第1章 WーA








 寒気に閉ざされたウェラー領では、昔は飢えと貧困に苦しむ領民が凍死するような悲劇も起きた。
 だが、コンラートが推し進めた農産業改革の成果が上がり、今では豊かとまでは言えないものの、腹だけはしっかり満たしてくれる大麦パンをどんなに貧しい家でも通年食べることが出来た。

 世界中で花実が咲かず実らずという状況を考えれば、ウェラー領の住民は寧ろ、富裕な生活をしている部類に入るかも知れない。収穫高が安定していることもあるが、その保管法が優れており、虫食いや腐敗、凍結をさせることなく大麦を食することが出来るのだ。

「母ーちゃん、パンもう一個食べて良い?ちゃんとみんなで一口ずつ分けるからさ」
「ああ…良いともさ」

 子沢山の酪農一家、ボールド家でもわらわらと10人ばかりいる子ども達がパンをねだってきても、昔のように頬を引っぱたいて止めなくて良くなっていた。

『ああ…本当にねえ…全部コンラート様のおかげさっ!』

 ボールド家の主婦、ハンナはそっと涙ぐみそうになりながら、旨そうにパンを頬張る子ども達を眺めた。
 この大麦はパンにすると少々口当たりがもそもそとはするものの(それも、スープにひたせば気にはならない)、小麦に比べても格段に栄養価が高いらしく、ガリガリに痩せた子ども達を目にすることはなくなったし、栄養素の欠乏症による神経障害や皮膚炎も起こらなくなった。

 正式名称は開発者の名を取って《ケーツァル大麦》とされたはずだが、領民の殆どは親しみを込めて《ウェラー大麦》と呼んでいる。
 良く実った麦穂がさわさわと風に靡く様が、彼らの慕う領主の髪のようだからという説もある。

『昔は…ちいさい子を縊り殺さなきゃ、あたし達が死んじまう…ってくらい追い込まれたこともあったっけ…』

 ボールド家はフォンシュピッツヴェーグ領辺境にあった混血村からの入植者である。
 各領土に点在する混血村では食い詰めた純血魔族に作物や財産を奪われても文句を言うことも出来ず、泣き寝入りをしなくては生きていけなかった。
 ハンナ自身、若い頃に純血魔族の男達に乱暴されたことがあったが、彼らは全く咎めを受けることはなかった。シュピッツヴェーグ卿の係累であったからだ。

 そんな村々を巡って、コンラートは領主と交渉して住民を《身請け》して回ってくれたのである。その村から上がる税収の代わりに幾らかの現金を渡し、自分の領土に連れて帰るのだ。

『あんな方がおられるなんて…信じられなかった…』

 コンラートは《身請け》した領民に土地を与え、農業・酪農の基本を周囲の村人に指導させ、上がった収益でまたよその混血村を《身請け》しに行くのだ。
 今も同じように苦しんでいる混血を救おうと、みんな必死で…そして楽しく仕事に励むことが出来た。
 喰っていくだけで精一杯で…ようよう取れた収穫も奪われていたあの頃に比べて、夢のような暮らしができるようになった。 

「ハンナ、コンラート様は何時お帰りになられるのかなぁ…」
「そうだねぇ、王都での戦勝祝いも大概終わったでしょうにねぇ…」

 夫のメルゼブルグに言われて、ハンナは小首を傾げた。

 コンラートは年に幾度も新たな戦地に向かわされているが、師団規模の軍隊をそう簡単に移動出来るわけでも糧食や装備を調えられるわけでもないから、そういった準備や後始末の期間には、時間の合間を縫ってウェラー領に戻ってくるのが常だった。

 いつものタイミングならとっくに戻ってきて良い時期だというのに、一体どうしたというのだろうか?




 彼らはまだ知らない。
 彼らの愛してやまないコンラートが、ウェラー領から大きく隔てられた土地で窮地に追い込まれているなど…。



*  *  *





 ルッテンベルク師団の主戦力がシュピッツヴェーグ領に移送されたのは、王都に入ってから10日後のことであった。

 シュトッフェルの命令でコンラートと5人の旅団長はそのまま王都に留め置かれるところだったが、

『この時期にシュピッツヴェーグ領に向かうとなれば、ケイル・ポー無しでは脱落者が発生する可能性があります。閣下は戦場で生き抜いて母国に辿り着いた兵士を、雪山で喪うことをどうお考えですか』

 と、コンラートが強く主張したため…彼だけは再び副師団長の任を帯びてシュピッツヴェーグ領へと兵を率いていくことになった。 
 よって、現在王都に居るルッテンベルク師団構成員は僅か5人である。

『一体全体…どういう了見なんだ?』
『あの狸親爺め…俺達をどうしようってんだ?』

 4人の旅団長はそれぞれの言い回しと表現で不満と不安を口にしたが、師団長は黙したまま何かを待っているようだった。

 この移送に際して、シュトッフェル側から十分な説明はされなかった。
 ただ、ルッテンベルク師団がシュピッツヴェーグ軍団の麾下にいる以上、軍団長の命令は絶対であり、軍の機密事項だと言われれば拒否権はない。
 
 
 じりじりと焦燥感を募らせたまま兵舎に留め置かれた彼らに、血盟城への召還が掛けられたのはルッテンベルク師団出立の5日後であった。   



*  *  *





 5人が通された部屋に居たのは、フォンシュピッツヴェーグ卿シュトッフェルとフォンビーレフェルト卿ヴァルトラーナ…そして、華やかに武装した中隊規模の兵であった。
 だが…一部、見慣れない様子の男達がいる。

 品性に乏しい…どこか悪い意味で獣臭い顔立ちをした男達はしきりにコンラート達を見詰めては舌なめずりをし、何かを期待するようにうずうずと手足を蠢かせている。
 濃灰色のフードを長く引きずっている姿も、何処か異様なものとして映った。

「魔王陛下はおいでではないのですか?」
「うむ、ツェリ…いや、陛下は御気分が悪いと仰せでな…無理もない、女の身で魔王陛下という重責を担っておられるのだからな。陛下は全て摂政たる私に判断を任された。よって、今から私の述べることは全て魔王陛下の御詔であると考えよ」

 コンラートの質問に対して、何時にも増して大仰な返答が寄越される。
 シュトッフェルは発情期の鳥のように自分の身体を膨らませ、コンラートを可能な限り威圧しようとしているようであった。

 5人は流石に帯剣までは取り上げられたりしなかったものの、明らかに何かを糾弾されようとしている気配を読み取ると…静かな殺気を放ってシュトッフェルに対峙した。

「それで、どのような詔なのですか?摂政閣下…」

 慇懃無礼の生ける見本のような口調でコンラートが言うと、シュトッフェルは怒気に顔を赤くしつつも…自分の利を思い出してことさら大きな身振りで話し出した。

「おお…そうであった。魔王陛下はな?不穏な噂を耳にされ、大変ご不快になられておる」
「ほう、その噂とは?」



「ウェラー卿コンラート…貴官が、グレナダ公国…カロリア地区の戦闘において、不審な行動を示したという噂だよ」


 
 効果的な響きを醸し出そうとして、シュトッフェルは《カロリア》の名に特に強いアクセントをつけた。
 《覚えているだろう》…?そう言いたげに。

「ほう、具体的にはどのような?」

 コンラートの方は特に感慨を受けた風もなく、淡々とした語調で詳細を求める。
 内心…《やはりそこか》とは思ったものの、その話をどのような形で拡げるつもりかには単純な興味さえ覚えた。

 

*  *  *





 カロリア自治区…かつて、そこは港町として栄えた人間の土地であった。
 頑強な身体を持つ者が多く、船の積み卸し作業などは男ばかりか女も涼しい顔をして自分より大きな荷物も担ぐ…そんな豪放な土地柄であった。

 強い日差しに照らされながら日々を生きる人々を悲劇が襲ったのは、あの《禁忌の箱》開放実験の年であった。
 
 カロリアの民はもともと、宗主国である小シマロンに兵として若い男手を取られており、その頃町に残っていたのは女か年寄り、子どもばかりであった。

 その町を、あの凄まじいまでの破壊が襲った。

 大地が裂け、津波が町のありとあらゆるものを押し流し…残された僅かな食糧にも謎の発火が続いて人々を飢えさせた。

 だが…この町の復興力には根強いものがあった。

 殆ど廃墟と化した町を立て直した主軸は、領主ギルビットの妻フリン。
 既に死んでいた夫の代わりとして仮面を被ったまま領主の責務を果たし続けていた彼女だったが、小シマロンの王権が崩壊したのを好機として仮面を脱ぐと、独立宣言を出して残された人々を纏め上げた。

 だが、箱の猛威から6年が経過した…今から2年前のこと、カロリアは再び戦渦に巻きこまれる。近接した土地に興ったグレナダ公国に併呑され、その傘下として戦うことを余儀なくされたのである。

 フリン・ギルビットは夫亡き後は独身を貫いていたが、戦場で拾った子ども達の中からリタという娘を養女に迎えていた。自分に似た気質を持つ少女を後継者として据え、夫の護ってきた土地と住人達を可能な限り保護していこうと思ったのかも知れない。

 だが、リタはカロリアがグレナダ公国に併呑されると同時に、第3公子バルバロッサに半ば強姦に近い形で妾にされてしまった。

 その後、グレナダ公国は周囲の国と結んで眞魔国に侵攻してきたが、ルッテンベルク師団によって退けられ、逆に追い立てられてカロリア地区(自治区という名は奪われていた)の要塞に籠もった。

 この時、バルバロッサはカロリア中の僅かな蓄えを収奪して要塞に蓄積すると、あろうことか…自分の妾とその家族、侍女達を娼婦のように着飾らせて、警備兵一人いない屋敷に放置したのである。

 つまり…魔族に自分の女達を差し出し、阿(おもね)ることでの戦意を削ごうとしたのだ。
 慄然とするほどの愚かしさである。

 コンラートがカロリアに到着したとき、フリン・ギルビットは一人で屋敷の表に立つと、堂々たる態度で対峙してきた。
 《情けない男どもなど最初からあてにしていない》…そう言いたげな彼女は、コンラートを感嘆させるほどの品位を持っていた。

『この屋敷に踏み込むことは、あなたの品性が獣のそれであることを証明するでしょう』

 コンラートもまた、フリンの言葉に真正面から応じた。
 一人の、《心》を持つ男として。

『俺は人でもなく、魔族でもないと蔑まれる身ではありますが、獣にまで墜するつもりはありません』

 屋敷には一歩も踏み込まず、そのまま要塞へと直進したコンラートは数日がかりでここを陥落させると、バルバロッサ以下指揮官を処刑した後に要塞内の糧食を《放置》した。

 このご時世に敵の糧食を奪うことは非道ではなく、責任であった。もしも機動力の問題で運搬が不可能な場合は、敵に利用されないように焼却処分にすべしと定められている。
 だが、コンラートはその糧食について自軍の記録に留めることはなく、そのまま反転して眞魔国へと帰還してしまった。

 

*  *  *





「どうだ、申し開き出来まいっ!」
「確かに、その様なことがありましたね。では、私の罪状はどういったものになるのでしょうか?」

 我ながら《私》という一人称は似合わないな…と場違いな感慨を抱きつつも、この時コンラートには《ある程度の罰則は仕方がない》という思いがある。
 軍紀に照らしてみれば、奪取出来た糧食を放置したことはなるほど違反となるだろう。
 だが、あの時…飢えていながら凛と顔を上げていたフリンを見て、なお糧食を奪ったり焼却したりすることは出来なかった。もともと…あれは、彼女たちが額に汗して収穫したものであるはずだ。

 ましてや、あの時のルッテンベルク軍はケイル・ポーの兵站線維持能力によって、十分な糧食を保持していたのだ。そう厳しい罰則が下るとも思えない。

 だが…コンラートの思惑に反して、シュトッフェルが高らかに告げた罪状は予測不能なものであった。


「反逆罪だ」


「…は?」
「はぁ……?」

 コンラートと旅団長達は大量の疑問符を大気中に放散した。
 糧食をくすねてこなかったことが、一体何故反逆罪に繋がるのか?
 純血貴族の脳内というのは一体全体どういう構造をしているのだろうか?

「不思議かね?では…私から説明しよう」

 高揚した気分が空回りしているのか、十分な説明が出来ないシュトッフェルに代わって前に出てきたのはフォンビーレフェルト卿ヴァルトラーナであった。だが、この登場にはまた別の意味で疑問を提示せざるを得ない。

「お待ち下さい、フォンビーレフェルト卿。一体どのような権限で、あなたが私の罪状を決められるのですか?」

 糧食を放置したこと、又、そのことを報告しなかったことについて直接の上官であるシュトッフェルから叱責されるのはやむを得ない。だが、そこにフォンビーレフェルト卿が出てくるのは筋違いというものだろう。

「不満かね?私は正規に軍法会議に参列出来る、十貴族の一員と自負していたが?」
「これが軍法会議だと仰るのですか?それでは過半数…少なくとも、あと4人の軍団長参列を要求します。眞魔国軍規にはそのように明記してあるはずです」
「ほほぅ…小癪な口を利くものだ。私はお前の名誉のために、他家の参列を控えたというのに!」
「飢えた人間達から糧食を奪ってこなかったことが、それほどの罪で、恥だと仰るのですか?」


「何故奪ってこなかったかが問題だと言っているのだ!」  


 ドォン……っ!

 苛立たしげに卓上に叩きつけられた拳により、華奢な造りの螺鈿細工がミシリと異様な音を立てた。

『…これは……』

 コンラートの胸に、急速に迫り上がってくる思いがある。
 それは…耐え難い嫌悪であった。

 コンラートが…そして、仲間達が命がけで護ってきた国の中枢には、こんな蛇蝎が巣くっているのだ。
 彼らはどうやら正規の手続きなど踏むことなく、権力と暴力の双方を駆使してコンラートを陥れるつもりでいるらしい。
 その事を証明するように、コンラートがうっすらと予感しだした結論をヴァルトラーナが口にした。

「ウェラー卿コンラート…お前は人間の女…グレナダ公国第3公子バルバロッサの愛妾、リタと情を交わし子まで為したのだ。だからこそバルバロッサのみを処刑し、リタやその養母、そして糧食の処分をせずに帰還してきた…。時至り、眞魔国に反旗を翻したときにはリタを妻として迎え、ウェラー王家とやらを尊んでいる連中のもとで人間を束ねていくつもりなのだ…そうなのだろう!?」
「あなたが組んだ脚本では、その様になっているのでしょうね」

 呆れ果てて、抗弁する事にすら言いようのない嫌悪を感じる。

 リタと通じて子まで為した?
 一体いつ、子どもが出来そうな行為をしたというのか。
 そもそも、リタはその時既に身籠もっていたではないか。腹を割いて殺しておけば、身の潔白を証明出来たとでも言うのか?
 無理矢理身体を穢された上に、身重の肉体に華美なドレスを纏わされ…敵に差し出された女性をどの面下げて抱けるというのか。

 まさに鬼畜の所行ではないか…!

 この男達は、そこまでコンラートを貶めようとしているのだ。

「どのような証拠をもって、私を捕縛されるおつもりか?また、それが私の罪状だと仰るのなら、この場に共に呼ばれた旅団長は何の罪なのですか?全員がカロリアに情婦を囲っていると言われるのですか?」
「彼らはお前の罪状を確定するために呼んだのだよ。用意周到なお前のことだ…混血の鼻を利かせて、どうせ証拠など抹消しているのだろう?…となれば、お前がリタとの間に薄汚れた関係があり、子まで為したという事実は生き証人によって証明されねばなるまい」

「自白…ですか」

 旅団長はここにいないケイル・ポーを除いて、全てアルノルドの生き残りである。コンラートを処分した後、強力な結びつきを持つ彼らがルッテンベルク師団を率いて反逆を企てることを懸念していたのだろう。

 《自白》という名の拷問に掛けることで、この4人の男達の精神を破壊するつもりでいるのだ。あるいは、その命までも…。その為に、あの品性の低そうな男達…拷問吏が居たのだ。

『この国は…終わりだ…っ!』

 気にくわないという唯それだけの理由で軍紀を枉げ、功労者を闇の中で断罪し、その名誉を踏みにじる上層部が居る国が…一体何処に向かっていくというのか。

「く…はは……っ!」

 馬鹿馬鹿しい…。
 何もかもが馬鹿馬鹿しい。
 堪えきれない哄笑が沸き上がってきて、コンラートの腹筋を揺らした。

「隊長…あんた、このまま好きにされちまうつもりかい?」
「こんな連中によう…っ!」

 アリアズナ達は今や顔を赤黒い色に染め上げ、一声合図があれば瞬速の剣を抜かんと柄を握りしめている。広間には大勢の兵士が詰めているが、ルッテンベルクの精鋭5人に対して中隊規模では役不足というものだ。

 頭に血を上らせそうになりながらも、アリアズナ達はきっちり壁を背にして、互いに適度な距離を取る。魔力持ちの兵も居るようだが、要素が乱れているこのご時世にまともな技を使えるとは思えない。ならば、攻撃可能な面を減らして、極力一度に一人だけを相手取るようにしていけば倒せない人数ではない。

 少なくとも…彼らはここで捕縛…いや、捕獲され、拷問吏の玩具になる気はなかった。そんなことのために、ここまで命長らえてきたわけではない。

 その想いに応えるように、振り返ったコンラートの顔には見る者を凍てつかせるような嘲笑が浮かんでいた。

「このまま好きにさせる…?」

 くすくすと、喉奥に絡むような笑みが漏れる。



「アリアズナ、リーメン、スターリング、ベル…俺がそんなに素直な男に見えるかい?」
  
 





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