「お伽噺を君に」 第5話 ゴァ…っ! 轟音と共に噴き上がる土煙が、宵闇に浮かぶ月をかき消す。 いや、二階建ての民家の一階部分居間で、月が垣間見えたこと自体が大きな問題か。 そう、渋谷家の家屋は一瞬にして大きく抉り取られて、その内腔を外気に晒していたのである。 「え…えっ!?」 何が起こったのか分からないまま表情を強張らせていた有利を、ヴィクサムは意外なほど力強い腕で抱き込んで素早く後方に退く。すると、つい先程まで彼らがいた場所を撓(しな)る紐のようなものが複数弾いた。ヴィクサムがすかさず光る剣で斬りつけると何本かは切れて、断端だけが瓦礫だらけの床でうねうねと蠢く。 《チッ》と、舌打ちに似た音が響くと、再び複数本の紐がシュルルル…っ!と空気を切り裂くようにして飛来してくる。紐と見えたものはどうやら鞭であるらしく、また巧みに立ち位置を変えたヴィクサムの傍を掠めていく。その軌跡を捕らえながら、ヴィクサムは小さく溜息をついた。 「斬っても予備が随分とあるようだ。本体をやらなければ駄目か」 「これって…お、俺を狙ってる奴なの?」 「間違いないね」 「そんな…っ!ローンの残った一般家屋を破壊するなんて…!とっ捕まえたら弁償とかしてくれるのかな?」 ヴィクサムは有利の憤りに、くすりと唇の端だけで笑う。そしてポケットから取りだした玉のような物を強く握り込むと、指と指の間から細刃の刃物のようなものがニョキっ!と伸び出した。 「《使い魔》を捕らえたところで、自爆するだけだからね。それは期待薄…だなっ!」 バ…っ!とヴィクサムが手首を閃かせると、《ドス…っ!》と何かに刺さるような音が響いて、続けて重い音がどさりと瓦礫の山に乗る。 「倒してくれたの?」 「おお…ユーリ、そんなに可愛い瞳で私を見つめないでおくれ」 また目尻を下げ掛けたヴィクサムだったが、すぐにまた表情を引き締めた。 「状況を忘れて、耽溺しそうになる…!」 有利を後方に押しやったヴィクサムは、しなやかに反りながら宙を舞い、再び光る剣を伸ばして襲いかかる何かに向かって打ち付けた。土埃が落ち着いてくると、月明かりの前で交差する影は二つ…いや、三つになる。 ヴィクサムと何者かが鍔迫り合いをしているその側方から、敵と思しき影が飛来してきて脇腹に襲いかかったのだ。 「ヴィーっ!!」 思わず有利が叫ぶが、その声音よりも早く宙を駆けていたのは、月明かりに映える銀細工の騎士。 「コンラッド…っ!」 「はぁ…っ!!」 コンラートが布団針のような剣で鋭い一撃を飛来者の目に突き込むと、《ぎゃーっ!》という獣じみた絶叫が上がって、どさりと落下した身体がゴロゴロと瓦礫の上を転げ回る。よく見ると、それは両手の先が鞭になった大型の蝙蝠のような生物だった。 ヴィクサムも体勢をくるりと回転させて蝙蝠の懐に入ると、脇腹を斜めに斬り上げて絶命させる。そのままの勢いで身体を反転させ、転げ回っていた蝙蝠の首も一刀両断した。 すると、動かなくなった蝙蝠はボフンと音を立てて煙をあげ、黒い消し炭のようなものに変わってしまった。 「やれやれ…これではやられ損だね。収穫はなし…か。まあ、シブヤ家の面々に怪我がなかっただけ良しとしようか」 「良くないわぁっ!」 勝利は激高するが、この場で怒ったからと言ってどうなるものでもない。逆に、有利を落ち込ませてしまうだけだった。 「みんな、ゴメンな…。俺が変な連中に目を付けられたせいで、危ない目に遭わせて…」 「ゆ、有利が気にすることはないんだぞ?」 「でもさ、実際問題として危ないのは間違いないじゃん。俺のせいで誰かが怪我したり、最悪…死んだりするようなことがあったら…」 ヴィクサムから話を聞いただけではまだ漠然としてしか実感できなかったが、こうして実際の襲撃を受けるとそんな可能性も浮かんでくる。 「ユーリ、その可能性を排除する為にも、私の申し出を受けてはくれないかな?」 「ヴィーさん…」 ヴィクサムはどこからかやってきた老運転手に磨いた靴を履かせて貰うと(車は100円パークにでも停めてきたのか)、有利の目を見つめて腕を差し出してきた。 この手を取ったら、少なくとも家族に危険は及ばないのだろうか? でも…だからといって、愛してもいない男のもとに嫁に行くなんて、一体どういう人生の悪戯なのか。 「ヴィーと呼んでくれないかな?さっきは一度呼んでくれたろ?」 「うん…」 しょぼんと俯き加減になったら、目の奥が熱くなってきた。不条理な出来事が続きすぎて、何だか涙が出そうになってきたのだ。 「ああ…泣かないでおくれ、ユーリ。君の涙は私の心を締め付ける。淋しいかも知れないが、すぐに馴れるよ。君が私に身も心も捧げてくれれば、きっと魔力にもすぐ開眼するからね。そうしたら、《クリスタル・ナハト》になど決して手出しされないだけの魔力が得られる」 「でも…俺、嫁に行ったらあんたに女の子みたいに抱かれるの?」 「直裁に言うとそうだよ。でも、必ず満足させてあげる」 にっこりと微笑むヴィクサムは、多分第一印象に比べればいい人なのだと思う。大口を叩くが、しっかりと有言実行を果たしているし、これだけの実力を持った人なら有利をもっと強引な手段で浚うことも本当に可能だったのだと思う。敢えてそうせず、事情を伝えた上で心が欲しいと言ってくれるのは、誠実な人柄を顕しているだろう。《使い魔》とやらと戦っている時にも、実に颯爽として見えた。 でも、《いい人》と《好きな人》というのはやっぱり違うだろう。 こうして息が掛かるくらい近くにいても、ヴィクサムにそんなときめきは感じない。 『好きな人が相手だったら、どんな風に感じるんだろ?やっぱりもっとドキドキしたりするのかな?』 無意識のうちにポケットへと手を突っ込むと、銀細工の騎士が手首を抱き込むようにして質感を伝えてくれる。同じ体温を共有する、有利の勇敢な騎士。 彼が追いこまれた時に見せる本来の姿が、有利の瞼を掠めていった。 『目にした時に、どうしようもなくドキドキして…抱きつきたくなるのは、絶対コンラッドの方なんだよな』 《だからどうした》と言われそうだが、そんな感慨を浮かべていると、ポケットに入れていない方の左手をヴィクサムに取られた。 「騎士殿を越える信頼を得るには時間が掛かるかも知れないけれど、私は諦めないよ」 「ヴィー…」 「君が愛らしいその声で私の愛称を呼んでくれるだけでも、大きな進歩だしね」 ヴィクサムが有利の手を引いて甲に《ちゅ…》っと軽く口づけをし、半ば強引に腰を抱き込むと、ポケットから出てきた剣先がヴィクサムの手首をぷすぷす刺そうとする。それでもあまり痛そうにしていないのは、袖口に防御用の金属板か何かを入れているのかも知れない。 そうしていると、不意に大気を切り裂くようなサイレンの音が響き渡った。 ピーポー… パーポー… 当たり前と言えば当たり前なのだが、家屋が破壊されるという非常事態を受けて、誰かが通報をしたらしい。紅いランプをくるくる回しながら、お馴染みの白黒車が渋谷家に直進してくる。 「ど…どうしよう!何て説明したらいいのかな!?」 パトカーや消防車だけではなく、近所の野次馬達までもが《何だ何だ》と囁き交わしながら往来に出てきている。渋谷家の周りは既に、ちょっとした人集りが出来ていた。 その中から、有利に向かって聞き覚えのある声が掛けられた。 「渋谷っ!これは一体どうなってんだい?」 「村田っ!!」 どこで騒ぎを聞きつけたのか、村田が風呂上がりと思しきパジャマの姿に、薄手のパーカーを羽織っただけの姿で駆けつけてくれた。結構ええ格好しいの少年が、取る物も取らずやって来てくれたことが嬉しくて、有利はヴィクサムの手を反射的に払って友人を迎えに行った。 「来てくれたんだ!ありがとうな?でも、足下悪いから気を付けて?」 「僕の事なんて気にしてる場合じゃないだろ?家が無茶苦茶じゃないか!君…怪我とかしてない?」 「俺は全然大丈夫。でも…」 家は全然大丈夫ではないし、有利や家族の身もこの先、大丈夫かどうか分からない。親しい友人の顔を見たせいで安堵したのもあってか、有利は思わず堪えていた涙をほろりと零した。そして《ふぇ…》と顔をくしゃくしゃにしながら、混乱した頭でとんでもないことを口走ってしまう。 「村田…どうしよう、俺…この人に身も心も捧げて嫁さんになんないと、拉致監禁されて調教されたり、下手すると殺されちゃうらしいんだ…。家もこんなだし、この先どうしたら良いのかなぁ?」 「え゛ぇ゛え゛〜っ!?」 調子外れな村田の叫びに、関係ない野次馬までが乗っかってきて、ご近所の皆さん達はすっかり誤解したままヴィクサムを悪者にしてしまった。 「渋谷さんちの有利君、確かに最近えらく可愛いなとは思ってたけど…。まあ、あんな酷いことをする人に目を付けられちゃったのね?」 「んまーっ!男の子一人を手に入れるのに、家まで破壊しちゃうなんてどういう奴なのかしら?」 勿論ヴィクサムは血相を変えて両腕を振り、《ご、誤解です!》と叫ぶし、村田は逆上してヴィクサムの襟元を掴むしで、その場は大混乱に陥ってしまった。 「ちょっとあんたっ!渋谷にエロ調教する為に脅しで家を壊すなんて、一体どういう了見なんだよっ!」 「違う違うっ!それは私ではなくて、《クリスタル・ナハト》の犯行だからっ!私はただ、ユーリを妻として迎えたいだけで…」 「やっぱり調教はするつもりじゃないかっ!脇に控えてるお爺ちゃんまで使って、どんなプレイをするつもりだったんだよっ!!」 「だから違うと言ってるだろう、ムラタ君!私は寧ろ、ユーリを護る為にやってきたんだっ!」 「信じられるかそんなもんっ!」 丁度警察官達も駆けつけてきたことで、下手をするとヴィクサムは老運転手ごとしょっ引かれてしまうところだった。 職務質問しようとした警官の肩をぽんっと叩く、ロバート・デ・ニーロ似の男性が現れなければ、きっとそうなっていたことだろう。 * * * 「今宵は災難だったねえ」 「ボブ…あんたも今日みたいな事が起こると予想していたのかい?」 「いや、もう少しは今の状態が維持されると思っていたんだが…見込みが甘かったな。まさか、ユーリのシールドがこんなに早く解除されるとは思っても見なかったものでね」 ボブの言葉に、珈琲を啜っていたヴィクサムは苦みに耐えかねたように口角を歪める。シールドを解いた張本人として、多少は責任を感じているらしい。 有利たちはボブとその部下達に警護されて、魔族と縁の深い企業体の保養施設に入った。県境の山峡部にある大きな別荘のような建物なのだが、こう見えて防衛の為の様々な方策が採られているのだという。 「手を打つのが遅れたせいで、家屋が破壊されてしまったのは申し訳なかった」 ボブという人は地球に於ける魔王であるらしいが、随分と気さくな初老の男性だ。ロマンスグレーの髪を緩く後ろに撫でつけて、年の割に小粋なスーツに身を包んでいる様子が、日本の平均的なおじさん達とは随分違う印象を持たせている。 語学も堪能なのか、今も滑らかな発音の日本語で有利たちを気遣ってくれた。 「改修費に関しては全て私が持つし、当面の警護に関しても責任を持つから、ユーリは安心して自分の進路を選びなさい」 「じゃあ、嫁に行かなくて良いんですか?」 有利が座っていたソファからぴこんっと立ち上がると、ボブは孫を見るお爺ちゃんみたいに目を細めて、漆黒の頭髪を優しく撫でつけてくれた。 「ああ、君は君の望みと先方の意向が合致した時に、相応しい相手をお嫁として迎えても、はたまた、お嫁に行っても良いのだよ」 「いやいや、嫁には行きませんよ〜」 「ふふ…。そう焦って結論を出すこともないさ。ヴィーだって、結構付き合ってみれば良いところもある男だよ?」 「ハイ、いい人なのは凄く感じました」 《いい人》という表現に複雑そうな顔をしつつも、有利がちらりと視線を送るとはにかむように唇の端で笑ってくれる。重ねて言うとまた微妙な顔をされそうだが、嫁としてではなく友人として扱ってくれたら、とても嬉しいと思う。 * * * 『どうもややこしい状況になった』 えらく苦いと感じる珈琲を啜りながら、ヴィクサムは独りごちた。 色よい返事を寄越してくれない渋谷家の反応から見て、いっそ《クリスタル・ナハト》が襲撃を掛けてくると良いなと思っていたのは事実だ。実際、良いタイミングで襲ってきた連中によって、有利は随分と不安を感じて、一時は潤んだ愛らしい瞳でヴィクサムを見つめてくれたくらいである。 このまま行けば、間違いなく《吊り橋現象》によって有利はヴィクサムに惚れると確信していたのだが、どうやら雲行きが怪しい。 まず、ボブが直接乗り込んでくるとは思わなかった。彼は魔王にしてはやたらとフットワークの軽い男だが、これほど迅速にやってくるとは考えていなかった。 渋谷家との交渉に使うつもりでいた知識や防御力を、ボブはあっさりと無償で提供してしまうのだから、ヴィクサムとしては迷惑この上なかった。 『それに、この子も計算外だったな』 有利と張るくらいに綺麗な顔立ちをしているが、ヴィクサムにはあからさまに警戒心を見せている村田健…。一時は異世界からやってきた魂の持ち主ではないかとあたりをつけていたこともあったが、その彼が有利と交友関係を深めていたとは思わなかった。同じ中学ではあったが、高校は違っていたはずなのである。 「ねえ渋谷。僕はちょっと状況が飲み込めないんだけど…少し説明して貰えるかな?」 「あ…ええと、ね?」 ヴィクサムに向ける鋭い眼差しから一変して《カワイコぶりっこ》と表現したくなるような仕草を見せて、村田は有利に甘えたようにしなだれ掛かる。 「えーと…。色々と深い事情があって、俺…何か狙われてるみたいなんだ。んで、今のところ、親父方の親戚というか、血縁関係者というか何だかのボブって人が護ってくれることになったんだ。だから、村田はもう家に帰っても大丈夫だよ?心配してくれてありがとうな」 「まだまだ心配だよ。だって、君のことを狙ってる奴らがいなくなった訳じゃないんだろ?」 「ん…だけど、これ以上関わって、変に巻き込んじゃうのも悪いし」 「ごろつき連中から、身を挺して僕を庇ってくれた奴が何言ってんだよ。今度は僕を巻き込んでくれたって良いだろ?」 「村田…」 村田の発言を後押ししたのは、手ずからココアを煎れて差し出してきたボブだった。 「そうだね。ケンには関わる権利がある。…というより、関わらなければ君の身も危ない」 この場で最も事情に通じていそうなボブが太鼓判を押したことで、村田は寧ろ不審そうな表情を浮かべた。 「僕、あなたに名乗りましたっけ?」 「この場ではまだだね。だが、私は君のことをよく知っているよ。同じ魔族の流れを汲み、輝く魂を持つ君は、やはり《クリスタル・ナハト》に狙われてもおかしくない」 「《クリスタル・ナハト》…あのテロ組織の?」 「そのような活動もしているね。だが、それらは主義主張による活動ではなく、資金集めに過ぎない。彼らの狙いは魔力を集めて眞魔国への道を開き、そこで覇権を握ることだよ」 ボブは村田が理解しているものとして話をしている。一方の村田はと言うと、表情の選択に迷っているようだった。 「貴方は僕の何を知っている?」 「直接会うまでは確信が持てなかったのだが、今は分かるつもりだよ。君は眞魔国建国の立役者、双黒の大賢者の魂を継ぐ者だ」 「…っ!」 村田は大粒の瞳をこれ以上ないほどに開大させて、睨み付けるような視線をボブに叩きつけている。村田は何か文句でも言いたかったのかも知れないが、傍らにいた有利の反応の方が早かった。 「もしかして…村田が中学の時に魘されてたのって、その記憶なの?」 「あ…あ、うん…そうなんだ。なんだかんだで眞魔国と地球合わせて、4000年分ほどの記憶があるんだよ」 「すげっ!」 その瞬間、ぱぁあ…っと華がひらくように有利が微笑み、村田の手を取ってソファの上で弾んだ。 「そーなんだ!あのさ、俺は昔の記憶とかは無いんだけど、眞魔国で魔王になるって役目があんだってさ。うっわぁ〜…村田も関係者なんだ!凄ぇ心強いやっ!!」 「そ…う、なんだ…」 村田がぽかんとすると、毒気が抜けて年相応の柔らかい表情になる。そうすると本来の顔立ちが映えて、有利と線対称に向かい合う姿はお花畑のように華やかな印象になった。 「凄い奇遇だよな〜。えへへ…これからもよろしくな!」 「…うん」 こくんと頷いた村田は、もうボブに視線を送っても攻撃的な眼差しを送ることはなかった。言いたかった文句も何もかも、有利の言葉で昇華されてしまったみたいだ。 「この魂に関わった連中に色々と言いたいことがあったんだ。誰かに…ずっと、言いたかったことが」 「え、何々?」 「ううん…何でもないよ、渋谷」 「そう?」 「うん、良いんだ。もう…」 決して良いわけではないのだろう。双黒の大賢者と言えば、眞王の命を護る為に幾度生まれ変わっても、以前の記憶を保ち続けると聞いた。人一生分の記憶ですら持て余すことがあるというのに、双黒の大賢者として建国以来の記憶を持つというのは、どれほどの地獄であるのか想像だに出来ない程だ。 『それでもこの子は、ユーリと今世において眞魔国という存在を共有できるのであれば、耐えていけると判断したのか』 村田は一度強く瞼を閉じると、再び開いた時には少年らしくない冷静な面差しを保っていた。記憶に振り回されることなく、記憶を利用する覚悟が出来たということか。 『やはりそういう気持ちにさせる子なんだな、ユーリは』 《それでこそ、我が妻》…ヴィクサムは自分のことのように嬉しいような心地で、寄り添う二人の美少年を見つめていた。 |