第二章 TーF






「………大丈夫かい?」
「ハイ……」

 ソファの上にちんまりと正座して、えぐえぐと噎(むせ)び泣いている有利の側頭部にはたんこぶが一つある。
 別にレオが殴ったわけではない。

 窓の柵からよじ登ろうとした有利が手を滑らせて落ちかけたときには、咄嗟に飛び出してきたレオが手首を掴むことで難を逃れた。ただ、掴まれたときに遠心力が付いていた有利は、そのままがつんと側頭部を柵にぶつけてしまったのである。

 あまりの痛さに目から火花が散りそうになった有利は、引き上げられて濡れタオルを押し当てられた後も、先程からずっと泣いている勢いを引きずってしまったのか…えぐえぐと涙を零し続けていたのだった。

 自分のことで一杯一杯の筈のレオが、こんなにも優しいことが余計に心苦しいのもある。

『うー…うぅ〜……俺、やっぱダメじゃん……!』

 レオの傍についていることを拒否したギィの言葉が脳裏に蘇る。
 そうだ…やはりこの人は独り立つ強い人なのだから、有利などが力になれるかどうかも分からないのに、中途半端に手を差し伸べようとしてもしょうがないのだ。

『でも…どうしてもレオの様子が気になっちゃったんだよね』

 《人を自分の物差しで測ってはいけない》と聞くし、レオのことを一番よく分かっているはずのギィが言うのだから、そっとしておくのが本当は一番良かったのかもしれないが、それでも…結局、有利は有利として行動してしまうのだった。

 確かにレオは強い人だ。有利など、足元にも及ばないくらい。
 だが、幾ら強くて何もかも自分でコントロールしてきた人であっても、これまでの人生の中で培ってきた物事を全否定されるような局面に立たされたとき、本当に新しい道を一人で進んでいけるのだろうか…有利には、気に掛かってしょうがなかった。



 少なくとも、有利はそうではなかった。

 創主を倒し、眞魔国に平和が訪れたその瞬間に地球へと引き戻された有利は、数ヶ月にも渡って空虚な心理状態から脱することが出来なかった。周りには優しく見守ってくれる人達が居たにもかかわらず…だ。

 しかも、その期間中に有利は一度…死にたいと願ったことがある。

 魔王として…そして、《禁忌の箱》を巡る諸問題を解決する為に気を張っていた状態から、ただの高校生に戻された有利は、自分が恐ろしくちっぽけで意味のないものに感じられて、勝手に自分を孤独な男だと思い込んで死を望んでしまった。

 けれど、あの時…熱い夏の日、ビルの屋上で柵に手を掛けて身を乗り出した瞬間…抜ける様に青い空に、あの男の姿が浮かび…声が蘇ってきたのだ。

 思いの丈を込めた、あの叫びが。


『どうか…どうか幸せになってくれユーリ!辛かったら、俺たちのことなど忘れて良い…夢だったのだと思って良い。だから、どうか幸せになってくれ……。俺は、何時だって…ユーリの幸せを祈っているから……っ!』


 地球へと牽引される有利の手を最期まで掴み続けたあの男は、有利が電撃様の痛みに耐えかねて悲鳴を上げた瞬間に…手を、離した。

 そして、凄まじい速度で空間を飛ばされていく有利の耳に、最期まで響きを残したのもあの男だった。

『コンラッド…俺は、あんたに会えないことが一番辛くて…でも、あんたの為に死にたくないと思ったんだ。どんなに見苦しくても良い…。ちっぽけでも良い。唯の渋谷有利として、精一杯人生をやっていこうって思ったんだ』

 その想いがあったから、エルンスト・フォーゲルに幻覚世界で精神攻撃を受けたときも、耐えきることが出来のだ。

 コンラートを装い、死へと誘いかけるエルンストの声に、有利は強く抵抗した。
 《死ねば楽になる》…その考えを、拒否することが出来た。

『楽なんて嘘だ!俺は渋谷有利としてこの世に生を受けたんだぜ?俺はたった一人の俺なんだ!どんなに端(はた)から見たらちっぽけでも、平凡でどうしようもない俺だって、生きてて良かったって…ちゃんと生き抜いたって自信もって存在出来なきゃ意味がないんだよ!あの日だって…俺は、だからあの屋上から飛ばなかったんだっ!』


 レオが、同じように死を望むかどうかは分からない。

 レオは強いから、こんな配慮なんて余計なことでしかないのかも知れない。
 それでも…唯、伝えたいと思うのだ。
 あの時、自分を支えてくれた深い愛を…欠片でも良いから、この人に伝えたいのだ。



「ご…ゴメンね?もう休むって言ってたのに…」
「いや…良いよ」
「俺…帰った方が良い?でも、その前にちょっとだけ…話して良い?」

 淡々とした声にびくびくと伺う様な眼差しを送ると、レオは口元に薄く笑みを浮かべて頷いた。

「これを食べてから帰ると良い」

 レオの手元には皮を剥かれていく果実があり、大ぶりなその果肉はあれだけの食事をした後、一人で食べるには確かに荷が勝ちすぎるようだ。
 有利はお言葉に甘えて、ご相伴にあずかることにした。



*  *  *




『何で…俺は平和に果物の皮なんか剥いているんだろう?』

 ぼんやりとそんなことを思いながら…レオは器用にナイフを操り、くるくると赤い輪を作っていった。赤い皮の中に隠されていた黄色がかった果肉は瑞々しく、爽やかな芳香が心地よく鼻腔を擽る。

『なんで…《美味しそう》なんて思えるんだろうか?』

 故郷ではレオのせいで植物が芽生えなくなり、大地は枯れ果て水は淀み…風は劈(つんざ)くようにしか吹かないというのに…。どうして、そんな暢気なことを考えられるのだろう?

 このナイフで、レオは命を絶つはずだった。
 時計に目をやれば、その決意をしてから数刻もたっていないことに驚く。

「どうぞ」
「ありがとう」

 小さな器に一口大に切った果肉をよそって差し出せば、先程まで泣いていた有利が少し笑顔を浮かべて器を受け取り、一切れ口に含んでから美味しそうに呟いた。

「美味しい…」
「そうだね」

 かしりと奥歯で噛みつぶせば、芳醇な果汁が口腔内に広がってきてやはり旨いと思う。

『この子といるからだろうか?』

 有利の目元は泣きはらしたように赤みを帯びていて、単に先程ぶつけた為だけではないことを伺わせている。

『ヨザから、聞いたんだな…色んな事を』

 同情して泣いてくれたのだろうか?
 優しい子だから…きっと、心を痛めているのだろう。

「ところで…どうしてあんな所から入ってきたんだい?」
「うう…ご、ゴメンなさい!」
「怒らないから言ってご覧?」 
「あのね?俺…何が出来るって訳でもないんだけど、なんかあんたの気晴らしになること出来ないかなーって思って、鋼さんに《レオの部屋に行っても良い?》って聞いたんだ。そしたら…凄ぇ怒られた」
「それはまあ…そうだろうね」

 レオも自分が去った後、ギィと鋼とが何事か言い争っている声を聞いた。
 どうやら、ギィが有利の同情を買おうと誘いかけてくるのに、鋼が反発しているようだった。レオの部屋に行っても、同様の勧誘を受けると思ったのかも知れない。

「そんで、鋼さんが寝ちゃった後にこそっと行こうと思ったんだけど…扉開けてみたらなんか、あの人ってば俺の寝室の前で門番みたいに丸くなっててさ?擦り抜けるのは無理そうだったから窓づたいに登ってみたんだけど…あんたと目があったら慌てて、落っこち掛けちゃったんだ」
「君……ひょっとして、いつもこういう事してるんじゃないの?」

 半笑いのレオの声に、ギクギクっと有利の肩が震える。

「うう…分かる?」
「全くねぇ…そりゃあハガネだって心配になるだろうさ」

 何とまぁ…善良で思い切りの良い子なんだろう!
 見守る側としては、気を揉むこともさぞかし多かろう。

「気晴らし…ねぇ。何をしてくれるのかな?」
「うーん…それがその……。そこは具体的に考えてなかったんだよね」

 ソファの上で腕組みしてしまった有利に、レオはくすくすと笑いながら身を屈めていく。

「慰めて…くれる?」

 甘い声を耳朶に注ぎ込めば、思いのほか敏感な性質らしく…ふるりと首筋を震わせて困った様に伏せた眼差しが、淡い色香を漂わせていた。

 知らず…ごくりと喉が鳴る。

 この子は、既にこちらのウェラー卿コンラートの手によって、肉体を開花されているのだろうか?
 だとしたら…憐憫の思いから、恋人に似た男に身体を開くこともあり得るのだろうか?

 しかし、困った様に眉根を寄せて有利は小首を捻るのだった。

「それがさ…慰めるのは無理かなって思うんだ」
「……じゃあ、一体何をしに?」

 ご尤もな突っ込みに、有利の頬が淡紅色に染まる。 

「俺自身は、俺がいないせいでこの国がそんな大事になるなんてやっぱり思えないんだけど、それでも…あんたがそうだと思ってる限り、《そんなの大したことじゃないよ》なんて言うのはマズイよね?」
「そう…だね……」

 今まさに、その事で死を決意していたレオは苦く同意する。

「本当にどんだけレオが辛いのかは、レオにしか分からないわけで…慰めるって言っても、そんな凄い言葉も俺は持ってないんだ。だから…あのさ、せめて知ってて欲しいんだ。俺が、あんたに会えて嬉しいんだってこと」
「俺に会えて…嬉しい?」
「ゴメンね…あんたにとっては多分死ぬほど辛い事実を突きつけといて、こんな事言うの…本当に申し訳ないんだけど、それでもやっぱり俺…今もあんたとギィを空間の狭間で見つけたときに、放っておけば良かったとは思えないんだ」
「それは、俺が君の恋人に似ているから?」

 何の気無しに言ったのかも知れないが、その言葉に有利はむきになって反論した。
 だって、それはとても失礼な話だ。

 有利はスザナ・ジュリアの魂を受け継いだが、スザナ・ジュリアではない。
 もしもコンラートが有利のことをスザナ・ジュリアとして見ていたら、酷く失望したはずだ。

 コンラートとレオだとて、幾ら同じ素材を持っているとしても…異なる決断を下し、異なる道を進んだ以上、やはり別の個体なのだ。

「最初に助けたときはそうだったけど…でも、あんたはコンラッドに凄く似てるけど、やっぱり色んな所が違う…。だから、今は俺…全然違う人として見てるんだと思う。真面目で、優しくて…凄く自分に厳しい人だなって…。ああ…べ、別にコンラッドが不真面目で、意地悪で…凄く自分に甘い人ってんじゃないよ!?ニュアンスの問題だからねっ!」
「ああ、分かってるよ」
「コンラッドとレオは違う…ヨザックとギィもね、違うよ。やっぱり」

 切なげな眼差しが、上手く言葉に出来ない思いの丈を精一杯伝え、回らない舌の代わりにうごうごと両腕が動く。

「そんなあんた達を助ける事が出来て…一緒に美味しいご飯を食べたり出来て、凄く嬉しいんだ。えと…だから、その…あのね?」

 言葉では上手く表現出来なくなったのだろうか?有利は自分に覆い被さる様に位置しているレオの頭部を自分の胸元へと引き寄せると、ぽんぽんと背中を叩きながら囁いたのだった。


「……生きててくれて、ありがとう」


 ぽん…ぽん……

 小さな手が何度も何度も、逞しい背を叩く。
 ゆっくりと…思いをそこから伝えようとするように…。

「…俺などが生きていることに、祝福を与えてくれるのかい?」

 微かに喘ぐ様な声が、レオの喉から漏れる。
 嫌みなのか自嘲なのか分からないその声に、有利は懸命に言葉をひりだして口にする。
 誤解しないで欲しいのだ。決して、レオを救ってあげようなんて思い上がっているわけではないのだと。

「そんな大それたもんじゃないよ…!お…俺が、嬉しいってだけなの!だって…あんた、あんなに色んな苦しいこと一杯乗り越えて…投げ出さずに、今日まで生きててくれたんだろ?なんかもう…それだけでひたすら凄いな…って思うんだよ。ぁう…なんかもう、バカっぽくてゴメンなさい……」

『ああ…この子は……。素直に、ありのままに想いを伝えてくれている……』

 ぁうぁうと焦りながら、必死で言葉を綴る有利に…切ないまでの愛おしさが込み上げてくる。

 これまで、賞賛されたことは何度もある。
 だが…こんな風に、ただ生きてきたことを丸ごと受け入れられたのは初めてで、レオもまた言葉の無力さを感じ入っていた。

 いま感じているこの気持ちを、どんな言葉で語れば伝わるだろうか?
 ただただ愛おしく…この人に、会えたことが嬉しいと感じる気持ち。

『ありがとう…ありがとう』
『生きててくれて…本当にありがとう』

『ああ…俺の方こそ、君に祝福を捧げたい。君が生きて…俺を見つけてくれたことに、どんな感謝を捧げれば足りるだろうか?』

 世界の崩壊を招いたという罪悪感に打ちのめされ…砕かれた心へと沁みるこの想いを、与えてくれたのはこの小柄な少年なのだ。
 大きな魔力を持っているとはいえ、レオの数分の一ほどしか生きていないこの子の言葉が…どうしてこんなにも暖かいと感じるのだろう?
 
 つぅ…っと頬を伝う感触に、レオの肩がびくりと震える。 

 ぽん…ぽん……

 滴る雫に、それが涙なのだと分かっても…有利は何も言わなかった。
 ただ、胸に抱き込んだレオの頭を一層強く引き寄せ、ダークブラウンの頭髪にそっと唇を寄せるだけだった。

 それだけで、十分だった。

 ひたひたと潮のように満ちてくる想いに浸りながら、レオは静かに涙を流し続けた。
 その間中、有利もレオも…何も喋りはしなかったし、レオ自身、一体自分が何について泣いているのか理解は出来なかった。

 理性で受け止めるのではなくて、情動で感じるままに…肩の力を抜いて、ひたすら涙を流し続けた。



 その涙の一粒一粒が、レオの苦悩を浄化していくように感じながら…。





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