「お伽噺を君に」
第7話









 くるくるくるくる…
 
 目が回っては転び、疲れては転びしているうちに、有利は時間感覚も無くなってきた。
 
『ふぇ〜…これ、何時になったら糸口が掴めるんだろう?』

 綾布のような壁面なので、もしかして文字通り《糸口》があるのでないかと思ったのだが、月明かりのように薄ぼんやりとした明かりしかないせいもあって、全くほつれを発見することは出来なかった。

 コンラートも有利を一人で疲れさせるのが悪いと思ったのか、かなり早い段階でポケットから飛び出して一緒になって走ったり壁面の観察をしてくれたのだが、やはり何も見つからなかった。

「ふう…実にきっちりと織り込まれていますね。見事な綾錦です」
「そうだよね。明るいところで見たら綺麗だろうな〜」

 うっすらとした明かりの中で賞賛すると、心なしか壁が揺れたような気がした。まるで、照れているみたいだ。

「そうだ、ユーリ。俺の剣で刺してみて、一部を開いてみましょうか?」
「え?」

 それは確かに突破口を開く切っ掛けとなるかもしれない。だが、コンラートが剣を綾布に押しつけると、布地が微かに緊張したような気がした。まるで、傷つけられることに怯えるみたいに。

「や…め、とこうか」

 コンラートの刃先が今まさに糸を断ち切ろうとしたその時、有利は手を伸ばして剣を止めた。

「そうですか?」
「うん。だってこんなに綺麗な布だもん。切ったりしたら勿体ないよ」
 
 綾布の折り目を確かめるように優しく撫でつけてやると、ふるる…っと布地が揺れて赤みを増したように感じられる。その様子に、コンラートも気付いたようだ。

「ああ、このように美しい綾布ですものね」
「うんうん、本当に綺麗だよね。でも、折角だから明るいところで見てみたいなぁ〜」

 コンラートの言葉に有利が本心から同意すると、途端に、ふわぁ…っと蓮華の花弁が開くようにして綾布が解ける。頭上を見あげれば、先程まで閉ざされていた天上にはぽっかりと明るい月が掛かっていた。外界はもう夜になっていたのか。そう言えばお腹が空いてきた。

 綾布はくるくると回転して小さな珠に変わると、有利の手の中にぽぅんと乗っかって、愛おしそうに擦り寄ってきた。綺麗な網紐を巻き付けた姿は、非常に精度の高いストラップみたいだ。

「ああ、やっぱり。明るいトコで見てもすごい綺麗だね」

 褒めると、また嬉しげに手の中で弾む。

「ふむふむ。あの短時間でもう綾珠を手懐けたか。流石だの」

 言われて傍らを見やると、藁葺き屋根の縁側でお茶を啜っていたロカが、目を細めてこちらを見ていた。ボブはハイヤーで帰ったのか、姿が見えない。彼には彼の仕事があるのだろう。

「あちらの眼鏡どもは相当に苦戦しておるようだ。激しく攻撃したせいで、綾珠達の怒りを買ってもおるようだしな。特に外国人眼鏡はなまじ魔力が強いものだから、綾珠を切り裂いて出ようとしたので儂が気絶させておいた」
「え…?」

 言われて縁側の奥を見ると、ヴィクサムがすっかり伸びていた。その横ではやはり鞠のストラップのようになった物が、意識のない青年にガスガスとぶつかっている。
 一方、庭では大きな綾珠が少しだけ宙に浮かんでくるくると回転したり、時折左右に揺れたりしている。村田と勝利が何とかして出ようとしているのだろう。

「ま、あの連中の試練は儒子に与えたののついでのようなものだからな。そろそろ開放してやるか」

ロカがぱちりと指を鳴らすと、大きな綾珠はふわりと解けてから回転し、やはり小さな紐付き珠になってロカの懐へと吸い込まれていった。だが、有利の掌の中に収まったものだけは、迷うようにころころと転がっている。

「その綾珠はどうやら儒子に懐いたらしい。邪魔でなければ持っておいても良いぞ」
「ありがたゃーす!」

 また元気よく御礼を言ってから綾珠を撫でると、嬉しそうにぽんぽんと弾んだ。

「この子には名前があるんですか?」
「まとめて綾珠と呼んでいるが、個別の名というのは無いな」
「じゃあ、アヤでどう?」

 安直なネーミングにも関わらず、アヤはぽぅん跳ねて喜びを表した。



*  *  * 




『恥ずかしい目に遭ってしまった…』

 ヴィクサムは正しい解決策を採ることなく焦った上に、妖狐蘆花の電撃で伸びてしまった。数百年を生きる妖狐相手だから力の差は仕方ないにしても、有利の前で失態を晒したのは何とも気恥ずかしい。

「ヴィー、大丈夫?もう痛くない?」
「ああ、平気だよ」

 畳の上で伸びていたヴィクサムは、心配そうに覗き込む有利に笑いながら手を振ったが、起きあがった途端に右肩に痛みを感じて表情を歪めた。

「…っ!」
「まだ寝てた方が良いんじゃない?御飯運んで来ようか?」
「い、いや…大丈夫」

 これ以上情けないところを見られては堪らない。
 有利をお嫁さんに貰うどころか、嫁に行った方が良いのではないかと言われそうだ。

 ヴィクサムは左手の掌を右肩に押しつけると、意識を集中させて楽しいことを考えた。勿論、有利との新婚生活だ。
 仕事を終えて帰ってくると、タンクトップに短パンという出で立ちで、新妻らしい淡いピンクか純白のエプロンを身につけた有利が玄関まで出迎えてくれてこう聞くのだ。

『ヴィー、お風呂にする?晩飯にする?それとも…』

 頬を染めて上目遣いに覗き込む瞳は、二つの選択肢を出しながらも、三つ目を期待しているみたいにキラキラと輝くのだ。

『それとも…ここで俺を、食べちゃう?』

 下着ごと短パンをするりと脱いで傍らにやれば、ふりふりのエプロンの裾野からはすらりとした生足が覗き、指先でちょいと摘んだエプロンがゆっくりと上がっていけば、魅惑の花園がそこにある。我慢の利かなくなったヴィクサムは、右腕を伸ばして細腰を抱え込み、ふかふかとした玄関マットの上で新妻の秘所を暴くのだ。

 《むはーっ!》と言いたくなるような妄想をしていると、一気に右肩へと熱が集まって(下半身に集まりそうになるのを、魔力で直したい箇所に持ってくるのである)、見る間に痛みが消えていく。

「それって自分で自分の身体を治してるの?」
「ああ、そうだよ。人に対して使う事も出来るんだ。ユーリの膝も見せて御覧?」
「こう?」

 綾錦の珠の中で転びでもしたのか、有利の膝からはうっすらと血が滲み出していた。ヴィクサムが掌を乗せると、有利に呼びかけた。

「何か楽しいことを想像して御覧?特に、この傷が治ると良いなと思うようなことをね」
「ふぅん。えと…じゃあ、明日の朝のランニングで痛まないとかかなー」

 有利は瞼を閉じてランニングしている自分を想像しているのか、無意識に《おいっちに、おいっちに》と脚が交互に動いてしまう。あまりにも可愛い仕草に、ヴィクサムはまたしても悶絶しそうになってた。

『ちょっとだけ、お味見を…』

 そそ…っと目を閉じた有利の唇へと自分のそれを寄せていけば、またしても邪魔者が入る。しかも、今度は二重奏で鼻っ柱と上唇を叩かれてしまった。

「…っ!?」

 身を退けると、そこにいたのはいつもの銀細工騎士と小さな綾珠であった。どうやら後者の方は、新たに有利の守護者を自認している妖怪のようだ。

『く…っ!そうか。要素の凝集体のような妖怪は、ユーリを強引に手に入れようとする輩だけではなく、自然と引き寄せられて惚れ込んでしまう者もいるのか』

 世界には《妖怪》《精霊》といった形で伝承に残されている存在がいる。その殆どはお伽噺の中に登場する架空の存在に過ぎないが、中には自然の要素が長い年月を掛けたり、何かの切っ掛けで凝集して自由意志を持つに至った者もいる。

 彼らの一部は異世界からやってきた魔族と敵対する場合もあるが、礼を尽くせば逆に味方をしてくれたり、稀に忠誠を尽くすこともある。

 妖狐である蘆花は忠誠と言うよりボブの個人的な知り合いという感じだったが、この綾珠の方はすっかり有利に惚れ込んでいるようで、衛星軌道上を回る月のようにくるくると有利のまわりを周回していた。

「コンラッド、アヤ、駄目だよ。ヴィーは治療をしてくれたんだからね?ポケットに戻って?」
「しかしユーリ、こいつはユーリの唇を狙っていたんですよ?」
「え?マジ?」
「いやいや、睫に綿埃がついていたから、取ってあげようと思ったんだよ」
「…本当?」

 じぃ…っと上目遣いに見つめられると、背筋に変な汗が流れていく。
 この少年に嘘をつくのは、何故だかヴィクサムには躊躇われるらしい。

「…嘘デス」
「もー、あんたってばそういうコトしなきゃ本当にいい人なんだけどなー」

 ぷくっと頬を膨らませてそう言う愛らしすぎる少年に、《そういうコトしない》のはなかなかの難事であった。



*  *  * 




 夜になると、茅葺き屋根の一室に蚊帳が吊られて、その中にそれぞれ布団を敷いて寝ることになった。この家屋の規模にしてはやけに部屋数が多かったり、ふくふくとした布団が人数分揃っているというのも、もしかすると妖怪の仕業なのかもしれない。

 お伽噺みたいに、ご馳走が葉っぱでお風呂が肥だめなんて事ではないと良いのだが…。

 有利は浴衣姿でころんと横たわると、裾野を割って擦り剥いていたはずの膝を確認した。そこは綺麗に治って、殆ど跡が残っていない。

「ヴィーがやってた治癒の力って、俺でも使えるようになるかな?」
「ユーリが戦闘系と治癒系のどちらに向いているかは分かりませんが、きっと出来るようになりますよ。ただ、あまり無理をしないで欲しいな」

 夜目にも眩しい白い腿を悩ましく感じながら、コンラートは枕元でそっと囁いた。治癒の技を使いすぎて亡くなったスザナ・ジュリアのことが思い出されて胸が痛むからだ。
 有利にもそれは伝わったのか、コンラートの兜を指先で撫でて漆黒の瞳を淡く濡らす。

「そうだよなコンラッドの一番大事だった友達の魂が、今は俺の魂なんだよな」
「ジュリアの死は悔いなく生ききった結果ですし、ユーリが誰かを癒したいと思ったら、てこでもやってしまうでしょうけれど…どうか、その時には俺のことを思い出して下さい。あなた無しで生きていくことは、俺にとっては地獄です」
「コンラッド…」

 自ら死を選ぼうとは思わない。それは命を汚すことになり、二度と転生することを許されないと言われているからだ。コンラッドの場合は、そもそも生き霊なのでどう死んで良いのか分からないというのもあるが…。

「でも俺、コンラッドがもしも大怪我なんかしたら、きっと我慢できないと思う」
「俺だって、俺のせいであなたを命に危機に晒すなんて我慢できませんよ?」
「じゃあ、コンラッドも俺が死にそうになるくらいの大怪我なんかしないでくれよ?」
「ええ、約束です」

 二人とも、それが叶えられる可能性の低そうな約束だとは知っている。だけど、宵闇の中で見つめ合う間だけでも、約束を交わさずにはいられなかった。

「約束…」

 伸ばした小指の先に銀細工の腕が回されるのを感じながら、有利は健やかな眠りについた。



*  *  * 


  


 翌朝、食事を採った後で着替えさせられたのは、如何にも《滝に打たれます》と言いたげな白い修験服だった。有利が着こんで別室から出てくると、やけに勝利とヴィクサムのテンションが高い。

「ほっほぉ〜…これはなかなか」
「うむうむ。修験服とは言っても、どこか巫女さんのような風情があって良いな。ん?結構薄手だな。濡れたらぴったりと張り付いてしまうな」
「おやショーリ、こんな霊域で携帯なんか持ってどうしたいんだい?明らかに圏外だろう?」
「そういうあんたこそ、どうして小型カメラなんか持ってるんだ?濡れたら大変だろう?」

 牽制し合うが、どこか価値観が似通っているらしい二人に、蘆花は訝しげな眼差しを送った。

「…この連中には修行する気があるのか?」
「無いこともないんでしょうが、目先の欲望に忠実なんでしょうね」

 そういう村田もまた、ちゃっかり掃除中の箒妖怪にカメラを渡して、有利とのツーショットを撮って貰っている。

「イェーイ、渋谷。ペアルック〜」
「全員お揃いじゃん」
「一枚の写真に収まった状態ならペアルックだろうよ」
「枠を黒くしたら遺影みたいになりそうな格好なのに、なんでそんなにテンション高いんだよ…」

 意味不明なテンションの高さで盛り上がる一同に小首を傾げる有利に、蘆花は楽しそうに目を細めた。

『ふーむふむ。やはり面白い儒子じゃ。飄々としたボブとはまた違う風合いじゃが、どうも人を惹きつけるなにかを持っておる』

 惹きつけすぎて危険な目に遭うこともあろうが、それ以上に彼を護ろうとする力が働いているように思う。
 この眼鏡共はそれぞれに腹黒いものを抱えているし、悪意を込めて行動すれば妖怪でさえ恐れを為すほどの人数を殺めることとて可能だろう。だが、基本的に陰性方向を向いているはずの連中をして、有利は無意識の内に陽性方向にむかわせる力を有しているのだ。有利自身の潜在能力の高さ以上に、その点が蘆花は気に入っていた。

「よし、お前達。今日は昼飯までに水龍を調伏するのじゃ」
「…は?」

 ポン…ポポン、ポンっと頭上で何かが弾けるような音がして、小さな雲に淡泊な目がついた《雲大将》が、ひょいひょいと有利たちを摘み上げて滝へと運んでいく。これで一同の額に三角形の布地を乗せれば、完璧な死出の旅立ちである。

「す、水龍って…」
「なに。5本爪の帝王ではないわさ。3本爪の下級龍じゃ。頑張れば何とかなる」
「頑張りでどうにか出来るものなのぉ〜っ!?」

 《ギャース…っ!》という悲鳴が峡谷に響き渡るが、蘆花は気にせず、尻を掻きながら茅葺きの小屋に戻った。



*  *  * 




「なんじゃ、結局出来んかったのか」
「すみません〜」

 びしょびしょに濡れて疲れ果てた有利は、瑞々しい肢体にぴったりと白布を張り付かせたまま縁側で横になった。くたりと横たわる姿はしどけなく、冷えて硬く痼った胸の尖りが布地を押し上げたり、乱れた裾野から覗く生足などは、男色の気などない蘆花でもごくりと生唾を飲み込んでしまう。

 眼鏡三人組が元気なら相当盛り上がりそうだが、彼らは有利以上にへこたれていたのでそれどころではなかった。まだしも雲大将に引き揚げて貰えた有利に比べて、他の連中は濡れた衣服を張り付かせながら、徒歩で帰還させられていたし…。

 《滝壺に落ちたら出て来られなくなるかも知れないから》という理由で待機させられていた銀細工の人形が、代わりにタオルを引きずりながら全力疾走してきた。フルフェイスの兜で表情は見えないはずなのに、なんとなく泣きそうに見えた。手伝うことも出来ないことが口惜しいのだろうか。

「水はお前の特異的感応要素だから、特に促さずとも行けると思ったのだかな」
「そーなんですか?」

 やっと上体を起こせるようになった有利が床に腕をついて蘆花を見上げると、そのまま身を伏せるようにして頭を下げた。

「すみません、どうやったら良いのか教えて貰えますか?俺…何とかして魔力を呼び覚まして、眞魔国に行きたいんです」
「魔王になりたいというタイプには見えんがな」

 およそ権力を握りたいという気質には思えないが、何か事情があるのだろうか?
 蘆花がボブから事情を聞いているのは《眞魔国産の強い魂を持つ魔族を鍛えて、魔力を扱えるようにして欲しい》ということだけである。

「実は…」

 有利とコンラートの語る眞魔国の状況に耳を傾けると、蘆花は何かを思うように空を見上げた。



*  *  * 




「あーあーもー、重い〜冷たいぃ〜」
「ああ…幾ら7月とは言っても、こりゃあ酷いだろうよ…」

 べしょべしょと水滴を零し、悪態を付きながら帰ってきた眼鏡三人組(あの水の勢いで眼鏡を失っていないのは流石だが)は、茅葺き屋根の蘆花宅に辿り着くと、更にがくりと膝をついた。   

「も…着替えてんのかよぉ〜…」
「ちょっとくらい楽しみを残してくれたって…」

 血の涙を流す(←正直、修行より辛かった)三人組の前には、すっかり水気を拭って普通の服に着替えた有利がいた。
だが、がっかりしていた三人はすぐ有利の気配が尋常ではないことに気付く。虚空を見つめたままトランス状態に入っているのだ。

「おい、有利は一体…」
「ユーリに何かなさったのですか?」

 顔色を変えて掴みかかる水浸し軍団を、蘆花はすげなく手首の一閃で払う。

「これ、触るでない。下手に刺激をすると戻れなくなるぞ?」
「な…っ!渋谷に何をしてくれてんだよ!?」
「魔力を強制的に凝集して、一つの人格を与える」
「はあ!?」

 村田は形相を変えて蘆花に掴みかかった。相手が大妖怪であることなど意識の外に飛んでしまう。

「なんて事をするんだ!一つの器に二つの人格を植え付ける気か?下手をすれば錯乱させてしまうじゃないか!」
「そこまで焦ってどうする気だ!?」
「有利を壊す気か!?」

 《喧しい》とばかりにギロリと一瞥を送ると、蘆花はパチンと指を鳴らして三人の動きを止めた。

「忠実な銀細工人形ですら耐えておるのだ。お前らも儒子を信じて、静かにしておれ」

 硬直した肉体をみしみしと言わせながら、村田は苦鳴をあげる。信じたいのは勿論だが、有利は有利でこそ有利なのだ。その肉体にもう一つの人格を生じさせるという荒行に、どうしても強い抵抗感を覚えていた。







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