第二章 TーE
コツ…コツ………
静寂の中で、時計の刻む秒針の音だけが異様に大きく響いていく。
誰も…口を開くことが出来なかった。
「先に、休ませてもらうよ」
有利に向けて一度頭を下げると、コンラート…《レオ》は自分に宛われた寝室に入っていった。
その際、泣きそうな顔をしている有利の頭をくしゃりと撫でつけて、ちいさく《ごめんね》…と詫びた彼は、強くて…哀しいくらい、苦痛を自分の中へと抱え込んでしまう人のようだった。
同情を引くような自己弁護は、ひとことも聞かれなかった。
全ては自分の責任だと静かに受けて入れているのだ。
* * *
「ギィ…ううん、ヨザック?」
「ギィでいいよ。あんたの直接の知り合いと混合するだろ?俺は…ここじゃあ異邦人だからな。あいつのこともレオと呼んでやってくれ。本当の名で呼ばれたりすれば…余計に辛いだろう」
「ギィ……。あんたは、レオについてなくて良いの?」
「ついててどうする?」
声は一瞬…突き刺す様に厳しい色を含んでいたが、びくりと有利が肩を震わせれば、《ギィ》は苦笑して頭髪をバリバリと掻いた。
「すまん…。だが、その必要はない。寧ろ、こんな時に傍にいられちゃあ困るだろう」
「どうして?」
「あいつは俺達の頭(かしら)を張る男だ。小さな落ち込みや愚痴なら聞いてやれても、国の浮沈に関わる様な重大事とあっちゃ、肩代わりすることなんかできねぇ。あいつは…一人で立ち直るしかないんだよ」
「一人で立ち直れなかったら?」
「強力な守護者を失い、俺達の眞魔国は滅ぶ。…少なくとも、混血が肩を寄せ合って暮らしてるウェラー領は、麦粒一つ残さねぇって勢いで略奪を受けるだろうよ」
「……っ!」
狡いと分かっていても、ギィにはこんな言い方をするほか無い。
あちらの眞魔国の現状はレオがぶちまけてしまった。こうなった以上…有利の同情心に訴えかけて、自発的に救って貰うほか無いだろう。
「で…でも、ウェラー領って眞魔国の奥まったところにあるだろ?他の国に攻められたって、そんなにすぐに略奪なんて…!」
「はは…ここはよほど良い国なんだな。そうだよな…幾ら双黒とはいえ、混血のあんたが魔王をやっていられるんだ…。混血の地位も随分と向上してるんだろうな。…羨ましいよ……」
苦々しく、ギィは笑う。
違いすぎる混血の立場を妬みながらも、それを前面に出すことがそのまま友人への非難に繋がることが堪らなく辛いのだろう。
「こっちじゃあ、混血は貶められ、辱められる存在なのさ。長年にわたって眞魔国を護り続け、《ルッテンベルクの獅子》と讃えられてきたあいつが護ってやった筈の国の中枢に裏切られ、反逆者として追われる身になるくらいだからな。ウェラー領は人間じゃあなく、純血魔族の《討伐軍》から略奪を受けるのさ」
「反逆者…どうして?」
「はは…こっちが聞きてぇくらいさ」
皮肉げな口元は、その責任者が目の前にいるのなら今すぐ撲殺してやりたいように見えた。
誰よりも…彼自身がそれを問いたいのだろう。
* * *
有利は、ギィの口からレオを取り巻く厳しすぎる状況を教えられた。
家族を想いながらも通じることなく、国を想い戦ってきた矜持を傷つけられ…精一杯改良を進めてきた大麦がとうとう芽吹かなくなったことで、追いつめられて眞王の元に馳せ参じた時に、重傷を負わされて空間の狭間へと追いやられたのだと…。
《酷い…酷い……っ!》…ギィの説明を聞きながら、有利は何度も嗚咽を漏らし、ぼろぼろと頬に涙を伝わせていった。
大粒の黒瞳を取り巻く結膜や眦は兎のように赤みを帯びて、可哀想なくらいに腫れぼったくなってしまう。
啜り上げ…鼻水を布で擦ってしまうために、鼻の頭も何だか赤い。
『この…ちんまりとした魔王様が居ないってだけで…あいつの努力も功績も、灰燼に帰すのか……』
八つ当たりだとは分かっていても、ギィは可愛らし過ぎる有利に対して苛立ちを覚えてしまう。
だって、不条理だ。
あまりにも不条理じゃあないか…!
あんなにも真摯に…切ないくらい誠実に国のため…民のため…仲間のために尽くしてきた男の努力が、どうして一瞬の選択ミスによって全くの無効…どころか、有害なものにさえなってしまうのか。
運命とはそうしたものだと割り切るには、ギィは幼馴染みのことを深く想いすぎていた。
「あいつを…可哀想だと思うかい?」
「うん…うん……!」
こくこくと頷きながら盛大に鼻をかむ有利に、ギィは深みのある蒼瞳を向けて躙り寄った。
「ユーリ…あいつを、助けてくれるかい?」
「俺に出来ることなら…何でもしてあげたいよ!」
両の拳をおにぎりのように握りしめながら宣言する有利へと、ギィは悪魔のように綺麗な笑みを浮かべた。
「そうか。じゃあ…俺達の眞魔国に、来てくれないか?」
「え……?」
ォオオ…!
喉奥でちいさく一声だけ咆哮をあげると、ギィに向かって銀色の狼が飛びかかっていった…。
* * *
バ…ッ!
鋼が宙に巨体を舞わせてギィに飛びかかっていくと、重傷を負っているとは思えない瞬発力を見せて、肉切り包丁を掴んだギィが牙を受け止める。
「止めて…!鋼さんっ!!」
「止めるな!この男…お前さんの人の良いのにつけ込んで、何て頼み事をしやがるっ!!」
身を翻して着地した鋼は怒りに身を震わせると、それでなくとも大きな獣の身体を倍に見せるほど毛を逆立てた。
先程からずっと、嫌な予感はしていたのだ。
巨大な魔力を持つ有利の力があれば、確かにあちらの眞魔国もある程度の回復を見るだろう。
だが…混血が根強い差別を受け、血生臭い破壊と枯渇に覆われたその国に赴けば、有利の身に危険が及ぶ可能性が高い。
有利は高校を卒業すれば永続的に眞魔国へと身を置き、コンラートと結婚する事が決まっている。彼は、そのまま順風満帆の人生を歩むべきなのだ。
それに見合った働きを、彼はしているのだから。
あちらの世界を崩壊に追いやったという《禁忌の箱》を破壊し、創主を無力化し…同時に消滅するはずであった眞王まで救い出した彼は、それほどの功績にもかかわらず…何の報償も得ぬまま地球へと強制送還されたと聞く。
いや…報償など最初から彼は望まなかったろう。ただ彼は…大切な人達のために戦ってきたのだ。
その、大切な人達から引き離されたとき…二度と会えないと知ったとき…人懐っこいこの少年が、どれ程の絶望を味わったのか鋼には知るよしもない。
だが…思いやることは出来る。
その絶望の中から立ち上がり、再び自分自身として生きていくために運命を受け入れたこの少年が、誰よりも幸せになるべき子なのだということだけは、絶対に譲れないことなのだ。
グルォォ……っ!
怒りに満ちた唸り声が、明確な殺気を込めてギィに叩きつけられる。
「空間の狭間を永遠に彷徨うはずだった所を救い出し、気を失うほど消耗しながらお前達を癒したこの子を…どの面下げて危険の直中に引きずり込もうとしてやがるんだ!?恥を知れ…っ!」
唾棄するように鋼が叫べば、打ち返す様にギィも吠える。
「ああ…感謝しているさ。この上なく…ね。だからこそ、その恩恵に預かりたいのさ」
嘲笑するような口調を一変させ…ギィは切なげに有利へと縋り付く。
それがどれほど狡い行為であるのか、自分自身に対して唾棄しながらも…彼にはそうするしかなかったのだ。
それだけが…彼の友人と国とを護る道だと思うから…。
「なぁ…ユーリ、頼むよ…。俺達の眞魔国じゃあ、家族のために郭に身を売る娘なんかまだマシな方さ…。金が無くて自分の子を育てきれずに、夜中に絞め殺さなくちゃならない親…侵攻してきた人間の手で、夫の前で犯され虐殺される女…息絶えた家族を飢えのあまり喰らう者…地獄絵図が毎日のように繰り返されてるんだ……。それをあいつのせいだと思いたくない…。せめてあいつが居たからこそ、あんたを地獄みてぇなあの国に連れ帰って、救うことが出来たと思いたいんだよ!なぁ…頼むよ。あいつのために、俺達の国に来てくれ…!」
「まだ言うか!その喉食い破ってやらぁ…っ!」
「止めて……っ!!」
ギィに被さる様にして、有利が鋼の前に身を投げ出す。
ぼろぼろと涙を零しながら…それでも、有利は安易な返事を寄越すことはなかった。
「そうしてあげたい……。俺一人の事ですむのなら、酷い状態にあるっていう眞魔国のために、俺はどんな危険の中にだって行ってあげたい…!だけど、俺はこの国の王でもあるんだ……!俺…あっさり《行く》なんて約束しないよ!だから…鋼さん、ギィを殺したりしないで!」
「……う…ああ…」
勢いで頷くだろうと思っていた有利の、こう言っては失礼だろうが…予想外に冷静な言葉に、ギィと鋼は急に落ち着きを取り戻したようだった。
「俺ね…今まで、ずっと好き勝手やってて…俺のせいで大切な人達が困ったり苦しんだりするのを何度も見てる。王様なのに…ゴメンなって、何度も謝ったけど…またあいつらから離れた場所で、そんな大事なことを俺の一存で決めちゃうことは出来ないよ…!」
「分かってる。だが…それなら、せめて考えの中には入れておいてくれ」
「うん…」
こくりと頷くと、ギィの大きな手が有利の頭を撫でた。
眼帯に覆われていない方の目は、先程までとは色味の異なる眼差しで有利を見ている。
「……俺も、休ませて貰う。あんたも眠るんだ」
「うん……」
載せた手の下にすっぽりと収まってしまう頭部は、改めてとてもちいさなものなのだと感じられる。
『18年…この世に生を受けて、まだ18年しか生きていないんだ。この子は…』
そんな幼い少年が、二つの世界の運命を担っているというのか…。
『そうだ、この子もまた…隊長と同じように、大きすぎる運命を背負っているのかも知れない』
ギィには分からない。
本当は、どうすることが正しいのか。
ただ…祈るように、願うだけだ。
この子が…自分自身の意志で、ギィ達についてきてくれることを…。
* * *
ホゥ…ホゥ……
どこかで、鳥が鳴いている。
寂しげなその声が辛気くさくて頭を振るが、今なら綺麗な声で啼かれたとしてもやはり腹を立てていたのではないかと苦笑する。
『八つ当たりだ…』
それは、レオの最も忌むべき行為であった。
責任転嫁など、見苦しいばかりか状況に悪影響しか及ぼさない。
事実関係を明瞭にした上でなくては、政略も戦略も立ちゆかない…。
そのように訓練してきた。
だから…今回もきっと耐えられる。
『俺は、独り立つしかない』
誰かに縋れば、弱くなる。
それに、縋られた《誰か》は一体誰に縋ればいいというのだ?
レオですら耐えきれない負荷をおわされて、真っ当な精神を維持できる者がいるとは思えない。
ならば、この身に全てを受けて立ち続けるしかない。
さあ、まずは何をすべきだろうか?
「………」
どうしたものだろうか…何も、思いつかない。
額に落ちかかる頭髪を両手で掻き上げ…虚空を睨み付けても、良い案が浮かぶことはなかった。
罪悪感が強すぎて、冷静な判断が出来なくなっているらしい。
こちらの世界に来てから真実を知るまでは、滑稽なほど精神が高揚していた。
偽物に騙されている美しい精霊の心を自分に引き寄せて、その豊穣の力で滅びかけた世界を救う…。子ども向けのお伽噺のように単純で爽快な英雄譚に、知らず心が浮き立っていたのだろう。
だが…世界を滅ぼす主因がその《英雄》自身にあり、選択を誤らなかった世界から幸福に暮らしている少年を拉致し、自分の失敗の穴埋めをさせるという話に変換されると、急に寓話めいた毒々しさを纏うようになる。
レオの中の潔癖な精神が、その未来図の醜さに耐えきれないらしい。
『馬鹿だ…俺は。こんな愚か者が英雄だと?』
自分たちの信じる男が善人にも悪人にもなりきれず、戸惑いと後悔の中で藻掻いていると知れば…仲間達は呆れ果ててしまうだろうか?
彼こそが全ての悪因だと知れば、世界中が責め立て、《ウェラー卿コンラート》の名を《愚者》の代名詞として記憶するだろうか?
恥ずかしい…
悔しい…
哀しい……
けれど、涙は出なかった。
思えば、いままでどんなに絶望的な状況に立たされても、子どもの頃のように涙を零したことはなかった。
《英雄》の名を剥奪され、反逆者として追われる事になったとき…仲間達は彼を想って涙してくれたが、一人きりで部屋にいても、泣きたいとさえ思わなかった。
泣くことは、時間と体力を消費することにしかならない。
そのように認識していたからだ。
だが…今はその認識が少し変わる。
今まで泣かずにすんだのは、追いつめられても進むべき道が分かっていたから…泣くよりもまず、見えているその道に進むことを選んできたからだ。
その道に進める男だと、自分を信じていたからだ。
『そうだ…今の俺は、誰よりも自分自身が信じられないんだ』
自分が一兵卒であったとして、今のウェラー卿コンラートに命を捧げることは出来ない。 そう思うからこそ、頭の中が真っ白になってしまうのだろう。
『俺は…もう、駄目なのかも知れない』
策を講じられなくなった指揮官など、居るだけ有害だ。
その極端な結論づけこそ、彼の思考が鬱傾向にあり思考制止を起こしている証拠なのだが、この時のレオには分からない。今まで、どんな事態に対しても適切な策を講じてきたという実績や、生来の生真面目な性格が災いして何処までも自分を追いつめてしまうのだ。
少しでも自分を《可哀想》だと感じることが出来れば、そんな自分を惜しみ、別の道を選ぶことが出来かも知れないが…己に厳しすぎるこの男は、他者に対しては感じることの出来るその想いを自分には赦さなかった。
道は、一つしかない。
この命を絶って…詫びる。
少なくとも、今のレオにはその道しか見えなかった。
限定された精神的視野の中で、テーブル上に置かれた銀色の光沢に目が行った。
それは、籠に入れられた果物の皮を剥くための、フルーツナイフだった。
刃渡りは短く、鋭さも甘い。
だが…人体の急所を知り尽くしたこの男にとっては、十分自害の道具になり得る品であった。
風呂場には、小さいながらも浴槽が据え置かれており、まだ残り湯が満たされている。
その中で頚動脈を切り裂けば、多少傷が浅くとも水へと血流が拡散していくことで、迅速に失血死を迎えられることだろう。
『死…か』
その選択肢が出ると、急に気が楽になった。
少なくとも、真っ白な中に一つ道が見えたような気がしたからだ。
友人は怒るだろう。仲間達に合わせる顔がないと言って…。
こんなにも恥ずかしい死を迎えた男が、彼らの《英雄》であったなどと知らせたくはないだろう。
『こういう死に方をするのか、俺は』
えらく客観的な思考が沸いた。
死ぬとしたら、きっと戦場で死ぬことになるのだと思っていた。年老いて、腕の立つ敵に昔の様には対応できなくなって…衰えを嘆きながら肉を裂かれるのだろうと。
それが、ベッドの上で誰かに看取られるよりはよほど自分に見合った死に方だと思っていた。
『ルッテンベルクの獅子…風呂場にて自害し、失血死…か』
惨めな死に方だ。
でも、以前の自分ならともかく…今の彼には実に見合った死に方のようにも思えた。
特に感慨も覚えず、ごく自然な動作でナイフを手に取った。
目線が乱れるということもなく、《氷の美貌》と讃えられた容貌はいつも通りの冷静な眼差しを浮かべている。
この時、彼の意識の中にはナイフを突きつけるべき場所・角度・深度のことしかなかった。
それが、ふと窓の方を見やった途端…一瞬にして吹き飛ぶことになる。
窓の外…簡易な造りの柵に手を掛けて登ってきた有利が、視線が合った途端に慌てて藻掻き…つるっと落ちかけたからだ。
→次へ
|