第二章 TーC 「ふぅ……」 身体を石鹸で洗ってから湯を被ると、避けて流しはしたのだが…やはり背中の火傷痕が痛んでコンラートは顔を顰める。 だが、その痛み以上に…今なお驚愕の方が大きかった。 『ユーリが…魔王陛下?』 子どもの話とはいえ、いや…子どもの話だからこそ、それは世間に流布されている《常識》なのではないだろうか? 有利は眞魔国の魔王陛下であり、ウェラー卿コンラートは結婚を間近に控えた婚約者…。隠された聖域に住んでいるのであれば、そんな嘘をついたところで意味はないだろう。 『ここは…俺達が住んでいた眞魔国とは、違うんじゃないのか?』 おそらく、その結論が最も得心行くものだろう。 そうとでも考えなければ説明がつかない。 考えてもみれば、コンラート達は異空間の中で有利に救われたのだ。 彼が眞魔国の中のみで生活しているのだとすれば、わざわざ異空間にいる意味はない。 有利は…複数の世界を渡ることが出来る能力の持ち主であり、こちらの世界における眞魔国魔王なのだろう。 だとすれば…眞魔国全土がこのように富裕な土地なのだろうか? 『何という…恵まれた国なのだ…!』 同じ眞魔国という土壌でありながら、コンラートの住む国とは何という違いなのか! 一体、何がどんなに違っていて、こんなにも大きな差異になったのだろうか? コンラートは濡れた髪を荒々しく掻き上げながら、何としてもその理由を知りたいと願った。 ぬめる手で頬を撫でれば、久し振りに綺麗に剃り上げることの出来た頬が滑らかな質感を掌に返す。 ふわふわとした肌理の細かい石鹸は香りが良く、どうやら質の良い油で作られた石鹸種の中にアロマオイルを落とし込んでいるらしい。 田舎宿で、これほど高級な石鹸が使われているのか…。 《魔王陛下が来られたから》と急遽用意したのだとしても、こんなものが町のどこかにあるというだけで驚異的だ。 『何という豊かさだろう…』 「レオさん、もう背中流しちゃった?」 トントンっとノックの音が響き、浴室の扉が揺れる。 有利の声が湯気の中でほわほわと反響してきた。 「ああ…ユーリ…陛下。体調は良くなられたのですか?それに…俺のことを《さん》づけで呼ぶ必要などありませんよ?」 村には幸運なことに治癒者がおり、激しく緊張しつつも有利とヨザックに治癒を施してくれたので少しは元気になったようだ。 ただ、もともとの疲労がただ事ではないので、油断は禁物の筈なのだが…。 「身体は随分楽になったよ。お言葉に甘えて、《さん》付けも止めるけどさ…それより、陛下なんて呼ばないでよ!敬語も今更感が漂うよ〜。レオさ…ああ、レオ、俺が魔王になったってこと知らない土地から来たんでしょ?だったらそこにはまだ俺、王様としてちゃんと貢献出来てないわけだからさ、敬ったりする必要ないって!」 「いや…そういうわけには……」 「ねー、お願い!コンラッドにそっくりな人に陛下呼ばわりされるのヤなんだよー」 「……ウェラー卿コンラートは、君を陛下とは呼ばないの?」 コンラートの言葉に、拗ねたような声が返ってくる。 「うー…陛下って呼ぶんだよこれが!名付け親のくせに酷いだろ?自分でつけた名前を優先しろっつーの!」 「……名付け親?」 それでは、こちらのコンラートは有利を赤ん坊の頃から知っているのか? おむつをした有利や、よちよちあんよの有利を知っていてなお、年の差を乗り越え婚約するとは…。 『……幼児趣味?』 一瞬浮かびかけた語彙を慌てて掻き消す。 その認定がそのまま自分にも降りかかってくることを思い出したのだ。 「ところで、背中流すの難しくない?火傷痕…俺もある程度は治したし、さっきの人も頑張ってくれたみたいだけど…変なトコ当たると痛いだろ?洗うの手伝おうか?」 「陛下…いや、ユーリ…君、どれだけ庶民派なんだ……」 《庶民派》という言葉に誘発されて、コンラートは有利が魔王陛下であるという驚異に、改めて愕然としてしまった。 有利は…混血と言ってはいなかったか? 『混血の…魔王?』 幾ら希少な双黒だとしても、シュトッフェルは何も言わなかったのか?ヴァルトラーナは? 有利の魔王就任に際して、あの血統に過大な比重を置いた男達からは何の抵抗もなかったのだろうか? もしやこの眞魔国では、鬱陶しいあの男達までもが居ないのだろうか? だとしたら…あまりにも都合が良すぎる。 『もしかして…ここは死した者が己の夢を反映させた、幻の理想郷なのだろうか?』 いや…だとしたら有利とコンラートは出会った途端に相思相愛になるはずだ。 よりによって《自分がライバル》だなどという冗談のような事態には陥らないはずである。 そう…ライバルなのだ。自分自身が! 偽物ではなく本物のウェラー卿コンラートが、魔王陛下の婚約者として存在している…。 『俺と…随分な違いだな』 知らず、自嘲の笑みが浮かんでしまう。 コンラートはこれまで誰かを羨んで自分を卑下したりする事はなかったのだが、ここまで明確な差違が、よりにもよって自分自身との間にあるとなれば流石に考えてしまうものである。 愛らしい魔王陛下を頭上に頂き、ルッテンベルク師団を率いて戦果をあげているのだろうか? これほどの国力があり、しかも魔王陛下の婚約者という立場であればさぞかし潤沢に物資も回して貰えるだろうし、近隣の国々がどんなにこの国を羨もうとも、完璧な防御網を敷いてその触手を阻むことが出来るだろう。 『そうだ…この世界では、《禁忌の箱》は一体どうなっているのだろうか?』 開かれていないのか…開かれたにしても、眞魔国には殆ど影響がないように見受けられる。 『グウェンダルやヴォルフラムもどうしているんだろう?』 母は魔王という立場に倦みきっていたから、嬉々としてその座を譲ったかも知れないが…有利の魔王就任に対して、あの二人が唯々諾々と服従するとは思えない。 しかも、その魔王陛下とコンラート…こちらのウェラー卿が婚約することを認めるなど、どういう事態になっているのだろう? ああ…聞きたいことだらけで頭が混乱してしまう。 だが…有利にその辺りを踏み込んで聞くには、この恰好(すっぽんぽん及びフルチン)はあまりにも間抜けだ…。 せめて居住まいを正して、詳しい話を聞きたい…なー………っと思ってたのに……。 『何で君、サクサク入ってくるんだ!?』 コンラートは後頭部の毛が立ち上がるような感覚をおぼえた。 仔犬のように無邪気な様子で、有利は陰部こそタオルで隠しているものの…肌理の細かい滑らかな肌や、伸びやかな四肢…胸を飾る淡紅色の膨らみもそのままに、スッタスッタと風呂場に入ってくる。 こんな愛くるしい容貌をしているくせに、会ったばかりの男の背を全裸で洗おうなど…警戒心がないにも程がある! こちらのコンラートはどういう教育をしているのだ!? 顔を合わせたら小一時間問いつめてやる…! コンラートは姑のような事を考えて立腹していた。 それに…よく見れば、有利はまだ熱っぽい顔をしているではないか。 「ユーリ…君…っ!まだ熱があるのに人の背中なんか流している場合じゃないだろ?俺はもう出るから…」 眩しいものから目を逸らすように、コンラートは極力有利を直視しないようにして脱衣所に出ると、慌てて大判のタオルを手にとり…そこでまたしても驚愕の事態に見舞われることになる。 『…ジュリアの…魔石?』 籐編みの脱衣籠の中にはコンラートと有利が脱いだ血塗れの衣服と、この町に入ってから手に入れた真新しい衣服が入っている。 その中の、有利のために用意された籠に水色のパジャマが畳んであり、その上にちょこんと魔石が置かれていた。 よく見ると、コンラートが持っているものよりも青みが強いようではあるが、透かしたときに浮き上がる精緻な紋章は紛れもなくウィンコットのものだ。 これはウィンコット家に代々伝わる、唯一つの品なのだと彼女は言っていた…。 それではこちらのコンラートは、自分が貰ったこの石を有利にあげたのだろうか。 『そこまで…大切に想っているのか……』 裏切られたような思いがあるとはいえ、それでもやはりコンラートにとってスザナ・ジュリアは掛け替えのない同志であった。 魂をアーダルベルトに渡してしまった後も、結局この石は身に帯びていたのだが…こちらのコンラートは、ジュリアに対する拘りをどのような形で振り切ったのだろうか? 守護の力を持つというこの石を、どのような想いで有利にあげたのだろう。 「どうしたの?」 「いや…これは、ウェラー卿コンラートに貰ったのかい?」 掌に青い魔石を載せてみると、微かに温もりを帯びているように感じる。 その石を見やりながら、有利は幾らか懐かしそうな顔で笑った。 「うん、《お守りだよ》って…初めてこの国に来たときにくれたんだ。あー…何か、懐かしいなぁ…あん時は俺、まだ15歳だったんだぜ?たった3年前のことなのにさ…なーんか凄い昔の事みたい!しかもさー、不良に絡まれた友達助けた勢いでトイレにぶち込まれてそのまま眞魔国に流されたと思ったら、コスプレみたいな皆さんに石持て追われ、コンラッドに助けられたと思ったら、ギュンターに《あなたは今日から魔王です!》なんてぶちまけられてさ。吃驚しておろおろしてる間にヴォルフラムに難癖つけられて、喧嘩売ったら凄い勢いで買われてそのまま決闘に突入ーっ!っていう、俺の大ピンチタイムにコンラッドがくれたんだよね」 思い出に浸る有利は饒舌だ。 「………ちょ…ま、待ってくれ!」 次々と爆弾発言が出てきて、コンラートはすっかり蜂の巣状態である。 またしてもどこから突っ込んで良いのか分からない。 「取りあえず…ささっと身体を流して服を着よう?」 少しでも落ち着かないと、取り乱してしまいそうだ。 取りあえず…彼の発言が真実であるとすれば、最もショックなのは彼が18歳であるということだ。 『俺は少年趣味だったのか……っ!』 何が衝撃といって、そこが一番の衝撃ポイントである自分自身に最大の衝撃を受けてしまう……。 「うん、じゃあ背中を流し…」 「流さなくて良いからっ!」 コンラートは半ば強引に有利を洗い場に座らせると、これでもかと言うほど泡を立てて全身を洗いまくり、勢いよく湯で流すと下心が介入する隙を見せずに一気呵成に身体と髪を拭きまくって、さくさくっとパジャマを着せてしまった。 その勢いはF1チームに所属する優秀なピットクルーが、レース中にタイヤ交換を行うくらいに迅速な動きであったという…。 * * * 『なんとまぁ…あの男、ちょいとばかしヘタレ…いやいや、面倒見の良すぎるところまでウェラーの旦那にそっくりじゃねぇか』 浴室の入り口で様子を伺っていた鋼は、呆れたような微笑ましいような…複雑な心境で苦笑していた。 有利が《レオさんの背中流してくる》と言いだしたときには慌てて止めたのだが、治癒者のお陰で少し元気になった有利は、《背中流しは交友の基本》とよく分からない持論を展開してとっとと服を脱ぎだしてしまったのである。 あの男が有利に不埒な真似をしようとすれば、その喉笛すぐさま食い破ってくれよう…と構えていたのだが、事態はなんとも半笑いの展開を迎えてしまった。 ほこほこと湯気を立てている有利と、やや憮然とした表情のコンラートが風呂から出てくると…鋼は妙にニヤニヤしながら声を掛けたのだった。 「よぉ…気持ちよかったかい?」 「うん、血の臭いも少しは消えたしね。あーあ、これでゆっくりご飯食べられるよ」 「有利のは粥にして貰ったぜ?」 「えぇ〜?」 「魔術で治した傷だの疲れだのは、具合が良いのを過信しちゃ駄目だって言われてるだろ?疲労回復に回してる分、消化機能は落ちてるはずだぜ?」 「はぁい…」 ふに…と、しょげたように有利が唇を尖らせると、大きめのパジャマに包まれたその肢体はおにぎりにして転がしたいような愛らしさに満ちてしまう。 『だからどーしてそう、お前さんは可愛いんだろうね?』 鋼は本来、美麗系青年を好むゲイであるのだが、有利に対しては時折食指が動きそうになってしまうから困る。長年生きた妖怪とは言え、まだ命は惜しいのだ。 『あー…このレオとかいう男と有利が風呂に入ったって事も、重々口止めしとかねぇとな…実に俺がとばっちりを受けそうだ』 清潔な長衣とズボンを身につけたレオは、淡く湿気を帯びた髪を秀麗な額や首筋に垂らしており、その様子は実に鋼のゲイっ気(…)をそそる。 はだけた襟元から覗くしなやかな首筋のラインだとか、くっきりとした鎖骨の陰影などは、むしゃぶりつきたくなるような色香を漂わせているではないか。 『っきしょ〜…有利に惚れてるのがここまで丸分かりでなきゃあ、ちょいと粉かけたい位なのにな』 それにしても…自分の恋人とそっくりな奴と裸で接触して、《お風呂はやっぱり気持ちいいね》という感想しか伺えない有利というのは、一体どういう鈍さなのだろう。 幾ら似ていても、別人判定が出るとそれだけで守備範囲外になるのだろうか? まあ…鋼も恐怖の対象であるウェラー卿コンラートにはとても欲情する余裕などないというのに、別人だと思えばその香り立つような色気に萌えてしまうのだから似たようなものか。 「ん…?その桶どうするんだ?」 ふと見ると、レオは小脇に湯を入れた桶を持っていた。 「ギィの身体を拭いてやるんだよ。まだ、あいつは入浴できないだろうからね」 「そうだな。あのまんま布団に入られちゃあ、シーツは買い上げになっちまうかも知れないしな」 「…魔王の従者にしては細かいな」 「そりゃまあ、俺も庶民暮らしだからな」 「………庶民?…庶狼?」 「俺はヒト型にもなれるのさ」 『地球じゃあヒト型で居る時間の方が長かったんだぜ?』 《地球》…その言葉を含めて告げようとしたその時、扉が叩かれて美味しそうな芳香を放つ夕食が運ばれてきた。 「お〜っ!良い匂いじゃねぇか!俺の分の肉も用意してくれたかい?」 鋼がわふわふと駆け寄ってくると巨大な獣の姿に怯えたのか、給仕の青年は危うく両手一杯に抱えた料理を取り落とすところであった。 「ええ、ちゃんと血が滴る新鮮な肉を……」 給仕がビクビクしながらも笑顔を返すが、鋼は口角を変な方向に枉げて憮然とした。 「いや…俺、肉は火が通ってた方が良いな……」 獣の姿でも、すっかり食生活が人間ナイズされている鋼であった。 →次へ |