「螺旋円舞曲」



第1章 壊れゆく世界








プロローグ


 窓の向こうに茶色く霞む風景を見るともなしに見やりながら、ウェラー卿コンラートは椅子に深く腰を下ろした。

 きしり…

 鈍い音を立てて、古びた椅子が軋む。
 一応は准将…いや、アルノルドでの功績により少将の地位を得ることが決定している軍人の日用品なのだから、希望すればもっとすべらかな木材を磨き上げ、繊細な彫刻を施し、天鵞絨で加工した豪奢な椅子を与えられるのだろうが、そういう物質的なものに必要性を感じない性分の彼は、相変わらず士官学校卒業時に宛われた飾り気のない椅子を使用している。

 愛用している…とまで言わないのは、ここ1年ほどは全く座っていなかったせいだ。
 その間メイドが掃除はしてくれていたようだが、当分使っていなかったせいかクッション部分がどうにも尻に馴染まない。

 ひょっとすると…ゆっくり椅子に座るという行為自体が身体に合わなくなっているのかもしれないが。


 終戦までの1年間というものの、戦場…もしくは、戦場へと物資を運ぶ兵站部や、物資を手に入れるための交渉(この作業に手を取られること自体が甚だ奇妙なことではあるのだが)に忙しく働き続けていた彼には、自室でくつろぐなどという贅沢は許されなかったのだ。


 十貴族ではなく、しかも100歳に満たぬ身でありながら将官の位を持つという希有な栄達を果たした男は、その《贅沢》を苦々しく噛み締めていた。

『戦っていた間の方が…まだマシだったかもしれない』

 アルノルドにほど近い…傷痍軍人が集められたカルマーレ野戦病院から王都に戻ってくると、コンラートは様々な思惑を抱えた貴族連中に囲まれることとなった。

『素晴らしい功績だ!』

 同じ言葉でも、涙ながらに戦場を共にした兵士が口にするのと、奥に毒を含んだ物言いで永続的に王都防衛の任に就いていた者…要するに、一度たりと前線に出たことのない将官が口にするのとでは受ける感慨は全く異なる。
 そして…王都で接触する言葉の殆どは後者であるのだから、コンラートの口内には何時も苦い何かが滲むことになる。

「はぁ……」

 知らず漏れ出す吐息は我ながら覇気のないもので、どんなに追いつめられた戦場でもこんな態度をとったことはないのにな…と自嘲する。

 まあ、《とったことがない》と言うよりは《とれなかった》の方が正確かもしれない。

 彼はルッテンベルク師団における指揮官であり、兵はこの背中を見つめて進んできたのだ。内心、どれほど怯え…困惑していたとしても、それを表に出すことは許されなかった。

『どちらが幸せといえるんだろうな…』


 こんな時、笑いながら指針を示してくれた女性(ひと)はもういない。


『馬鹿ね、コンラート。幸せとか幸せじゃないとか、今の瞬間に感じ取れないもののことをぐだぐだ考えたって、答えなんかでないわ。そういう時はしっかり眠って、まず手近なことから片づけちゃうのよ。そうすれば、途方もなく大きくて掴めないと思ってたことも、案外簡単に片づいてしまったりするものよ。その時自然にあなたの中から湧き出てきた《幸せ》というものが、本当の幸せなのだと思うわ。だって、あなたが幸せかどうかを決められるのは、あなただけなんですもの』


 盲目だったあの人は、見える筈の目を持つ者よりも、何時だって真理に近いところにいた。


『ジュリア…それでは、俺はまず君の死について知ることから始めればいいのかな?』

 眞王廟からの召還命令が届いたとき、正式な文面にそのような記載はなかった。
 だが、伝令の戦巫女は渋面を浮かべたコンラートに向けて、そのようなことを匂わせたのだった。

『スザナ・ジュリアの死について、あなたはより知らなくてはならないことがあります』

 その言い回しにどれほど嫌悪を覚えたとしても、コンラートが赴かざると得ないことを知っている顔だった。

『…くそっ!』

 腹立ち紛れに荒々しく戸棚を叩けば、ぐらりと揺れて幾つかの調度品が落下し、織布の上でぽぅんと跳ねた。
 みると、そこにはかつてジュリアから貰ったお土産品も含まれていた。

「…壊れたかな?」

 拾い上げてみると、小さな陶器人形には見たところ罅などは入っていない様子だった。
 試しに発条(ゼンマイ)を巻いて卓上においてみると、深い飴色の木肌の上で陶器人形はくるりくるりと円弧を描き出した。内部にオルゴールが内蔵されているらしく、愛らしい顔だちの少年少女がダンスを踊るのに合わせて円舞曲が流される。 
だが、よく見るとその動きはどこかぎこちなく、円弧は正確な位置に戻ることなく螺旋を描き、少しずつ少しずつ…机の端へと近寄っていく。

『…落ちるか?』

 そのまま放置するか、どうするか…。
 放っておけば石造りの床に叩きつけられ、陶器の部分は今度こそ割れてしまうだろう。
 少なくとも、もう動くことはなくなるのではないか。

 壊れてほしいのか、動き続けてほしいのか…。
 
「……」

 微かに迷ったが…結局、机の縁でぐらりと揺れた人形を掌で受け止めると、しばらくの間…無言で見つめていた。
 この人形は、ジュリアが婚約者であるアーダルベルトと共に旅をしたときに買ってきたお土産である。選んだのはアーダルベルトで、同じ人形を箱買いしてくるというセンスに彼女は呆れていたようだが、それでも幸せそうに笑っていた。

『あの人ったら、この女の子の顔が私に似てるって言うのよ?』

 そんな惚気を、苦笑しながら聞くことももうない。
 胸やけがするくらい甘い惚気を聞かされることが、不思議なほど楽しかったのだと教えてあげることはもうできない。

『君はもう…いないのだから』

 ほぅ…とまた一つため息を漏らすと、結局人形は棚に戻しておいた。




 それから…長い間、コンラートがその人形のことを思い出すことはなかった。




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