第1章 VーB







「ウェラー卿…首尾良くいったようだな」
「フォンヴォルテール卿…」

 互いに家名で呼び合う兄弟に、グウェンダルと共に歩いてきたギュンターが困ったように吐息を漏らす。

「やれやれ…相変わらずですねぇ…。グウェンダル、あなたときたら…!」
「説教ならまたにしてくれ」

 はぁ…っと、ギュンター以上に深い溜息をついたグウェンダルは、何かコンラートに言おうとして口を開きかけたものの…結局、眉根を寄せて去ってしまった。
 ほとほと不器用な男である…。

「……どうかしたんですか?フォンヴォルテール卿は」

 無愛想なのは相変わらずだが、彼が珍しくコンラートに何か言おうとしていたように感じて小首を傾げていると、実に嬉しそうな…見ようによっては《にやついている》とでも表現出来そうな顔でギュンターが顔を寄せてきた。

「ふふ…知りたいですか?」

 小声で、アナン鉱山採掘権を餌にフォンロシュフォール卿を釣る計画を話して聞かせれば、コンラートの瞳の中にちらりと銀の光彩が跳ねる。
 グウェンダルはシュトッフェルを追い落とすことに執心しているから、おそらくその為なのだろうとは思いつつも…それでも、彼がコンラートにとって益となるよう取りはからってくれることに、何かを期待してしまいそうな自分を押しとどめるのに苦労してしまう。

 もしかして兄も、自分を認めてくれるようになったのではないか…。

 そんな幻想を抱くのは…甘いことだろうか?
  
『グウェンダル…』

 幼い頃呼んでいたように…この名を呼ぶ日も来るのだろうか?

 コンラートは兄の後ろ姿を目で追いながら、切ない想いを抱えていた。



*  *  *




「コ〜ンラァ〜ト!あなたったらとっても鮮やかだったわ!娘達の視線を独り占めねっ!」

 豊満な肢体を扇情的なドレスに包んだ魔王陛下のお出ましに、コンラート達が一様に頭を垂れると鷹揚に手が振られる。

「うふふ…堅苦しいのは無しよ!今日はゆっくりと楽しんでいって頂戴。ね…特にコンラートは戦をしてきた後ですものね」

 そういうと、ツェツィーリエは頭一つ分は高い次男を抱きしめ…白粉を擦りつけんばかりにして抱擁した。立ち上る強い芳香は彼女の肌から直接わきあがるものと、高価な香水の綯い交ぜになったもので…男達をたちどころに狂わす蠱惑的なにおいであった。

 けれど…コンラートはほっそりとした腰を抱き寄せ、笑顔を浮かべながらも複雑な心境を隠すことが出来ない。

『戦をしてきたあと』

 その言葉に、どれ程の意味があるか彼女は考えたことがあるのだろうか?
 彼女の命令によって強力な守護者であるオーディルの元を引き離され、シュトッフェルの配下に収まらざるを得なくなったルッテンベルク師団が、かつての大戦時そうであったような…《便利屋部隊》を彷彿とさせる活動に終始していることを、彼女はどれだけ理解しているのだろう?

『勝った勝ったと立ち騒いだところで、結局…一局面的な勝利というだけなのに』

 敵国が一枚岩ではないという事情もあるが、それでも…政治的収束を見る可能性がない中で延々戦い続ける軍人の苦悩など、この国の指導者であるはずの彼女には一片たりと理解することは出来ないのではないかと思う。
 一つ勝利したところで、また新たな戦地へと赴き、その戦闘が又終了した後のビジョンが見えない…。
 それは唯の《戦争屋》ではなく、《戦略家》としての才知を持つ者であればこそ感じる苦悩であった。

 コンラートとて軍人…戦うことが嫌いなわけではない。
 だが、無為に喪われていく命を賛美するほど愚かにはなりきれないのだ。

「母上…ひとつ、お伺いしてもよろしいでしょうか?」
「まあ…息子が母に《お伺い》なんて、相変わらず気を回すものねぇ」

 ころころと笑み解れていたツェツィーリエであったが、その桜色の耳朶に小さくコンラートが囁いた途端…ぴくりと長い睫が震えた。

『眞王陛下からは、まだなにもお言葉はないのですか?』

 息子の言葉に、ツェツィーリエは目に見えて動揺し…しきりに瞬きを繰り返しては、不安げにコンラートの軍服に指先をかける。整えられた爪は赤みの強い珊瑚色に染め上げられ、その上に小粒の宝石や花弁型の模様が彩色されて、小さな花畑のように見える。

 彼女の関心は、自分の身をそうして飾ることだけに向けられているのだろうか?

 今や魔力持ちの園芸家を持たぬ地方では、観賞用の華など殆ど咲かなくなっているというのに…。
 
「ご免なさいね…コンラート。そのことは…お兄様に口止めされているの」
「…そうですか」

 しぃ…っと華のような指先を唇に添えて、母が哀しそうな顔をすれば…結局コンラートは何も言えなくなってしまう。例え問いつめたところで、本当に欲しい情報は、母には何も知らされていないだろうと知っているせいもあるが。

『あれから…眞王陛下はこの国に対して何か指示を出されたことがあるのだろうか?』

 コンラートが命じられた責務を拒否した後…少なくとも、《禁忌の箱》が開放されてから今日までの間に眞王から何らかの《言賜》があった形跡はない。時折零れ聞くところによれば、ツェツィーリエは愛用の船を駆って世界中を飛び回る為に退位を強く希望しているそうだが、次代の魔王が選定される気配はない。

『なにも…なさらないおつもりなのか?』

 思い通りにならなかったコンラートへの嫌がらせと考えるには、あまりにも重要すぎる事項だ。
 ツェツィーリエに統治能力がないこと…その摂政として権勢を振るうシュトッフェルも意欲はともかくとして、能力的にはこの状況を収拾するに足らないことを、眞王はどう思っているのだろう?


 このままツェツィーリエを擁し続けて…この国は何処に向かっていくのだろうか。

「…?」

 ふと視線を感じて頭を巡らせると、バルコニーに面した柱の影に豪奢な金の髪を持つ少年が佇んでいた。
 フォンビーレフェルト卿ヴォルフラムだ。

 その鮮やかな蒼の瞳は母と兄とを見ていたようだったが、コンラートの視線が向けられるのに気付くと、ふぃ…っと鼻先を巡らせるようにして顔が背けられる。
 もう…数十年というもの、彼はコンラートを真っ直ぐに見ようとはしない。

『兄上〜、ちっちゃい兄上〜っ!』

 あどけない口調で呼びかけながら、とたとたと…何処に行くにもコンラートについてきた、あの小さな弟はもう何処にも居ないのだと知らしめるように、ヴォルフラムの背中は遠く…頑なに見えた。

『何もかも手に入れるというわけには行かないものだ』

 眞魔国の貴族として…軍人として、混血には破格とも言える厚遇を受けることになっても、《家族》とごく普通のしあわせを慈しむことは、コンラートには極めて困難なように思えた。


 
  


 この《手に入れられそうなもの》ですら、どうにかして毟り取ってやろうと血眼になって歯噛みしている者もいる。

 その代表が、フォンシュピッツヴェーグ卿シュトッフェルであった。



*  *  *




「くそっ!…くそっ!!」

 怒りのあまり、《温厚な紳士》然とした表情を維持することも出来なくなったシュトッフェルは、華美な衣装の裾を翻して早足に大広間を去ると、自室に飛び込んで罵詈雑言をまき散らし、辺り構わず卓上の物を擲つと罪もない美術品の群を次々に廃棄物へと変えていった。

「くそ…くそぉぉ…あの儒子めっ!!あんな紛い物を差し出して踊りを請うなど、薄汚れた混血のやりそうなことだっ!!あの小娘も小娘だ…愚かにも頬まで染めて狂喜しおって…十貴族の令嬢が、あのように貧相なゴミを有り難がって受け取るなど世も末だ…っ!」
 
 一際大きな怒号を上げると、シュトッフェルは鷲づかみにした陶製の人形を勢いよく床に叩きつけた。

「くそぉぉぉっっ!!」

 粉々に砕けた陶器の欠片を、まるでコンラート自身であるかのように踏みにじる間にも、怒りが込み上げ腹蔵が煮えくりかえりそうになってしまう。
 だが、壁沿いに突如として現れた影が一声発すると、びくりと背を跳ねさせて動きを止めた。

「閣下…どうか落ち着きなさいませ」
「ぬ…お前か。何か良き知らせはあるのか?」
「良い知らせと、悪い知らせがございます。どちらからご報告致しましょう?」
「…………悪い方から言え」

 ぬか喜びをしておいて後で落ち込むのが嫌なのか、シュトッフェルがそう言うと、お抱え諜報員は一礼してから淡々と語り始めた。

「フォンロシュフォール卿がウェラー側に寝返りそうです」
「…何だと!?」
「フォンヴォルテール卿がアナン鉱山の採掘権を餌に釣ろうとしていたのに、どうやら興味津々のようでした」
「く…あの男!日和見主義の蝙蝠めがっ!」

 同様に日和見的な決断をするフォンラドフォード卿も、今宵の経過を見るに、コンラート側に就く気配が濃厚だ。
 単に娘のデビューを飾ったことに限らず、これだけ複数の十貴族を味方につけ、強力な軍隊を擁する男を味方につけておくことは、このご時世には幾万の現金に勝ると気付いたのかも知れない。
 
「それで…?良い話とは何だ?下らない話であればただではすまさんぞ?私はいま機嫌が悪いのだ!」

『見れば分かります』

 その一言が喉奥まで出かかった諜報員だったが、なんとか飲み込むと《朗報》の方を主に知らせた。
 だが、主はその知らせがまたとない…ある意味、この状況を丸ごと覆すような内容であることを俄には汲み取れなかったらしく、阿呆のように口を半ば開けにして小首を傾げていた。

「………それがどうなるというのだ?」
「…はぁ……」

 その情報を元に決断するのはシュトッフェルであって、諜報員の仕事ではない。

「なるほど…その件を足がかりとして、一気にウェラーを泥地に這わせることが出来ますな?」

 途方に暮れそうになった諜報員を救ったのは、突然明哲な頭脳を得た主…ではなく、先程までここには居なかった第三者であった。

「フォンビーレフェルト卿!?何故ここに…」
「随分とお暴れになったものですね…フォンシュピッツヴェーグ卿。侍女達が恐ろしげに肩を寄せ合っておりましたよ?」
 
 くすくすと華麗な笑みを浮かべるのはフォンビーレフェルト卿ヴァルトラーナ…ビーレフェルト家の現当主であり、シュトッフェルと並んで頑強な反ウェラー派に属する男である。

 純血魔族らしい美貌を豪奢な金の髪で縁取るこの男は、シュトッフェルと違って能力的にも眞魔国を牽引するだけの能力を持った男である。
 彼が私心を交えずに眞魔国のために尽くし、コンラートやグウェンダルとも協力体制を敷くことが出来ていたならば、この国も今ひとつ違った歴史の刻み方をしたことだろう。

 だが…彼は純血としての誇りを過剰なほどに所持する上、私心以外で行動することが困難な性格であり、その故に視野を著しく狭窄されていることに気づかぬ男でもあった。
 
「どういうことだ、フォンビーレフェルト卿?」

 まだ理解出来ぬ様子のシュトッフェルに対して内心唾棄するほどに嫌悪を感じつつも、宮廷に於ける権勢には未だ大きな力があり、更に目的や選択手段が似通っているこの男は切り捨てるには惜しい。
 可能な限り利用し尽くさねばならない。

 ヴァルトラーナはよく言って慇懃無礼の又従兄弟ぐらいな口調で、滔々とシュトッフェルにコンラートを追い落とすための《計略》を語り始めたのである。



 その選択が、眞魔国防衛に与える影響など欠片ほども懸念せずに…。 




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