「王子様といっしょ」−3 ポ…っ ポポ…ポ…っ 焼け付いたアスファルトに点々と模様が散ったかと思うと、乾いた灰色はあっという間に濡墨色に変わる。鼻の奥には湿った匂いがくぐもり、雨なんだか蒸気なんだか分からないような大気が全身を包み込んだ。 ドドド……っ! 水盥をひっくり返したような夕立は、うだるように暑かった大気の熱を含んでいるせいか、生ぬるくて、大粒で、痛いくらいの勢いで薄着の肌を叩いていく。こうなるともう、傘を持っていなかったこと等どうでも良くなってきて、有利は笑いながら両手を天に翳した。濡れたシャツから覗く腕はすんなりとしていて、良く日に灼けた肌がぬめるような光沢を持つ。 「あはははっ!すっげぇ雨!」 「まるでスコールだね」 熱帯雨林気候も体験しているコンラート・ウェラーも、濡れてしまうことに頓着する様子はない。仕立ての良いシャツがずぶ濡れになっても、心地よさそうに雨に打たれている。 「無理に買い物しなくて良かったね」 「確かに」 今日は特に目的もなく街に出てきて、ぶらぶらしながら店舗を回ったり、ゲームセンターでクレーンゲームをやったりしていた。実はクレーンゲームでは人形を手に入れていたのだけど、狙っていたのとは違うのをゲットしてしまったので、羨ましそうな顔をしていた子どもにあげたのだった。 おかげさまでポケットに小さな財布をだけ入れたの、ほぼ手ぶら状態の二人は、走るのも諦め、濡れるに任せて歩いていった。こうなったらいっそ、どこまで濡れるか試してみたいくらいだ。 ぐしゃ じゃぶ じゃぼんっ 一歩踏み出すたびに靴の中に入ってきた水がぶがぶがと音を立て、大きな水溜まりに入り込んでばしゃりと飛沫を跳ね返す。なんだか口元が緩んできて、やたらと楽しくてしょうがない。弾けるような笑いが口元から飛び出してきた。 * * * 無邪気に大雨を楽しむ有利とは対照的に、コンラートの方は少し困った事態に陥っていた。大体察せられることと思うが…そう……。 『透けてるんだけど…』 つい先日には一緒にプールにも行ったというのに、どうして濡れたシャツが身体にへばりついて、ラインが露わになっているだけで焦らなくてはならないのか。 コンラートはちょっぴり遠い目になってしまった。 《氷の王子様》なんて不本意な通り名を懐かしむつもりはないが、もうちょっとこう、冷静に事を運べないものだろうか?有利の一挙手一投足にドキドキして、不審なほど動揺してしまうなんて、少々情けなくはないか。 コンラートは内心の動揺を隠そうと濡れた髪を掻き上げ、水滴の乗る長い睫をふるった。ぽたぽたと滴る雫が宙に跳ね、頬や顎を伝い流れていく。襟元に流れ込んだ水滴を指先で払うと、シャツのボタンがひとつ外れて鎖骨が露わになった。 すぐ隣で、有利が息を呑むのが分かる。 何かあったのだろうかと視線を送るが、途端にふぃっと顔を伏せてしまう。心なしか耳が赤いのは気のせいだろうか? 「コンラッド」 「なに?」 俯いているせいで、有利がどんな表情をしているかは分からない。ただ、声の調子から見てちょっと言いにくそうにしているのは分かる。 『拙い…バレたか?』 こっそりガン見していたのを知られたのだろうかと疑い、ひやりと背筋が冷える。けれどぽそぽそと呟く有利の声は、予想外の内容を伝えた。 「早く帰ろう。少し走っても良い?」 「あ…あ。そうだね」 さっきまで楽しそうにはしゃいでいたのにどうしたことだろう?もしかして、段々身体が冷えてきたのだろうか? 「ここからだと俺の家の方が早いよ。寄っていくかい?」 「………うん。お願い」 雨を楽しんでいたはずの有利が、どこか思い詰めたような表情で歩速を早めるから、コンラートも大急ぎでマンションを目指した。 * * * ポタ…ポッ…… シンプルだが、上質な素材を用いたエントランスに、申し訳ないくらいの水滴が滴っていく。あっという間に色を変えたブルーグレーの床材に、有利は焦ったような顔をしていた。 「ゴメン…びしょ濡れだ」 「今日出かけてた連中はみんな一緒だろう?気にしないで、早くおいで」 無意識に有利の手を取ってエレベーターへと促す。密閉された箱の中で、ウィィン…という低く唸るような機械音と、微かな浮上感が伝わってきた。普段はなにかとお喋りな有利が黙っていると、コンラートも自然と無言になる。《何か気の利いたことを話さなくては》と思うと、余計に意識してしまうようだ。 『俺は…こんなに青臭い男だっただろうか?』 結構、ショックかも知れない。 ポタ… 少し俯いた有利の髪はカラスの濡れ羽色を呈し、幾つかの毛束が水分で固まっている。その毛先は鋭利な刃物みたいに収束して、その切っ先に次々と水滴が溜まっていった。次々にティアドロップ型を形成して、ポチョンと切り離された瞬間、球体を為す水の粒。敢えてそこにばかり意識を遣っていたら、独特の浮遊感が一際強まり、消え、エレベーターが停まった。 「あ…」 その瞬間、有利の上げた眼差しがどこか不安そうに揺れたから、コンラートは驚いた顔をしたのだろう。それに有利も気付いたようで、桜色の唇からちいさく声が漏れた。 「どうかしたの?」 「…なんでもない」 ふるふると首を振ると、小犬が濡れた毛皮をふるうみたいな要領で水滴が散る。それくらい慌ただしげな動きだった。 『どうしたのかな?』 先程から少しずつなのだが何かが彼とずれてしまって、不安に思ったり、思わせたりしているような気がする。けれどそれが何なのか分からなくて余計に苛立ってしまうようだ。 これはなんなのだろう? 折角のデートだというのに、急な雨で濡れてしまったことが不満なのか? いいや、そんな雨さえも二人は楽しんでいたはずだ。少なくとも、有利は肌を打つような土砂降りを楽しそうに全身で受け止め、歓声を上げていたではないか。 困り顔のコンラートに向かって、有利が思い詰めたような顔を向けた。 「コンラッド…あ、あのさ…。恋人って、その…身体とか触っても良いんだよね?」 「え?」 「あ…。夜じゃないとやっぱり駄目なのかな!?日中は拙いっ!?」 それはコンラートの欲望の話ではなくて、ひょっとして…。 『ユーリが俺に…触りたいのか!?』 心底驚いたのだが、思い詰めたのかパニックを起こしているのか、おろおろした風情の有利にあまり動揺を知られたくない。コンラートはにっこりと微笑むと、爽やか極まりない声で何でもないことのように言った。 「いつでもどこでもたくさん触って?だって、俺はユーリのものだろう?」 ぽんっ!と音がしそうなほど真っ赤になった有利が可愛くて堪らない。どうやら、先程から不審な態度を示していたのは、濡れたコンラートの肢体に興奮するあまり、どうして良いのか分からなくなっていたらしい。 「ユーリも、俺のものだよね?」 「うんっ!」 こくこくと勢い良く頷けば、また小犬が毛を震ったみたいに雨粒が散った。 * * * 『ふわぁ…勇気を出して言ってみるモンだなぁ!』 シャワーを浴びた後にアイスティーも出して貰ったのだが、それを飲むのもそこそこに、有利は許しを得た《お触り》に挑戦していた。 今まで男の身体を触りたいなんて思ったことはついぞ無かったし、コンラートに対してもそういう意識は無かったように思うのだが、多分、夏という気候の中で薄着になったことに加えて、突然の雨で濡れてしまったことでコンラートの身体のラインが露わになったのが決め手だったようだ。 『あ、でも立派な筋肉とかは前から触りたいとか思ってたっけ』 野球教室で憧れの選手の力こぶを触らせて貰ったのは、今でも鮮明に覚えている。 『うーん…でもでも、やっぱコンラッドに触りたいっていうのはなんか違う気がする』 わくわくするのは一緒だけれど、健全なだけではない色香のようなものを感じてるいるのは確かだ。 『でも、村田が言ってたみたいなディープなホモ行為がしたいってわけじゃ…ナイ…よな?』 何故か自問自答しながらコンラートの胸板や腹筋に手を伸ばすと、新しいシャツ越しに逞しい筋腹を触れる。思っていたよりも更に逞しい体つきは、無駄なものを削ぎ落としたようにしなやかで綺麗だった。くっきりとした鎖骨にも指を這わせてみれば、少し困ったようにコンラートが目を眇める。 「くすぐったい?ゴメンな」 「ううん、平気だよ。だから…俺も、触らせて?」 「粗末なモノですが、どうぞどうぞ」 ご贈答品のように胸を差し出すと、コンラートに比べたらかなり貧相と思われるそこを、意外と楽しそうに触っている。 「俺のはいまいちだから、つまんなくね?」 「そんなことないよ。濡れてる身体にも、見惚れてしまったもの」 「またまたぁ…冗談ばっかし!」 「君にこんな冗談なんか、言わないよ?」 存外真面目な顔が有利を見つめていて、視線を逸らせずにいたら、シャツの上から胸の尖りをきゅっと摘まれた。 「…っ!?そこっ!」 「嫌?」 「そういうわけじゃないけど…何か、変な感じ」 ふに…くに。 緩やかな刺激は、それでもちいさな粒を硬くしていく。普段は意識したこともない場所を摘まれていることに、有利は居心地の悪さを覚えて頬を染めた。 「…直接触れても良い?」 「えっ!?」 ぷつんとボタンを3つばかり外されて、露わになった胸に小さな尖りがぽつんと浮いていた。いつもより濃いような気がするピンクが、変にいやらしげに見えて頭に血が上っていく。 何故だか、それ以上許したらとんでもないところに脚を踏み込んでしまいそうな気がして、気が付いたらコンラートの指を両手で防いでいた。 「嫌じゃないんだ。嫌じゃないんだ…!」 「ユーリ…」 馬鹿みたいに同じ事を繰り返しながら、有利はなんだか泣きたいような気持ちでコンラートの手を頬に寄せていく。求められたことを拒んで、傷つけてしまったような気がして、それが酷く…辛い。 「ゴメン…」 ぽろりと零れてきた雫をコンラートの指が受け止めて、優しく頬を拭ってくれるから、その仕草にまた涙が溢れてしまう。自分の方から《触りたい》と言い出した癖に、思いがけない場所を少し弄られただけで不安を覚える自分が、酷く子どもに思えて悔しかった。 今更のように、村田や家族に対して自信満々に《コンラートは俺の恋人》なんて言ったのが恥ずかしくなる。自分はひょっとして、大切なことを何も知らずにいるのではないだろうか? けれど、コンラートは拒まれたことに傷ついたふうもなく、柔らかな笑顔を浮かべ続けている。 「ね…ユーリ。俺は、焦らないよ?」 「コンラッド…」 「本当は、時々焦る気持ちもあるんだけど…」 そう言った時だけ、ちょっとはにかむようだった。普段は大人びて、何もかもリードしてくれる彼の中にも、やはり葛藤はあるのだろうか。 「少しずつやっていこうと思う。君と、ちゃんと恋人でいたいから」 「…コンラッドは、俺のことどんな風に触りたい?」 「そうだね。多分…ユーリがいま思っているのより、もっと生々しい意味で触れたいと思っているんだと思うよ」 「村田が…言ってたくらい?」 この上品な青年が、高校生男子の尻に挿れたいなんて本当に思うのだろうか?ドキドキしながら答えを待っていると、コンラートは思案してからゆっくりと頷いた。 正直なところ、結構なショックだ。 「どうしてもユーリに抵抗感があれば、しない。実際、アナルセックスは同性カップルの絶対的な性交というわけではないし、俺は君に挿れたいとは思っても、挿れられたいと思わないから、一方的に負担を押しつけるのは心苦しいし。ただ…それでも、直接肉体を擦り合って、君をイかせたいと思うし、君に触れながらイきたい。プラトニックを貫くには、俺は欲が深すぎる」 「そ…そっか……」 心なしか青ざめてしまう有利の髪を撫でつけ、コンラートは少し淋しそうに笑う。 「俺のこと、怖くなった?」 《そんなことない》と即答すれば良かったのだろうけど、言いにくかったろうに、正直な想いを告げてくれたコンラートに対して、いい加減な反応をするのは逆に失礼だろうと思った。 「怖いのは、怖い。だけどコンラッドが怖いと言うより、多分…俺が知らないことが怖いんだと思う」 有利が《男同士の恋人》がどんなものなのかと持っていたイメージは、頑張れば飛び越えられるくらいの小さな段差程度のものだったらしい。実際にはどれだけの深みであるのかその底を知ることも出来なくて、正体が分からないことに怯えているんだろう。 「でも少なくとも、俺はあんたと触れ合いたいって気持ちだけは本当だよ?だから…どういうことをするのか、教えてくれる?」 「ユーリ…」 コンラートはパソコンを起動させると、幾つかのホームページを開いてから、医療系の真面目な雰囲気を持ったパステルカラーの画面を見せてくれた。男同士の恋愛を殊更刺激的に取り扱ったものではなくて、普通の男同士が恋に落ちて、性生活だけではなくてどうやって暮らしていくのか、様々な分野の話がイラストつきで簡潔にまとめてあった。そこにはコンラートが言っていたように、性生活の中にも色んな選択肢があること、注意しなくてはならない感染症などについても述べられている。 『このホームページを作った人は、どんな気持ちでいたんだろう?』 きっと、その人も元々こういう嗜好を持っているのか、あるいは、有利たちのようにたまたま愛した人が同性だったのか、色んな事情はあるのだろうけれど、ページから伝わってくるのは、やはり未だマイノリティである同性愛者が、どうにかして一人でも多く幸せに生きて欲しいという願いだった。 『俺は…差別、してたかな』 コンラートのことは愛しているけれど、それは本格的なホモセクシャルではなくて、どこか《特別》な何かなのだと思いこんでいなかったろうか。それはそれで構わないだろうけれど、そのせいで《本格的なホモセクシャル》を一段低く見ていたとしたら、それはとても下らない差別だったろうと思う。 ひいては、有利に触れたいと思っていたコンラートの想いも、踏み躙っていたのかも知れない。 「あのさ…コンラッド。俺…今すぐにはできないかもしんない。だけど…やっぱ、誰よりもあんたの傍に居たいし、なんかの形であんたに触れ合っていたい。だから、少しだけ待ってくれる?」 「良いよ」 《何時まで》とも聞かず、コンラートは優しく微笑んで請け負ってくれる。この人に、ちゃんと応えたい。いつか…遠くない未来に、必ず。 |