第二章 VーC







 リィン……
 リィィン………


 野外では、秋の虫たちが美しいけれど…どこか寂しげな音色を響かせている。
 収穫祭に集っていた人々も流石に家路についたらしく、外から響いてくる音は自然界のものばかりだ。

 ふと窓を見やれば、薄手のカーテンが月光を透かして卵色に染まっていた。

『あの夜も…月はこんな色をしていた』

 まん丸な月は明るすぎて、眩しいほどの彩りを大地に投げかける。
 夜にしては明るすぎ、昼にしては暗すぎる…そんな、不思議な夜だった。


 陰の中の陽…陽の中の陰…


 全ての事物には表裏一体となる側面が見られるのだろうか?

 コンラッドは瞼を閉じて、あの日の事を思い出す。
 有利が無事に生まれたことを確認し、地球に於ける任務を全うして眞魔国へと帰還した日のことだ…。



*  *  *




 勝馬と美子…そして、生まれ出でた有利に会い…コンラッドは未来へと希望を繋ぐ事ができた。

『眞魔国に帰ったら、あの子を迎え入れるための準備をしていこう』

 その時、コンラッドの計画の中には眞魔国軍の中で雄を馳せる自分の姿があった。

 絶望的な戦局に追い込まれながらも切り抜けたコンラッド達なのだから、今後は混血であっても、純血に近い扱いを受けられるだろう。

 明るい未来への道が拓けているはずだ…。

 当時、幾多の修羅場を潜ってきたとはいえ…コンラッドはまだ若かった。
 いや…自分たちに向けられる嫉妬と嫌悪の念が、恐るべき強さで濃縮していることに気付くには…コンラッドはまだ純粋すぎたと言っても良い。


 だが、眞魔国へと帰還したコンラッドを待っていたのは、アルノルドで生き残ったルッテンベルク師団の兵士達が…傷も完全に癒えぬまま国境沿いの防衛戦に投入され、戦死したという知らせだった。


 コンラッドが不在であった数年の間に、その《処置》は徹底的に行われた。

 《経験豊富なアルノルド帰りの勇者に、是非戦場に立って欲しい》…命令に際して掛けられた言葉は、明らかな詭弁であった。

 シマロンとの停戦条約締結と同時にグウェンダルの元に戻ったヨザック、そして、戦場に立てなくなった傷痍軍人以外は全てその遣り口で戦地に投入された。
 その扱いは、悲惨なものだったという。

 《ルッテンベルク師団》という枠組みで固めてしまうと、その中の旅団長級の指揮官は高い能力を持っていたから、《生き延びてしまう》可能性が高いと踏んだのだろう。
 一見すると《昇進》に見える形で別々の部隊に組み込まれると、必ず危険性の高い役回りに配置されるのだ。
 それが本当に必要な仕事であればまだ納得できたろう。だが…彼らは死を前提とした《生贄》として敵の前に差し出されたのだ。

 その《処置》は…彼らが死ぬか、軍人としてやっていけなくなるまで続いた…。

 

*  *  *




「何故かは分かるだろう?君も戦後、同じ策略を受けた筈だ」
「ああ…シュトッフェルの息が掛かった部隊に、特に士官級の連中が引き抜きされ掛かったが、みんな何とか引き留めることが出来た。ウィンコット卿オーディル殿に頼み込んで、力を貸して貰ったんだ」
「そうだろうな…俺には、それが出来なかった。彼らが最も苦しんでいるその時に…俺は、護ってやることが出来なかった…」

 コンラッドの目元が悲痛に歪む。
 この話は…他人に話すのは初めてのことだ。

 己の弱さと失態を直視するような苦しみを、何故出会ったばかりの異世界の自分に話しているのだろうか?

 魂を運ばなかったことで自責の念に駆られるレオを、慰めたいからか?

『いや…これは、懺悔なのかもしれない』

 表だって憤ってやることすら出来なかった仲間達に対する…鎮魂歌であるのかもしれない。 

「旅団長で生き残ったのはヨザックとリーメンだけだ。リーメンについては最初に投入された戦場で、右脚を失ってからの話だかな…」

 《はぁ》…っと、溜息が漏れたことで…随分と息を詰めていたことがわかる。
 深い自責の念が、声帯を強張らせていたらしい。

『さぞかし、俺を恨んで死んでいったことだろう…』

 コンラッドを信じ、あの絶望的な戦場を生き抜いた男達が…コンラッド以外の者が指揮する部隊で犬死にさせられたのだ。


 どれほどの憤激に蝕まれながら逝ったのだろう…。
 どんなに……口惜しかったろう…っ!


 今でも、あの時の衝撃が蘇ると…コンラッドは叫び出したくなるのを喉奥で押さえるのだった。
 
「目的は、アルノルドの奇蹟で戦局を変えた混血の…俺の、力を削ぐこと。俺は…シュトッフェルの行動を読めなかった…地球に行く前に、彼らを護るべき手立てを何一つ執っていなかったんだ」

 コンラッドの瞳は凍り付いたように…それでいて熱く、滾るものを湛えて虚空を睨みつけていた。

「しかし…その期間に、眞王は何もしてくれなかったのか?あんたは眞王の命令を忠実に護ったんだろう!?」

 意識が高揚するあまり、レオはコンラッドに対する呼びかけが《君》から《あんた》に変わったことに気付いていない。
 だが、その分近しい何かを感じて、コンラッドもまた無意識のうちにレオを《あんた》と呼び始めていた。

 同じ戦いを経てきた共感が、男達を繋いだのだろうか。

「そうだ…ああ、そうだよ…俺は、言われたとおりにしたつもりだった。だが…そんな配慮は一切無かったんだ。だが…考えてもみろ、レオ。…そんな配慮のできる方なら、そもそもあの地獄のような戦争の中で何の手も打たなかったことをおかしいのは思わないか?」
「それは…」
「あの時…俺はやっと分かったような気がしたんだ。眞王陛下は、超越者だ。魔族という種族…眞魔国という国家を自分の思う形に維持すること…大きな危機を越えさせること…数百年、数千年の規模で物事を考える方に、コマとして動かした者の喜怒哀楽など最初から計算に入っていないのだと…。善悪の問題ではないんだ。あの方の思考過程の中に、《コマの感情》という項目がそもそも無いんだよ」

 だからこそ、あの乱れきった国政を放置することが出来たのだ。

 眞王廟からの指示で一言、シュトッフェルの権勢を押さえるような言葉があれば、眞魔国の政治・軍事は随分と変わったはずだ。
 だが、あの程度の《一時的》な混乱など眞王の興味を引くようなものではなかったのだ。

「俺は考えたよ。あの時…眞魔国に於いて、自分が為すべき事についてな…」


*  *  *




 眞王にねじ込んででもコンラッドの軍に於ける地位を強化するか…もしくは、シュトッフェルに敵対する者を背後につけて政界に食い込んでいくか…。

 最初に浮かんだのは、多分に好戦的な選択肢ばかりだった。
 怒りがコンラッドの頭蓋内を激しく熱し、沸き立つ脳漿が血を求めていたのかも知れない。

 だが…コンラッドは自室でひとり荷物の整理をしながら思索に耽っているとき、ある物を手にしたのだった。


 それは、月光に照らされた…小さなアヒル人形だった。
 卵色の柔らかな光に照らし出された玩具は、愛らしくも頓狂な顔立ちで不思議そうにコンラッドを見詰めていた。


『どうしてそんなにおこってるの?』

 無邪気な問いかけが聞こえてきそうだった…。

 それは、赤ん坊の有利がコンラッドに手渡してくれたもの…。
 にこにこと機嫌良く笑って、ちいさな手でぎゅう…っとコンラッドの小指を握った、あの暖かさが蘇ってきた。


『あの子を迎える世界に、俺は…血生臭い争いを持ち込むのか?』


 このままシュトッフェルの地位を維持させるわけにはいかない。
 それは間違いない。

 だが…方法を誤れば、この国はまた憎しみの連鎖に取り込まれてしまう。

 コンラッドが最終的に選んだ方法は、《ウェラー卿コンラート》という存在を前面に出さず、染み込むようにこの国を変える事であった。
 それまで間柄が微妙だったグウェンダルを始め、十貴族などの有力な貴族のもとに《交流》という形で食い込んでいった。

 それは、端から見ればさぞかし生ぬるい行動であったと思う。
 爽やかに微笑み、誰の話でも根気よく聞き…決して他に秘密を漏らさない。
 そうして、じっくりと信頼を勝ち得ていった。

 表だってコンラッドの味方をしてくれなくて良い。
 その地位を高めてやろうなどという派手な動きは望まない。

 ただ…あの子が、有利がこの眞魔国へとやって来たときに、力になって欲しい。
 そう思いながら日々を過ごしていった。

 おかげで、グウェンダルを中心とする良識派が結束を強める事が出来、シュトッフェルの影響力は少しずつ…着実に薄れていった。
 有利を迎え入れる直前には、新魔王陛下に取り入る以外にシュトッフェルが権勢を護る術はなくなっていたほどだ。

 しかし、地道すぎるこの戦いはコンラッドを孤高の獅子として尊敬していた連中からは、かなり悪し様に言われたものだった。

『ルッテンベルクの獅子もすっかり丸くなっちまったもんだぜ…貴族の間を尻尾振りながら回ってるなんてさ』

 ヨザックには面と向かって言われたこともある。
 彼もまた、口惜しいという思いが強かったのだろう。

 《コンラッドはこんな男である筈がない》…その想いが強すぎて、魔剣を手に入れる旅では有利に恐ろしく危険な立ち回りをさせていた。
 そんな彼も、今では有利を唯一無二の王として崇めているから、やはりこの道を選んだことは間違いではないのだろう。

 だが…この輝かしい《陽》の世界にあっても、やはりコンラッドは打ち捨てられていった《陰》の歴史を忘れることは出来ないのだ。

『いま俺は、愛する…そして、尊崇する王に仕えることが出来る。そのことはこの上ない幸福だ…。だが、それでも俺は…あの連中のことを忘れることができない…』

 コンラッドの手が、有利の頬を包み込む。
 この事は、有利に教えるつもりはない。
 これはきっと、《言うほどのことでもない》ことだ。

 有利は眞魔国の歴史の暗部に消えていった男達の名など…知らなくて良いのだ。
 決して、失われた命が彼の誕生に纏わるものだなどとは…思わせてはならないのだから。



*  *  *


 《アリアズナ、ベル、スターリング》……

 コンラッドが口ずさむ男達の名は、レオもまた共有する名ばかりだった。

 その内の幾人かはやはり、レオも戦場で喪っている。
 だが…彼らはレオを恨んで死にはしなかったろう。
 死者にとってそれが慰めになるのかは分からないが…少なくとも、レオにとってはそれだけが心の支えだ。

『悔しかっただろう…辛かったろう……』

 その言葉は、死んでいった男達に…というよりは、コンラッドに向けられたものであった。

 築き上げてきたものが一気に瓦解するような衝撃を、レオもまた味わっている。
 護ってきたはずの国の中枢を占める者から、不法に貶められるあの屈辱とやるせなさは、受けた者にしか分からないだろう。

 幸せの直中にいるように見えたコンラッドもまた、順風満帆に生きて来られたわけではないのだ。

 多くのことに傷つき、躓きながら…それでも彼は笑顔を浮かべて戦ってきたのか。
 
『ユーリの為に…』

 何という、深い想いなのだろうか。
 一見すると飄々とした…風のようなこの男の中に秘められた想いを、レオは重く受け止めた。

 暫くは言葉もなく、コンラッドの呟く男達の名を聞いていたレオだったが…ふと、気になって控えめに声を掛けた。 

「そういえば…ケイル・ポーはどうしているんだ?あいつはルッテンベルク師団創設時には居なかったろう?」
「ああ…あの子か」

 沈痛なコンラッドの瞳が、少しだけ柔らかさを取り戻した。

「あの子は、ウェラー領で腕の良い仕立て屋になっているよ。早くに結婚して、もう子どもも5人居るはずだ。最初の子には、俺が名前を付けさせてもらった…」
「そうか…」

 何となく、納得は出来た。
 
 軍人として極めて高い能力を持つあの青年は、戦場に於いては如何なる流血にも耐えられるが、基本的に優しい気質の持ち主なのだ。
 それが分かっているから、レオも彼には敵の肉体を引き裂くことよりも、全体の指揮に関わる業務に当たらせようとしていた。

 混血で占められるルッテンベルク師団が枠組みを失い、その後徴兵もされなかったのであれば、あの人懐っこい青年は客商売をしている方がよほど性に合うだろう。

「あいつには、合いそうだな…客の目に入らないような細かいところまできっちりと針を巡らせそうだ」
「そういう評判だ。俺も夜会服を仕立てて貰ったことがあるが、裏地の縫い目までが実に丁寧で、着れば着るほど味わいが増していくんだ。良い仕事をしている…」
「どちらが幸せかは、本人にしか分からないな」

 にこやかに笑いながらも、レオの言葉の何処に引っかかったのだろうか?コンラッドは深く頷きながら…もう一度舌の上で転がすようにして、あるフレーズを繰り返した。

「どちらが幸せかは、本人にしか分からない…そうだな。まさにそうだ…至言だよ」
「コンラッド…?」

 寝返りを打った有利がレオの側を向くと、乱れた髪を指先で梳きながらコンラッドは呟く。
 
「夕方…保留にしていた話を今しても良いかな?」
「ああ…頼む」

 何の事かはすぐに分かった。
 
 《俺は…かつて、ユーリを深く傷つけ…剣まで向けた大罪者なのだから…》。

 この男の抱える哀しみの元…それは、一体何処から来ているのだろうか?
 興味を持って傾聴するレオの前で、コンラッドは掻い摘んで事情を語り出した。



*  *  *




 地球から眞王に引っ張られてきたユーリを血盟城へと連れて行く途上で襲撃に遭い、左腕を失ったこと。
 その腕の代わりに禁忌の箱の鍵となる男の腕を移植されたこと。
 その腕を持つことで有利を危地に晒すことがないよう、眞魔国を棄てたように見せかけ、大シマロンに身を寄せたこと…。
  
 《裏切り者》《反逆者》…その屈辱的な名を、レオもまた帯びたことがある。

 だが、レオにとってそれは実態のないものだった。
 仲間と心ある者はレオの無実を信じてくれたし、何よりもレオが己の潔白を信じることが出来た。

 しかし…コンラッドは、自ら選んでその汚辱の沼に身を沈めたのだ。

 それは、獅子の誇りを持つ者にとっては想像を絶する苦しみであったろう。

「俺は…裏切り者として、ユーリに棄てられることを望んだ。だが…どんなに酷い態度をとっても、俺なら死にたいと思うような言葉を投げかけても…その度に泣きそうな顔をするくせに、ユーリは真っ直ぐに俺の本心を掴もうとして突っ込んできた…」
「そういう子だな、この子は…」

 思ってもみないような事でころっと騙されるくせに、世慣れた大人の態度で誤魔化すことを許さない。
 粉飾された見せかけではなく、その中に潜むものを見つけ出す子だ。

 それも…暴き立てるのではなく、その小さな両手でそっと掬い上げて…愛おしげに包み込んでくれる。そんな子なのだ…。



*  *  *




「俺は、禁忌の箱の始末をつけるという眞王陛下との取り決めを護ることは出来なかった。ベラールの前でユーリを公開処刑しろと言われ、その場で尻尾を出してしまったんだ」

 上手く、立ち回ることが出来なかった。

 本当は、連絡を入れておいたグウェンダルの軍勢が攻めてきたときに《ベラール陛下の安全が最優先》とか何とか言いながら、有利達を置いて再び大シマロンに戻るつもりでいた。

 今更…眞魔国に帰ることなど出来ないと…。

 それが出来なかったのは、真っ直ぐに自分を見詰める有利の瞳に…負けてしまったからだ。

 拘束され、死刑執行人を見上げた瞳には…そこまでされてもなお強い光が宿り、深い漆黒の双弁がコンラッドを見据えていた。


『帰ってこい、俺の元に』


 甘く…痺れるような感情がコンラッドを懊悩させた。

 計算し、調整し続けてきた意識に破綻が生じ…殆ど本能の赴くままに有利の縄を一刀両断すると、突き上げるような思いをそのまま言の葉に載せ…獅子吼した。


『我が名はウェラー卿コンラート…眞魔国第27代魔王、ユーリ陛下に忠誠を誓う者…っ!』


 空を、自分たちに向けて射出された矢群が覆った。
 一本たりと、掠めさせてなるものかと両腕を広げ…有利の盾として身体を使った。

 

 こんな身体が、まだ彼の役に立つというのなら…何本の矢でも、何本の剣でもこの身に受けてやるつもりだった。






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