X.王都







 ゴトトトン……
 ゴトト…ゴトトン……


 馬車の車輪が石畳の上で立てる振動にも身体が慣れてきた頃…レオは横たえていた身体を起こして窓の外を眺めた。

 併走している騎兵団が、号令を掛け合っている声が聞こえてきたからだ。

 窓に掛けられた厚手の布を払って外を伺うと…空はそろそろ白み掛けており、切り立った尾根が刻々と色調を変えつつある。
 ひゅう…っと屋外から吹き込んでくる空気は冷たく、ほぅ…っと吐くレオの息が白く棚引いていった。

「カルパス、もう近いのか?」

 最も近い位置を併走していた騎馬兵に声を掛けてみた。

「ええ、レオさん。もうじき王都に入りますよ。次の夜はしっかりした寝台で眠れますよー」
「それは嬉しいな」

 親切な警備兵カルパスは陽気に声を掛けてくれるから、レオもにこやかに笑顔で返すけれど…王都の寝台でゆっくりと眠りを満喫できるかと言えばやや自信がない。

『それでも、故郷に比べれば安全性が高いだけましか…』

 些か情けない感慨ではあるが…。
 レオを生み出した国は、物心ついたときから安心して眠れる場所ではなかった。
  
 自由人たる父と共に…眞魔国のみならず、人間の国々も駆け回ってきた日々がレオの精神基盤を作ったとすれば、今に至るこの用心深さや猜疑心を育んだのは、王都とそこに住まう人々だろう。

 実の母や乳母、館に住まう召使い達は優しくレオに接してくれたけれど、彼らには複雑な生い立ちを持つ少年を保護する力…あるいは、《護らなければならない》という状況把握能力に欠けていた。

 宮廷では魔王陛下の息子として寒気がするほどのおべんちゃらを降り注がれる反面、一歩母の傍を離れれば、有形無形の悪意をぶつけられた。

 精神的に不快を覚えていると示される位ならまだ良い。中には、宮廷の中で同じ空気を吸っていることがそこまで嫌なのか、幾度も刺客を差し向けられたり、誘拐されかけたこともあった。

 軍人として身を立て《ルッテンベルクの獅子》とまで呼ばれるようになってからは、レオを含め、混血でも有能な士官は重く扱われるようになっていったものの…結局、その扱いもほんの数刻のやりとりで瓦解してしまった。
 
 フォンシュピッツヴェーグ卿シュトッフェル…フォンビーレフェルト卿ヴァルトラーナ…レオの仇敵とも言うべきあの男達は、この世界ではどのように変わっているのだろうか?

 
 フォォォォォ……
 フォォォォォォ………っ!


 高らかに響き渡るその音は、王都を守護する防御壁上で吹き鳴らされる角笛であった。
 味方を歓迎する祝福の音に、突き上げるような懐かしさを感じることに驚いた。 

『あんな故郷でも…やはり懐かしいものなのか……』

 正確には、今から訪れる場所は故郷そのものではないのだけれど…。

「おい、どうしたよ?」
「王都が近いらしいぞ?」
「ああ…こんなのんびりと馬車なんぞに揺られて到着すんのは初めてだな…」

 ギィもまた複雑な想いを覚えるのか、寝床からゆっくりと身を起こすとレオに並んで窓の外を伺った。

 赤みを帯びた高い壁がそそり立ち、登り始めた朝日を受けて眩しいほどに輝き始める。
 かつてはその中にどろりとした巨悪を孕んでいるように見えたものだが…あの魔王陛下が君臨すると思うからだろうか?その姿は誇らしく…なんとしても民を護ろうという決意を秘めているように見える。

『王都…か』

 不安と期待を迎入れるように、ゆっくりと跳ね橋が降ろされていった…。



*  *  *




「陛下…ああ、陛下ーっ!」

 血盟城に入るなり、駆け寄ってきたのは美貌の王佐…フォンクライスト卿ギュンターであった。

『珍しいな…。フォンクライスト卿が全力疾走するなんて…』

 懐かしい顔を馬車の扉越しに覗きながら、レオは様子を伺った。まだ気安く動くことはできない。
 ここからはレオとギィの存在をどう提示していくのか、有利とコンラッドのやりように任せなくてはならないからだ。

「ゴメンね、ギュンター。心配掛けちゃったね?」

 馬車から降りた有利が、心なしか顔色を青ざめさせ…じり…っと後方に躙り寄っていくのが不思議だ。
 コンラッドも笑顔を浮かべつつ、そー…っと有利とギュンターの間に立ちはだかろうとしている。

『苦手なのか?』

 多少口うるさいところはあるが、古今東西の知識に富み、状況判断も確かなギュンターは王佐として確かな技量を持っているはずだが…。

「陛下…ええ、ええ…心配しましたともっ!一体、何があったのですか?空間の狭間で得体の知れない男達を拾ったと聞きましたが…。何でも、コンラートとヨザックにえらく似ているとか…。尋常な事とは思われません!」
「うん、詳しいことは後で説明するね?色んな事…あんたにも相談したいんだ…」

 有利はギュンターの顔を見て、これから為さねばならない事をより現実的に感じたのだろうか?もしかしたら当分会えなくなるかも知れない男の顔を見て、微かに目尻が潤んだのが分かる。

 黒瞳に水膜を滲ませ…伏し目がちになった有利というのは思わず息を呑むほどに美しく…レオも…隣で様子を伺っていたギィもごくりと喉を鳴らす。

 目の前で見ていたギュンターにとっては、更に強烈な破壊力であったらしい。
 肩がぶるぶると震えたかと思うと…一気に頬が薔薇色に紅潮していく。
 
「べ…べいがぁぁぁあ〜〜っっ!!」
「うわぁぁぁぁっっ!!」


 ぶしゃああーーっっ!!
 

 ギュンターの顔から突然噴き上がった鮮血に、《すわ、一大事》と馬車の扉を蹴破る勢いでレオとギィとが駆けだしていく。
 襲撃によって顔面に矢でも打ち込まれたのかと思ったのだ。

「フォンクライスト卿…っ!」
「閣下…っ!!」

「ぼへ…?」

 緊張しきった顔で駆け寄る二人とは対照的に、鼻から下を真っ赤に染めたギュンターは驚愕のあまり呆然としていた。

「フ……フォン…クライスト…卿?」
「ええと…そりゃあ……鼻血?」

 勢いよく出ては来たものの、想像を絶するギュンターの顔貌に怖れをなし…レオとギィとはじりっと後退してしまう。
 アルノルドの血飛沫の中を乗り越えてきた彼らだのに…たった一人の男の鼻血にここまで動揺することになろうとは…。
 菫色の瞳はこの上なく美しいのに…秀麗な美貌の下半分が血染めになっているのだ。

 本人が平静な顔をしているだけに…………怖いっ。
  
「ぼば〜…なるぼど、ごればよぐにでまずね〜……」
「ギュンター…ね、服着替えておいでよ。その綺麗な顔が汁まみれになってる姿は、初心者には厳しすぎるよ……」
「ば…ごればじづれいじばじだ……」

 恐縮しきったギュンターはハンカチで顔半分を覆うと、小走りに駆けていった。

「い…今のは……」
「うん…あのね?誤解がないように言っておきたいんだけど…。ギュンターはいつもああな訳じゃないんだよ?」

 わなわなと顔色を失っているレオに有利が慌ててフォローを入れようとすると、コンラッドもこほんと咳払いして補足した。

「そうそう、ちょっと…いや、かなり双黒フェチというか…陛下フェチなだけなんだよ…」
「フェチ?」
「偏執的に好意を寄せることだよ」
「偏執……」

 レオはくらりと目眩を感じてしまった。
 見てはいけない…聞いてはならないことを知ってしまったような気がするのだ。

 レオの中にあるフォンクライスト卿ギュンター像が…それはもう見事なほどに、ガラガラと音を立てて崩れていく。



「騒がしいな…」

 カッ…カッ…カッ……

 覚えのある規則正しい軍靴の音と、腰に響く美声が背後から聞こえてくる。
 石造りの回廊から発せられた音が、籠もったような反響を伴いながらレオの耳へと伝わってくると…《幸い》と言うべきだろうか?先程の衝撃的な映像は瞬時に意識から抹消された。

「あ、グウェン!」

 存在を決定づける有利の声に、ドキン…っとレオの胸腔内で何かが弾む。

 懐かしい、兄の深蒼色の瞳に自分はどう映るのだろうか?
 弟に似せた不審者と映るのか、それとも…

 ゆっくりと振り返った先で、グウェンダルの瞳が流石に驚きを示して開かれる。
 その眼差しの中に嫌悪が無いことに…まずは安堵した。

 グウェンダルは暫く言葉もなく腕を組んでいたが、視線の動きだけで弟と…よく似た男とを見比べると、《ふむ》…と不思議そうに小首を傾げた。
 
「似ているな…随分と」

 ギュンター同様ある程度の情報を受けていたせいか、グウェンダルは自分が思い浮かべていた印象との差違を確かめるようにまじまじとレオを見詰めた。
 目の当たりにするまでは《得体の知れない男達》として警戒していたのかも知れないが、今のところレオを見る瞳には好奇心しか浮かんでいない。

「お初に…お目に掛かります。フォンヴォルテール卿…。俺は魔王陛下に救って頂いた者で、名をレオンハルト・ライバークと申します」

 横で、やはり動揺を隠しているらしいギィが名乗っている。

 眞魔国公式の敬礼を端然と向ければ、やはり優雅な仕草で答礼が寄越された。
 グウェンダルは堂々たる体躯に見慣れた深緑の軍服を纏っているが、その胸には確かに宰相の身分を示す勲章が掛けられている。

 やはり、能力在る人材が、然るべき地位についているのだ…この国では。

 改めてその事を確認すると、喜びと共に忸怩たる思いも過ぎる。グウェンダルという逸材が長きに渡って国の実権から遠ざけられているレオの国は、やはり歪(いびつ)にゆがまざるを得なかったのだろうかと…。

「……」

 レオの実感をどう受け止めているのだろうか?グウェンダルは長い指を逞しい顎に当てると、何かを思い出そうとするように瞳を眇めた。
 
「初めて…なのだろうか?妙なものだ。不思議と…そういう感じがしない」
「そうですか?」

 グウェンダルは不審げと言うよりは、どこか懐かしさを滲ませた眼差しでレオを見詰める。
 レオの方も、柔らかさを含んだ眼差しの前で…子どもの頃のようにどきどきと胸の鼓動を感じ続けていた。



 昔…初めてグウェンダルと顔合わせをしたのは、母の開いた舞踏会でのことだった。
 遠目に見ても威風堂々としたグウェンダルが自分の兄なのだと教えられて、ときめきながら声を掛けることを夢見ていた。

『このひとが…おれの、おにいさん……』

 顔を合わせた兄は微かながら笑みを浮かべてくれたから、レオは思い切って《グウェンダル》と呼びかけてみた。
 そしたら、兄もまた独特の声音で呼んでくれたのだった。

 《コンラート》と…。

 あの時の感動は、今でもこの胸を熱くする…。



「ふむ…君のような年頃の者にこういう表現をするのは失礼だとは思うが、コンラートが幼い頃に感じが似ている」
「弟君に…ですか?」
「ああ、まだ私を兄として素直に慕っていた頃だ…」
「ちょっと待って下さい、グウェン…それではまるで、俺が今では慕ってないみたいではないですか」

 あんまりな物言いにコンラートが苦笑しながら声を掛けると、グウェンダルは何処まで真面目なのか…眉間に皺を寄せて苦言を述べた。

「素直にと言っただろう?まあ、今のお前にあまり純朴に慕われても気色悪いがな」
「おやおや…心外ですねぇ」  
「ここまで似ているのだ。おそらく何か事情があるのだろう?こんな場所で立ち話も何だ。後で、ゆっくり聞かせてくれ」

 労るような声を受けて、レオは目元が潤みそうになるのをなんとか堪えた。
 異世界の兄が、自分を他人ではなく…近しい者として認識してくれたことが胸に沁み入ってしまったのだった。



*  *  *




「何だか…閣下ってば随分と丸くなってるみたいだな」
「ああ…」

 客室に通されたレオとギィは上質な衣服を何枚も渡され、その中から特に気に入ったものに袖を通している。
 先程メイドが運んできた紅茶を口に運ぶと、芳醇な香りが舌と鼻腔とを癒していった。
 
「ユーリと…コンラッドの影響なのだろうな」
「あの魔王陛下はともかく、コンラッドもそーなのか?」
「ああ、彼はユーリの魂をチキューへと運んだ後、ルッテンベルク師団を精強にしていく代わりに力在る貴族の仲介を進め、シュトッフェルを摂政の地位から追い落とすべく尽力したんだそうだ。その過程で、フォンヴォルテール卿とも友好を深めていったらしい」
「羨ましいかい?」
「まぁ…正直、な……」

 こくりと最後の一口を飲みきると、舌に心地よい苦みが残る。
 だが、心に感じた苦みは何とも言えないえぐさを残した。

『兄の好意が欲しいのなら…俺は、もっと積極的に歩み寄るべきだったのではないだろうか?』

 あちらの世界のギュンターにも何度もそう諭されたのに、レオはそうしなかった。
 
『何故だろう…』

 今になって、やっと真剣に考えてみると…やはりそこには無駄な矜持があったのではないかと思う。
 兄の歓心を買おうとして必死になっている自分…そういうものを客観的に見る年頃になったとき、レオは急に羞恥を覚えるようになった。
 一生懸命話し掛けても、無愛想な兄が自分と同じだけ話したがっているようには見えなかったし、一年とる頃にもなると、レオの耳には余計な情報が多く流入するようになってきた。
 
『フォンヴォルテール卿グーデンドロゥは愛するツェツィーリエ様をダンヒーリーに奪われ、息子にも毎夜のように恨みを語っているらしい』
『誇り高き純血貴族であるグウェンダルは、混血の弟の存在を忌避しているそうだ』

 それらは全て伝聞でしかなく、グウェンダルの口から直接聞いたわけではない。
 それでも…若いレオにとって、自分を憎んでいるかも知れない男に擦り寄っていくことは、とても《格好悪い》ことだった。

 本心がどうかなど、向こうから明かしてくれない限り決して自分から尋ねていったりはしない…。
 そんな決意を、いつの間にか固めていたのではないだろうか?

『俺は…無意味な決意のために歩み寄ることが出来なかったのだろうか?』


 
 コンコン

 控えめなノックの音が響き、愛らしい声が響いた。

「レオ、ギィ。入っても良い?」
「ユーリ!?」

 血盟城の中では流石に王として振る舞うのかと思っていたレオは、有利が直接来訪してきた事に驚きを隠せない。

 扉を開けると、黒衣に身を包んだ有利がコンラッドと共に佇んでいた。

「どうしたの?」
「うん…あのね?俺とコンラッドは今から眞王廟に向かって、俺の友達の村田って奴を地球から呼ぼうと思うんだ。んで…そのまま話をしたりしようと思うからさ…もしかすると、少し遅くなるかもしんないんで、知らせとこうと思ってね」
「そうか…」

 《ムラタ》といえば、《双黒の大賢者》だった筈だ。
 この国の動向に大きく関わる人物であると同時に、魔王の個人的な友人ともなれば、全体で話し合いをする前に確認しておかなくてはならないことも多いだろう。
 
「それでね?ここで俺達をただ待ってるのもどうかと思ったんだ。良かったら…グウェンの部屋に行ってみない?ギィには悪いけど、レオだけで」
「え……?」
「そしたら、昼くらいにはヴォルフもここに着くはずだから、みんなで色んな事話してみたらどうかな?全体で話す前に、やっぱ近しい奴同士で交流しとくのって良いと思うんだよね。あっちの世界に行ったときにも何か参考になるかも知れないし」

 それは確かに、益のあることだろう。
 それでも…いきなりの三者会談にレオの頬には緊張が走る。

「そうだな…」
「うん、そこまで緊張しなくて良いからね?ちょっと最初は吃驚するかも知れないけど、こっちで知っとくと親しみ易くなると思うし…」
「……?」

 有利の言葉の意味が今ひとつ掴みきれないが、もしかすると…ギュンターのように、グウェンダルにも意外な面があるということだろうか?
 
「ね、行こう?」
「ああ、分かった…。だが…」

 逡巡するように言葉を濁すと、有利は安心させるように…閃くような笑顔を向けてくれた。

「うん、最初は俺達も行くよ。流石に、いきなりレオだけが《実は異世界の弟なんです》なんて言っても信じて貰いにくいもんね」
「ありがとう…」

 心からの感謝を込めて一礼した。
 信じて貰えないだけならともかく…何処か優しさを含んだあの眼差しが、冷え切った疑惑を浮かべるのには耐えられそうにないからだ…。



*  *  *




 こうして、レオは有利とコンラッドに連れられて回廊を進むことになったが…グウェンダルの部屋の扉が開かれるまではかなり張りつめたものを感じていた。
 
 トントン…

「グウェン、入っても良い?」
「………どうぞ」

 《ちょっと返答までに間があったような》…と思いつつ、扉を潜ったレオは……。
 部屋の中に通されて、一瞬ここが何処なのか忘れてしまいそうになった。

『………………人形?』

 グウェンダルの持つイメージ通りに重厚な調度品が並べられる中…深い飴色の棚に並べられているのは、色とりどりの人形群であった。
 よく見ると、その人形達は布地を縫い合わせたようなものではなく、どうやら毛糸を編み込んだものであるらしい。

『何故、こんなに大量の毛糸人形が…』

 少女趣味の恋人にでも貰ったのだろうか?
 それにしても随分と不細工な人形ばかりだ。こんなものをずらりと並べるくらいだから、相当愛おしい女性なのだろうか?いや…意外なところで男性なのかも知れないが…。
 ついつい、先程のギュンターの件もあるので色んな想像やら妄想が頭の中を駆けめぐってしまう。
 

 その内…とうとう、レオの瞳は認識してしまった。

 
『……………編み棒と…人形?』

 信じられない…。

 重厚な造りの椅子に腰掛けたグウェンダルの手元に、編み棒があり…せっせせっせと編んでいるものが、辺りに並べられた人形と酷似したものだなんて……!


『あなたが作ってたんですかーーーっっっ!!!』


 血塗れのギュンターを目の当たりにしたとき以上の驚愕に、脳天で何かが噴き上がるのを感じる。
 
「ええと…まぁ、そんなことで…ね?」

 半笑いの有利とコンラッドに見守られながら、暫くの間…レオは言葉を忘れていた。





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