「お伽噺を君に」 「諸君…っ!ウェラー卿コンラートは無事、眞王陛下の御下命を果たし、双黒の次期魔王陛下を眞魔国へとお連れした…っ!!」 わぁあああああ……っ!! 沸き立つ大歓声はヴォルテール軍、ルッテンベルク師団は勿論のこと、反射的にシュピッツヴェーグ軍にも波及していき、怒濤の勢いで夏の大気を振動させていく。明るい話題に乏しい眞魔国にあって、誰もがこの奇跡のような帰還劇に酔いしれており、彼が麗しの双黒を連れてきたというお伽噺のような展開に歓声を止められないのである。 「お…お前達、あれは双黒ではあるが次期魔王などでは…!」 慌ててシュピッツヴェーグ軍の士官達が止めようとしても、一度沸き起こった歓声は止むものではない。拡声器等といった気の利いたものがない世界では、ただ各人に与えられた声帯の質と肺活量、そして、持ちうる覇気の強さが人々に主張を伝えるのである。 「英雄の帰還だ…っ!」 「ルッテンベルクの獅子…っ!!」 「還ってきた…眞魔国の英雄が、双黒の君を伴って帰還された…っ!!」 うぉおおおおおお……っ!! 荒野が、ビリビリと振動している。 熱せられた大気は男達の興奮の度合いに従ってヒートアップしていき、止めどない感動が脳髄を沸騰させていく。 普段は混血を軽んじている者であっても、相手が《眞魔国を護る為に殉死した英雄》となれば話は別である。混血であろうが無かろうが《ルッテンベルクの獅子》の名は眞王に次ぐ英雄として民の間には浸透しており、シュトッフェル達純血魔族も《死した男であれば多少名声が上がろうとも気にすることはない》と放置していた。その為、士官級の純血貴族達はともかくとして、一般兵達の心には深くコンラートの存在が刻まれていたのである。 ザ…っ! コンラートが腕を水平に払って《静粛に》との意図を示すと、これまでシュピッツヴェーグ軍士官達が声を張り上げても全く制止出来なかった歓声がぴたりと止む。この場に居合わせた人々の全てが、好悪の感情はさておき、コンラートの一挙手一投足に熱い眼差しを送っていた。 「フォンシュピッツヴェーグ卿シュトッフェル閣下、次期魔王陛下の御前に出られよ!」 「な…な……っ!」 ウェラー卿コンラートの呼ばわりに対して、シュトッフェルは救いを求めるように傍らの側近達を見回し、誰かが《無礼な!》とか、《閣下、突撃命令を!》と言い出すのを待っていたのだが、誰もが驚愕によって思考力を静止させていた。彼らは一様に、この何とも言えない空気感に飲み込まれているようだった。 誰かが《馬鹿な!》と余裕を持って一笑に伏してくれれば、眞王の後ろ盾などない《次期魔王陛下》など何の意味もないと跳ね飛ばせるはずなのに、双黒のあまりの美しさと、喪われたはずの英雄が生還したことへの驚きによって、無体な発想を封じられているようだった。 一体この状況はどう動いていくのだろうか?観衆達の誰もが見守る側に回ってしまって、自ら流れを作り出すだけの自信が持てないようでもあった。 その為、シュトッフェルは精一杯の威厳を保ちつつも、内心動揺しまくりながら馬を進めていくことになる。すると、よりにもよって身内から馬の綱を引かれてしまった。 「な…なんだ!?」 「次期…いえ、双黒の君は徒(かち)でらっしゃいますので、そのぅ…」 「ぐ…ぬ……っ」 半ば無意識に騎乗のまま歩を進めていたシュトッフェルだったが、双黒が自分の脚で立っているというのに、その前に騎馬で向かうのは《無礼ではないか》と、ごく自然に参謀官が言うのである。 またしても救いを求めるように辺りを見回すシュトッフェルだったが、やはり誰の口からも、この参謀官に対して《無礼者!》と言い出す者はいなかった。それどころか、指摘を受けても尚モタモタしているシュトッフェルに対して、一般兵を中心として《何をしているのか》と言いたげな圧迫感を送りつけてくる。この場では、シュトッフェルこそが《無礼者》なのだと言わんばかりに。 『な…ななな…何故だ!わ、私は摂政だぞ!?当代魔王陛下の信任を受けた摂政なのだぞ!?眞王廟からの魔王指名を正式に受けていない双黒の前で、何故徒にならねばならぬ…っ!』 わなわなと怒りに顔を赤黒く染めるシュトッフェルだったが、端然として待っている双黒と獅子を前にして、馬を降りないわけにはいかなかった。例えこちらが相手を次期魔王として認めていないにしても、やはり双黒に対しては一定の敬意を払うのが常識であろうとも思えてきた。少なくとも、《紳士》を自負するシュトッフェルとしては、この場で荒々しい命令を放つことは出来なかった。 『くそぅ…もう一人の双黒といい、なんだってこいつらはこんなにも偉そうなんだ!?』 そう、シュトッフェルが他の連中に比べると双黒に対して恐れ入っていないのは、多少《もう一人》の方で免疫が出来ているからだ。《ムラタ・ケン》と名乗った双黒は、やはり愛くるしい少年の姿をしていたが、こちらは自称《双黒の大賢者》であった。捕らえたはずの兵達はその威厳に打たれて一様に敬服しきっており、自然とシュトッフェルの方が下手に出る形となった。 しかも彼は事も無げに、《眞王に会いたい》等と言い出したのである。旧来の友である男と、久方ぶりにじっくり話がしたいというのである。 『会えるわけがなかろう!』 その言葉が喉元まで出掛かっていたが、とても口になど出来るはずはない。眞王がとっくの昔に意識混濁を起こし、下手をすると暴走しかねない状況だ等とは。巫女の頂点に立つウルリーケを初めとして、有能な巫女は全て眞王の封印に回されている為、現在の眞王廟は全くと言っていいほど機能しなくなっている。 何しろ、シュットッフェルが勝手に《眞王勅令》を出しても、魔力無しでの情報収集力に欠ける巫女達は何の苦言もしてこないほどなのだ。 結局、シュトッフェルはのらりくらりと双黒の大賢者の追求をかわし、こうしてヴォルテール領に侵攻してきたのである。グウェンダルの腹心の部下であるグリエ・ヨザックが傍に《情夫》としてついているのは不安ではあるが、厳重な警備網は敷いているから、まず問題はないはずである。 大賢者を足止めしている間に、もう一人の双黒を捕らえて懐柔すれば、ある程度の権威を保てるのではないかという計算もあったから、かなりごり押しの計略だとは分かっていても後戻りは出来なかった。 「…っ!」 内心舌打ちしたいような気分で馬を降りると、居住まいを整えたシュトッフェルはカシンカシンと鎧を鳴らしながら歩いていく。すると、コンラートは口元こそ微笑を形作ってはいるものの、眼差しはスゥ…っと眇められて鋭い色合いを帯びる。 『う…恨んでおるのか?』 ギクリと身震いするような悪寒を覚えて、シュトッフェルの歩速が鈍る。恨まれる覚えなら…沢山ある。特に、コンラートが動員された《死の道》での戦いは、敗戦国としてシマロンを嬲り、私益を貪ろうとしたシュトッフェルの行為から出ていることは、今では誰もが知っている。 どぅ…っと溢れ出す汗はとても薄手の肌着程度で止められるようなものではなく、分厚く華美な甲冑との間でねちゃねちゃして、如何にも不愉快である。 『くそぅ…くそぅ…何故私がこのように居心地の悪い思いをせねばならんのだ!』 こんな筈ではなかった。 グウェンダルの事だからそう簡単に双黒を渡すとは思わなかったが、包囲網を敷いて様々な策略を経ていけば、最終的には決断するものと踏んでいた。そもそも、双黒の大賢者等という者さえ現れなければ、もっと威圧的な眞王勅令を捏造出来たのである。 「これはこれは…双黒の君、ご機嫌麗しゅう…」 我ながら内心の動揺を上手く隠して、紳士然とした笑みを向ければ、輝くほどに麗しい双黒は、にっこりと微笑んでシュトッフェルを迎えた。てっきり、コンラートやグウェンダルが吹き込んだ予備知識で敵意を示してくるかと思ったが、意外なほど穏やかな対応である。 「初めまして、フォンシュピッツヴェーグ卿シュトッフェル。此度は俺の出迎え、ご苦労さま!」 「…は?」 意図を測りかねてシュトッフェルが顔を上げれば、極々自然な表情で、双黒は重ねて労いの言葉を掛けた。 「でも、こんなに大仰な軍勢を寄越してくれなくたって良かったのに。ねー、コンラッド?」 親しげに後ろを振り向けば、《コンラッド》と癖のある呼び方をされたコンラートは《ご尤も》という風に頷いてみせる。 「確かにここまで一軍を率いてくる経費を考えると、近年の眞魔国の経済状況を考えれば幾分浪費との感もありますね。ですが、これも敬意と忠心の表れとして受け止めて差し上げては如何でしょうか?」 「しょうがないなー、コンラッドが言うならそうしようかな。でもね、フォンシュピッツヴェーグ卿。こういうのはこれっきりにしてね?俺は無駄遣いとか大嫌いなんだよ」 親しげに見えていた双黒の瞳をよく見れば、その深い色合いの奥に強い敵意が隠されているのが分かる。穏やかな口調ながら、威圧するような眼差しを向けられて、再びシュトッフェルは自分がどう行動すべきかについて懊悩した。 次期魔王として遜(へりくだ)るべきなのか、あくまで尊貴な双黒の身ながら、摂政に比べれば下位の存在なのだと見なすべきなのか。 悩んだ挙げ句、シュトッフェルはあらん限りの威厳をかき集めて後者の選択をした。ここで序列を明らかにしておかなければ、済し崩しに《次期魔王陛下である》との既成事実を固められてしまうと思ったのだ。 「いやいや、これは無駄遣いなどではありませんよ。私は甥であるグウェンダルの軍事力は正当に評価しております。同時に国家的局面の見えぬあまり、若さゆえの過ちをしがちであることも存じております。フォンヴォルテール卿グウェンダルからどのようにお聞き及びかは分かりませぬが、これだけは申し上げておきます。我が甥は尊貴たる双黒の君を私益の為に独占しようとしておりますが、これは魔王ツェツィーリエ陛下に対する反逆とも受け止められかねない危険な行為であると同時に、国益を損ねることにも繋がるものであります。私は何としても双黒の君を無事に!如何なる困難にも打ち勝って!ツェツィーリエ陛下の御許にお連れすべく、一軍を率いて参った次第で…っ!」 シュトッフェルがつらつらとグウェンダルの不正を捲し立て、自分が如何に眞魔国を想う官吏であるかを主張しようとすると、双黒はぴしりと鋭い語調で差し止めた。 「フォンシュピッツヴェーグ卿、これ以上無用な言葉などいらない」 幼いながらもその面差しと声には威迫があり、明らかにシュトッフェルを自分より下位の存在であると見なしていた。周囲の反応もそれを《当然》として受け止めている感があり、シュトッフェルは益々焦りを強めていく。 「あんたは眞王陛下の命令に従って俺を迎えに来たのではないのか?四の五の言わずに、一刻も早く俺の望みを叶えることこそが、国益にも繋がろう」 「こ…これは何を申されますかな?」 思いがけない言葉に、シュトッフェルはまたしても背中に嫌な汗が伝うのを感じた。よりにもよってこんな場所で何を言い出すのか。 すると、訝しげな表情でコンラートも問いかけてきた。 「そうですとも、フォンシュピッツヴェーグ卿シュトッフェル閣下。幾ら当代魔王陛下とはいえど、眞王陛下を差し置いて、先に次期魔王に顔合わせをする権利など無いはずでしょう?まずは眞王廟に参るのが先決の筈です」 「き、貴様…コンラートっ!さっきから聞いておれば随分と勝手な事を!次期魔王陛下だと?一体なんの根拠があって…」 事が事だけに小声で囁きかけたのだが、怒号行き交う戦場でさえ良く通ると評判のコンラートが嘆かわしげに声を張ると、あっという間にそこいら中に伝わってしまう。 「これはしたり!閣下、我が双黒の君を次期魔王陛下として認められないと仰せか?それは、眞王陛下に対する反逆と受け止めるが、如何か!?」 ざわ…っ シュトッフェルが咄嗟に言い返すことが出来ず、わなわなと唇を震わせている内に、シュピッツヴェーグ軍の中には強い動揺が広がっていった。 シュトッフェルが普段用いている論法を、まさかコンラートがそっくり真似てやり返してくるとは夢にも思わなかった。 『お…おい、俺たちは眞王陛下の勅令に基づいて行動しているんだよな!?』 『これじゃあまるで、俺たちが討伐される側じゃないか!?』 ざわめきを漏れ聞いたシュトッフェルは、紳士の仮面をかなぐり捨てると、口泡を飛ばして激高した。 「反逆だと!?それは貴様の方だろうっ!」 「正邪は眞王陛下が全てお見通しです。その為にも、我らは眞王廟に向かうべきだ」 コンラートはシュトッフェルの挑発には乗ってこず、実に淡々とした声音で断言する。それが腹立たしくて、シュトッフェルは《弁舌によって立つ》という彼にしては珍しく、舌を縺れさせていた。 「無茶な…!ゆ、赦しも得ずに訪れるなど…!」 「赦しなら得ておりますとも」 「得ているはずがない…っ!」 「何故です?」 「書面がないであろう!?」 「先程からどうもおかしいですね摂政殿。何故そうも頑なに、我らが眞王廟に向かうことを留め立てされるのか。まるで…」 矢継ぎ早の応酬を突然緩めたかと思うと、コンラートは琥珀色の瞳と唇に嘲笑の色を浮かべた。 「眞王陛下が、そこにはおられないかのような慌てぶりだ」 「…っ!」 この男は一体何処まで知っているのだろうか?よく似た偽物をコンラートに見立てているのではないかとも思っていたが、やはり間近で見てみると、あの底知れない男の雰囲気をそのまま維持している。これはどう考えても本人だろう。そうであるならば、出立の直前に眞王廟からの召還を受けていた彼が、次代の魔王陛下を連れてきてもおかしくはない。 だが、この場でコンラートを《嘘つき》に仕立て上げる以外に、シュトッフェルには摂政としての権威を護る術を持たなかった。 眞王廟に連れて行くと言っておいてその間に策を練ることも考えられたのだが、コンラートをこのタイミングで謀殺することは如何に言っても困難に思えたから、シュトッフェルは荒々しく腕を振るうと、自分的には覇気の籠もる声で朗々と叫んだ。 「者共、この無礼者を引っ捕らえよ!」 だが、誰も動く者は居ない。誰もが目と目を合わせて《お前が行けよ》と言う顔をしている。直接の上官であるシュトッフェルの命令には背き難いが、さりとて、コンラートと双黒に手出しをして本当に彼らが眞王の意志で動いているとすれば、孫子の代まで祟られそうである。 「何をしている!こいつらは畏れ多くも次代の魔王陛下と、死した英雄ウェラー卿コンラートを騙っているのだぞ!?私には分かる、この者達が偽物だと…!」 シュトッフェルが口泡を飛ばしながら尚も命令を重ねるていると、突然、人々の頭蓋内直接響くような声が聞こえてきた。 「フォンシュピッツヴェーグ卿シュトッフェル、俺の遣わした魔王が気に喰わぬか?」 殷々と響くこの声は、誰もが初めて耳にするものであった。唯一人知っている者がいるとすればコンラートだけであったのだが、それでも、やはり誰もが聞いた途端に確信した。この声の主が誰であるのか、魔族は骨髄に染みるようにして刷り込まれているのかも知れない。 「ま…まさか…」 「眞王…陛下!?」 その《まさか》であった。 今日は《まさか》の大安売りなのだろうか?彼らの上空にはいつの間にか金髪碧眼の男が佇んでおり、人々を睥睨していた。しかもその横には、寄り添うようにして双黒の少年もいた。 眞魔国では珍しい眼鏡を掛けた少年は、双黒の大賢者《ムラタ・ケン》である。血盟城に半ば監禁状態にしていたはずなのに、一体どうしてこんなところにいるのか。それに、傍らにいる金髪の男はあまりにも、眞王の肖像画に酷似していた。 「ぅお…っ!?」 「もう一人双黒が…!」 交感神経の異常緊張で、血管収縮と弛緩を繰り返している兵達の中には、とうとう立ちくらみを覚えて膝を突いてしまう者さえ居た。 「はぁ〜い、眞魔国のみんなー。よい子にしてたかな〜?眞王と双黒の大賢者だよー」 ひらひらと手を振る双黒眼鏡少年から《双黒の大賢者》という伝説の名が出されると、眞王とのダブルパンチに耐えられた者は殆ど居なかった。 「ははーっ!!」 ザザザザ……っ!! コンラートや次期魔王に対する歓声とはまた違ったベクトルで恐れ入った人々は、一斉に膝を突いて頭を垂れた。この時ばかりはシュトッフェルとて例外ではなかった。いや、誰よりも彼が一番頭を深く下げ、殆ど地面に擦りつけんばかりにしてぶるぶると震えている。 いまや、誰の目にも明らかであった。 フォンシュピッツヴェーグ卿シュトッフェルは、眞王の信任など受けてはいないのだと。 * * * 「村田…っ!どうしてここにっ!?」 心配していた友人がぷかぷかと中空に浮いている様子に、ユーリは目をぱちくりさせて仰向いた。流石にユーリは平伏したりしなかったが、傍らにいたコンラートは自然な仕草で騎士としての礼をとっていた。 「ま、事情については後で説明させて貰うよ。今は、君の為に僕が結構頑張ったんだよってことを覚えておいてくれたらいい」 「そーなの!?」 懐かしい声は滑らかに眞魔国語を操っており、日本の高校生二人がこんな場所で、《大賢者》と《次期魔王》なんて偉そうな立場に立っているのが実に不思議になる。ついこないだまでは当たり前のように、ファーストフードを摘みながら日本語で喋っていたのが信じられないくらいだ。 「今はそんなことよりも、君の身分をこの馬鹿摂政…いや、元馬鹿摂政に認めさせる方が大切だろう?民の前で君が愚弄されるなんて、双黒の大賢者としては末代まで呪ってやりたいくらいの恥辱だからね」 《うふふ》とはにかむように微笑む癖に、どうしてそんなに舌鋒が鋭いのか。そして、背後から滲み出てくる迫力が瘴気を含んでいるのか。 シュトッフェルはだくだくと蝦蟇の膏のようなものを汗腺から溢れさせ、額を擦りつけた地面にじっとりと染みこませていく。 「さーて、元摂政君。用意は良いかな?」 殊更《元》という部分に力を込めて呼ばわると言うことは、もしかして、正式にシュトッフェルは罷免されたのだろうか? 「げ、猊下…それは一体何のご冗談ですかな?元…など、私は今も忠実な眞王陛下のしもべであり…」 「しもべ?ほぅ…忠実なしもべというのは、主が眠っている間に勝手な勅令を発布する、こそ泥のような者のことを指すのか?」 睥睨する眼差しの鋭さと、別段語調を強めたわけではないというのに威迫溢れるその物言いは、先程シュトッフェルが自棄になって発した声とは隔絶していた。 「衛兵共、この反逆者をひったてい!」 正式な罪状も明かしていないというのに、衛兵達は驚くほどの反射速度で元摂政・元上官を拘束すると、そのまま馬車に連行した。それも、当然のように貴賓用の馬車ではなく、捕虜連行の為の、頑丈さだけが売りのそれに荒々しく放り出した。 その間に、眞王と大賢者はふわりとユーリ達の前に降りてくる。体格に優れた美丈夫である眞王だったが、傍に寄ってみるとユーリは《あれ?》という顔をして手を伸ばした。 すると、亡霊のように手が抜けると言うことはなかったのだが、やはり触れた胸板は生きている人間のものではなかった。左胸に、心臓の拍動は無かったのである。さりとてゾンビというわけでもなく、どこか濃い要素が固まって出来た精霊のような感触だった。 「ふむ…流石は俺が選んだ魂の担い手だ。よく要素を読み取る」 「やっぱり、今のあんたは実体を持っていないの?」 「実体などとっくの昔に失っているさ。今は思念体として維持している」 《それも暫くの事だろう》との言葉は、ユーリ達傍にいた者にだけ聞こえるよう囁かれた。この場に居合わせた民の全てに知らせてしまうには、彼らは眞王という存在に依存しきっているからだろう。 「そんなことはさておき…」 眞王はくるりと振り向くと、浮き足立つシュピッツヴェーグ軍に向けて獅子吼を浴びせかけた。 「その方ら、この俺の選んだ魔王に不足でもあるのか!?」 ドン…っと覇気を浴びせられた兵士達はびりびりと頬の皮膚が震えるのを感じながら、声を出すことも出来ずにいた。辛うじて、シュトッフェルの側近の内、幾人かが居住まいを正して何とか口を開くことに成功していた。 「滅相もございません!」 「では、これらの軍は我が魔王を迎えに来た《少々武張り過ぎた歓迎団》として捉えて良いのだな?」 「も…勿論でございます!」 「だが、魔王が言うように武装規模が大きすぎる。即刻主力軍を自領に戻し、貴官らは我が軍師たる大賢者の指示に従うが良い。フォンシュピッツヴェーグ卿シュトッフェルについては、俺の名を騙り、勅令を発布した罪を筆頭に、種々様々な横領、偽装、隠蔽の証拠が挙がっておる。国法に基づき、厳正に罪を問え!」 「ははっ!」 今更シュトッフェルの意向を汲んで、眞王の決定に逆らう馬鹿などいない。如何なる兵も士官も、平伏して従うほか無かった。 それが、ユーリとしてはちょっと面白くない。 「ちぇ。俺たちだけでも押せると思ったのになー」 とにかく眞王廟に赴いて、そこで眞王が自我を失っているとしても、現魔王ツェツィーリエを説得して退位を薦めるつもりだったのだか、まさか御大の方がやってくるとは思わなかった。 「まだまだ俺の影響力も捨てたものではないようだな。ユーリよ、お前の威光はこれから養っていくが良い。それまでは我が大賢者を傍に置いておいてやろう」 偉そうな眞王の物言いに、今度は村田がけちを付けた。 「ちょっと、君の裁量で僕を宛うみたいな言い方は止して欲しいな。大体、君を救い出してやったのは一体誰だったろうかね?それに、僕は君に貸し借りされる筋合いはない。僕の忠誠はいつだって、渋谷の上にだけ在るんだ。君は渋谷の身を保全する為の大義名分として救ってやったに過ぎないんだから、調子に乗らないでくれる?」 くいっとずれてもいない眼鏡の蔓を直す村田は、一体何をどうやったものか、このクソ偉そうな人物を《救った》らしい。 「何度転生しても、お前の性根は変わらないな…」 「この重すぎる記憶に耐えられるような人格者は、不貞不貞しくならざるを得ないんだろうよ。全く…僕の代でこんなことは終わらせて欲しいもんだね」 《ふんっ》とそっぽを向く村田にだけは、どうやら眞王も頭が上がらないらしい。困ったように眉根を寄せていたのが、少しだけ《普通の人》っぽく見えた。 「さあ、渋谷。王都に行こう?」 一転して朗らかな笑顔を浮かべると、村田は生来の少年らしい笑顔を浮かべてユーリの手を取り、その感触を味わうように《きゅう》っと握り締めてきた。 「本当に渋谷だぁ…。うん…良かった。また、会えたんだね?」 柔らかく眼差しを解し、村田はしみじみと噛みしめるように呟いた。誰かに聞かせたいと言うよりは、自分自身の聴覚でその事を実感したいようだ。 有利の方も、突然空に浮かんで現れた友人に現実味を感じ損ねていたのだが、こうして直接触れてみると、覚えのある感触に熱いものが込みあげてきて、気が付けばその華奢な背中を力一杯抱きしめていた。 「村田…苦労かけたみたいだね?少し痩せた?」 「君こそ。凄い勢いで魔力を使ったんだろう?」 「分かるんだ!」 村田は長い睫を瞬かせると、重々しく告げた。 「ああ…分かるさ。そして、君がとてつもない運命の持ち主なのだと言うこともね。まさに《あの瞬間》でなければ、僕がやろうとしたことも失敗に終わっていたはずだもの。同時に、やはり《あの瞬間》でなければ君たちも無事ではいられなかったろう」 「…なんのこと?」 「後でゆっくり教えてあげるよ。まずは、お茶でも飲んでゆっくりしないかい?ああ…それより何より、僕は眠いんだよねぇ…」 あふぅと可愛らしく欠伸をする村田は、確かにかなり疲れているようだった。元々そんなに体力がある方ではないのだが、今は疲労困憊で倒れそうになっているのを気力で支えているような感じである。眼鏡を外して目元を擦る姿は、何だか子どもみたいにあどけないが、それだけに心配でもある。 「村田、大丈夫?」 「ん…ちょっと疲れちゃった。やっぱり寝床の用意をしてくれないかな?」 「良いよ。肩貸そうか?」 すぐに肩を出すユーリだったが、これはコンラートが認めなかった。ユーリが抱えてしまう前に、ふわりと村田を横抱きにして、そのまま抱えていくのかと思いきや…にっこり笑顔で《頼むね?》と傍らにいた屈強そうな兵士に委ねてしまった。 そして、今度は何故かユーリを抱えてしまったのである。 「お…俺は良いよ!」 「よくありません。ユーリ、あなたも疲れていることを自覚してくださいね?すぐに領主館に戻って、猊下同様眠ることが必要です」 「ふぁ〜い」 見てくれは颯爽とした英雄閣下だが、中身の方は以前とまるで変わっていない。相変わらず過保護な名付け親仕様なのがおかしくて、ユーリは恥ずかしいながらも許容してしまった。 村田も見知らぬ兵士にお姫様抱っこされていることには異論がありそうだったが、結局何も言わずに瞼を閉じてしまった。単に眠くてしょうがなかったのかも知れないが、その他にも受ける印象が少し違っているように感じる。以前はもっと、一次的接触を避ける傾向があった筈なのに。 『こっちで良い出会いでもあったのかな?』 独りぼっちで眞魔国に流れ着いた村田を心配していただけに、《そうだったら嬉しいな》と思いつつ、ユーリは村田を領主館へと案内していった。 |