V.希望と憎しみと 「閣下、報告書持ってきましたよ〜ん」 「ご苦労」 ハスキーな響きを持つ軽い声が、窓からぽぅん…っと軽快な動作で室内に飛び込んでくると、対照的な重低音が部屋の主から寄越される。 何度言っても窓から入ってくるお抱え諜報員に、もはや文句を言う気もなくなったフォンヴォルテール卿グウェンダルは視線も送らぬまま卓上に置かれた書類に目を通した。 眞魔国歴4008年…冬の第1月に入ったばかりだが、王都に近い割に寒気の強いフォンヴォルテール領では、夕刻ともなると街路を行きかう民も上着無しには到底歩けないような気温となる。 ヴォルテール城は二重窓や床に敷き詰めた獣毛皮などで寒気対策は施しているものの、石造りのせいかやはり底冷えしてしまう。 見ると、暖炉には早くも薪がくべられていた。 仕事に夢中になると気温のことなど分からなくなる主を思いやって、使用人が気を利かせているのかも知れない。 グリエ・ヨザックが姿を見せた途端に膝掛けを引き出しに突っ込んだ上司は、相変わらず憮然とした表情は崩さぬものの…久し振りに瞳に喜色を掠めさせて書類を卓上に戻した。 そこには、彼の弟ウェラー卿コンラートの、めざましい戦いぶりが報告されているのだ。 『別に、素直に喜んだって…膝掛けだってそのままにしてて良いのにねぇ…』 窓から入ってきた際に視界を掠めた映像から言って、猫たん柄のファンシーな膝掛けだったに違いない。外見を裏切って可愛い物好きの上司は、その事を周りに知られることを毛嫌いしている。 おそらくこのことを知っているのは自分と赤い悪魔…そして何人かの執事とメイドくらいなものだろう。 「隊長は相変わらず、戦功のわりに昇進はないようですねぇ…」 相変わらず幼馴染みを隊長と呼ぶ男は、現在はグウェンダルの元で諜報員を務めているため、ウェラー卿コンラートの部下という訳ではない。だが、この呼び方にも馴染んでしまったグウェンダルが咎め立てすることはなかった。 「勲章の重みで腰が曲がるかも知れんがな」 「けど、アルノルドで少将になって以降ぱったりと昇進がないんですよ?閣下から口添えをお願いすることは出来ないんですか?」 「私が口を出したりすれば、余計意固地になってあの男はウェラー卿を囲い込むだろうさ」 苦々しげに呟かれる言葉は尤もなもので、返事の内容が実のあるものであることを期待すると言うよりは、グウェンダルの意図を聞きたくて口を開いたヨザックは肩を竦めるだけだった。 「ところで…グリエ、傷の具合はどうなんだ?」 「あらーん、心配してくださるんで?死なせてくれってあんなにお願いしたのに、聞いてくれなかったくせにぃ〜」 ヨザックの良く熟した果実の色をしている髪はくせっ毛で、元気に四方八方に跳ね回っているのは相変わらずだ。だが、グウェンダルの元で諜報活動を行っている間に危険な毒を身に受けてしまい、辛うじて一命は取り留めたものの…その左目は爛れて癒合してしまった。 今は革製の洒落たアイパッチで覆っているのが、逆に男ぶりをあげているようでもある。 だが…毒に侵されている間は地獄の苦しみにのたうち回り、《死なせてくれ》と絶叫してしていた。見栄っ張りで強がりの得意なこの男が、取り繕うことも出来ずに悶絶していたのだ…どれ程の苦しみであったのか想像するのも苦しい。 何とか正常な意識状態に戻った後も暫くの間、普段の様子を取り戻すことは出来なかった。女装に拘りを持つこの男にとって、顔に醜い傷跡が残ったことはかなりの精神外傷となってしまったらしい。 今こうして…この男が飄々と普段通りの口を利いていることに、グウェンダルは顔には出さないものの随分と安堵しているのだと思う。 「助かると思ったからだ」 「あはは…そうですね」 ヨザックはちらりと鏡を見やり、自分の容貌を確認してみる。 アイパッチは思いのほか見合っているようだが、もうドレスを着ることは出来まい。アイパッチにドレスとなると、女海賊のコスプレしかできないだろう。 『でも…ま。生きてるからこそ出来る事ってあるよねぇ…』 優秀な諜報員として、そこまでグウェンダルに大切に思われていることも単純に嬉しかったし、生きているからこそコンラートのことを見守ってもいける。 『あいつが俺みたいに毒に侵されたとして、大騒ぎして《死ぬ死ぬ》言いやがっても、俺だって死なせねぇだろうしな…』 さて、あの男がこれからどういう将来を辿るのか…。 ヨザックは興味を越えた想いで見詰めるのだった。 * * * 眞魔国歴4000年に起こった《禁忌の箱》開放の余波は、グウェンダルが懸念したとおり眞魔国にも大きな影響を与えることになった。 まず、要素による大地への祝福が大幅に弱まったことで、収穫率が年々減少し続けていること。 更にはシマロン領土で勃興を繰り返す小国の中からそれなりに力を持つ国が結束を結ぶと、その度に眞魔国へと侵略…いや、略奪の手を伸ばしてくるということだ。 特に後者については国境沿いを預かる領主にとって死活問題であり、3年前…とうとうフォンシュピッツヴェーグ卿シュトッフェルは、ルッテンベルク師団を麾下に置くことに成功したのである。 それまではあからさまに侮蔑の眼差しを向け、宴の席で公然とコンラートを侮辱した男がどの面下げて…と、グウェンダルは憤ったものだが如何せん…彼はそれを口と態度で示してみせるには不器用すぎる男であった。 『全くこの兄弟はさぁ…困ったもんだよね』 コンラートにしてもそうだ。兄の能力とその品位を高く買いながらも、やはり《純血貴族》というものへの偏見が強いのか、どこか距離を置いて会話をしようとする。 二人きりの席でも《ウェラー卿》《フォンヴォルテール卿》と呼び合う彼らに、ギュンターなどはいつももどかしい想いをしているようだ。 単なる市井の民ならば《家庭の事情》で済ませられるのだろうが、こと国家の盛衰を担う政治家と軍人の要とあっては、国の未来を真剣に想えば想うほど協力し合って欲しいと願うに違いない。 一兵卒であるヨザックとしては、単に幼馴染みとしてコンラートの幸せを願い、グウェンダルにもっと親しげに話しかけてはどうか…と、一度だけ酒の席で勧めたことはある。 だが、苦笑しながら悩む風だったコンラートの態度が一層頑なになったのも、丁度3年前のことであった。 豪放な気質を持つフォンウィンコット卿オーディルは、大戦前から自軍の戦闘術指南役をコンラートに依頼するなどして重用していた。戦後もその繋がりに変わりはなく、彼の援助の元でルッテンベルク師団とウェラー領は次第に力をつけていき、十分な装備と補給線を整えてから戦地に赴くことが出来ていた。 また、オーディルは喪った娘の主義を重んじてか混血魔族に対しての差別意識が極めて薄い。殆ど無いと言っても良いだろう。このこともあって、彼はルッテンベルク師団にとってまたとない支援者であったといえる。 ところが5年前に、その関係に横槍を入れた者がいた。 先に述べたとおり、眞魔国摂政と、現魔王の実兄という立場を利用したシュトッフェルが強引にルッテンベルク師団を麾下に組み込んだのである。 これには当然コンラートもオーディルも渋り、あからさまに嫌悪の感情を示して拒絶したのだが、政界での立ち回りにだけは異様に長けているシュトッフェルのこと…シュピッツヴェーグ領が人間世界と眞魔国との防衛線として極めて重要であることを主張して十貴族を味方につけ、更には《魔王陛下の勅令》まで取り付けられては、もうコンラートに拒否する手立てはなかった。 『私の力及ばぬばかりに…すまない!』 オーディルは別れに際して涙まで見せたという。 彼を父とも慕っていたコンラートにとっても、辛い別れであったに違いない。 何しろ…実の母はコンラート自身の思いには気づくことなく、兄に言われたことを鵜呑みにして愛らしくおねだりしてくるような人なのだから…。 また、グウェンダルはこの決定に際して反対の意を述べてはいたのだが、十貴族に参列する権利のないコンラートにその事を知る術はなく、また、グウェンダルも事の経緯と《自分自身は憤懣やるかたない》などという言い訳もしなかったことで、コンラートは一層この兄を信頼してはならないと思いこんでしまったらしい。 肉親の情に期待しても裏切られるだけ…。 哀しい結論をコンラートは静かに受け入れた。 だが、受け入れてしまえばその状況下で最善の働きが出来るのがこの男である。眞魔国防衛線の要としての立場を受け入れると、既に《仔猫》ではなく《若獅子》と呼ばれるほどに精強となったルッテンベルク師団を率い、縦横無尽の戦いを展開していく。 この事は、シュトッフェルを喜ばせもしたが、同時に不安にもさせた。 もともとこの混血の甥を嫌悪すること甚だしい伯父は、彼に華々しい戦功をあげさせたくないばかりに手を回してきたのである。そこにもってきて、シュピッツヴェーグ軍が連戦連敗を重ねて弱体化してきたのも口惜しいというのに、ルッテンベルク師団が勝てば勝つほどコンラートの名声は上がっていくのである。 誰の目にも明らかな横槍人事であったため、幾らシュピッツヴェーグ軍麾下にある師団の戦功とはいえ、それをシュトッフェルの栄光に繋げるような阿呆は幼児にもいなかった。 この為、再びシュトッフェルは様々な手でルッテンベルク師団の足を引っ張るようになり、互いの間に憎しみの溝を深めていったのである。 この軋轢に気付く者は多く、コンラートを奪われる形となったオーディルは失意のあまり当主の座を息子に譲って数年間は隠居生活を送っていたのだが、息子を説得すると熱烈な活動を始めた。 『ウェラー家を十一貴族として格上げしてはどうか』 …という案を提唱したのである。 十一貴族というとやや突拍子もないような発案にも見えるが、実は…この案には軍事的な意味合いが強い。 眞魔国軍の中で完全な独立性をもって活動出来る《軍団》は十である。 つまり、十貴族それぞれが持つ軍団の下に各派閥の師団・旅団・大隊などが所属して作戦行動を行っているのである。 よって、どれ程能力が高くても師団長であるコンラートが軍団長に必要な最低限の将官位、中将に昇進することはなく、十貴族会議にも参列出来ないから政治的・軍事的な最終決定に加わることも出来ない。 これまでの功績から考えて、特例的に中将に昇進させて作戦会議に参加させてはどうかという意見もあったのだが、それでは規則が成り立たぬと反対意見が多く出た。 だが、ウェラー家を十一貴族にするとこれを一気に解決出来るのである。 コンラートはここ数年で築き上げた実績を纏め払いする形で中将に昇進し、ルッテンベルク軍団として独立。独自の軍事行動が可能となり、シュトッフェルの麾下に入る必要も無くなる。 『絶対にこの案を通さねばならないのだ。元シマロン領に勃興する勢力が次第に結びつきつつある。彼らが一発逆転を狙って死にものぐるいの短期決戦を挑んできたとき、一局面における戦術ではなく、戦局全体を見通した戦略を展開出来る男が必要になるのだ』 それこそがウェラー卿コンラートなのだとオーディルは息子に…そして、最も強力な賛同者であるフォンクライスト卿ギュンターと語り合った。 ギュンター自身、眞魔国髄一の軍師であると謳われており、実際、士官学校の戦術科にシュトッフルが《教範書を配備しろ》と言いだしたときには、普段冷静なこの男が烈火のように怒って反対行動を取ったことも伝説として語り継がれている。 『過去の戦史を調べ、勝因敗因をつぶさに論じることは意義深いことです。しかし、戦術に絶対的な決まりなど無いのです!各事態をその状況に合わせて随時判断していく経時的な能力こそが必要になるのです。そこに教範書など導入して凝り固まった戦術など教え込まれては、士官の頭は硬直し、刻々と変化していく戦況に対応出来なくなります。どうしても教範書を導入したいというのであれば、今すぐ私をお斬り下さいっ!』 吠えるような怒号と共に突き出された、抜き身の剣の煌めきに…さしものシュトッフェルも息を呑んで自案を引っ込めたという。 彼としては、特に深い思い入れがあって教範書を導入しようとしたわけではなく、《学校とはそういうものだ》という既成概念から発言しただけであったことも関係しているだろう。 戦術家としてはそのような経歴を持つギュンターの目から見ても、コンラートの戦略家としての能力には目を見張るものがあった。 彼の頭には戦争全体の持っていき方…更に、落としどころを何処にするかという政略的な目線をも含んでいたのである。 『オーディル様、やりましょう…!この状況とコンラートの戦果が、いかな十貴族をも動かしましょう!』 だが…二人の想いに賛同する十貴族は、この状況下にもかかわらずやはり過半数には至らなかった。 ウィンコット、クライスト、カーベルニコフ、グランツ、ヴォルテールの5家がオーディルの意に賛同し、シュピッツヴェーグ、ビーレフェルト、ロシュフォール、ギレンホール、ラドフォードの5家が反対した。 特に反対者の先鋒シュピッツヴェーグ、ビーレフェルトは眞魔国の将来というよりは、純血貴族…そして、長々と続いてきた自分たちの血統を特別なものとして護りたいばかりに反対の意を唱えており、残り3家は経済的な連携の上からこれに賛同しているため、オーディルやギュンターの熱の籠もった論議も、彼らの耳を上っ滑りしていくばかりなのである。 しかもここ近年、もう一つ反対派の懸念事項となっている事柄があった。 元シマロン領の小国の中に、《ウェラー王家再興》を唱える者が出てきたのだ。 流石に魔族であるコンラートを王として迎えるということで、賛同する国々はまだ少ないものの…善政を敷いていたことで伝説となっている《ウェラー》の名は、人間の庶民の間で美しいお伽噺のように語り継がれてきたのだ。 今現在自分たちの頭の上に君臨している王と異なり、直接税を持っていかないから…という贔屓目も勿論あるのだろうが。それでも、風の噂に聞くコンラートの実績…豊かとは言えない土壌を開墾し、名馬を産出するようになった領主としての手腕が実に魅力となっていることは間違いない。 『あのような危険分子を国の盛衰に関わる軍団会議に参列させては、機密が漏れ出る可能性があるではないか』 ビーレフェルトなどは公然と、コンラートを人間の国に通じる裏切り者として疑って掛かっているほどだ。 * * * 「そーいや、閣下。次の宴会には参加されるんで?」 「行かないわけにいかんだろう。母上…魔王陛下が主催される宴だ」 もはや全開の笑顔が想像出来ないほどに渋面がこびりついてするグウェンダルは、部下の言葉に一層眉根の皺を深くした。 一週間後、王都では魔王ツェツィーリエ主催の宴が設けられている。 どういう主題で催されるのかは既に記憶の彼方だが、さぞかし無駄に華やかで…陰湿な会話が繰り広げられることだろう。 『オーディル殿は、偉い』 彼は膝の古傷を患っており、秋口から冬場に掛けては痛みが強いはずだし、もともと豪毅な性格の武人である彼はそういった宴席を好まない。 だが、《ウェラー家十一貴族案》にロシュフォール、ギレンホール、ラドフォードのいずれかを引き込もうというのか、宴と聞けば必ず参加して熱心に口説き回っているのだという。 その彼を尊敬しつつも…弟のためにそこまでする事の出来ない自分がいい加減嫌になってくる。 自己嫌悪は自己憐憫の入り口という。 この感情の中で言い訳をしているだけなのだとも思う。 グウェンダルは眉間の皺を親指で強く押しつぶすと、何かを秘めた瞳を薄く開いた。 「……フォンロシュフォール卿が欲しがっていたアナン鉱山の採掘権…貸し付けを考えても良いかも知れない」 ぽそりと口にした途端、部下の薄青い瞳が奥底からぱぁ…っと光を放ったように見えた。 「…何だ?」 「何でもないですよぅ〜。それよか、閣下…ちょっと乾杯でもしませんか?」 「……どれだけ注ぐつもりだお前?」 にこにこ顔のヨザックは勝手知ったる上司の棚からひょいひょいと上等なワインを持ち出すと、一際大ぶりなグラスを並べてとくとくと注ぎ始めた。 「ああ…そういう注ぎ方をする酒ではないというのに…」 「まあまあ、折角空けたんだから呑みきっちゃいましょうよ。佳い酒だからってあんまり置いといちゃあ、呑み時を逸して酸っぱくなっちゃうこともありますよ?」 『人との間柄も、時期が大事じゃないですかね?』 そう言いたげなヨザックに、グウェンダルは唇の端だけを微妙に歪めて笑って見せた。 「ふん…空けてしまった以上は、確かに呑んでしまわねばならんな…」 なみなみと…水面が揺れるほど注いでしまったワインからは芳醇な香りが漂っており、グラスを傾ければ天鵞絨のような喉越しで葡萄液が流れ込んでくる。 か…っと胃を暖める感触に、グウェンダルは珍しく自然な笑みが浮かんでくるのを感じた。 そこでヨザックに見せるのが腹立たしいからと言って、窓の方をわざわざ向き直すあたりがこの男の子どもじみた癖である。 * * * 黒と渋い銀の敷石を格子模様に配したフロアは顔が映し込めるほどに磨き込まれており、随所に置かれた金細工や、華麗な装飾を施した大型の陶磁器類がはえる。 天を仰げば遙か頭上に鮮やかなフラスコ画が描かれており、眞魔国人ならばそれらが全て眞王と創主の戦いを描いた一大絵巻であることを見て取ることが出来る。 その絵を隠さぬよう巧みに配置されたシャンデリアがさざめくような光を投げかける先には、艶やかに着飾った貴族達の姿があった。 「おや、グウェンダルではありませんか。あなた、相変わらず眉間の皺が深いですね」 「…久し振りに会って言うことはそれか?」 「ふふふ…」 肩に金モールを取り付け、幾つかの重要な勲章を左胸に並べている他はそれほど普段の軍服と大差ない出で立ちのグウェンダルに、ギュンターはくすくすと軽い笑みを零した。 その様な表情をすると流石に眞魔国髄一の美貌が花弁のように綻び、男女を問わずほぅ…と甘い息を吐くのだった。 この国では男でも髪を長く伸ばす者は多いが、彼のように洒落た形に結い上げて、簪飾りで留めた姿が様になる者はそういない。銀色の髪を高い位置で結った髪は一房だけがさらりと垂らされており、それがすらりとした長身を包む白絹の長衣と相まって、彼を清楚な百合のように見せていた。 しかし…茅で切ったような切れ長の瞳に宿る菫色は武人の靱さを持っており、彼の人となりを伺わせる。 「コンラートはまだ到着していないようですね」 「来るのか?」 ギュンターの言葉に少し驚く。ヨザックの報告書によれば、コンラートの任地は早馬を駆けて5日という距離にあり、戦闘が収束したタイミングから考えると今日の宴に顔を出すこと自体が物理的に困難なはずだ。 「来ます。あの子は…今日の宴の意味を理解している筈です」 「…何を仕掛けるつもりだ?」 「今宵はフォンラドフォード卿のご息女、エレルライン嬢が社交界デビューされるのですよ」 「エレルライン…ああ、あの娘か」 栗色のふわふわとした髪にハシバミ色をした大粒の瞳を持つ、どこか子鹿を思わせる可憐な少女であったはずだ。 フォンラドフォード卿は自分に似ず愛くるしい容姿を持つこの娘を溺愛していると聞く。その娘の社交界デビューともなれば相当に気合いを入れてくることだろう。 普通、貴族の娘が宴に出るときは決まったパートナーと参加するのが常だが、社交界デビューの際には家族と共に参加し、パートナーはその場で選ぶ。 我こそはと思うパートナー候補は胸に一輪の白薔薇を挿しておき、最初の舞踏曲の前奏が掛かると同時に一斉に差し出す。その数が多ければ多いほど娘のデビューは晴れがましいものとなるのだ。 しかも、その時初めて踊った相手とは恋仲になることが多いという伝統もある。 なるほど…娘絡みでフォンラドフォード卿の好意を得ようという作戦か。 「……あいつはそれを了承したのか?」 「ええ」 「だが、あいつは色街では名を知られているようだが…貴族の子女。それも、恋に慣れぬ初な娘は避けていると言うではないか」 「よくご存じですね。そのくらい弟君のことを理解しておられるのなら、もっと尽力して下さればこのような決断をせずとも済みますのに…」 「…うるさいな」 憮然とすれば、ギュンターの方も肩を竦める。 「確かに、最初は嫌がっておりましたよ。ですが、なにも寝ろと言っているわけではありませんしね。エレルライン嬢に少し良い気分になって頂いて、お父君に口添え願えればそれで良いのですから」 「そう上手くいくものか?」 「コンラートはとても女性に人気があるのですよ?」 「だからこそだ。初な少女などあっという間に夢中になってしまうだろう。そうなったとき、強引に姻戚でも結ばれたらどうするつもりだ?」 「おやおや…」 またしてもくすくすと、ギュンターは零れるような笑みを浮かべる。 「本当に…そのままをコンラートに言って上げてください。あの子は、あなたを慕っておりますよ」 「そうは見えんが」 「あなたが取り付く島もないからですよ。なにせ、無愛想ですからねぇ…」 自覚がある分、言い返すことの出来ないグウェンダルだった。 「…ともかく、あいつ自身がエレルラインを気に入ったというのでなければ、そのような搦め手はやめておけ。基本的に、お前もオーディル殿も一本気な達だ。妙な宮廷策は裏目に出ることが多いぞ?」 「そうはいきません。今は、コンラートの立場を左右する大切な時期なのですよ?」 「それについては私にも考えがある」 フォンロシュフォール卿に対してアナン鉱山の採掘権で釣る案を明かせば、ギュンターは心底驚いたように菫色の瞳を見開いた。 「…本気ですか?ああ…本気でしょうね。あなたはなかなか言い出さない分。やるといったら必ずやる方ですからねっ!うぅん…ですが、それはそれとしてやはりフォンラドフォード卿への計画も予定通り進めますよ?エレルライン嬢は気だての良い娘ですから、もしかして本当にコンラートと上手くいくことだって考えられますからね。ですけど…あなたがそんな風に考えていてくれただなんて…こんなに嬉しいことはありませんよ!」 白皙の肌を薔薇色に上気させて喜ぶギュンターに、グウェンダルは面映ゆいような心地になる。 「やれやれ…これではどちらが肉親だか分からんな。何故そこまであいつに肩入れするのだ?士官学校時分も随分と気に掛けていたようではないか」 「ふふ…どうしてでしょうねぇ…。勿論、あの極めて高い能力を埋もれさせておくのが惜しいというのもありますが。それ以上に…あの子にはそうしたくなるような《華》があるのではないですかね?」 「ふむ…」 確かに、希望にしろ憎しみにしろ…ウェラー卿コンラートという男は周囲からなにがしかの大きな感情を寄せられる。時として…本人がその大きさに戸惑ってしまうほどに。 今はそれが特に大きく動いている時期であるし、また、その決定は眞魔国自体の未来に関わるほどに重要な選択となる気がする。 それほどに、あの男はこの国にとって大きな存在になりつつあるのだ。 『そのことを、あいつはどう思っているのだろうか?』 ふと…グウェンダルはその事が気に掛かった。 あの大戦以降、コンラートは以前よりも積極的にウェラー領やルッテンベルク師団の育成に力を入れ、権勢を手に入れることに戸惑いがないように見える。 だが、本当にそれはコンラート自身の望みなのだろうか? 《膝を割って話したこともないのに兄貴風を吹かせるものだ》と、それこそギュンター辺りに笑われそうだが…コンラートは、そういったものを至上命題にする性質には見えないのだった。 それでは、彼の真の望みは何なのかと聞かれれば返事に窮してしまうのだが…。 『お前は今、何のために戦っているのだ?』 かつて、士官学校時代のコンラートにギュンターがしたのと同意の問いかけをしているのだとは、この時グウェンダルは気付かない。 「ウェラー卿が到着されました…!」 可愛らしいお仕着せを着せられた伝令の少年が雲雀のような声で呼ばわると、ざわりと大広間の大気が揺れた。 この座に会する者達にとって、その名は相反する意味を持っていたからだ。 ある者にとっては希望を… ある者にとっては憎しみを… 表裏の感情を誘発するその名…ウェラー卿コンラート。 その男が今、宴に姿を現した。 |