第二章 花咲く世界
天地上下左右時間の経過…全てが曖昧な闇黒の世界を、コンラートはヨザックを抱えたまま高速で飛ばされていく。 いや、本当に飛ばされているのか…実は止まっているのではないかと思う瞬間もある。馬に乗って疾駆しているときのように心地よい風を感じることもなく、服がはためくこともないからだ。 だが…目に映る蛍火のような明かりと、闇黒の中にも微かに存在する色調の違いが凄まじい速度で変化していくことだけが、コンラートに《飛ばされている》という実感を与えている。 命が存在しない世界。 存在自体が、無い世界……。 この中を、何処まで飛ばされていくのだろうか? いや…《終わり》は、あるのか…? 『アアいやダ、いやダぁああ…ウツクしい…さいごナド、むかエさせるとおもウカ…?』 眞王の嘲笑が思い出される。 崩れてしまった眞王の精神は、文字通りコンラートに地獄を見せるために異空間に飛ばしたのだろう。 このいつ果てるともつかぬ闇の中で、孤独に晒され続けながら、寂しさに喚くコンラートを見たいのか? 思い通りになどなるものか… 決して、狼狽えたり喚いたりしない……っ! しかし、そう思う思念の端から哀しすぎる現実がコンラートを浸食しようと責め立てる。 腕の中で、唯一コンラートに生命を感じさせていたヨザックの温もりが、少しずつ…着実に、失われていくのだ。 『ヨザ…っ!』 名を呼んでも、声帯が震えるばかりで音として響かない。 自分の声ですら、自分で確認することが出来ない。 怖い… 怖い……っ! こんな孤独の中で、一人彷徨い続けるのは…嫌だ……っ! 今までコンラートはどんな苦境に立たされても、独り立つ精神を貫いてきた。誰かを頼りにするのではなく、全て自分で手筈を整えて乗り越えてきた…。 けれど…それを可能にしたのは、必ず後ろからついてきてくれる人達が居たからだと気付く。 意識せぬままにコンラートは見守られてきたのだ。背中を支えてくれる人達が居たからこそ、前に前に進むことが出来のだ。 怖い……っ! 子どもの頃、暗闇を恐れて父の腕を求めたように…コンラートは力強い保護を求めて、叫びだしたい欲求に駆られてしまう。 その時…遙か彼方に蒼い光が瞬いた。 『なん…だ……?』 今までも、薄青い光は空間のどこかで瞬くことはあった。しかし、それらは弱々しく惨めったらしい青であったのに、その光は一体何なのだろうか? なんて暖かく…生命の息吹に満ちているのだろうか! 生き生きと弾むように、律動的に奔るその光はあっという間にコンラートの傍まで飛んで来て、交差するようにして掠めていく。 『行かないで…っ!』 物心ついたときから、一度として口にしたことのない縋るような言葉が溢れ出るが、やはり大気を震わすことはなく、蒼い閃光はコンラートを置いて遙か彼方を目指そうとする。 『行かないで…行かないでくれ……っ!』 絶叫するように震わせる喉が、思いを伝えたのかどうか…急に、蒼い閃光が動きを止めたかと思うと、コンラート目がけて方向転換してきた。 よく見ると、光は子どものような形をしている。 容貌までは詳しく見て取ることは出来ないものの、その口元は焦ったようにぱくぱくと動き、精一杯伸展させた若木のような腕がコンラートに向かって差しのべられた。 少年の小さな手が、なんと力強く…美しく見えることだろうか! 『酷い…凄い血…っ!大丈夫!?』 愛らしい少年の声が、切羽詰まったような音調を奏でてコンラートを追いかけてくる。 大気を震わせずに、脳に直接響いてくるようなその声音に、コンラートは狂喜して腕を伸ばした。 『掴んで…俺の手を、掴んで…っ!』 『ああ…っ!』 高速で飛んでいく身体は触れようとするたびに摩擦のようなもので弾かれるが、少年は諦めることなく何度も手を伸ばし、そして… …やっと掴んだ手から手繰り寄せるようにコンラートとヨザックを抱きしめると、泣くような声で囁きかけた。 『痛いよね…?待ってて…絶対、助けてあげるっ!』 暖かい子どもの体温が、《いのち》の強さを感じさせて…コンラートは眦に涙が込み上げてくるのを感じる。 『暖かい…なんて、暖かいんだろう?』 …細胞の隅々にまで、温もりで染み込んでくるかのようだ。 華奢な身体で、大柄な男二人を抱きしめながら少年が叫べば、コンラートの胸は言いようのない安堵に満ちあふれて、残された力の限り細い肢体を抱き寄せた。 『お願いだ…助けて、こいつを…助けてくれ……』 『うん、やるよ…俺、絶対助けるから!このまましがみついててね?変な力が掛かってきてるから、少し進路が変わっちゃうかも知れないけど…でも、やる!行くよっ!』 『ああ…頼む……っ!』 三つの命の固まりは、彗星のような光を放ちながら飛んでいく。 この奇蹟のような出会いが、大きな運命を動かしていくことをまだ彼らは知らない。 * * * 暖かい…。 意識を取り戻しつつあるコンラートが、最初に感じたのは温もりだった。 次いで認識したのは、かさかさと乾いた感触…そして、ふかふかした毛皮のような感触…。特に、後者については《すぅ〜…ふぅ〜…》っと呼吸による微かな動きが感じられる。 『生きている…毛皮?』 何か奇妙な気がしたが、そもそも毛皮とは生きている動物の皮なのだから動いてもおかしくはないのか? ……どうやら、思考力はまだ回復していないらしい。 そんなことよりも、この心地よい眠りをもう少し愉しんでいたくて、コンラートはもぞもぞと身体を動かして《生きている毛皮》に潜り込んでいった。 身じろいだ瞬間に背中の火傷痕が痛んだが、我慢出来ないほどではない。 あれほどの傷が一眠りの間に《我慢出来る》ものに変わっているという不思議に、まだコンラートは気付かなかった。 そして暫くぬくぬくと寝起き間際の惰眠を貪った後…心地よい目覚めを迎えてゆっくりと瞼を開けていった。 「ここは…」 嬉しい。 声帯を動かしてみると、いつも通りに大気が震えてちゃんと声として認識出来る。 『そうだ…俺は、無限とも思われるような闇の中で彷徨っていたはず…』 救い出してくれたのは、蒼い彗星のような光…少年だったはずだ。 見回してみると…いた! 「な……っ」 コンラートは思わず息を呑んでしまう。 なんという…美しさだろうか? 銀色の毛皮と乾いた落ち葉に包まれた少年は、白いシャツや頬、手を血に汚しており、眠っていると言うよりも気絶しているような状態で横たわっては居たけれど…それでも、その容貌の美しさを損なうには至らなかった。 滑らかな…白い頬。上気して薔薇色が差せばどんなにか愛らしく見えるだろうか? 小さく形良い鼻はすぅすぅと寝息を漏らし、微かに開かれた薄紅色の唇は白く歯並びの良い歯を覗かせて、華の蕾のように感じられる。 長い睫の伸びる瞼は、さぞかし大きな瞳の持ち主なのだろうと伺わせた。 これほど美しい少年を…コンラートは目にしたことがない。 美貌を謳われる母や兄弟にしても、ここまで胸を打つような瑞々しさまでは持ち合わせていないのだ。 『なんて綺麗なんだろう…』 希少な宝物を目の当たりにしたような、荘厳なまでの感動が胸を満たす。 震える手を伸ばしていくが、触れることが躊躇われる…。もしかして、触れた瞬間に泡沫のように消えてしまうのではないかと…そんな恐れさえ感じられた。 その時…この穴蔵の中に差し込んでくる光が少しずつ強いものに変わってきたことで、コンラートはやっと少年の髪の色が見せる《不思議》に気付いた。 「黒…だと?」 黒だ。間違いない…! 這い寄っていって見直してみても、これは明らかな漆黒であり、青白い頬に落ちかかってくる一房を指に取ると、さらりとした心地よい感触なのが分かる。人工的に染めたようなものではあり得ない…。 よく見ると、少年の眉や睫も見事なまでの漆黒だ。 「この子が…助けてくれたのか?」 漆黒の髪を持つ少年の噂など、いままで聞いたことがない。しかも、空間の狭間を自由意志で飛び回るような絶大な力の持ち主など…。 もしや、魔族ではなく聖域に住まう精霊なのかもしれない。 この人智を越えた美しさだ…そう言うことも十分にあり得るように思えた。 「ん…んん……」 「ぁ…申し訳ない…!」 気が付くと、コンラートの手は珍らかな黒髪を撫で回してその感触を愉しんでいた。 眠りを妨げられた精霊は、怒りを見せるかと思われたが…ゆっくりと開かれた瞳はあどけなく滲んでおり、まだ覚醒しきっていない無防備な瞳がコンラートを認識した途端… …ふわぁ……っと華のように綻んだ。 「……っ!」 コンラートは、先程とはまた意味合いの異なる衝撃に見舞われて、息をすることも忘れて精霊に見入った。 心が…鷲づかみにされるようだ。 大粒の瞳が送る愛おしげな眼差しに晒されると、何を言うことも出来なくなって…思考の全てが奪い取れらてしまったようにコンラートを硬直させてしまう。 彼の瞳が自分を見詰めているというその事実に、言いようのない幸福感を覚えてコンラートは頬を染めた。 そして、一頻りその双弁の美しさを堪能した後で、コンラートは更なる《不思議》に漸くのこと気付いたのである。 「双…黒……?」 精霊だとしても…なんという奇蹟だろうか? 4000年以上前に存在したという大賢者以降…これほど見事な双黒を保持する者がこの国に居たなど聞いたこともない。 「んー…?なんで今更……」 くすくすと少年が笑う。 少し鼻に掛かった響きの良い声は愛らしく大気を震わせて、コンラートの耳朶に心地よい音声をもたらす。 「コンラッド…怪我……大丈夫?」 コンラートの様子がおかしいことを、精霊は怪訝に感じたのだろうか?一部の友人が呼びかけるような名で呼びかけてきた。 「俺…できるだけやってみたんだけど…ごめんね。なんか…あんたとヨザックを吹き飛ばした力が凄く強くて…こっちに連れてくるので精一杯でさ、死なない程度に治したところで気を失っちゃったみたいだね」 精霊は腕を伸ばすと、傍らに横たわるヨザックの頬を撫でつけた。 『あ…すまん、ヨザ……忘れていた……っ!』 存在自体を忘れていたことがなんとも申し訳なくて、コンラートは詫びるようにヨザックの髪を撫でつけてやった。 太い首元に手を当ててみれば、弱々しいながらも脈は着実に打っており、凄まじい傷痕は血で汚れているものの、完全に出血を止めて肉芽組織の盛り上がりが、健全な再生過程にあることを教えてくれる。 『凄い力だ…』 何という治癒能力なのだろうか! あれほどの傷を受けていたコンラートとヨザックを一度に治癒してしまうとは…。しかも、彼はそれまでに眞王の力を跳ね返して二人をここまで連れてきているのだ。 『……欲しい、な』 コンラートの瞳に抗しきれない欲望が宿る。 この精霊は、コンラートの願いを聞いてくれるだろうか?おそらく、好意は既に覚えているはずだ。ここまでしてくれたのだから…。 では、もしかしてウェラー領についてきてくれる事も可能なのでは? ただ、精霊は特定の聖域から連れ出されることを嫌うから、相当量の好意を得る必要があるのだが…。 「君…名前を聞いてもいいかな?」 コンラートから名乗ろうとも思ったのだが、どうやら《コンラッド》と呼びかけ、ヨザックのことも知っているらしい精霊には今更かも知れない。 だが…親しみを深めようとして告げた問いかけは…精霊の漆黒の瞳を強張らせた。 凍り付いたように硬直した瞳がコンラートを見詰めることに、胸が締め付けられるような罪悪感を覚えてしまう。 何かが…酷く彼を傷つけてしまったのだ。 「コンラッド…俺を……思い出せないの?」 「いや…」 なんと答えて良いのか分からない。 精霊は…コンラートの名を知っているだけではなく、親しく付き合っていた記憶を持つらしいのだが、当然コンラートの方にその記憶はない。 正直に答えたものかどうか…。 困惑するコンラートに取り縋るようにして、泣きそうな顔で精霊が訴えてきた。 「お…俺だよ?有利…渋谷有利だよ!新宿不利の方じゃないよ!!」 どうしよう…言っている意味がさっぱり分からない。 しかも、眠ってもなお十分な回復を得られなかったらしい精霊…シブヤユーリは、立ち上がろうとして目眩を覚えたのか、そのまま横倒しに倒れそうになってしまった。 「危ない…!」 咄嗟に倒れかけた身体を受け止めると、熱っぽい体温にまた胸が痛む。 この精霊は…コンラートとヨザックのために力を使いすぎたせいで発熱しているのだろう。 「覚え…てるよ。勿論…」 「本当…?」 「ああ…だから、安心して今はお休み?」 「うん……」 コンラートの胸に抱き込まれた途端、安心したように精霊は微笑み…ほろりと眦から涙が零れた。 どんな宝石よりも綺麗だ…と、コンラートはその雫に唇を寄せて吸い上げる。 塩っ気のあるその液体が、たまらなく愛おしさを募らせた。 『可愛い…なんて、可愛いんだろう?』 もしも何かの勘違いでコンラートを誰かと間違えているのだとすれば…それに乗じて奪い取ってしまうたいと思うくらい、この子に惹かれていることを、コンラートはまだ十分には自覚出来ていない。 ただ腕の中で無防備に眠る精霊がただただ愛おしくて…彼の身体から完全に力が抜けてしまっても、いつまでもその髪を撫で続けたのだった…。 |