「お伽噺を君に」
第6話










「ところでボブさん、眞魔国にはどうやって行ったら良いの?」

 有利が問いかけると、ボブは《HAHAHA》と典型的な外国人笑いを見せて肩を竦めた。

「いやぁ…それが困ったことに、今のところこちらから行く方法は確立されていないんだよ」
「…へ?なんで」
「端的に言えば、魔力が足りない」

 あっさりと断言されても諦めがつくものではない。有利は慌てて村田に問いかけた。

「マジで!?」
「ああ…それは確かだ。なんせ、僕だって4000年も大人しくたわけじゃないからね。特に、地球での転生がしつこく続いた時期には焦れちゃって、何度か眞魔国に戻ろうとして画策したんだけど、どうしても魔力が足りなくて戻れなかったんだよ」
「えぇ〜っ!?じゃあ、こっちから眞魔国に行く方法ってないの!?コンラッドが帰れないじゃん〜っ!つか、だったらどうして魔王にする魂なんて、地球に送ったわけ?」
「その指摘はまったくもって尤もだね」

 痛いところを突かれたと言いたげに、ボブはぽりぽりと顎の先を指で掻く。

「地球にせよ眞魔国にせよ、異世界同士を繋ぐ魔力を持つ者となると、実のところ魔族の長い歴史を通じて、眞王以外にはいなかったんだよ」
「村田は?お前は大賢者様とかいうヤツなんだろ?」
「僕は優れたブースターのような存在なんだよ。人の能力を増幅したり、調整することには長けているけれど、僕自身が持つ魔力は大したものではないのさ」

 村田にも縋ってみるけれど、こちらからもすげない返事をされてしまう。
 途方に暮れる有利に、ボブが重々しく語りかけた。
 
「ユーリ、君は本来であれば16歳を迎える頃に眞王の力で眞魔国へと呼び戻されるはずだったのだ。しかし、どうやらあちらはそれどころではないらしい」
「どういうこと?」
「私にもよく分からないのだがね。君の魂が送り込まれる直前から異常は起こり始めた。今までのように意味のある《文章》が指示として送られることはなくなり、判断に困るような、断片的言語が切れ切れに届く程度になったのだよ。《禁忌の箱》…《地の果て》…おそらくは、かつて眞王をもってしても完全に滅ぼすことが出来ず、四人の忠実な配下を鍵として封印を施した、四つの《禁忌の箱》のうち、《地の果て》が何らかの力を示しているのだと思う」

 ボブの衝撃的な言葉を受けて、有利のポケットから銀細工の騎士がバネ仕掛けの玩具のように飛び出してきた。

「なんだって!?そんな…それでは、眞魔国はどうなっているんだっ!!」
「おや。君は私が作った騎士じゃないか。ピノキオのように命を吹き込まれたのかな?」
「そのようなものだ。俺の名はウェラー卿コンラート。眞魔国で石化した本体から、生き霊として地球にやって来た」
「…っ!すると君が、魂の運び手として選ばれたウェラー卿か。なんとまあ…ユーリの御守りにでもなれば良いと思って送った人形が、君の受け皿になるとは!魔石を封入しておいたから、馴染みが良かったのかも知れないね」
「ああ、その辺にあった縫いぐるみだのに入ることを考えれば、有り難い受け皿だったよ」

 確かにそうだ。
 抱き人形のようなふくふくした姿では、幾ら何でもこの年まで有利が持っては歩けなかったし、《ルッテンベルクの獅子》と謳われた戦士にとっては、あまりにも気の毒な受け皿だろう。

「それはともかく、何とかならないのか!?《禁忌の箱》が蘇り、眞王陛下も意味のある指示が出来ない等という状況で、眞魔国が一体どうなっているのか知ることも出来ないなんて!」
「私は今のところ確立されていないと言っただけだよ」
「では、遣りようによっては、方法はあると?」
「ああ、ある筈だ。希望的観測で無いという保証はないが、ユーリが《目覚めて》くれれば可能性はある」

 突然話を振られて、有利はきょとんと目を見開いた。

「お…俺?」
「そうだ。おそらく現在地球に存在する魔族の中で、君の持つ魂が最も高い資質を持っている。異世界同士を繋ぐなどと言う離れ業が出来るとすれば、君しかいない」
「どうやって!?」
「まずは魔力を引き出す訓練を受けるんだ。それである程度の段階までは魔力を使いこなせるようになるだろう。だが、それ以上の能力開発は、ユーリ…すまないが、君自身が模索しなければならないよ」

 《どうして》と聞きはしなかった。異世界に飛ぶなんて事が出来たのが眞王だけなのだとすれば、地球にいる魔族の誰も、そんな方法など知らない筈だからだ。

「渋谷。あんまりプレッシャーを感じすぎない方が良いよ。ある程度まで鍛えたら、異世界同士を飛び越える方法自体は僕も知ってるからね」

 そう言えば村田の魂のリサイクル元は眞魔国から地球にやって来たのだから、逆も然りだろう。

「そ…そーだよな。何事もまずは一歩一歩だよな。野球だって、キャッチボールもしないうちから試合なんて出来ないもんな?」
「そうそう。その意気だよ、渋谷」
「うん!ありがとうな、村田!」

 にっこりと微笑む有利を、ヴィクサムが複雑そうな表情で眺めていたことを有利は知らない。



*  *  * 




『訓練…ね』

 現在の魔族の中で導師として機能出来るのは、ヴィクサムやボブくらいなものだろう。だが、そうすることでユーリが眞魔国に旅立ってしまうのは望ましくなかった。ヴィクサムは《父祖の地》等というものを有り難がる意識が無いので、特段眞魔国に対する郷愁などはない。地球での経済的成功は十分に彼を満足させていたから、それを擲って眞魔国に移住する気はなかった。

 ではユーリの能力開発を阻害したいかというと、それも憚(はばか)られる。

『今でさえあの美しさだ。最大限に魔力を発揮した時、一体どれほどの艶やかさであるのか想像だにできないほどだ』

 天性の魅惑体質(チャーム)に加えて、眞王が厳重なシールドを掛けておくほどの麗しい容姿。そして何より素晴らしいのは、その素直な気質だ。

『眞王のシールドが、ある意味ではこの気質をも護ったのかも知れないな』

 幼い頃から過度にちやほやされることなく、適度に愛され、愛されたらちゃんと返していくことを自然と学んできた有利は、今までヴィクサムの周りにはいなかったタイプだ。
もしかすると日本人特有の慎ましやかな特性も含まれているのかも知れないが、この土台の上に強い魔力が目覚めれば、きっと誰もが瞠目するほどの美しさを開花させるはずだ。

 ヴィクサムは地球の魔王であるボブには多少複雑な心理を持っているが、彼が20年前に《クリスタル・ナハト》との抗争で見せた魔力戦闘では、我を忘れて見惚れていた。当時青年期にあったボブは、金色の龍を自由に操って、天空を埋め尽くすほどの使い魔達を殲滅させたのである。使い魔を放つ為にも強い魔力や魔石が必要となるから、あれから20年の間《クリスタル・ナハト》が魔族ネットワークへの手出しを控えていたのは、ひとえにボブの功績が大きいだろう。

 当時のヴィクサムはボブに憧れていたが、長じるに従って、今度は彼を越えて偉大なる魔王になりたいと願った。しかし、どうやら自分はトップに立つ器量ではないと悟るようになってからは、傀儡として立てるべき人物を探すようになったのである。

『ユーリは騎士殿を眞魔国に戻したいだけで、あちらで魔王になること自体にそれほど拘りがあるわけではないのだろう。ならば恩を売るだけ売っておいて、最終的には地球で魔王を張って貰えばいいか』

 一番良いのは有利の持てる能力の最大限まで目覚めさせたものの、後一歩が届かずに眞魔国には行けないという展開だ。

『状況を操作する為にも、なるべく傍で観察しておいた方が何かと便利か』

 ヴィクサムは条件の合致を見ると、如何にも優しげに表情を浮かべて有利の手を取った。

「ユーリ、どうか私にも協力させてくれないか?勇敢な騎士殿の故郷がどうなっているのか、私も興味があるな」
「ヴィー、手伝ってくれるの?ありがとうね!やっぱあんた良い奴だぁ〜っ!」
「…嬉しいな」

 そんな風に、純朴にきらきらと輝く星のような瞳で見つめないで欲しい。ヴィクサムの中の打算的な部分が、ちくちくと良心の呵責からの攻撃を受けるではないか。

『今までは、誰かを騙しても心の中で実に楽しく舌を出していられたんだがな…』
 
 どうもこの有利という少年は、それを由とさせない人格の煌めきを持っているようだ。それでこそヴィクサムの傀儡としては相応しいのだが、うっかりヴィクサムの方が捕らわれてしまいそうで困ってしまうのだった。



*  *  * 




 これから丁度夏休みに入る有利や、既に入っている勝利、年中無休であると同時に年中長期休暇ともいえる美子はともかくとして、勝馬は翌日から勤めに行かなくてはならない。美子は色々と考えはしたようだが、最終的には《母の愛ってのは、修行中には間近にいるより、遠くで夢見る方が効果があるわよね》との結論に達し、勝馬についてボブの手配したマンションに移った。

「勝利はバイトとか忙しいんじゃないの?本当に一緒に修行すんの?」

 勝利は有利と共にボブが用意したハイヤーに乗って、別荘から《修行地》とやらに移動する途中だ。少し時間は掛かるようだが、東北方面のある場所に魔族の霊山と呼ぶべき場所があるらしい。
 ヴィクサムや村田も同乗しているが、有利の隣はきっちりと勝利が押さえている。

「煩いな。俺にはお前が妙な外人やらお友達の魔の手に掛からないよう、監督する義務があるんだ」

 有利に問われればすかさず憎まれ口を叩くものの、勝利が共に修行に付き合おうと思ったのには他にも理由がある。

『俺こそがこいつの《お兄ちゃん》なのに、良いトコ全然見せられてないからな』

 体格に優れている上、体術や魔力の使い方を熟知しているらしいヴィクサムはともかくとして、弟のポケットに収まったお人形までが使い魔を倒すのに一役買っていたのだ。その間の勝利は何をしていたかというと、おろおろと狼狽えたり、下手をすると腰を抜かしてしまいそうになっていたくらいだ。

 可愛い弟から上目遣いに《お兄ちゃん大好き》《お兄ちゃん、俺を護ってね》等と言って貰う夢を叶えるためには、何としても実力アップが望まれる。

「ボブに聞いた話じゃ、俺だって魔力の才能はあるらしいからな。伸ばして伸びるものなら、この機会に試練を受けておくさ。タダで受けられる能力伸張講習は有効に活用すべきだ。バイトは尤もらしい理由を付けて全部断ったしな」

 ただ、唯一夏コ○の時だけは下界に降りていく気でいる。バイトをしないので多少軍資金が心許ないが、よくよく購入対象を厳選すれば何とか間に合うだろう。

「俺のことは気にするな。お前の邪魔になる気はない。お前は自分の事だけ考えて頑張れ」
「うん」

 こくんと頷いた有利は、最近はあまり見たことのない素直な表情を浮かべて、上目遣いにちらりと勝利を見た。

「勝利…あんがと」

 有利はぽそりと恥ずかしそうに呟くと、すぐに窓の方を向いてしまった。仄かに頬が染まっているのは、珍しく勝利に感謝の言葉を送ったからだろうか?
 それに感謝の言葉自体が、勝利の言葉裏に滲む《弟を護りたい》との意図を読んでくれたからだと思えてならない。

『く…っ!こ、こいつはもぅ…なんちゅー可愛い…っ!』

 勝利は大学ではオタクであることも上手く隠して人付き合いをしているし、合コンの席では女性が食いつくであろう適度に楽しい話術を披露している。おかげで勝利が参加する合コンは決まって盛況になっているくらいだ。(《しょー君が行くなら行くぅ〜》と言う子も多いと聞く)

 これで彼女と長続きしないのは、絶対にこの弟のせいだ。

 どんなに《結構良いかな?》と思う子でも、付き合ってみると《この角度はゆーちゃんの方が可愛い》とか、《こういう時、ゆーちゃんならこう反応する》なんて考えてしまうからだ。

 彼女閾値が《弟規準》であること自体が大きな問題なのだと気付いてはいるが、自分ではどうにもならないところである。

『それに、ヴィクサムの野郎が余計なことをしやがるから、余計に可愛く見えてきちまったしな…』

 ヴィクサムが解除したという眞王のシールドは、以前は余程強く掛かっていたらしいが、今は見知らぬ者と擦れ違っても、老若男女を問わず大概の者が振り返って有利を見ようとする。反応が変わらないのは銀細工人形のコンラートくらいなものだろう。

 彼だけは《今まで通り、とても可愛らしいですよ》と頷いていたから、眞魔国の者には反応しないシールドだったのかも知れない。

 ともかく、ヴィクサムのような連中がこれからも増えることを考えると、色んな意味で有利を護ってやる必要がありそうだ。今のところ《可愛くなった》という自覚がまるでない有利は、油断しきって薄着になったりするのだから。

『修行といえば滝に打たれたりするわけだが…。白装束が濡れたりしたら、ぴったりとゆーちゃんの細腰に絡みついて大変なことになりそうだな』

 《大変》な状態を妄想してニヤニヤしてしまう勝利は、兄として色々と間違っている。



*  *  * 




「ユーリは兄君やご家族と、とても仲がよいようですね。少々…兄君の反応が兄弟としての枠を逸脱しているようで気にはなりますが」
「その点に関してだけは、僕も激しく同意するよ」

 ヴィクサムが同じ車中にあっても特に声を潜める必要がないのは、勝利には理解できない眞魔国語を使っているからだ。コンラートと幼少期から暮らしている有利にも通じるだろうから、全くフリーで話せるというわけではないけれど。

 ちなみに、魔族とは言っても生まれつき眞魔国語を話せるわけではないので、ヴィクサムの場合は古文献などをもとに独学で学んだ。なので、実はこうしてごく自然な会話を眞魔国語で行うというのは、殆ど初めてと言っても良い。

『不思議なものだな。こうして眞魔国語で会話をすると言うのは』

 相手が伝説の軍師、双黒の大賢者であるというのも実に奇妙な感慨を抱かせた。もはやお伽噺ような言い伝えしか残らない魔族の故郷を、生で感じたことのある人物と対話するというのは。
 
「あなたのことは猊下とお呼びした方が良いのでしょうかな?」
「敬う気もないのに、言葉だけ丁重にされると虫酸が走るね」

 にっこりと微笑み合う二人は、その度に照明を受けて眼鏡をぎらぎらと輝かせ合う。

「いやいや、私は心からの崇拝を捧げておりますよ?猊下」
「それよりベルドゥース、あなたが何を考えているかの方が気になるな。渋谷を本気で嫁になんて考えてるわけ?」
「最初は形式上の付き合いでも良いかなと思っていたのですが、今は本気で欲しいと思っておりますよ」
「図々しいな。渋谷は眞魔国の魔王となる男だよ?」
「魔王を妻とするというのも、なかなか心浮き立つものがありますからね」

 尤も、ヴィクサムが目指しているのは眞魔国ではなく、地球の魔王を妻にすることだが。

『この子も実のところ、そちらを望んでいるんだと思うんだけどね』

 ヴィクサムの見たところ、村田は双黒の大賢者としての記憶を疎んじているところがある。今のところ折り合いを付けているのは、有利が眞魔国に行くことを望んでいるからという一点に尽きる。自分の持つ記憶が大切な人の役に立つことで、苦しみを喜びに昇華しようというのだろう。

『だとすれば、利用はできる。今の眞魔国は眞王ですらコントロールできないほどの状況になっている可能性が高いのだ。そんな場所に可愛いユーリが送り込まれたら、それこそルール無用の争奪戦の餌食になりかねないじゃないか』

 世界を越えられるほどの魔力を持っている上に、至高の美を有する少年がどんな目に遭うのか、想像するだけで慄然とする。

『私の腕の中で啼く小鳥として、地球で幸せに生きていればいいのだ』

 ヴィクサムはヴィクサムなりに、有利の幸せを追求しようと考えていた。本来は仕事を人に任せておくなど性分ではないのだが、今まで年中無休で働いてきたワーカホリック気味の生活を返上して、有利を手に入れる為に修行三昧の生活に身を置く覚悟でいるくらいなのだから。



*  *  * 




 ハイヤーが停まると、そこには風光明媚というより、峻厳な佇まいを持つ光景が広がっていた。
 近代的な構造物と言えばここまで有利たちを運んでくれた二台のハイヤーと、それが走ってきた道路くらいなもので、鄙びた藁葺き屋根の家屋は、夏はともかく冬には厳しそうな建て付けである。

 周囲は見渡す限り背の高い竹林に覆われていて、風が吹くとザザザ…と、いう音が様々な場所から聞こえてくる。その向こうには針葉樹の森や岩肌を覗かせた鋭い峰が続いており、宵闇が迫っている時刻のせいもあってか、淋しげな風景に見えた。

『なんだろうか。さっきから見られてるような気がする』

 コンラートは有利のポケットの中で剣の柄に手を置いていた。本来の肉体の時に使っていたような長剣が無いのは不便だが、この爪楊枝のような剣でも相手の隙を突けば十分な殺傷力を持つ。実体化して戦えば破壊力は高いが、どのくらい保つか分からない状況ではなるべく使いたくない隠し球なのである。

 隠し球と言えばコンラートの存在自体がそうだ。唯の人形にしか見えないことを最大限に利用して、有利についていくことが出来るのだから。

「久しいな、ボブ…!」

 ザザ…っと竹林が鳴るような音がして、それが人の声なのだと分かる頃には、彼らの頭上に大きな影が広がった。

「…っ!」

 ポケットから頭上を伺ったコンラートは息を呑んで剣を構えた。ボブの名を呼んでいたから斬りかかったりはしないが、それにしたって常識はずれな姿だったのである。

 まるで、空に掛かる月が大きく膨れあがったかのようだった。
  
金と銀を混ぜ合わせたような淡い光を放ちながら空から降りてきたのは、巨大な狐だった。尻尾の数は揺れているのでよく分からないが、多分7尾くらいではないだろうか?
 大きな狐はくるくると回転して地上に着地すると、背の高い青年の姿に変じた。一見すると修験僧のような姿だが、目尻が妙に紅くて茅で斬ったように鋭いのと、にやりと笑った口角から獣じみた牙が生えているのが異彩を放っていた。

「ロカ、息災かな?」
「ああ、暇で暇で死にそうだったがの」

 ふくく…っという感じで含み笑いすると、目の端がきゅっと上がってますます本性に近い。



*  *  *




『この人が俺のお師匠さんなのかな?』

 有利はとててと近寄っていくと、ぺこりと頭を下げて野球部らしく元気一杯の挨拶をした。

「今日からお世話になります渋谷有利です!ヨロシクお願いしまっす!!」
「ふむ?お前さん、儂の正体は聞いておったのかの?」
「いいえ、いま初めて知りました!ロカさんはすごい大きいですね!吃驚しましたっ!」
「…ふぅむ」

 興味を惹かれたように有利をまじまじと見やる《ロカ》は、赤とも黄色ともつかぬ不思議な目の色をしていた。その目に覗き込まれると心の底まで見透かされそうだったが、見られてどうというものもないので、特に気にせず見返してみた。

「ふむむ、ふむ。面白い儒子(こぞう)じゃの。ありのままを受け入れて破綻がない。なるほど、ボブが見込むだけの素材じゃ」
「ありがたゃーすっ!」
 
 有利が《ありがとうございます》が縮まった独特のお礼を言うと、ロカはますます面白そうに目を細めて、目の前でパチリと指を鳴らした。

 すると、周囲の景色が突然に一変する。
 
 ザザザ…と波音にも似た笹のざわめきが周囲をグルグルを取り囲み、その音の波動に合わせて錦織のような色彩が、勢い良く反物を広げたみたいに四方八方へと伸びていく。それはある一定の距離まで来ると、今度はふわっと地上に巻き上がって、気が付くと天を包み込んでしまった。まるで、華やかな鞠の中に閉じこめられてしまったようだ。

『儒子、この迷宮を抜けてみよ。お前ならばできようぞ』

 楽しそうな声音が木霊のように殷々と反響しながら響いていくと、有利は何を求められているのか理解した。おそらく、これがロカの入学試験なのだ。まずはこれを乗り越えないと、修行に入れないのだろう。

「よっし!頑張りまーすっ!!」

 有利は腰を落としてスタートを掛けると勢い良く鞠のような壁を昇ろうとした。
 意外なことに、重力を感じることなく壁はスイスイと駆け上がれてしまう。

『あれ?』

 ぐにゃりと平衡感覚が揺らぐような感じがした。壁だったものが床になり、床だったものが天井に変わっていく。これは…本当に鞠のように丸いものなのだろうか?何だか回し車に乗ったハムスターみたいな心地だ。

 はてさて、これはどうやって取り組んだものだろうか?

 有利はひとまず、疲れるまで色んなやり方で壁に取り付いてみたのだが、力を失ってぽてりと倒れてしまうまで、床であり壁であり天井である綾布はくるくるし回って有利を疲労させただけだった。






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