第1章 WーC 「軍団長殿…!フォンビーレフェルト卿ヴァルトラーナ閣下!」 「どうした」 天蓋の中に伝令の兵が駆け込んでくる。 ヴァルトラーナは兵の鎧からぼたぼたと飛沫が落ち、軍靴の蹴り込んだ泥が跳ねるのを不快げに眺めた。 「ルッテンベルク師団が現れました…!」 「ふん…漸く補足したか。どの地点だ?」 この時、ヴァルトラーナには東・西・南方向への意識しかない。 北に位置する領域はこのボルドレン河を渡った対岸であり、そこに至るための地域には既に十分な軍を派遣しているからだ。 ルッテンベルク師団本隊、そしてコンラートや旅団長達の行方は未だ補足出来ては居ないと言っても、逃げ場を完全に封じている以上、彼らは飢えて行くだけなのだ。 彼らの精強さを支えているのは主力となっている騎兵隊の突撃力だが、この時期草原の草は枯れ果てており、兵站には魔族の食糧だけでなく飼い葉までが必要になる。彼らが積み込んだ兵站は多少余裕があるとしてもあと3日保てばいい程度…。 コンラートの性格からいって一般庶民から略奪することは不可能であろうから、接触の知らせは今日か明日のうちにどこかの戦場で聞かれるだろうと踏んでいた。 彼が耳にすべきは戦闘終了…ないし、交戦中の報告であり、彼が判断すべきはコンラートの生死に応じたその身の扱い…そして、如何にして徹底的にルッテンベルク師団の混血どもを殲滅させるかということであった。 よってこの時、伝令が口にした地点名には大きく柳眉を跳ねさせることになる。 「北の35線…丙22地点であります」 「…何?」 言い間違いと決めつけるような声音が兵を打つが、その男は再び声を大にして報告を繰り返した。 「…北の35線…丙22地点…ボルドレン河の…我らの対岸に当たる場所に、逆賊ウェラー卿コンラートに率いられたルッテンベルク師団の一群がいるのです!」 バサ……っ! 雨の存在を忘れたように、ヴァルトラーナが天蓋から出る。 流石に走ったりはしない。兵に無用な動揺を及ぼす可能性が高いので、一軍の指揮官がおいそれと疾走することは出来ないからだ。 しかし…当然のことながら、心の中は焦りと怒りで坩堝のように煮えくりかえっていた。 『一体何処を渡ってきたというのだ?』 誤報であると信じたがる前頭葉に背くように、視覚は認めてしまう。 荒れ狂うボルドレン河の向こうに、1個大隊程度の騎馬隊が居る。 それは…紛れもなくルッテンベルク師団、そして、ウェラー卿コンラートであった。 ヴァルトラーナは突然…水を含んだ厚いコートが、肩に重くのし掛かってきたように感じた…。 * * * 時を遡り、ルッテンベルク師団の動きを追う。 ケイル・ポーが命じられた場所…眞魔国の中央を分断するように伸びるケトナ山脈の一角に到達したとき、既にその場所にはコンラート等が身を隠していた。 「ケイル・ポー、ご苦労だった」 「師団長殿、ご無事で……っ!」 狼煙からコンラートが無事であることだけは分かっていたものの、その姿を見るまでは一時も安堵することのなかったケイル・ポーが、見事離脱者無しに冬の雪山を登ってきたとは思われないような幼い顔をして、雪を蹴散らしながら師団長閣下に抱きついていった。 だが…ひとしきり再会の喜びに浸った後には、厳しい現実が待ち受けていた。 誰もがコンラートの受けた屈辱に歯列を噛み合わせ、鎧の胸元を掻きむしり…そして、自分たちがこれからどうなっていくのか不安に眉根を寄せた。 つい数日前まで、彼らは眞魔国の英雄だったのだ。 《薄汚い混血部隊》と呼ばれて蔑まれていた自分たちが、輝ける勇者として持て囃され、純血の娘との結婚だって、親の反対を受けるどころか祝福されることの方が多くなっていたというのに…! 何という運命の変転であろうか…。 怒りが収まり、興奮が消沈していくと…気力が萎える。 ふ…っと息を抜いて脱力しようとしたした瞬間、力強い咆哮が轟いた。 それは凍てつくいた大気を震わせる、ウェラー卿コンラートの大音声であった。 「全軍、整列…!」 その声を聞いた途端…全員の背筋が伸び、萎えかけていた脚に力が籠もる。 もはや血肉に染みついた習性により、男達は肩幅程度に下肢を開き…手に剣の柄を握って指揮官を見詰めた。 その動作を取ればどんな局面であっても、彼らは次なる戦いに挑むことが出来る。 彼らの指導者が、その獅子吼をもって命じてくれる限り。 「ルッテンベルク師団の勇者達よ、君達には選ぶ権利がある」 臓腑に響く声がどんな意味を持つのか全身で聞き取ろうとするように、総員が全ての感覚を研ぎ澄まし、ウェラー卿コンラート…彼らの指揮官に意識を集中させた。 「眞魔国にとって反逆者となった俺は、軍から除籍されることになる。つまり、俺は君達に命令する権利を持たない。よって…今から俺が口にすることは、何一つ拘束力を持つものではないと心得てくれ」 体幹部は防寒対策を施した鎧で完全武装しているものの、どのような戦場でもそうであったように…ルッテンベルクの旗印としての役割があるその髪を含めて、コンラートの頭部は剥き出しになっている。 顔の皮膚が裂けそうなほど凍てついた風が、ダークブラウンの髪を靡かせ…乱すが、気にした風もなく琥珀色の瞳が兵達を見詰めていた。 その瞳は静謐な…そして、確乎たる意志をもって見開かれていた。 「君達をケイル・ポーに命じてここまで連れてきたのはこの俺だ。移動命令が為された時点では君達に俺の除籍を知る術はなく、指揮されるまま俺に合流してきたことは眞魔国軍規上、何ら罪に問われるものではない。よって、君達はルッテンベルク師団から離脱し、眞魔国正規軍への復帰を選択することも可能だ」 ざわ… 兵士達の間に動揺が奔り、互いに顔を見合わせたい衝動に駆られるが、叩き込まれた直立不動の習性と…何より、コンラートの表情を見逃すことが恐ろしくて顔を逸らすことが出来ない。 「そして俺と共にルッテンベルク師団に残留する場合、君達は反逆者として追われる立場となる」 ごきゅ… 総員の喉が鳴り、吹き付ける雪混じりの風に吹かれながら…何故か背中に汗が噴き出してくるのを感じる。 コンラートの声が、熱さを帯びる。 「誰に強制されることなく、自分の意志で選んでくれ…正規軍の兵として生きるか、反逆者と蔑まれてなお俺と共に戦うかを…っ!」 コンラートの剣が鞘走ると、抜き身の刃が宙を一閃し…円月の残光を示しながら眞魔国軍鉦を離断する。 白い雪の中を…風に煽られながら紫の軍鉦が飛び、積雪の上に投げ出された瞬間… シャリン… ジャ…っ! ジャ……っ!! アリアズナの…ケイル・ポーの剣が閃いたかと思うと、瞬く間に全軍の兵士が剣を鞘走らせ、それぞれの想いを込めて一斉に軍鉦が斬り落とされる。 言葉は、無かった。 誰もがその軍鉦に、自らの誇りと…踏み躙られた国への忠心を見た。 斬り落とされ、地べたに散る紫の軍鉦は雨に打たれた紫陽花のように哀しげで…そして、最早振り捨てていくべき過去そのものとして感じられる。 「ぉおおお…っ!」 突然、アリアズナが吠えた。 天を仰ぎ、鉄錆色の髪を振り乱し…血の色をした瞳を見開いて旅団長は叫んだ。 最初は決別を嘆くようだったものが、次第に…見えない何かに挑むようなものへと変化していく。 「おおおぉぉぉぉ……っ!」 「おお…っ!」 「おおおぉぉぉおおおおお……っっ!!」 次々に咆哮が重なり、獣の遠吠えを思わせる伸びを見せて夜空を劈いていけば、その声に応じるようにしてコンラートが吠えた。 「君達の決意を受け取る!」 おおう…っ! 腹に響く銅鑼声が一斉に轟くと、それに勝る獅子吼が再びコンラートの喉から迸った。 「これよりルッテンベルク師団は正規軍より離脱し、独立遊撃隊ルッテンベルク軍として眞魔国防衛の為に戦うこととなる!」 「お…」 「おおおお…」 男達は決別の後の寂寥感を吹き飛ばし、熱く突き上げてくるものを感じるままに咆哮を上げた。 自分たちが無為な存在ではなく、まだ戦い…勝利と生きる意味を持ち続けることが出来るのだと知った喜びが、厳しい筈の状況を歓喜で彩った。 「おおおおぉぉぉおおおおおお………っ!!」 先程の咆哮が恨みと決別を意味するものであったとすれば、この叫びは…新たな活路を見いだした希望の叫びであった。 ああ、俺達は生きていける。 何かを信じて、進んでいくことが出来る…! この男がいる限り…! 滾る想いは、雪をも溶かさんばかりの熱さで男達を燃え立たせていった…。 * * * 『何故だ…何故、何故…そこにいる!?』 ヴァルトラーナは突き上げてくる怒りに、眼底が熱く…焦りつくような痛みをもつのを感じた。 一体何をしようというのか…一個大隊規模の騎兵は何か機械のようなものを馬車から取りだして迅速に組み立てていく。 「弓兵を出しますか?」 ヴォルフラムの意見に、ヴァルトラーナは忌々しげに首を振る。 雫の飛ぶその動きで、初めて自分が冷たい雨で濡れそぼっていることに気付いた。 「無駄だ。この距離では橋の上に出て行かねば届かん。遮蔽物のない場所でそんなことをしてみろ…犬死にだ。くそ…しかし、あいつらとて条件は同じだろうに…一体何の目的であんな場所にいるのだ?」 「あの機械…もしや、投石機では?」 「うむ…」 確かに、組み立てられていくその機材はそのような形状に見える。だが、弓と同様に橋を越えて打撃を与えられるほど飛距離があるようには見えない。射程範囲はせいぜい、橋の中程までと言うところか。 「何を考えている…?」 苛々と爪を噛む間にも投石機は組上がり、油脂に包まれた岩のような塊がセットされた。 ゴゥン… 宙を舞い、ヴァルトラーナの予想通り橋の中程まで飛んで接地した途端… ゴォォォオオオオンンン………ッッッ!! 激しい爆発音が轟いた。 おそらく、貴重な火薬を詰め込んだ玉に何か仕掛けをしてあったに違いない。爆音を上げて炸裂した玉が楔を打ち込む役割を果たすと、罅の入った石造りの橋はもはや激流に耐えきることが出来なくなり、漂流物が打ち付けられるたびにぼろぼろと崩れていった。 「な…に……っ!?」 唯一の交通路である橋の破壊と、その破壊をもたらした物の存在にヴァルトラーナは言葉を失った。 一体いつの間に火薬など集めていたというのか?この時あるを想定していたとしか思われないコンラートに、ヴァルトラーナは単純な憎しみだけではない…空恐ろしさのようなものを感じていた。 策士と自負する自分の、遙か高みにいるのではないか…あの男は。 ちらりと脳裏を掠めるその気づきを、ヴァルトラーナは渾身の力を込めて振り払わねばならなかった。 認めてしまえば、彼は彼として立ちゆかなくなってしまうからだ。 「おのれ…くそ……っ!あの混血め…一体何を考えているのだ!」 ヴァルトラーナの怒号を嘲笑うように橋の残骸に上流からの漂流物が激突し、益々破壊の度を深めていった。 ここまで崩された橋を再建することは容易ではない。 例え簡易的な橋を渡そうとしても、コンラートのことだ…騎馬隊を定期的に周回させてボルドレン河流域を偵察し、橋が造られようとするたびに破壊活動を行うことだろう。 この先彼らがどうしていくつもりなのかは分からないが、少なくとも…王都からの討伐軍派遣は事実上不可能になったと言っていい。 『くそ…くそぉぉお…っっ!!』 ヴァルトラーナの怒りは、空しく霙交じりの豪雨の中に紛れていくしかなかった…。 * * * コンラートは本来、全てのものを疑って生きることを由としている訳ではない。 信じたいと思うし、実際信じられると思う者には下駄を預けてしまい、結果が出るまで途中経過を尋ねないことも多い。 だが、コンラートはルッテンベルク師団長であると同時に領主であり、領民を護るために必要と思う措置をとる必要があった。 その一つが、ウェラー領と本土を分断するボルドレン河の存在であった。 もともと、増水しやすく架橋が困難なこの河は眞魔国人から忌避されており、それ故、渡河が必要な領土は流れ者のダンヒーリー・ウェラーに押しつけられたのだ。 渡河は数カ所の船着き場から船で渡るのが普通であり、長年ウェラー領の商業にとって大きな足枷になってきた。 コンラートの代になってから国からの援助も受けてリール橋が完成したとき、ウェラー領ではお祭りのような騒ぎになった。 『これで河を渡った後に馬を借りなくても他の領土に行ける』 『嵐の日にも、河を渡れる…!』 領民の喜びが詰まったリール橋はしかし、敵国の侵略を受けた際にウェラー領への入り口ともなり、占拠されればウェラー領が蹂躙されている間、ルッテンベルク軍は橋を取り戻すために狭い戦場で戦わねばならなくなる。 騎馬隊が主力の軍にとっては、極めて不利な条件だ。 橋を使わずに馬込みで渡河する方法…そして、いざとなれば橋を即座に落とす手段を模索することは、コンラートにとって至上命題であった。 その準備が、よもや敵国よりも先に自国の正規軍に対して生きるとは思わなかったが…。 とにもかくにも、この準備が功を奏してルッテンベルク師団の本隊はウェラー領に入り、騎馬大隊のみがそのまま《機材》を抱えてリール橋の北側へと移動してきたのである。 さて…一体ルッテンベルク軍は如何にしてボルドレン河を渡ったのか? 『ああ、そりゃあ軍団長殿が佳い男だからさ』 後年、人に尋ねられるとアリアズナやヨザックはそのように答えていたという。 軍団長が美男子であると、流れの速い河が渡れるのか?大抵、尋ねた者は《本当のことを教えろ》と、巫山戯てばかりの男を揺さぶって更に尋ねたものだった。 だが…最終的に答えを知った者は一様に感心し、納得していたのだ。 『なるほど…佳い男というものには、それ程の威力があるものなのだな』 …と。 →次へ |