウェンダルは言った。

「………すまない……」

「………っ」


 唇が戦慄いて、言葉が出なかった。


 分かっている。
 これは、本当の兄ではない。

 こちらの世界のコンラッドがゆっくりと時間を掛けて心を解きほぐし…兄弟としての信頼を深めていった、別の男だ。

 なのに…どうして、こんなにも心が震えるのだろうか?
 どうして…涙が溢れてくるのだろうか?

「ありがとう…ございます……」

 いつか…レオにも来るだろうか?本当の兄と心を通わせる日が。
 謝ってなどくれなくていいから…唯、共にいて心からの言葉を通じ合わせることの出来る日が。

 ぼろぼろと零れていく涙が頬を伝い、編みぐるみとズボンの上に染みを作っていく。
 有利の胸で泣いて以来…涙腺がどうにかなってしまったのかも知れない。

 グウェンダルは困ったように眉間の皺を深くしていたが、そのうち…ポケットから大判のハンカチを引き出すと、ごしごしと雑巾掛けをするような動作でレオの顔を拭った。
 顔のパーツが外れそうな勢いだが、その不器用な仕草が兄らしくて思わず笑ってしまう。

 ああ…この人は、こういう人だったのだ…。
 とても不器用で、そして…やさしい。



 コンコン…

 扉を叩く音が軽やかに響く。

「兄上、入ってもよろしいでしょうか?」

 記憶にあるものよりも穏やかな響きを持った声が、入室の許可を求めてきたが…せっかちな性分を反映させてすぐさま扉は開かれてしまう。

「兄上…?」

 入ってきたのはヴォルフラムと、滑らかな褐色の肌を持つ妙齢の女性であった。
 
「…………………どう……なさったんです……か?」
「まあぁ………」

 ヴォルフラムは伸びやかな背を撓らせて仰け反り、心なしか妙な汗を額にかいている。
 女性はと言うと、掌を口元に当てて…アーモンド型の大きな瞳をキラキラと輝かせていた。

『……?』

 奇妙な二人の様子にきょとんと目を見開いていたレオだったが…ふと、壁に掛けられた大鏡を見て納得した。
 なるほど…体格に優れた男が涙を流し、それを眉間に皺寄せた男が黙々と拭いている姿というのは実に奇妙なものだ。
 しかも、レオがこちらの世界のコンラートだと思われているとすれば、その弟や顔見知りの女性としては戸惑うこと甚だしいだろう。

「お初にお目に掛かります。みっともないところをお見せしてしまい、失礼致しました…。俺はレオンハルト・ライバークと申します」
「あ…そ、そうか…ユーリが救ったという……」
「まあ…本当にそっくりなのですね!」
「驚かせてしまって申し訳ありません。身の上相談に乗って頂きましたところ、フォンヴォルテール卿のお言葉にいたく感動してしまいまして…」

 レオの言葉に、ヴォルフラムは目をかっぴろげて驚愕した。

「おお…なんと純粋な御仁だろう!」
「いや…その。普段はそのようなことはないのですが…少々込み入った事情がありまして…」
「いや、込み入った理由があろうが煮込んだ理由があろうが、コンラートでは想像もつかない反応だ」
「…………そうですか?」

 コンラッド…。弟に、一体どういう印象を持たれているのだ?
 うっかりそんな感想さえ抱いてしまうが…すぐに改める。

『いや…こんな軽口を叩ける事自体が、コンラッドが築き上げた関係なのか…』

 レオとその弟の間にはその様な関係などなかった。
 ない…以前に、お互いの本心を伝え合う努力さえしていなかった。

『俺は…これ以上傷つきたくなくて、逃げていたのではないだろうか?』

 《二度とお前を兄などと呼ぶものかっ!》…鋭い叫びが脳髄を引き裂くたび、弟の愛を求めることが恐ろしくなった。
 
 今もレオの頭蓋内には、幼く…苛立たしげに眦をあげた弟の姿が投影される。
 一瞬…目眩を感じるが、《いま、対峙しているのは俺の弟ではない…》そう言い聞かせて、冷静な表情を保った。

 幸い、ヴォルフラムの方はレオの心情には気付かなかったようで、にこやかに自分と女性とを紹介してくれた。
 
「失礼しました、お客人。僕はフォンビーレフェルト卿ヴォルフラム、こちらは…妻の、グレタと申します」

 紹介された女性はしなやかな体つきをしており、清楚な水色のドレスがよく似合う。くるくると細かくカールした髪を品良く纏め、若いながら家庭を持つ女性独特の落ち着きを纏っているのも好ましい感じだ。

 しかし…。

『グレタ…?』

 最初はグレタの凛とした美しさを素直に愛でていたレオだったが、紹介された名にふと違和感を覚えた。

 家名を何よりも尊重していたヴォルフラムが…その妻として迎えた女性の家名を口にしないとはどういう事だろうか?
 それに…この女性は、もしかすると……。

 レオの動揺に気付いたように、グウェンダルがさり気なく説明を添えた。

「レオ、グレタは今は無きゾラシア皇国の遺児で、縁あってユーリの養女として育った娘だ」
「…っ!」

 ゾラシア皇国と言えば、禁忌の箱が開く以前に滅びた…人間の皇国だった筈だ。
 一体どういう縁で結びついたのかは分からないが…身分の高い女性であったにしても、このヴォルフラムが人間と恋仲になるまでに、一体どのような変遷があったのだろうか?

『随分と凛々しい青年に育ったものだ…』

 改めて見てみれば、ヴォルフラムは鮮やかな存在感を持つ好青年に育っていた。
 郷里の弟は、常に何かに怒り…やるせない不満を抱えているように見えたものだが、こちらのヴォルフラムは芯に力強い確信を持ち、伸びやかな心を持っているように見える。

『ユーリと…コンラッドなのか?やはり…』

 そうとしか考えられない。
 何が彼を変えたのか…。逸る心を察するように、グウェンダルが話を進めた。

「グレタ、すまないが…少しの間、我ら三人だけで話をしても良いだろうか?」
「はい、それでは失礼致します」

 グレタは訳も聞かず、完璧な貴婦人の所作を見せて退室した。
 残されたヴォルフラムは一瞬不思議そうな顔をしたものの…自分を見詰めるレオの眼差しに何か感じたのだろうか?表情を変えて呟いた。

「レオンハルト殿…君は、どういう者なのだ?ただコンラートに似ているというだけではない、何かが君にはあるのか…?」
「その話を…させて頂けますか?」

 レオは静謐な笑顔を浮かべると、噛みしめるように言葉を紡ぐのだった。

「俺も…とても、あなたに伝えたいことがあるのです。そして…お聞きしたいことも…」

 

*  *  *




「なんという…」

 グウェンダルとレオから一通りの説明を受けたヴォルフラムは、暫くのあいだ言葉もなく固まっていたが…漸く一言を口にすると、その言葉の響きに自ら驚くように身を震わせた。

「ユーリのいない…世界」

 その言葉の重さに、背を拉がれる。

『兄上はともかくとして…僕は、きっと直視に耐えないくらいの愚か者なのだろうな…』

 母と伯父とが未だ治め続けている眞魔国。
 禁忌の箱に引き裂かれ、古くからの差別意識が最も醜い形で露呈した眞魔国。
 昔と変わらぬ《自分》が、何が克服すべき問題であるのかも分からずに苛立ちを抱えて過ごしているだろう、眞魔国…。

『なんて、恐ろしい…っ!』

 言いしれぬ寒気が背筋を襲い、慄然として膝元の布地を掻き寄せる。
 無意識に噛みしめた唇から、淡く鉄の味が広がった…。

「教えて頂きたい、フォンビーレフェルト卿…。あなたは、何故そんなにも変わることが出来たのですか?」

 レオの真摯な問いかけを受けて、ヴォルフラムは漸く驚愕の縁から意識を取り戻した。
 なんと答えて良いのかすぐには分からず、救いを求めるように周囲を見やったのだが…静かに見守る兄の眼差しに、いま自分が何をすべきなのかを悟った。

「ユーリが…いたからだろうな」
「初めて会ったときには、とても険悪だったと伺っておりますが…」
「ああ…レオンハルト殿、改まった物言いはやめてくれ。あなたは異世界から来られたとはいえ、僕にとってはとても近しい存在なのだ」
「では、俺のこともレオと呼んで貰えますか?」
「了解した」

 こくりと頷いてから、ヴォルフラムは紅茶を啜ると…幾らか冷めてしまったその温度を残念に思いつつも、微かに残る温もりを追うように茶褐色の液体を胃の腑に送る。

 身体の奥を多少なりと暖めねば、思い切って語ることなどとても出来ないと思ったのだ。

『僕は…この年まで、結局一度も正式に謝罪をしたことがなかったのだな…』

 改めてその事を突きつけられた気がする。

 有利もコンラートも、決してヴォルフラムを責めることはなかったから…まるでそんなことは無かったように振る舞ってきたけれど、そんなことは決してないのだ。

『罪は、罪だ…。僕は、無知による愚かしい罪を犯し…そしてそれら全てを忘却しようとした罪人でもある』

 思い出すには勇気が要る。
 だが…敢えて記憶を遡り、自分の愚かさと対峙しよう。

 せめて、その行為がとても愚かしい事なのだと理解できるようになった、自分の成長を祝福できるように…。





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