「お伽噺を君に」
第26話









 
「よぉ、隊長…っ!」
「ヨザ!?」

 事も無げに挨拶しようとしたのに、やはりその姿を目にすると微妙に声が詰まってしまう。ヴォルテール領主館にやってきたヨザックは、逸る心を抑えながら廊下を歩いてきたのだが、最後は駆け足になって懐かしい男に飛びついた。17年間で精強さを増したヨザックの巨体を、コンラートは全身をバネのように撓らせることで受け止める。この辺の臨機応変さは相変わらずだ。

「くぁあ…っ!本っ当ーに、全然変わってねーな!石になっちまった時のまんまじゃねーか!」

 首元に顔を擦りつければ、特有の香りや弾力に懐かしさが込みあげてくる。ヨザックは眦が熱く充血するのを感じながら、背骨がひし折れそうな勢いで旧友を抱きしめた。
 そんなヨザックを尻目に、コンラートの方は実にマイペースな態度で軽口を叩いた。

「お前は老けたなぁ。随分と苦労したのか?」
「ガーン!乙女に言ってはならないことを!」
「ああ、オカマ芸は相変わらずなんだな?」

 変わっていないようで、酷く変わったところもある。見てくれ相応の少年が見せるみたな、屈託のない笑顔を浮かべたコンラートの顔など、あの当時には殆ど見た覚えがない。
 ヨザックは憎まれ口を叩こうとしたのを止めて、眩しいものでも見るみたいに目を細めた。

「お前…そういう顔して笑うようになったんだなぁ。本当に、幸せに暮らしてたんだ」

 それでは、やはり双黒の大賢者が言っていたことは正しかったのだ。出会ったばかりの村田を受け入れられたのは、彼の中に真実があったからだろう。

「そうなんだ。心配してくれてたんだとしたら、申し訳ないくらいだ」
「そっか…」

 噛みしめるように呟くと、ヨザックはコンラートの両肩を掴んで腕を伸ばし、その面差しを改めて確認した。端正な顔立ちと、肩幅のわりに細く括れた腰のライン。印象的な獅子を思わせる頭髪も変わりない。唯一変わっているのは、琥珀色の眼差しが柔らかさを湛えていていることだろう。クールビューティーと呼ばれていた昔とは随分な違いである。

『変わったって言うより、ずっと昔のこいつに戻ったみたいだな』

 初めて出会った頃のコンラートは、飄々とした父ダンヒーリー・ウェラーと共に世界を旅していて、多くの文物を体感してきたことで知識量の豊富な子供だったし、好奇心もちいさな身体から溢れ出すくらいに持っていた。
 だが父を亡くし、士官学校や軍隊での生活が長くなるに従って、笑顔は表面的なものに変わっていった。笑っているように見えても、どこか冷静な部分を残しているようだった。

 それがどうだろう?こんなにもあっけらんかとしているなんて、本人も言っているが、こちらの心配損というものだ。

「なんだ、グリエ。来ていたのか」
「む、グリエ・ヨザック。その無駄に大きなガタイでコンラートにのし掛かるんじゃない!」

 廊下の向こうからやってきたグウェンダルとヴォルフラムも、実にざっくばらんな態度で戸惑ってしまう。グウェンダルはともかくとして、ヴォルフラムは混血というだけでヨザックに敵意を向けていたものだし、それはコンラートに対してもそうだった筈だ。けれど、三兄弟はごく普通に声を掛け合って、時には微笑みをかわしている。元々が極めて麗しい容貌の三兄弟だけに、そうしていると輝くお花畑のような様相を呈する。

 村田から話には聞いていたものの、やはりこの目で見てみると衝撃が大きくて、ヨザックはぽかんと口を開けてしまった。 
 
「コンラッドー、お客さん?」

 現れた美貌の少年に、ヨザックは《ぅお!?》と息を呑んでしまった。貴賓室の扉を開けて現れた双黒は、村田とはまた違ったベクトルの美しさを持っていた。くりくりとした大きな瞳はどこかやんちゃそうで、理知的な村田とは《太陽と月》のように印象の違いがある。

「ユーリ、こちらが《死の道》でも生き残った古強者のグリエ・ヨザックです」
「年寄りみたいに言うなよ〜。自分だけ若いままだと思ってよぉ」
「コンラッドのは究極のアンチエイジングだもんね!」

 何だかよく分からない言語を使うユーリの後ろから、やはり双黒の少年がひょこりと現れた。こちらはヨザックが会いたいと願っていた双黒の大賢者だ。ユーリを見た時の驚きとはまた違った、胸が温かくなるような喜びがヨザックを満たしてくると、やはりこの少年には特別な思い入れを持っているのだと分かる。

「猊下、ご無事でしたか!」
「おかげさまでね。君にはお礼も言いたいし、ちょっと部屋に入らない?」

 素直な物言いが自分でも少し照れくさいのか、微妙に顔をずらして言うのが何とも可愛らしい。はにかむように淡く上気した頬に、ヨザックは自分の足取りが青臭い少年みたいに上っついているのを自覚した。

「お邪魔しまーす」

 気が付けば、声も妙に浮かれている。

『こりゃあ、よっぽどやられちゃってるのかねぇ?』

 にやけそうになる口元を大きな手の中に隠すヨザックは、そんな自分が照れくさいような…それでも、嫌いにはなれないような気がした。年月によって擦れてきたと思っていた自分の心にも、こんな柔らかい部分があったのかと、不思議な感動を覚えたくらいだ。



*  *  * 




 貴賓室に通されると、ヨザックは眞王に頼まれてアーニャという女性をヴォルテール領まで連れてきたのだと明かした。すると、コンラートが《追放巫女》という言葉に反応した。

「その巫女、もしかするとゲルトが穢したという女性かもしれないな」
「巫女さんてやっぱ、処女じゃないと駄目なの?」

 ユーリが心配そうに聞くと、コンラートは軽く首を振った。

「必ずしもそういうわけではないのでしょうが、その巫女はゲルトに眞王廟の内情を伝えてしまったそうですからね。ああいうところの守秘義務というのは厳しいでしょう」
「そっか…クビにされちゃったのか。でもなー、だからってなんでゲルトのところに来たんだろう?」
「恨み言を言いに来たか、《責任を取れ》と迫りに来たかですね」
「責任って、どうとるのかな?ゲルトのトコに永久就職ってのは、進路としては相当問題あるよね?」
「どうなんでしょうねぇ。こればっかりは男女の問題になりますから、俺には何とも言えません」
「うわー、大人の意見」

 ゲルト・アガザは重傷は負ったものの、一命を取り留めて領主館内に拘束されている。彼はこの後、眞魔国の法に従って処罰されるようだが、既にそれを上回る衝撃を受けているようだ。これまでは地球産の魔族としては異質なほど強い魔力を誇っていたゲルトだが、今現在、彼は全ての魔力を失っている。こちらの世界の要素は基本的に眞王との古の誓いを護っているから、村田が眞王の意志を取り戻し、ゲルトを否定した瞬間から、要素はゲルトに対して一切の祝福をもたらさなくなったのである。

 ちなみに、混血魔族が魔力を使えないのは、古の契約が《魔族》対象であった為、混血には原則として祝福を与えない設定なのだそうだ。眞王個人としては、別段混血を差別するという意識は無かったのだが、単に彼は《自分第一》であるから、純血魔族である自分を規準にして契約を交わしたのだろう。

 地球では大賢者が独自に要素と契約を結んだり、代々の魔王の内、魔力の強い者がやはり契約を行っていた経緯があり、純血・混血にかかわらず、特別に魔力の強い者だけが独自契約で要素の力を借りていたらしい。

 それでは何故、眞魔国にやってきた混血であるユーリやゲルドが魔力を使えたかというと、地球産の魔族についてはユーリが魔力を使えるようにと眞王が設定変更を行っていた為だ。要するに、眞魔国で魔力が使える使えないは、眞王と要素との契約次第ということらしい。

 その理屈で行くと、コンラートやヨザックも眞王の設定次第では魔力が使えるようになると言うことなのだろうか?少し気になるところである。



*  *  * 




 領主館の離れは薄暗く、重厚な壁には魔力と物理的力の双方を防ぐ性質が備えられている。尤も、厳重な警備のもと捕らえられているゲルト・アガザには、その両方の力が欠けていた。ただ、眞王に否定されて全ての魔力を失ったとはいえど、恨みによってユーリを傷つける可能性は高い。今後どのような罪状が当てはまるかは不明だが、何らかの罰を与えられるのは確かであったので、このまま王都に搬送されるまでは領主館で捕らえておかなくてはならない。

「おい、来客だぞ」

 こちらの世界に知り合いなど殆どいないはずの彼は、衛兵からそう告げられても心弾ませることは無かった。どう考えても、恨み言を言いそうな相手しか思いつかなかったからだ。

 案の定、通路に姿を見せたのは眞王廟で誑し込んだアーニャという巫女であった。

「嗤いに来たのか?」
「それほど暇ではありません」

 端正な面差しを歪ませることもなく、アーニャは淡々とした態度でゲルドを眺めている。一体何の為にやってきたというのだろうか?

「お礼を申し上げに来たのです」
「…礼だと?」

 《何のことか》という顔をして睨み付ければ、アーニャは臆した風もなく、やはり静かな表情で言葉を続ける。

「あなたは仰いましたわ。私を眞王廟から開放してやる…と」
「ああ、そんなことも言ったか」

 ゲルトが眞王廟を尋ねた時、多くの巫女が眞王の変容を嘆き、大きすぎる秘密に背を折られそうになりながら暮らしていた。巫女を率いるべきウルリーケも眞王の制御に全精神を集中させており、不安定な状態が長年続いていた。

 そんな心境を読み取ったゲルドは言葉巧みにアーニャを絡め取り、また、濃厚な口吻と合わせて強い媚薬を使ったことで、眞王廟の内情をつぶさに知ることか出来た。
 筈…である。
 《筈》というのは、アーニャの表情がゲルドの想定とは異なっているために、何やら妙な不安を覚えるせいだ。

『この女、何を考えていやがる』

 アーニャは弱った心の隙を突かれて《失態》を演じ、眞王からの叱責を受けたはずだ。実際、彼女は追放されたと聞いているから、巫女としては厳罰に処せられたと考えるべきだろう。なのに何故、アーニャの瞳には恨みの色がないのだろう?

「約束を守ってくださって、ありがとうございます」
「…なに?」

 アーニャは旅疲れた顔を一瞬だけ、鮮やかな笑みで彩ると、また静かな表情に戻っていった。どうも訳が分からない女だ。誑し込むのは予想以上に容易かったものだから《世間知らずめ》と嗤っていたのだが、どうもこの女、確信犯的なところがある。

「私、疲れ切っていたのです。眞王陛下の御意志が伝えられることなく、日々病んでいく眞王廟で暮らすことが、耐えきれないほど苦痛だったのです」
「逃げれば良かったじゃないか」

 吐き捨てるように言ってやれば、アーニャは苦笑して首を振る。

「切っ掛けが掴めなかったのですわ。だって、私はずっとずっと…もう500年もあのような生活を送っていたのですよ?」

 500年…それは、ゲルトにとっても想像の枠外にある年月であったが、多少想像することができるのは、ゲルトもまた地球世界では《異質》な存在として、若いまま100年の時を過ごしてきたからだろう。

「それでもあの状況から抜け出す術を知らなくて、喘ぐようにして毎日を過ごしておりました。毎日毎日…叶わぬ祈りを抱えて暮らす日々は、まるで陸に揚げられた魚のようでした。ですからあの日、あなたが現れた時…迷わず手を取った。あの日常から抜け出させてくれるのなら、誰だって良かったのです。罰が与えられるのならそれでも良い。とにかく、私は眞王廟から出たかったのですから」
「行き先が別の牢獄でも構わなかったと?」
「ええ。環境が変わるのなら、それで良いと思っておりました」

 そこでアーニャは上向くと、壁に空いたちいさな明かり取りの窓を見やり、眩しそうに目を細めた。

「ですが…自棄になっていた私を、眞王陛下はお咎めにはなりませんでした。《それほど出たければ出ればよい》とだけ仰って、私を巫女の役職から解いて下さったのです。同時に魔力は失いましたが、巫女でなくなった以上、それほど魔力があってもどうということはありません。寧ろ、魔力があることで利用されることを考えれば、とても寛大な処置だったのだと思います」
「眞王への感謝を俺に言ってどうする」
「切っ掛けを下さったのはあなたです。あなた自身にどのような想いがあったにせよ、私はあなたの手を取った。ならば、最後まであなたに沿ってみるのも一興かと思ったのですよ」
「…なんだと?」
「これからは、私が身の回りの世話をさせて頂きます。勿論、衛兵の皆さんの監視下でということになりますけど」
「は?」

 何だろう、この女。まるで会話が噛み合わない。一体何を求めて、全てを失ったゲルトの傍に居ようと言うのか。以前はゲルトの容貌を狂信的に崇拝する女もいたが、再生力を失ったゲルトの肉体は醜く歪んでいる。辛うじて顔は人がましい輪郭を留めているものの、コンラートに切り裂かれた眼球は完全に潰されているから、残された部分が端正であるだけに不気味に映るだろう。

「眞王陛下は仰いました。《世の中、幸せになった者勝ち》だと。ならば、私なりの価値観で幸せになってしまえば、私は勝者となれる。ですから、あなたを選んだことを敗北にしないために、お側で幸せになるつもりです」
「…………」

 にっこりと微笑んだ巫女は以前の神秘的な雰囲気を払拭し、どこか不貞不貞しいまでの力強さを感じさせた。
 単純に《操を捧げる》ことへの執着であるのかもしれないが、それにしたって、ここまで落ちぶれたゲルドの傍にいたいとは…随分と珍妙な女である。

「…好きにしろ」

 呆れ果ててそう言ってしまった瞬間に、ゲルドは奇妙な予感を覚えた。
 
『俺はひょっとして…この女に一生頭が上がらないのではないだろうか?』

 この感慨は数十年の後にゲルドが死を迎える瞬間に、再認識されることになる。
 ゲルドにとってそれは決して苦いものにはならなかったのだが…この時の彼にとっては、魔力を失うよりも不安を誘う予感であったという。



*  *  *  




 ピチョン
 ピチョン…

 静謐な大気を微かに震わせて、幾つかの水滴がしたたり落ちていく。その度に、ごく僅か鍾乳石は成長していった。長い年月を掛けて独特の形態を持つようになった鍾乳洞の中に、その《箱》は一体いつ頃から存在したのだろうか。一見すると何の変哲もない木箱のようであるが、その表面を彩る禍々しい模様と、それ以上におぞましい雰囲気とが、これがただならぬ物体であることを示している。

 また、微かな照明に照らされる《箱》の周囲には、色とりどりの宝石が見て取れる。それは自然発生したものではなく、ある目的を持って人工的に填め込まれたものであった。それらはライトの青白い光に照らされて、神秘的な光を湛えている。

 それらの光景はもう見慣れたものであったが、ヴィクサム・ベルドゥースは監視室から注意深く視線を辿らせる。

「数値に変化は?」
「今のところ、正常値です」

複数のモニターを眺めながらオペレーターが答えるが、問いかけたヴィクサムは納得しなかった。傍らで様子を伺っている渋谷勝利とボブもまた、怪訝そうに眉根を寄せている。彼らもまた、このところ《箱》が示している異常に気付いているのだろう。

 有利が銀細工人形のコンラートと共に姿を消してから1年が経過する間、ヴィクサム達は自分たちの役割を認識して、まずはゲルド・アガザが率いていた《クリスタル・ナハト》の壊滅作戦を実施した。これを半年間掛けて達成すると、次に着手したのがこの《箱》の監視であった。

 双黒の大賢者が地球に持ち込んだとされる《鏡の水底》は、途中に幾らかの危機的状況を経はしたものの、近年は魔族の手で厳重に保管されてきた。
 だが、ここ数ヶ月の間に《箱》は隠しているだけでは危険を回避し得ない状態にあることが分かってきた。このため、スイスの魔族本部に設置されたこの監視施設に、ヴィクサムは殆どの期間常駐していた。

 これまで寸暇を惜しんで育んだ企業はというと、能力の高い部下に経営を委ねている。有能なだけに、放置していると経営権を奪われかねない男ではあるのだが、今のヴィクサムはそれでも良いと思っている。どうやらこの一年で、色々と価値観が変わったらしい。

 勝利は大学を休学し、ボブと共に世界中に点在していた魔族を集結して、いつか《禁忌の箱》を廃棄するために戻ってくるだろう有利の為に、力となれるよう魔力を集めている。それらの魔力はやはりヴィクサムの作り出した機器によって、《鏡の水底》の封印にも役立っていた。おそらく、それらの働きが無ければとうの昔に《鏡の水底》は暴走し、鍾乳洞を破壊して外界にまで影響力を及ぼしていたことだろう。

 しかし、ここ数週間の数値は極めて異常だ。幾つもの魔石が耐えきれずに割れ始めると、次第にヴィクサム達の心にも焦りが現れてきた。そうやって焦ってしまうこと自体が、有利が戻って来ないのではないかという不安と綯い交ぜになって、彼らの…ことに、ヴィクサムと勝利の心を蝕むのだった。

『ユーリ…どうしているんだ?無事でいるのか?』

 気が付けばあの可憐な姿を思い出して夢想に耽りそうになるのだが、モニターの様子を伺うとそれどころではないのを思い出して気を引き締める。
 油断すると、全裸のユーリといんぐりもんぐりやっている妄想までしてしまいそうなので、人に見せられない顔になるのだ。(←色々溜まっているらしい)
 
「数値に異常なしか。だが…嫌な予感がする」

 鍾乳洞に封じられた《禁忌の箱》からは、以前から創主の力が溢れ出ていた。ヴィクサムは魔力を濃縮させた魔石をもとに、創主の力を計測する機器を作り出すことに成功したのだが、ここのところの数値から考えると、逆に正常であることの方がおかしいように思う。試行錯誤して作り出した機器だけに、不完全な部分もあるとは思うのだが…。

「ひっ…!」

 オペレーターが改めて計器を確認すると、悲鳴に似た声を上げた。見れば、先程まで正常値を示していた計器が一気に振り切れて、最大値を示している。

 パン…パパパ…っ!!

 炸裂音を耳にして反射的にモニターを見れば、鍾乳石に填め込まれた魔石が次々に破裂していく。溢れ出した力に抗しきれなくなったのだろう。

「くそ…っ!」

 ヴィクサムはモニターを睨みつけると、嗤うようにして《ボコォ…っ!》とがたつく《箱》の姿に覚悟を決めた。どうやら魔石によって間接的に封じていられる状況を越えてしまったらしい。新たな魔石を集めてくるまでは、直接封じに行くしかあるまい。

「私が行こう」
「俺も行く」

 ヴィクサムの決意を受けて勝利も立ち上がるが、それは手で押し止める。

「いや、君はここにいてくれ」

 世界に散在する魔族達に対して意外なほどの指導力を発揮した勝利は、今では次代の魔王として期待を掛けられている。魔力についてもこれから能力が華開こうとしている時期だということも考え合わせると、出来る限り温存しておきたい。
 ボブにも視線を送って勝利を止めさせると、ヴィクサムは一路鍾乳洞に向かった。あの空間はこの監視施設の地下にあり、エレベーターで繋がっている。耳がキィンと鳴る不快感に眉根を寄せながら、ヴィクサムは壁面に設置された小さなモニターを睨んだ。そこにも《箱》の姿が映し出されていた。

『ユーリ…君のお兄さんは、私が護る。だからどうか、安心しておくれ』

 《いつか私のお義兄さんにもなるわけだし》という類の冗談は、大抵勝利に鼻で嗤われるか、虫の居所が悪いと掴み掛かられる類のネタだ。自分でも失笑混じりになることはあるのだが、そうして口にしていないと、もうあの子に会えないような気がしてしまう。

『会いたいよ、ユーリ…』

 彼のことを殆ど何も知らないまま別れてしまったヴィクサムは、心底あの銀細工騎士を羨ましいと思う。生まれた時から傍にいて、異世界に旅立つに際しても迷い無くその身を投げ出していたあの男…ウェラー卿コンラート。彼は今、母国である眞魔国でどうしているのだろう?
瞼を閉じると、様々な妄想が湧いてくる。

 《うふふ、あはは》と笑いながらお風呂で流しっこをするユーリと人形。お布団で沿い寝するユーリと人形。もしかすると、若い性を持て余して熱く火照った身体を持て余している時にも、色んな意味でお世話するかもしれない人形…。
 腹立たしいほどに羨ましいが、奉仕は出来ても欲望を完全に満足させることは出来ないだろう。

『ああ…っ!火照った身体は是非、私に任せて欲しいのに…っ!!』

 こんな緊急時に際しても妄想癖が止まらないヴィクサムは、ある意味では幸せな男であった。

 ただ、妄想癖はあってもやることはやるのがこの男である。エレベーターから降りると素早く跳躍して、《鏡の水底》が繰り出す水の礫を避ける。礫とは言っても破壊力はなかなかのもので、先程までヴィクサムがいた場所を砕いているのだろう破壊音が、後方から響いてくる。その様子を視覚で確認することもせず、ヴィクサムは直進して《箱》に向き合うと、魔力を込めて両手を翳した。

「大人しく封じられてくれよ?」

 有利が還ってくるまで、ヴィクサムはこの地を護らねばならない。《ヤル時はヤル男》という認識を持って貰うことで、夜にヤリたいことを成し遂げたいというのは、理由の6割5分くらいを占めている。(←結果的に世界平和に尽くしているので、これも一種の煩悩即菩提である)

「は…っ!」

 ガタガタと震える《箱》は、今にも臓腑をぶちまけながら溢れ出てきそうだったが、ヴィクサムが集中すると、一瞬、律動を止めた。
 しかし微かに安堵したのが拙かったのか、あるいは、力の放出を弱めたわけではなく、跳躍の前の助走のように力を溜め込んでいたのか、一瞬の後には下腹に響くような衝撃が起きて、《箱》は大きく蓋を突き上げた。

「くそ…っ!!」

 毒づきながらも引くことなく、額から汗を噴きだしながらヴィクサムは前進していく。その行く手に立ち塞がる《箱》は嗤うような振動を響かせて、次々に丸い礫を浮き上がらせた。数百…いや、数千の礫が空中に浮いている。即座には攻撃せず、嬲るようにその数を増やしていくのは、外傷よりも先にヴィクサムの心を折ろうとしているのか。恐怖に負けて背を向けた瞬間に、敗北感を味あわせながら貫くつもりなのか。

 生き残っている通信装置から、盛んに勝利が《撤退しろ!》と叫んでいるが、今回は聞く気はない。

『背は向けない。決して』 

 自己満足にしかならないとしても、せめて《勇敢な男だった》と有利の記憶に留めて欲しい。そう願いながらヴィクサムが退却ではなく突撃を選択した時…。

 辺りの様子が急変した。

「…っ!?」

 陰湿な薄青い光に照らされていた鍾乳洞に、種を異にした光が満ちる。
 やはり蒼いのに、こちらは生き生きとした空の蒼を思わせる晴れやかさと明るさを湛えている。それが、ふわりとヴィクサムを包み込むように触れてきた。

『頑張ってくれて、ありがとう』

 心を込めて囁かれた可憐な声を、ヴィクサムが聞き間違えるはずがない。
 これは…この声は!

「ユー…リ?」

 熱いものが込みあげてくるのを感じながら、ヴィクサムは見た。
 今にも爆発しそうな勢いだった《鏡の水底》を囲むように、5つの姿が取り囲んでいる。それらは手を取り合って、魔力を中心部に置かれた《箱》に集中させていた。





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