第1章 WーD




 


 ボルドー湖…それはボルドレン河上流域にあり、眞魔国に十数カ所存在する《聖域》と呼ばれる場所の一つである。
 
 要素の力が濃厚に寄り固まり、自律意識を持った生命体として活動するようになると、彼らは自然神にも似た《精霊》として認識されるようになる。
 彼らは眞王には一応の礼は示すし魔族を別段嫌っているわけではないが、自分たちの住まいに断りなく脚を踏み込むことには警戒を持ち、時として激しく呪うことがあった。

 この為、ボルドー湖もまたルッテンベルク師団の経路とはなるまいとヴァルトラーナに判断され、この方面には兵は配備されていなかった。
 完全な死角となっていたわけである。



*  *  *




「なぁ…隊長、本当にボルドー湖に向かうのかい?」
「そのつもりだ」

 ノーカンティーを駆るコンラートの傍に、斑毛の馬を寄せてヨザックが囁きかける。
 この男は本来グウェンダルの配下であるのだが、血盟城から脱出する際にコンラート達の手引きをしたことが知られてしまっているので、そのままルッテンベルクに参入してしまっている。

 コンラートはもとより旅団長達も馴染みの男達だし、兵士も一人残らずこの男がアルノルド帰りの武勇者だと知っているので、尊崇すべき《軍団長》殿に馴れ馴れしい口をきいても、《隊長》扱いしても文句を言う者はない。
 それどころか、誰もが不安に思っていることを代弁してくれるヨザックに、皆全身を耳にして意識を集中させていた。

 誰もが寝物語に語られてきた《聖域》の精霊に、畏怖と好奇心を隠しきれないのだ。

「でもさ…?ほら、俺達魔力も持ってない混血ばっかじゃねーか。そんな連中が《聖域》に、それも…こんなに大量に入り込んで呪われたりしねぇのか?そもそもさぁ…俺等、汚れすぎじゃねぇ?」

 ボルドー湖周囲に広がる深い針葉樹林の森はケトナ山脈に比べるとかなり標高が低く、雪は殆ど見られなくなっている。ただ、一度降ったものが溶けて土壌が悪くなっているため、ルッテンベルク軍の中では雄壮な見てくれを持つ騎馬隊までもが馬の腹まで泥を散らせており、歩兵に至っては半身が泥にまみれてなんとも見窄らしい様子になっている。

 これでは、反逆者というよりも流浪者の群である。

 だが、コンラートの方はいっかな気にした風もなく、落ち着き払った態度で進んでいく。

「大丈夫だ。あの方は心が広い」
「……知り合いなのかよ…」
「まあ…そんなもんだ」

 《流石はコンラート様だ!》《精霊と知り合いらしいぞ!?》さわさわと兵士達が囁き交わすなか、濃い霧の向こうに蒼とも碧ともつかない湖が姿を現した。

「ほ…ぉ。こりゃ…でけぇ……!」

 誰もが噂には聞き、地図上では大きさを知るものの…この湖の全貌を目にした者はいない。
 コンラートを除いては…。

『こんなでかい湖…どうやって渡るんだ?』

 ボルドー湖は広大なだけでなく周囲を切り立った断崖に囲まれており、ボルドレン河に通じる流れも急な滝になっている。これを迂回しようとすれば、たちどころに眞魔国正規軍に所在を知られてしまう。

 呆然としながら立ち竦む男達の前に、突然…ぽぅ…っと鬼火のようなものが灯った。
 湖の真ん中に浮かび上がったその灯火は、そのまま…ふぁーっと岸の方へと移動してくる。

「ひぃっ!」

 気の小さい兵士がびくりと震えるが、逃げ出したりはしない。
 単に後ろからぎっしりと隊列が詰まってきているため、逃げ場がないという話もあるが。

「お久しぶりです。ボルドー様」

 湖と同じ名を呼べば、蒼い灯火がちかちかと点滅してみせた。

[ひさし…ぶり、ね…。でも、様なん…て、つけちゃ…やだ。他人行儀…で、やだ]

 年降りた老女のような…それでいてどこか幼く拗ねたような響きを持つ不思議な声が殷々と水辺と森の木々とを震わせる。その音は湖の脇に聳える崖にぶつかっては跳ね返されるので、辺り一面から声が響いているようにも感じられた。

[あなたったら…なかなか、来て…くれないんだもの。私…寂しかっ、た…]
「嫌いになってしまいましたか?俺のこと…」
[ま…嫌だ。うふふ…嫌いになんて、なれ…ないわ。ええ…好き、よ]
「嬉しいな…」

『精霊とラブトークですか…っ!?』

 いちゃつくカップルのような会話に、ルッテンベルク軍の面々は顎が外れそうな衝撃を受けるのだった。
 《大丈夫》と彼が言うので、半信半疑でここまでついてきたのだが…全くこのウェラー卿コンラートという男は、なんと底知れぬ男なのだろうか?
 そのモテっぷりは貴族の子女など通り越して、精霊まで魅了しているらしい。

「ボルドー…今日はお願いがあって参りました。どうか…我々をウェラー領に渡して欲しいのです。かねてからの約束の通りに」
[まあ…こんな、に…沢山…?]
「駄目…かな?」

 コンラートが困ったように小首を傾げると、途端に湖からの声は《やーん》っと年頃の乙女のような声を上げる。

[駄目な…わけ、ない…わ。うん…今、出る…わね]

 ズ………

 湖の中央に濃い灰色をした岩のようなものが盛り上がる。
 すると…それは見る間にその姿を大きくし、広々と面積を拡げ、高く高く盛り上がり……

 ザザザザザザサ…………っ! 
 ザバァ……っ!!

「う…」
「わぁぁああ……っ!」

 敵兵の大軍に囲まれても悠然と構えていられる勇者達が、一斉に子どもに返ったような声で絶叫を上げる。
 なんということだろうか…! 
 湖の中央に姿を現したのは、島のように巨大な亀だったのである。

[あらー……吃驚、したわねぇ…?]

 大亀が、ぷくー…っと片頬を膨らましたように見えたのは気のせいだろうか?

 ごつごつと盛り上がる甲羅の突起に緑色の鮮やかな水苔が生え、所々に白い花が咲いているのが髪飾りのように大亀…ボルドーを彩っている。
 巨大な瞳は亀独特の皺くれた襞に囲まれているのだが、艶々と深い飴色をした瞳自体は妙につぶらで、よくみれば可愛らしいと表現していいような愛嬌に満ちていた。

「は…こ、これはボルドー殿、失礼致しました!」
「その…あまりに見事なお姿だったものですから…」

 必死に言い訳する兵士達に尚もボルドーが膨れっつらを見せていると、コンラートがくすくすと笑いながらフォローをしてきた。

「彼らは木訥な達でね、君のように素敵な精霊に慣れていないんだよ。許して貰えないかな?」
[うーん…コンラートが、そう…言うな、ら…]

 ボルドーは何とか機嫌を直すと、ゆっくりと平泳ぎ(亀泳ぎ?)をして岸辺に接岸した。

[乗っ、てー…]

 ゆったりとボルドーが言うと、まずはコンラートがノーカンティーを駆って甲羅を登っていく。ごつごつとした起伏に富む甲羅は慣れていない者なら馬ごと転げ落ちそうだが、巧みな馬術を誇るコンラートはあっという間に頂上まで登ってしまった。

「第一大隊、前へ!」
「はいっ!」

 例え非現実的な風景に腰が引けていたとしても、軍団長殿の命令は絶対である。
 内心ビクビクしながらも、どうにかこうにかボルドーの甲羅に登った第一大隊は、そのまま…すぅーっと湖を渡っていく。


 何度かその行程を繰り返す内、ルッテンベルク軍は見事にボルドー湖を渡りきり、ウェラー領へと繋がる無警戒な道を進めることになったのであった。




『何だか…まだ信じられぇや…』

 誰もが信じがたい…お伽噺めいた体験にふわふわとした夢心地が続いており、こんなに毒気の抜かれた状態で敵襲を受ければ、たちどころに潰走したのではないかと思うくらいだ。

『うちの軍団長殿は…やっぱり、特別な運命の持ち主に違いねぇ…』

 誰もがそう確信し、もはや信仰にも近い想いでコンラートを見ることになった。



 かくしてルッテンベルク軍はウェラー領に拠り、その後の戦いを進めていくことになる。




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