T.運命の分岐 








 
眞魔国歴3968年−−−冬の第2月が終わろうとする頃…。

 雪深いフォンシュピッツヴェーグ領ベルクロラ地方に、眞魔国の北方に位置する国家シマロン…その一貴族であるフォンタナ候が、2個師団を率いて陸路より侵攻してきた。
 宣戦布告もなしに開始されたその戦闘はきわめて酸鼻なものであり、魔族を同じ知的生命体と認識していないフォンタナ候は、正規軍でありながら強盗・強姦・放火の全てを容認してベルクロラ地方に住まう10万人の眞魔国人のうち、女性や子供を含む非戦闘員7万人以上を虐殺した。

 フォンシュピッツヴェーグ主力軍団はこのとき王都での閲兵式に参列しており、残された警備兵はわずか1個旅団規模にすぎず、文字通り蹴散らされた防衛軍には生存者が殆どいないほどの有様であった。


 後日の調べで分かったことだが、フォンシュピッツヴェーグ卿シュットッフェルのもとには事前に、複数の筋から《シマロンに不穏な動きあり》との報告があったのだという。
 …にもかかわらず、シュトッフェルは閲兵式に壮麗な軍団を誇示しようとしたこと、また、冬季の厳寒地を越えてシマロンが侵攻してくるなどという発想を欠いたことから、過去に例をみないほどの蹂躙を許す結果となったのだった。

 シマロン側にしてもこの侵攻を始めたいきさつは、極めて愚かな事情に端を発している。
 侵攻軍の指揮者となったフォンタナ候は、宴席において他の貴族達と《魔族に対する人間種の優位性》を証明すべしとの話題で盛り上がり、これをシマロン王も承認したのだ。

 酔っぱらい親爺どもの発想から生まれたこの戦争が、よもや十年を越す長きにわたって縺れ続けるとも知らずに…。

 これまでもシマロンと眞魔国の間には小競り合いこそあったものの、原則として眞魔国側からの侵攻はなく、シマロン側も大陸過半の小国を併呑するという植民地国家の宗主国であるため、常に内紛に悩まされるという状況を抱えており、総戦力を注ぎ込んだ全面戦争に踏み込むことはなかった。

 シマロン中枢では、今回も同じような経過をたどると考えていたのだった。

 実際、シマロン王は虎の子である海軍の派遣は渋り、フォンタナ侯旗下軍のみ派遣を許したことからも、戦争規模を拡大させる意図がなかったことも伺える。

 フォンタナ侯は略奪の限りを尽くしたところで反転し、意気揚々とシマロン本国に帰還する予定であった。

 だが、能力はともかくとして矜持の高さでは眞魔国随一のシュトッフェルのこと…自分の領土が侵されてこのまま引き下がるわけにはいかない。
 他の十貴族への体面もあり、閲兵式に参列していた陸軍師団を旗下の海軍に乗り込ませて、自領に帰還中のフォンタナ軍を突くと、ベルクロラ地方の惨状を伝え聞いている兵の怒りもあり、ここでも目を覆わんばかりの虐殺が行われた。
 シマロン領植民地で戦闘が展開されたこともあり、点在していた人間の集落でも眞魔国兵が恨みのあまり暴徒化したが、これを指揮官も止めなかった。

 この事実は広く大陸全土に広がり、傘下に従えている小国を押さえる意味でも、シマロンは国威をあげて眞魔国と対決せざるを得なくなったのである。

 このように馬鹿馬鹿しい事情から始まったものであっても、血文字で書かれた戦記の中から《英雄》と呼ばれる男達が現れてくる。
 戦争など、どんな綺麗事から始まろうが愚かしい事情から起ころうが、その中で闘っている者達からすれば命を奪われるという深刻さに変わりはなく、自分たちを屠る者への恐怖…そして、戦地へと率いていく者への憧憬は強い。
 寧ろ、現実を少しでも美化することで、自らの戦いと死が《意味あるもの》になり得ることを期待しているのかもしれない。
 その為には、敵には偉大であって欲しいし、自分を率いる者には英雄的であって欲しいのだ。


 その一人がこの戦争の末期において、寡兵をもって敵の主力を撃ち破り、戦況を劇的に変えた男…《ルッテンベルクの獅子》として世界にその名を知られるウェラー卿コンラートであった。


 だが、彼は激戦地となったアルノルドの戦いで深手を負い、昏睡状態の中で終戦を迎えることとなった。

 そして、傷癒えて王都へと戻ってきた彼を待ち受けていたのは、戦争以上に悲痛な現実だったのである。


『スザナ・ジュリアの魂を、次代の魔王に封入すべく地球に赴け』


 言賜巫女ウルリーケの口を介して語られた眞王陛下の言葉は、ウェラー卿コンラートの胸を残酷に切り裂いた。


*  *  *




 傷だらけの掌の上に乗せられた…透き通る硝子瓶の中に、まん丸な《魂》が入っている。
 かつてはスザナ・ジュリアの中に在り…そして今は、誰のものでもない魂。
 それは見事なまでの正球を為すものだった。

 ウェラー卿コンラートはまだ包帯の解けぬ身を石造りの床の上に跪かせ、じぃ…っと硝子瓶を凝視した。
 ひんやりとしているが、何処かどろりと停滞した大気を持つ眞王廟内部で、コンラートは先程から動けずにいる。

『この世に未練のない魂は、完璧な球体を為す』

 かつて、誰かがそう口にしていたことを思い出す。

『スザナ・ジュリアは眞王陛下とお言葉を交わされ、次代の魔王陛下へと魂を引き継ぐことを快く承諾されました』

 つい先刻告げられた、ウルリーケの言葉も思い出される。

 この、幼い少女にしか見えない…けれど、1000年に近い時をこの眞王廟で生き続ける巫女は、コンラートの目の前で己の告げた言葉がどう受諾されるのかを見つめている。
 その瞳の色は奥深すぎて、感情の嵐に翻弄されるコンラートにはとてもその真意を汲み取ることなど出来はしなかった。

『どうして…未練がないんだ?』

 もともと貴族の子女とは思えないくらいあけすけな物言いをするジュリアは、確かに一日一日を精一杯生き抜いて、自分の力の限り生を謳歌しているように見えた。
 欲しいものには全力で手を伸ばし、手に入らなければ全力で悔しがり、手に入れば飛び上がって喜ぶ…そういう彼女だったから、他の者よりも未練が少ないというのは理解できる。

 だが…彼女は婚儀を控えたうら若い女性だったのだ。

 幸せな結婚をして、子どもを産み育み…いつか命の尽きる日が来るから、その時に…というのならともかく、こんなにも若くして失った命をなぜ嘆かないのか。
 そのことに、コンラートは寧ろ怒りさえ感じていた。

 残された者のことを、何一つ未練には思わなかったのか。

 アーダルベルトと彼女は愛し合っていた。
 コンラートと彼女は強い絆で結ばれた同志だった。

 そう…信じていたのに。
 そのどれもが、彼女を生に対して貪欲にさせるほどの執着を持たせることはなかったのか。

「……っ!」

 血を吐くような叫びをあげて、のたうちたい。
 コンラートは荒々しく軍服の胸元を掻き寄せると、噛み合わせた縁から音が漏れるほどに歯列を軋ませた。

 軍服の下には、小さく硬い感触がある。
 それは戦地へと赴くコンラートに、ジュリアが委ねたフォンウィンコット家に伝わる魔石であった。
 薄淡いブルーを湛えたその石は、光に当てれば完全な透明に見えることもあり、《白のジュリア》と呼ばれた彼女自身のように感じられて、コンラートの心を癒やしてくれたものだった。
 だが…今は怒りにまかせて彩紐を引きちぎり、石を力一杯地面に叩きつけてやりたい気がした。

 悔しい。
 腹立たしい…。

 あんなに近いところにいると思っていた女性が、今は酷く遠い存在に感じられる。
 それは生きているとか死んでいるとかいう領域の問題ではなく、一致していると思っていた思考の筋道が、あまりにも大きく逸れていたと知ったためだ。

『君が、分からない』

 何故…コンラートに未練を感じてなどいないくせに、自分の魂を委ねたりしたのか。

『君は…俺に、何を期待しているというんだ?』
    
「ウェラー卿、こちらに…」

 ウルリーケが促すがすぐには動かず、根が生えたように石造りの床の上で…じっと蹲る。
 だが、重ねて呼びかけが行われた。
 特段苛立ちを込めているわけではないが、冷然とした声には不可思議なほどの強制力があった。

「…こちらにおいでください」
「……」

 結局…腰を上げると、脚は鈍重な動きながら前方へと進んでしまう。
 ウルリーケの手の先には大きな水盆が置かれている。そこから、コンラートを異世界に運ぶのだろう。
 このまま前進すれば、否応なくコンラートは《地球》に赴くことになる。

『それが眞王陛下の御意志であり、たったひとつの正しい道ですから』

ジュリアの魂を運ぶということ…それが意味するところについて、彼女は感慨を込めぬ声で淡々と語った。

 正しい道…。
 たった一つの正しい道だと!
 
思い出すだに腹の底から怒りが込み上げてきて、口内に鉄の味が滲んでいく。
 
 何故。
 何故…。
 何故……っ!

『ジュリア、君は…いつだって運命に立ち向かってきたじゃないか…!』

 その君までが姿も見えぬ《眞王》の言うままに、与えられた選択肢をただ一つの《正しい道》として進むというのか。

「ウェラー卿…私の言葉…そして、眞王陛下の御言葉が信じられないというのなら、それも仕方のないことでしょう。ですが…あなたは、スザナ・ジュリアに魂を託されたのです。自分の死に際して何も求めることの無かった彼女が、唯一つ願ったその選択だけは重んじて欲しい…そう、私は願います」

 少女らしい柔らかい声。
 けれど、一片のいたわりも熱さも感じない声。 
それでも、《スザナ・ジュリアの最後の願い》という鎖が、ずるずるとコンラートの身体を水盆へと向かわせる。

 何一つ納得などしていないのに。
 この胸は怒りと憎しみと絶望で血潮を吹き上げそうだというのに。
 何故、進むことを止められないのだろう?

「あなたは決して投げ出すことのない男だと、スザナ・ジュリアは言いました」

 まるで心を見透かすように、少女の声が響く。

「だから、託すのだと…」
 
 狡い。
 君は、狡い…ジュリア。

『何一つ俺に打ち明けないまま、独りで生の終焉を選択したくせに、そんな狡い言葉で俺を縛るのか』

 それでも、よろめくようにして進みかけたその身体が…俄に反応した。

「……っ!」

 その感覚は、ここ数年で嫌と言うほど身体に染みついたもの…。
 襲いかかる殺気に対して、考えるよりも先に身体が反応する。
 先程まで壊れた人形のようにぎこちなくよろめいていた男が、しなやかな鞭のように撓って天幕の影から飛び出してきた剣を迎え撃つ。
 相手が誰かも認識せぬまま刀身が跳ね、柄元でがしりと組み合わせれたとき…漸くコンラートは侵入者の正体に気づいた。

「お前…っ!」
「久しぶりだな…ウェラー准将…いや、少将に出世したんだったか?アルノルド帰りで箔をつけたもんだな」

 目元はげっそりと肉付きを失っているが、その奥に在る薄青い瞳はぎらぎらと煮え滾るような彩りを帯びてコンラートを睨め付けてくる。
 ざんばらな金髪をぶるりと振り乱し、口の端を獣のように引き上げたその男はスザナ・ジュリアの婚約者…フォングランツ卿アーダルベルトであった。
 ジュリアの死を唯の額面通りの情報だけではなく、より精緻な形で知ってしまったろうことはこの場所に居るという事実からも推察できる。
 しかもコンラートに斬りかかってくるということは、彼が委ねられたものについても知っているのだろうか。

「フォングランツ卿アーダルベルト…あなたをこの眞王廟にお呼びした覚えはございません」

 こんな時にまで淡々と語るウルリーケのペースに、当然アーダルベルトが調子を合わせるはずもない。

「うるせぇよお嬢ちゃん!呼ばれようが呼ばれまいが、俺は行きたいところに行って、したいことをするだけだっ!」

 いっそ小気味よいほどの啖呵を切ると、アーダルベルトは手首を返して柄元の膠着を振りほどく。

「ウェラー卿コンラート…その手の中にある物を俺に寄越せっ!それは俺の手の中にこそ在るべきものだっ!!」
「フォングランツ卿アーダルベルト…あなたは、それをどこで知ったのですか?」

 ウルリーケの声音に微かに滲む疑念に、コンラートは気味が良いとさえ思ってしまう。
 初めて彼女の声に人がましい感情が垣間見えたからだ。

「何処でだって良いだろう!俺は認めねぇ…。ジュリアの魂を次代の魔王にやっちまうだと!?眞王ってのはそんなにまで偉いのかよっ!何様のつもりだって言うんだっ!!命だの魂だのってのは、そんなにぽんぽん遣り取りして良いもんなのか!?」

 アーダルベルトの怒号は…今のコンラートにとっては言いようがないほど心中の怒りを代弁するものでもあった。

 もともとこの男は由緒正しい純血貴族の身ではありながら、そのこと自体を重んじるタイプではなく、コンラートとは別段仲も良くない代わりに悪くもなく、《ジュリアが信用しているならそれほどの男なのだろう》との意識で結ばれていた。
 事ここに及んで、その点に於いてだけはジュリア本人より同じ意識を持っていたのだと再確認する。

「死ぬのはしょうがねぇ…あれだけ酷い戦争だったんだ。ジュリアも医療班とはいえ戦地に自ら赴いた以上、そこで死んだこと自体は泣いて喚いて諦められる。だが…だがよぅ…っ!魂をやっちまうんだぞ!?選ばれて、死ぬのを待たれてたんだぞ!?そんな死に方があるか!?殺されたようなもんじゃねぇかっ!!」

『そうだ…ああ…そうだともっ!!』

 それこそが、コンラートにとっても筆舌に尽くしがたいほどの怒りを感じさせるのだ。

「ですが、スザナ・ジュリアは受け入れたのです。それを…婚約者だからといって、あなたが無にすることが出来るのですか?それこそ…あなたは何様のおつもりですか?」

 言葉の鞭が容赦なくアーダルベルトを責める。
 それもまた、納得行かないにも関わらずコンラートを縛るものであった。

「くそ…お前は引っ込んでろ…っ!行くぜ、ウェラー卿。力づくで奪い取ってやらぁっ!」
「…っ!」

 力で来られると力で受けて立ってしまうのが男の悲しい性である。

 感情のままに荒ぶる剣を振るうアーダルベルトは当初、一見優勢にみえたものの…剣が合わせられ、凌ぎあい…刻限が過ぎていくに従ってその息は途切れがちとなり、大振りな剣を握る手は小刻みに震えていく。
 無駄な踏み込みが一つもなく、一撃ごとに明確な戦術的意志を持つコンラートの剣技は既に《剣聖》と呼ばれる領域に立っており、貴族にしては《腕が立つ》程度の男が怒りに任せて立ち向かったところで、勝利を手にすることなど叶わないことが誰の目にも明らかになっていく。

 いっそ哀れと感じて踏み込み、突き込んだ一撃がアーダルベルトの剣を中腹からへし折ると、脚使いも限界に来ていた男はがくりと膝を引き、額を床に擦りつけて荒い息を吐いた。

「……アーダルベルト…」

 まだ警戒は解かぬものの…それでも打ち拉がれた男をそのままには出来ずにコンラートが近寄ってくると、にゅ…っと太い腕が伸びてブーツにしがみつく。
 蹴り払おうとしたのも一瞬で、コンラートはそのまま動くことも…言葉を紡ぐことも出来なくなった。

 瞳いっぱいに涙を浮かべた大の男が…地面に這いずりながら懇願してきたのである。

「頼む…頼む……後生だ!ジュリアを…俺にくれ…っ!」
「…………」

 惨めで、情けないと表現することが相応しいのかもしれない。
 だが、こみ上げてくる熱いかたまりがコンラートから言葉を奪った。

「俺には…ジュリアだけなんだ……っ!!」

 愛している。
 愛している…!

 《愛していた》という過去のものではなく、今の想いとして…血が吹き上がるような感情を男は声に乗せて叫ぶ。

『ジュリア…ジュリア……っ!君が棄てた男達の姿を見て、君は嗤うだろうか?』

 天を仰ぎ、コンラートは今は亡き女性に問う。

『君が俺に何を求めたのか、俺には分からない…っ!』

 胸ポケットにしまわれた小さな硝子瓶を取り出せば…そこにはやはり正球の魂が浮かんでいて、穢れのない真っ白な色彩がコンラートの眼を灼いた。
         
「それが…ジュリア……なのか?」

 何もかもが燃え尽きてしまいそうなその顔貌の中で、一点だけを…ちいさな輝きだけを最後の灯火のように求めてアーダルベルトが手を伸ばす。

 その掌に向けて、コンラートは小瓶を掲げた。

「何をしようとしているか、分かっていますか?ウェラー卿」

 殷々と…哀しみも怒りも含まない声音がコンラートに向けられる。

「この男に、ジュリアの魂を委ねます」
「その結果、何が起こるか分かっているのですか?」
「異世界に持って行ったとしても、何が起こるかなど唯の混血の身には分かりかねます」
「自嘲と自棄の果ての選択ですか?」
 
「…いいえ!」

 そこだけは昂然と胸を張り…コンラートは強く声を上げた。

「いいえ…これは、俺が決めたことです。その結果なにが起こるのか、確かに俺には分からない…。だが、今の俺にはこの道しか選ぶことが出来ない。未来を見通す眞王陛下の御意志よりも、魂を俺に委ねたスザナ・ジュリアの遺志よりも、俺にはこの男の盲愛の方が遙かに理解できる」
「では…あなたは、この先に起こることを背負う勇気がありますか?」

「背負います。少なくとも…俺が選んだ故の結末だけは」

「あなたはいつか知るでしょう…その結末を。その時、運命の重さに背を拉(ひし)がれませんように!」
「祈ってくださるのですか?」
「ええ…」

 彼女が祈る先は眞王陛下だろう。
 死してなお絶大な影響力を誇る男が、その意にそぐわぬ者の幸運まで祈ってくれるとはとても思われない。


 だが、コンラートはアーダルベルトの手に小瓶を託すと、昂然と胸を張って眞王廟を後にした。

 その後に何が控えているとしても、逃避することだけはすまいと心に誓いながら…。 




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