第二章 TーD







 食卓に並べられた食事は素朴なメニューではあったが、それだけに食欲をストレートに刺激してくれた。
 
 茸と根菜、鶏肉らしきものをじっくりと煮込んだシチュー、皮がパリッとして香ばしそうなパン。肉汁を滴らせながら、まだじゅうじゅうと油を跳ねさせている炙り肉、がっさりと大皿に載せられた色鮮やかなサラダ…。
 
 体調面を考えてか流石に酒こそ用意されていなかったものの、素焼きの杯にたっぷりと満たされた葡萄汁は唾液が潤沢に溢れてくるほど味わいに満ちており、大ぶりなピッチャーに湛えられたものがどんどん杯へと移されていく。

 美味い。
 何もかもが美味い。

 ヨザックは有利が感心するくらいの勢いで食べ物を口内に運び込み、今も豪快に炙り肉へと喰らいついていった。

『俺は…こんなに飢えていたのかな?』

 確かに、最期に食事をしたときから考えれば時間的な経過もあるだろう。
 だが、それ以上に…これほど滋味の濃い食べ物を口にしたのは思い出せないくらい久し振りのような気がする。

『多分、要素の力なんだろうな…祝福がある土地じゃあ、こんなにも食い物が旨いんだ』

 特に、肉食の筈のヨザックをして、葡萄汁と生野菜の旨味には感嘆を禁じ得なかった。
 食材の旨味が直接的に出てくるシンプルな食べ物であるからこそ、身体中に沁み入る様な奥深い味がする。

 それに…今日はえらく素敵な《香辛料》が、ちょこんと隣に座っているというのもある。

「美味しいねえ!」

 どこか寂しそうにお粥を食べていた有利へと、コンラートが炙り肉の一番美味そうな部分を裂いて渡すと…実に旨そうな顔をしてニコニコと肉にかぶりついてきた。
 
 見ている方が幸せになる様な笑顔だ。

『でも…この子は、こっちの世界の魔王陛下で…こっちの隊長の婚約者なんだよな…』

 幼い顔立ちの少年が実際に政治を取り仕切っているとは考えにくく、誰か有能な官吏が代行しているのだとは思うが…少なくとも混血の彼が魔王として国民に受け入れられ、やはり混血であるはずの男がその婚約者となれるこの国は、混血にとって実に住みやすい国であるに違いない。

 その国で幸せに暮らしている有利を、ヨザックの側のコンラートは今でもまだ…連れて帰るつもりなのだろうか?

『難しいかも…知れねぇな……』

 どんなに上手いことを言ったところで、これほど富裕で平和そうな土地から魔王を連れ出して、危険極まりない…そして、破壊し尽くされた国へと連れて行くことは難しいのではないだろうか?

『だが…俺達の国を救うには、この子を連れて帰らなくちゃならねぇ…』

 力づくは無理だ。空間を渡るなどという離れ業は、それこそ眞王かこの少年くらいにしか為しえぬ技だろう。だとしたら…ヨザック達は、有利を騙してでも連れて行かなくてはならない。

『騙すのか…この子を』

 命がけで自分たちを助けてくれた、この子を?

 それを考えると、美味な筈の食物が一瞬…味を失ってしまう。
 
 枯れ果てた土地に少しでも実りを蘇らせ、飢えて死んでいく魔族達の命を繋ぐ為にはこの子が必要だと分かっていても、《俺を騙したの?》…等と泣きながら詰問されることを考えれば腹の底に凝るものを感じる。

 臓腑が…腐り落ちてしまいそうだ。
 
『隊長は、どう考えてんだろうな…』

 コンラートが一目で有利を愛してしまったのは、端で見ているヨザックにとっては薄ら恥ずかしいほどありありと分かる。
 こんなにもコンラートが誰かに興味を持つこと自体が希有なことであり、本人がその事に今ひとつ気づいていないというのも、見ていて面映ゆいような心地だ。

 その有利を…コンラートは騙し仰せることが出来るだろうか?

『相手が隊長そのものでなきゃ、本当に心を射止める可能性だってあんのにな…』

 有利が《レオ》を見る目はあくまで《自分の婚約者に似た人》であり、個体として意識している様子はない。
 少しでも《男》として意識していれば、裸で風呂を共にすることに多少は罪の意識を感じたことだろう。 

『今んトコ、正攻法で隊長がこの子の心を奪う方法はねぇな。後は…悪いが、身体の方で何とかするか…』

 ただし、その為には情報が必要だ。
 この幼い顔立ちをした無邪気な少年が、一体どの程度こちらのコンラートに身体を開発されているのか…。
 それを知らずに手出しをすれば手酷いしっぺ返しを喰らうことだろう。

『さぁて…どうやって聞き出したもんかな?』

 ヨザックは、ぽり…っと頬を掻きながら思案する。

 一方、コンラートは居心地悪そうに椅子の上で尻をずらしていたかと思うと、如何にも聞きにくそうに口を開いた。

「その…ユーリ?聞いて良いかな?」
「なに?」
「君…さっき風呂で言ってたよね、年の事…」
「んー?俺の年?あ、そっか。レオは俺の事あんまり知らないんだよね?じゃあ年のことも知らないんだー。うん…俺ね、当年とって18歳の若僧です!」

 ぶふぅ…っっ!!

「うわ…ギィ、どうしたの!?」
「いや…すまん、何でもない…デス……」

 葡萄汁を勢いよく吹いてしまったヨザックは、軽く噎せながら有利とコンラートとを見比べた。

 18歳…。
 一応成人はしているものの、魔族においてはほんの子どもではないか!
 てっきり80歳かそこらだと踏んでいたのに…混血とはいえ、ちょっと異常なほどの成育状況である。

『18歳の子を…籠絡すんのか?』

 犯罪だ…。
 何をどう言いつくろっても犯罪だ……。

 これまでは平気の平左で法を破りまくっていたくせに、今回に限ってはえらく罪の意識を感じてしまうヨザックだった…。 



*  *  *





「はふー…ああ、旨かった!」
「そうだな。まぁ…俺の好みから言うと、もうちっと肉が香ばしければ言うことなしだったんだけどな」
「贅沢な犬だな」
「狼だ。正確には、妖怪だぞ?」

 ヨザックが満足げに口元の肉汁を舐め上げると、同じようにべろりと長い舌を閃かせて鋼が口元をなめずり、よく似た表情で顔を見合わせていた。
 
「妖怪?精霊ではなく?」
「んん〜…まあ、呼び方は色々だわな。確かに、要素が固まって出来たものってトコは一緒さ。ちなみに、自分らじゃあ《白狼族》って呼んでる」
「へぇ…炎の要素が固まって出来てんのかい?」
「何言ってんだよ。見て分かんねぇかな?俺ぁ風の要素だよ」

 如何にも心外だと言いたげに鋼がぶるるっと毛皮を震わせると、コンラートが不思議そうに有利を見た。

「風なのか…。さっきの蝶は炎だったよな?ユーリ…君は二つの要素を従えることが出来るのか?」

 魔力が強くとも、魔族にはそれぞれの気質や遺伝形質に沿った要素というものがあり、望んだ種類のものが手に入るというものではない。しかも、要素同志は種類が異なるものを制御することは難しいから、複数を同時に操る魔族など初めて聞く。
 
「知らないって事は恥ずかしいなぁオイ!レオ…あんた、町に出てそんなこと口にしたら笑われるぜ?有利は二つどころか、地・水・火・風の四大要素を従える大魔王様なんだってこたぁ、子どもでも知ってるんだからな?」

 有利は擽ったそうにぽりぽりと鼻の頭を掻いた。
 それにしても…《魔王》だと怖そうな響きなのに、《大》をつけると急にハンバーグが好きで涙もろい、中年太りの男を想起するから不思議だ。
 
「四…」
「四つの…要素だと……!?」

 またしても驚愕に顔を引きつらせている二人に、鋼はふふんと鼻を鳴らして自慢げな表情をみせた。
 
「そうさ。有利はなぁ…地球で俺達四大要素を服従させて、空間を渡る力を得たんだぜ?俺はその力の一角を担ってるって訳よ!」
「チキュウ……」

 不意に、コンラートが奇妙な表情を見せた。
 驚愕には違いないのだが、今までのように感嘆に満ちたものではなく…どこか、記憶の襞を手繰るかの様なその眼差しが有利に合わされる。

「チキュウ…」
「レオは聞いたことないよね。眞魔国の人でも、俺が異世界育ちってのは知ってても、そこが地球っていう名前なのはあんまり知らないみたいだもんね」
「チキュウで…育った?」

 《地球》…その名は……
 かつて、コンラートが耳にしたことのある《異世界》の名だ。

 
『ウェラー卿コンラート…あなたにスザナ・ジュリアの魂を委ねます』
『この魂を、チキュウに運び…次代の魔王の魂とするのです』


 感情の籠もらない、言賜巫女の言葉が殷々と頭蓋内に反響する。
 その音は…ぐらぐらと脳を揺さぶり、コンラートの顔色を蒼白なものへと変えていく…。
 
『まさか…まさか……っ!』

「どうしたの?レオ…顔色悪いよ?火傷痕が痛むの?」

 有利が気遣わしそうに見上げてくるが、躙り寄られることに恐怖さえ感じてコンラートは鳥肌を立てていた。

 有利は風呂で何と言っていただろうか?
 
『名付け親のくせに酷いだろ?』

 地球育ちの有利に、ウェラー卿コンラートが名を送ることが出来たのは何故だ?
 それは…彼が、運んだからだ。

 スザナ・ジュリアの魂を、地球へと…。
 新たな魔王の肉体へと……。

「ユーリ…君の魂は、スザナ・ジュリアのものなのか?」

『聞きたくない…』
『怖い……っ!』

 どく…どく…っと忌々しいほど激しく鼓動が打ち鳴らされる。
  
「どうして…それを、知ってるの?」

 先程までの無邪気な表情が影を潜め…有利は素早く身を引くと、コンラートを警戒する様に問いかけてきた。
 だが、その言葉だけでコンラートの疑念を肯定するには十分であった。

「そう…なんだね?」

 無表情をぎりぎりのところで保ちながらも…コンラートの精神のどこかで、この時…何かが砕ける音がした。

 この世界で、具体的に何が変わったのか詳細はまだ分からない。
 だが…少なくとも、一つの国に於いて《王》が異なるというこの事実は最も大きな差異であろう。
 その差異を生み出したのは誰だ?

『俺だ…』

 そうだ、この男…ウェラー卿コンラートなのだ!
 スザナ・ジュリアへの絶望…眞王や言賜巫女への反発…そして、フォングランツ卿アーダルベルトへの同情…。
 どんな理由があったにせよ、選んだのはコンラートだ。

 ああ、あの決断が…。
 全てを変えてしまったのか……っ!

『どうして……っ!』
 
 こんな事になるなんて思わなかった…!

 あの時…小さな硝子瓶の中でまん丸に輝いていた魂が、この子に受け継がれると知っていたら…おそらくコンラートは別の決断を下したことだろう。
 
 なんて事を…してしまったのだろうか……っ!

『ああ…俺のせいで、眞魔国は破滅の道を辿ったのか…っ!政治に関心のない王を頂いたまま、崩壊への道を突き進ませてしまったのは、シュトッフェルでもヴァルトラーナでもなく…俺自身だったというのか……!』

 あの決断を下した日、不安がなかったとは言わない。
 絶対的な存在からの命令を拒否して、己が信じる道を突き進んだコンラートは、何とかしてその選択がよりよい結果を生むようにと、可能な限りの自己研鑽と軍隊・領土の強化に努めた。

 混血の民が、純血の民と同様に…差別されることなく暮らせる国を目指す。
 その為に、出来る限りのことをしてきたつもりでいた。

 だが…そんなもの、何の意味もないことだったのだ。  

『無意味だったのか…全て……!』

 この日まで、何があっても保ち続けてきた獅子の心が…砕けてしまう。
 ぐずぐずの…浜に打ち上げられた藻のように、潰されてしまう…!


『あなたは、この先に起こることを背負う勇気がありますか?』
『あなたはいつか知るでしょう…その結末を。その時、運命の重さに背を拉(ひし)がれませんように!』


 言賜巫女の声が、残酷な鋭さでコンラートの胸を抉る。
 ああ…そうだ、あの日…コンラートは誓った。どんな結末が待っているのだとしても、それを受け止めると…!

「レオ…ねえ、どうして知ってるの?その事は、身内しか知らないことなのに…レオは、俺が魔王やってるって事さえ知らなかったんだろ?なのにどうして…っ!」
「すまない…ユーリ」

 すまない。
 ああ…なにもかも、すまない。

 今は唯、詫びたい。

 コンラートの為に失われていった命に…世界に…詫びたい。
 コンラートの身一つで贖罪することなど、不可能だろうけれど。
 せめて、約束したように…受け止めることだけはしよう。

「君を…騙すような形になってすまない。俺とこの男について、語った名は偽りのものだ」

 コンラートは色を失った顔に、それでも張り付いたように冷静な形状を型造る。
 取り乱して泣き喚くことは、出来なかった。
 子どものように駄々を捏ねて逃避することは無意味なことだと…理性が強く訴えかけてくるからだ。

「だが、半分は本当だ。俺達は君のことを知らなかった。この世界のことも…」
「それって…どういう……」
「俺の名はウェラー卿コンラート…こいつの名は、グリエ・ヨザック…。こことは異なる歴史を辿った、眞魔国の住人だ…」

 ぽかんと有利の口が開き…意味を把握し損ねたみたいに、うにゅ…っと口がへの字に枉げられる。

「別の…眞魔国?」
「そうだ…俺は、スザナ・ジュリアの魂をチキュウへは運ばなかった。君は…俺の世界には居ないんだよ」

 氷の様に無機質な唇が淡々とその事を口にすると、有利は大粒の瞳を見開いて…想像の範疇を越えた事柄に怯えた様な表情を浮かべる。

「俺の住む眞魔国では第26代魔王ツェツィーリエ陛下が今なお玉座を占め、シュトッフェルが摂政として権勢を振るい…《禁忌の箱》の開放によって、世界中が荒廃して田畑も森も実らなくなり…民は、戦いと飢えの中で死にかけている」
「そんな…」
「信じては貰えないかも知れないね。こんなに豊かで平和な国とは…大きく違ってしまっているんだよ」
「で…でも、俺が居ないくらいでそんな…!」
「いいや、多分そりゃあ…でかいことだぜ?」

 有利は眉根を寄せて抗弁するが、鋼は何を思うのか…コンラートに対応するかのように、無機質な声を滲ませる。

「俺は《禁忌の箱》とやらのごたごたが落ち着いてからこの国に来た口だから、全部人づてに聞いたことばかりだがよ?少なくとも…揃っちまった4つの箱が封印を解かれて、創主ってぇ化け物が這い出てきたときに、そいつを倒したのはこの有利だ…。それだけでも、ドカンと歴史は変わっちまうだろ?」
「四つの箱が開いただって?俺の世界では三つだったんだが…」
「ああ…だからまだあんたら、全滅するまでは行かなかったんだな?」

 コンラートの言葉に鋼が頷くと、有利も少しほっとしたようにこくこくと頷いた。

「うん、最期の4つ目…《鏡の水底》は地球にあった。地球の魔族が護ってたのを、俺達が説得して持ってきたんだ。だから、俺が居ないなら全部揃うことはまず無い筈なんだよ」 

 《だから、そんなに自分を責めないで?》そう言いたいのだろう有利の眼差しが、今のコンラートには辛かった。
 
「そうか…だが、俺達の世界は…あの箱が三つ開放されるだけでも凄まじい影響を受けた…。確かに、箱の開放と共に世界が滅びるということはなかったが、年と共に植物は芽吹くことを止め、生物も繁殖力を失いつつある。俺達の世界は…じわじわと壊れていきつつあるんだ」
「そんな…っ!」

 はぁ…っと、コンラートの口元から、堪えきれなかった吐息が漏れ出ていく。

 眦には疲労と…そして、打ちのめされ傷ついた心が垣間見えたが、それは一瞬にして姿を消した。
 コンラートがこれまでの生涯に培ってきた性質…絶望に耐える機能が、この時も感情を殺すことで自分の心を護ろうとしていた。

 事実を客観的に受けとめ、機械的に処理していくほかに…この現実を受け止める術はないだろう。

「すまない…全ては俺のせいだ。君を…俺達の世界で生み出すことの出来なかった俺は赦されざる存在なんだ」 
「違うよ…!そんなの……っ!」

 無表情な面の中に隠された感情を思い、有利は懸命に反論しようとするが…コンラート自身が自分を赦せないだろう事に、己の無力を感じることしかできなかった。

「違わない。これは…事実だ。俺は…世界を破滅に導いた、第一級戦犯なんだ……」


 哀しすぎる事実を静かに受け入れるコンラートは、殉教者の様にそっと瞼を伏せた。






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