第二章 WーB







 くたりと脱力した有利の身を清めると、ふかふかのタオルで丁寧に拭いて夜着とやや厚手のガウンを羽織らせる。
 情交の名残を湯に流すと、コンラッドは意識こそあるものの…どこかほわほわと頼りない様子の有利を横抱きにかかえてテントの外に出た。

 蒸気の中で熱いほどだった身体に秋の夜風が触れると、濡れて張り付く軍服があっという間に冷たくなっていく。
 有利を湯冷めさせないよう、早く馬車に入れてあげなくてはなるまい。

「少し湯当たりされたようだ。すまないが、湯殿の後始末を頼めるかな?」
「はい!了解致しました!」

 びしりと背筋を伸ばして敬礼するカルパスに、コンラッドはおざなりでない答礼を返した。

 おそらくは…くぐもる嬌声を漏れ聞いたであろうカルパスは、コンラッドが思ったとおり任務に誠実な男であるらしい。
 コンラッドに向かってニヤつくでなし、有利に向けて懸想を滲ませるでなし…首筋まで真っ赤にしながらも大真面目な顔をして敬礼し続けている。

「では、頼むよ」
「はいぃっ!」

 大きな声にくすりと苦笑を寄越しながら、コンラッドは冷えた夜気から主を護るようにして、足早に馬車へと向かった。



*  *  *




『う…っ』

 レオの目には触れぬように、悦楽のあまり茫洋とした有利を隠してしまおうとしたのだが…こういうときに限って、間の悪いこの男は居合わせてしまうらしい。

 夜の散策中と思しきレオはコンラッドと有利に気付くと一瞬微笑みかけ…次いで、強張った表情を隠すように拳で口元を拭い…その後は、何事もなかったような顔をしていた。

 だが…その体腔内に渦巻いているだろう複雑な心理は、コンラッドには痛いほど伝わってきた。

「やあ…散歩かい?」
「ああ……」

 ひゅるぅうう〜〜………

 気まずい空気が互いの間を吹き抜けていく。

 
『タスケテーっっ!!』


 思わず叫びたくなってしまうコンラッドに、レオは苦い笑みを浮かべて見せた。

「そんなに…気を使わなくて良いさ」
「そうか……?」

 言われて、サラッと出来るならしたいものだ。

 実のところ…コンラッドにとってレオという男は、実に微妙なラインに立っている。

 レオは、憎むことの難しい男だ。
 一生懸命やっているのに…巡り合わせの悪さからか、貧乏くじを引きまくっているこの男を何とか助けてやりたいと思うし、コンラッドが救えなかったルッテンベルクを強壮に育て上げ、大切な男達に納得のいく死をもたらした事には感謝の念さえ覚えている。


 だが…問題は、互いに同じ少年を愛してしまったことだ。


 有利を…素晴らしい強さを持っているけども、物理的には保護を必要とする子どもとして、護り育みたいと…ただ《愛おしい》という想いだけをもっていたのならば事は簡単だった。
 心から有利を大切に思う者となら、誰とでも宥和することが出来たろう。

 だが、コンラッドが有利に抱いてしまった欲望の中には、誤魔化しきれないほど狂おしい《性欲》がある。

 明確な肉欲…その、何とも始末に負えない劣情ほど、古今東西人々を悩ませてきたものはないだろう。 

 今日も、ふと自分がいない場所で有利とレオが仲良さそうにじゃれ合っている情景を目にして、二つの感情が同時に沸き上がってくるのを感じた。


 一つには、《微笑ましいな》という気持ち。
 もう一つは…焼け付くような嫉妬だった。


 レオが、有利をコンラッドの恋人と認識した上で気を使っているのは分かる。
 だから、彼はあくまで…内心に秘めた想いはともかくとして、少なくとも表面上は《友人》として有利に触れていたに過ぎない。

 なのに…二人が仲睦まじげに語り合い、触れあう情景を目にした途端、コンラッドの手の中にはコントロールできない汗が滲みだしていた。

 今はまだ、大丈夫。
 レオは、有利に《雄》として認識されていない。
 そう言い聞かさせても、込み上げてくる感情…《不安》がある。
 
 何故なら…コンラッドとて、かつては有利との距離感が今の彼らと同じだったからである。

 有利がコンラッドを《雄》として認識したのは、多分に偶然によるものが大きい。
 悪夢の中でコンラッドを求めて泣く有利に口吻けた夜、深く…生々しく《肉体》というものを意識した有利は、生まれて初めて射精をしたのだった。

 心がそうと認識する前に、極めて物理的な刺激によって目覚めた有利の性は、否応なしにコンラッドを《雄》として捕捉し、自分もまた情欲を持つ《雄》なのだということに気付いた。


 その劇的な変化が、レオに対して起こらないという保証があるだろうか?


 ならば、その芽を潰すべく動けばいい。
 なんとしても有利がレオの世界に旅立つことを阻止し、物理的に引き離せばいいのだ。

 けれど、コンラッドにはそれも出来なかった。
 そうするにはレオという男に感情移入しすぎているし、何より…有利の意思を尊重したいという切なる願いがある。

「んー…レオ?」

 会話に気付いた有利は、とろりと夜の中に溶かし込んでいた意識を何とか取り戻したものの、その表情はやはり軟らかく蕩けていた。

「ユーリ…もう、眠いのかな?」

 労るような囁き声が心地よいのか、有利はミルクをたっぷり呑んだ仔猫みたいな顔で《ふにゃ…》っと欠伸した。

「うん……何か、目がとろとろしてきたよ…」
「持ち良さそうだね……」
「んー……」

 とろりとろとろと夢心地の有利とは裏腹に、コンラッドは居たたまれ無さで一杯であった。


 昔…ヴォルフラムが気にしていた女性がコンラッドに首っ丈だったことがある。舞踏会で弟が声を掛けようとして逡巡しているのをはらはらと見守っていたのだが、積極的なその女性は真っ直ぐにコンラッドのもとに駆け寄ってしまった…。

 泣きそうなヴォルフラムの目の前で、その女性と踊らざるをえなくなったあの時に近い心境だ。


 すぅ…
 すぅ……

 健やかな寝息をたてる有利を見守りながら、レオは柔らかさと苦みが混じる眼差しをコンラッドに向けた。

「本当に…あんたが気にする事じゃない。横恋慕だということは俺も自覚しているし、自制はできる筈だ」

 頑ななレオの言葉に、コンラッドは喉奥に出掛かるものをようよう飲み込んだ。

『誰かを好きになるということは、そんな風に理性でどうにかできるものだろうか?』

 言って…自覚させてどうなるというのだろう?
 レオと有利が二人きりで居ることすら赦せない自分がそれを口にすることは、余計にレオと自分とを追いつめるだけだ。
 
 理性の力で押さえられるというのなら…それを信じるほかないではないか。

「おやすみ、コンラッド…」
「ああ……」

 背中に哀愁を漂わせながら、レオは独り…夜の中を歩んでいく。
 互いにとって気まずい逢瀬は、微妙な間合いを残したまま擦れ違っていくのだった。



*  *  *




「んー……」
「ああ、すみません。起きてしまいましたか?」

 馬車の座席部分を折り畳んで寝台に変化させた床面には、既にふかふかの布団が敷かれていたのでそこに有利を横たえようとしたのだが…母の手から離れた赤子のように、有利は触れているものの変化に気付いて目を覚ました。

 やはり傾眠状態にはあるらしく、うとうととはしているのだが…幾らか自分の状況は察して、コンラッドに労いの言葉を寄せた。

「ゴメンな…ここまで運んでくれたんだ」
「いいえ、こちらこそ…旅路の途中に無茶をさせてしまいましたからね」

 コンラッドの指先に、額へと落ち掛かった髪を掬い上げられながら…有利は先程まで情事に耽っていたとは思えないほど澄んだ瞳で、じぃ…っと恋人を見詰めた。

「ねぇ…コンラッド」
「なんです?」
「あのさ?今日…俺とレオが話してるとき、変な感じしたんだけど…。どうかしたの?」

『何でもないですよ』

 そう言いかかって、あむりと下唇を噛む。
 有利が気付くくらいだ。余程コンラッドの態度は奇妙に見えたのだろう。下手に誤魔化そうとすれば余計に拗れてしまうかもしれない。

 だが…かといって真正直に話してしまうにはややこしい内容だ。

 レオの恋心を無惨に踏み躙りたくはない。
 でも、有利には触れることさえ赦せない。

 この二律背反した想いを、当事者である有利にそのままぶつけるのは如何なものであろうか?

「……ユーリは、レオのことをどう思いますか?」

『うわ…っ。女子中学生並の探りの入れ方だな』

 微かにコンラッドの頬が染まってしまう。
 宵闇が深いことがせめてもの慰めだ…。

「レオ?んー…。そうだなぁ…何か、助けてあげたい感じの人だよね。一生懸命で…でも、凄く……うーん、こんな風に言うのって烏滸がましいとは思うけど…やっぱり、可哀想だなって思う」

 ほっとしたような気の毒なような…。
 レオに対する有利の想いは、寸分たりとコンラッドの予想の範疇から逸脱するものではなかった。

 うと…
 とろ……

 喋りながらもとろとろと瞼を落とし掛けている有利に、コンラッドはちいさく囁いてみた。

「俺に抱かれるように…レオに抱かれるところを想像できますか?」
「んー……?エッチのことー…?」

 有利は思考回路が上手く働かないのか…前頭葉を作動させているのかどうか疑わしい表情で、それだけに…本心そのものといった答えを返した。

「スイッチはいんない……」
「………」

 《考えられない》ではなく、《スイッチが入らない》……。
 それはまさに現状を言い当てた言葉であろう。
 
 今は唯、抱きしめたり抱きしめられたりしても性的なものを一切感じ取ることのない有利だが…ひとたびスイッチが入ったとき、どのような選択をすることになるかは分からない。

「やれやれ……」

 これは、気合いを入れて自分を鍛えていかなくてはならないだろう…。
 これほど素敵な恋人を、一度手に入れたからといって永続的に《我がものである》と慢心することはできないだろう。

「スイッチが入ろうが入るまいが…あなたの心と身体は俺から離しませんからね?覚悟していて下さい…」

 コンラッドはぷちゅりと有利のちいさな鼻を摘むと、《ふがが》…っと息を乱す様を楽しげに見詰めてから、軽く触れるだけのキスを鼻先に落とした。

「王都に戻れば…こんな個人的な悩みで右往左往している場合ではないんでしょうね…」

 コンラッド本人にとっては至上命題とも言えるような悩み事も、レオと有利が直面している巨大な使命の前にはどうしても身を潜めてしまう。

 こんな悩み事で有利を振り回したりすることがないように、コンラッドこそ《自制》を求められるかも知れない。

『王都に戻れば……』

 説得しなければならない人…哀しませてしまう人…それらを乗り越えて、彼らは旅立つための土台を作っていかなくてはならない。

 有利の願いを、叶えるために…。

 

 空にかかる月は眩しいほどの光を大地に投げかけてくる。
 地上で犇めく人々の悩み事を、ちいさな事だと笑うように…。  
   




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