「ゲルツヴァルトの王子様」−2
有利はコンラートにお願いして、図書館で電源を借りると携帯電話を充電器に繋いで棚田先生と連絡を取った。見失って慌てていた先生も、無事に会えたことにほっとしたのか特に怒ったりはしなかった。 ただ、足止めを喰らわしてしまった形の同行生徒は不機嫌そうな顔をしていたので、こちらの方に気を使ってぺこぺこすることになった。まあ、これは完全に有利の方が悪いのだからしょうがない。 * * * ちょっと気詰まりな夜を過ごした翌朝、有利は朝食に向かった先で《恩人》と再会することになった。 『あ、コンラッドさんだ』 寮の食堂は洒落たカフェテリアのようになっており、広々とした空間で定食…いや、幾つかのコース料理を食べられるようになっている。 その席の一つでコンラートが食事をとっているのだが、その周囲には華やかな装いの女人々が談笑しており、さながらコンラートを中心とするサロンのような様相を呈している。 しかし、どうしてだかコンラートの様子は先程と異なっていた。 あんなに笑い上戸に見えた彼は、今は周りに合わせて微笑んでいるのに何処かがえらく醒めたように見えるのだ。 『どうしてだろう?』 周りの人たちは懸命にコンラートの気を引こうとしているのが分かるだけに、ちょっとやきもきしてしまう。 『ひょっとして、具合でも悪いのかな?』 綺麗な人だから寝起きが悪いのかも知れない(美少年は寝起きが悪いという定説が、美青年にも適応されるのかは分からないが)。 だとすれば、下手に声を掛けたりすると悪いだろうか? 『でも…お礼言いたいなあ…』 少しばかり悩んでいたが、幾ら寝起きが悪くてもお礼をひとこと言われたくらいで疲れることはあるまい。ちょっとだけなら…お邪魔しても許して欲しい。 「棚田先生、ちょっとあっちに行っても良い?」 「いいけど、もう迷子にはなるなよ?」 「はーい」 「語尾は伸ばさない!」 「はいっ!」 ぴしりと敬礼して、コンラートの方に向かっていった。 * * * いつものメンバーに囲まれて食事をしている間、コンラートはあまり食欲を感じなかった。 彼ら個々が嫌いなわけではないのだが、何かを求めるように張り付いてくる視線や声が、自分の髪や指先に絡みついてくるような感触があるのだ。 それに、彼らが互いを牽制するように空気を読み、会話を続けているのもなんとなく嫌だ。 それなら完全に拒絶して一人で食事をとればいいようなものだが、そこまでするほど彼らを嫌いなわけでもない。 何とも中途半端な状況だ。 そこに…てこてこと歩いてきたのは昨日の少年だった。 混じりっけ無しの漆黒の髪と瞳、そして、身につけている服も真っ黒な制服なのに、どうしてだろう…?彼の纏う雰囲気はとても明るい。 「…コンラッドさん、おはようです」 ぎこちないドイツ語で、昨日よりも緊張気味の顔で語りかけてきた。 「日本語で良いのに」 「でも、お礼言いたい。ドイツ語…コンラッドさんの国言葉。俺…ありがとう、言いたい」 片言のドイツ語はぎこちなくて聞き取り難いのに…どうしてだか物凄く暖かみを感じる。きっと、コンラートを見つけたら言おうとして仕込んでいたに違いない。 《Danke schon.》…この言葉が、こんなにも染み入るようにやさしい言葉だなんて、今まで感じたことがなかった。 しかし、コンラートの感慨を全ての者が共有している訳ではなかった。 「随分と下手くそなドイツ語だな。ここに来る前に勉強しなかったのかい?」 優秀な成績を誇るロシアからの留学生ウルツキーが嘲笑うように話し掛けてくると、有利も何か責められているのは分かったのか、困ったように眉を下げてしまう。 「ごめんなさい…ご飯、邪魔?」 「良いよ、ユーリ…。おいで?一緒に食べよう?」 しょぼんと分かりやすく項垂れてしまうから、コンラートは慌てて立ち上がると有利の腕を引いた。 「でも…迷惑」 「そんなことないよ、俺が一緒に食べたいんだ。いいかな…?」 ふるる…っと首を振るのを強く誘って座らせれば、ウルツキーの方が鼻白んだように席を立った。 「君らしくないぞ、コンラート…」 「だとすれば、君が思っているような自分は好きになれそうにないね」 「…っ!」 クールで、人に想いを向けられることはあっても、自分から積極的に出ることのないコンラートに、《至高の存在》という幻想を抱く者は多い。ウルツキーはその傾向が特に強かったせいか、かなり失望させてしまったようだ。 「ごめんなさい…」 自分のせいかと不安になったらしい有利がおろおろと狼狽えるが、これにはくすくす笑いながら女性達が援護してくれた。 「ウルツキーったら、ちょっと変なのよ」 「そうそう、コンラートの崇拝者は多いけど、ちょっと度が過ぎてるもの。ね、坊や…ここで一緒に食事しましょう?」 双子の女生徒、マリアとルチアは微笑みながら有利を促すと、その前に自分のトレイからサンドイッチやら果物を取り分けていく。 「ありがとう」 「ま…可愛いっ!」 最初はコンラートに気に入られる為に好意的な対応をしていたのかも知れないが、はにかむように有利が《Danke schon.》と口にすると、ほわ…っと二人の顔がほころぶ。 一瞬にして、驚くほど有利を見守る周囲の視線が和らいだ。 『不思議な子だ…』 ウルツキーには共感出来なかったようだが、有利には頑なな者もやさしい気持ちにさせる事が出来るらしい。 すっかり彼を気に入ったらしいマリアとルチアは、まるでちいさなお人形さんでも扱うみたいに猫っ可愛がりを始めた。 「うふふ…東洋人ってお肌つやつやなのねぇ…羨ましいわ!えい、撫でちゃえっ!」 「やだ、マリアったらユーリを苛めてはダメよ?ほーら、ユーリちゃん…お姉さんのスプーンからヨーグルトをおあがり?」 「わう…っ」 目を白黒させて戸惑っている有利にみんなくすくす笑っていたが、どうしてだかそれが苛立たしくて…コンラートはマリアとルチアの間に座らされた有利を自分の脇に移動させた。 「俺が食べさせてあげる」 「え?え?」 先程以上に目を見開いて驚いている有利は実に可愛くて、独占出来る喜びに胸がわくわくしてしまう。 なるほど…マリアとルチアが楽しそうに構っていたわけだ。 「はい、あーん…」 「コンラッド…意地悪……っ!」 カットした果物をフォークの先に差して笑顔で促すと、有利は顔を真っ赤にして日本語で叫んだ。 コンラートを責めるドイツ語までは覚えてこなかったらしい。 * * * 『コンラートが日本からの留学生を溺愛しているらしい』 その噂はあっという間にゲルツヴァルト中に伝わった。 特に寮生の中には《お兄様》と憧憬を抱いている者が多かったので、東洋の島国からやってきた猿がコンラートに取り入ろうとしているのではないかと懸念して、怪しげな検討会議をしているともっぱらの噂だ。 一方で、有利のことを暖かく受け止めている一団もある。 昨日有利に助けられた少女…エルザとその友人達だ。 彼女たちはこのゲルツヴォルトの中等科に所属する生徒であり、寮生でもある。 ただ、寮生とは言っても科ごとに棟が別れている為、昨夜の内に会うことは出来なかったのだが、コンラートに関わる噂がその日の内に流布していったことから、エルザ達はドタバタしている内に連絡先を聞き損ねた恩人の為にと立ち上がったのである。 有利のことを悪く言う者に出くわすたびに、力強くその噂を否定して回った。 その日の夕刻も、寮に戻る道すがら…往来で有利のことを悪し様に言っていた同級生を捕まえると、エルザは憤りを込めて吠え立てた。 「ユーリはとっても良い子なのよ!ねぇ、あなただったら言葉も分からない異国地の地で、誤解を招くことも恐れず、見ず知らずの女の子を助けることが出来て?」 「う…」 友人達も挙って援護射撃をしてくれた。 「そうよそうよ!しかもユーリは、エルザとのことは《道案内をしてくれた》って、自分の功にもせずに引率教師に伝えたそうよ?きっと、本当のことを話したらエルザが恥ずかしい思いをすると懸念したに違いないわ」 「素晴らしいわ…ユーリこそ、真の紳士よ!」 エルザは昨日こそ困り切って泣きそうな顔をしていたが、元々はこの通り気の強い少女なのだ。ただ、元気がありすぎるせいなのかなんなのか、実は昨日…初めて生理というものを体験した。 そう、遅く訪れた初潮だったのである。 服が汚れていることに気が付くまで自分の体に何が起こっているのかも分からず、分かったら分かったで初めての事態…それも、一人きりという状況に動揺してしまって、へたり込んでしまいそうになった。 いつか来るとは思いつつも、何も日中に突然来なくても…と、途方に暮れていたら見ず知らずの外国人が、不器用ながら救いの手を差し伸べてくれたのだ。 この恩義、如何様にして返して良いか分からないくらいだ。 そんなわけで、使命感に燃えたエルザと友人達とが懸命の宣伝作戦を展開した為に、寮に於ける有利達の歓迎会(昨夜は移動日ということで設定していなかったのだ)では、表だって有利達に悪い顔をする者はいなかった。 だが…どこにでも陰に籠もる者というのはいるものである。 寮の食堂で有利達を見守る寮生の中には、じっとりとした視線を送る者も居た。 * * * 「気に入らないな…」 「ああ」 食堂入り口の通路から覗き込んでいるのは、今朝方カフェテリアで揉めたウルツキーと、やはりコンラートに過度の崇拝を向ける高校生のオルテックであった。 少し光沢を失った木製の手摺りに手を添えると、破壊せんばかりの力で握りしめる。 「コンラートもコンラートだ!あんな東洋人に媚びるなんて、彼らしくない」 「そうですよ、ウルツキー先輩…コンラート先輩は誰のものでもないからこそ、崇高に輝く事が出来るんですよね?」 「ああ…彼の輝く銀の光彩は、微笑んでいてすらも何処か冷たく瞬くからこそ神秘的で…凍てつく氷像のような美しさを呈するんだよ」 「思い知らせてやるべきかも知れませんね…」 オルテックは癖の強い巻き髪を掻き上げると、その華麗な髪型とは不釣り合いなほど鰓の張った顎で嗤った。鼻も口も…肉体の方も何もかもがごついのに、身につけている者はレース付きのふりふりとしたシャツであることから、彼の美意識というものが少々歪んでいることが分かる。 ひょっとすると、こういう服を着てもそれなりに似合ってしまいそうなコンラートに、そういう意味でも憧憬を覚えているのかも知れない(絶対に着ないだろうが…) 「目立つようには出来ないぞ?奴め…上手くやったおかげで、中等科の方ではちょっとした英雄扱いだ。あのこまっしゃくれたエルザの奴が賞賛して回ってるからな」 「ええ、どうしたものか…コンラート先輩もえらくあの猿を気に入っているらしいですからね」 《くっ》…と噛みしめられた歯列が、今ここに有利が居たなら噛みついてやりたいとでも言いたげだ。 「ですが…幸い、僕はあいつと同じ寮棟で、殆ど部屋も違いません…何か上手いことを言って…そうですね、《友好を深めよう》とでも言って部屋に誘い込めば、色々と出来そうですよ?」 「同室者はどうする?」 「ドンクが言うもんですか。あいつは日和見な小心者だ…。僕が強く言いつけておけば、ちゃんと協力だってしてくれるはずですよ?」 「ふむ…」 にやにやといやらしい笑みを交わす二人は、食堂がど…っと湧いたのに眉を顰めた。 有利を中心にして笑いの輪が広がっているのだ。 「くそ…あいつめ」 「さっきまで僕と一緒にあの猿を馬鹿にしていた奴まで楽しそうな顔をしてやがる。…くそ、裏切り者め…っ!」 「ああ…っ!コンラート先輩ときたら…一体どうしたっていうんだ?あんな笑い方をする人ではないのにっ!腹を抱えて爆笑するなんてっ!な…なんて下品なんだ!」 嫌っていたはずの者さえも共に笑い合える性質…普段は誰に対しても心を開かない者が、自然に馴染むことの出来る性質…それがどんなものであるのかには想像の翼を羽ばたかせることなく、二人は自分たちの倫理感の枠内でのみ通用する《正義感》によって、強く憤った。 * * * 「やあ、ユーリ…良かったら、僕の部屋に来ないかい?」 「え?」 有利は寮棟に宛われた大部屋でシャワーを浴びた後、眠りに就くまでの一時を同じ高校の同行者達と過ごしていたのだが…扉をノックして現れた男に思わぬ誘いを掛けられてきょとんとした。 顔立ちがごついのに、ネグリジェのようなふりふりの寝間着を着ているのも奇妙だ。 「おお、渋谷…凄いじゃないか!たった二日でモテモテだな」 「渋谷君、本当に凄いわ…!最初は英語だって苦手なのに、どうするんだろうって心配してたのに…」 「俺達、完敗だな」 棚田先生や、同行者の秋山や須々田も感心しきっている。 『勝った負けたとかでもない気がするけど…』 正直、有利が一番今の状況に驚いているのだ。 見ず知らずの生徒達が、エルザの話を聞いて《凄く良い子》という印象を持ってくれているらしく、とても親切にしてくれる。 その恩恵を受けて、《日本人はやさしい》というイメージを持たれた同行者達はすっかり昨日の迷子事件など帳消しにしてくれたらしく、えらく寛大な態度を取ってくれた。 「友好を深める為だ。行っておいで」 「でも…」 「いいからいいから!遠慮するな!」 実のところ、先程の歓迎会で意気投合した生徒ならともかく、全く見覚えのない生徒に誘われたのでは流石の有利も戸惑ってしまう。 それに…何となく彼の笑顔は腹に一物持つ者のそれであるように思えるのだ。 なのに、妙に友好活動に積極的になった同行者達に半ば閉め出されるようにして、男の手に身柄を委ねられてしまった。 消灯時間を過ぎていることから、廊下の電気は薄暗く…建物が古めかしい佇まいで在ることも手伝って、有利は酷く心細い心地になった。 「さあ、行こうか…ユーリ」 「いや…俺……」 肩を掴まれて逃げようとするのだが、名の知らぬ男の腕はやけに強く有利を拘束してきて…無理矢理に連れて行かれそうになる。 いやいやするように暴れようとしても、身動ぐことも出来なかった。 「困る…も、寝る…眠い」 「なに、眠くなったら僕の部屋で寝たらいいさ」 辿々しいドイツ語で抗弁するものの、男は笑い飛ばしてぐいぐいと有利を連れていく。 しかし、そんな二人に突然声を掛けてくる者があった。 「困るな…ユーリには先約があるんだよ?」 「え……っ!?」 男は愕然として身を硬直させた。 そこにいたのは…コンラートだったのである。 「こ…コンラート先輩?どうしてここに…」 「俺がユーリを先に誘っていたんだよ。ね…?ユーリ」 コンラートはにっこりと微笑むと、素早く有利の身体を巻き取るようにして腕の中に移動させてしまう。素晴らしい早業である。 「う…うん…!?」 よく分からないながらも、同意を得るようにコンラートが見詰めてくるから…有利は頬を染めてこくこくと頷いた。 嫌な感じのする見覚えのない男に連れて行かれるより、コンラートの誘いに乗る方が遙かに素敵だからだ。 「でもっ!コンラート先輩は棟が違うじゃないですか!?先輩はアビトゥーア試験車専用の個室で…連れ込みは禁止で…っ!」 「寮監には既に話をつけてある。大体、連れ込みというのは異性相手の話だろう?俺は同性の、異国からの友を招こうと言うんだ。何か文句でもあるのかい?」 す…っと、コンラートの纏う気配が冷たいものになる。 ちらりと見上げた先では、《俺が向けられたら死にたくなる》と思えるほど冷え切った眼差しが、切れそうな鋭利さを込めて男に向けられていた。 「う…あ……」 男は真っ青になって頷くと、すごすごと帰っていく。 多分…今日のことは、彼の中でトラウマになるのではないだろうか? その姿が扉の向こうに見えなくなって、ほっと息をついていたら…背後からコンラートが囁きかけてきた。 「…どうする?部屋に帰る?」 日本語なので意味は分かるのだが、意図は分からない。 「え?」 「あのね…さっきの奴が君をからかう為に、よからぬ事を考えているのでは…とね、忠告してくれた奴が居るんだよ。それで心配になって来てみたんだけど…友達や先生の部屋で眠りたかったら、そうしても良いよ?」 「コンラッドさんは?」 「ん?」 「コンラッドさんが…迷惑でないなら、俺…いっぱい喋りたいことがあるんだけど…」 「そう…?」 ふわ…っと、少し心許なさそうにしていたコンラートの瞳が輝き、華のように美しい笑みを湛える。 「嬉しいな」 「お…俺こそ…っ!」 この人に憧れている者が、この寮…いや、学園にはわんさかいるらしい。 まさにゲルツヴァルトの王子様なのだ。 そんな人に、《嬉しい》と微笑まれて正気でいられる者なんているんだろうか? 取りあえず…有利には無理な話であった。 |