「お伽噺を君に」
第22話









「貴様…ウェラー卿!!」

 驚きのあまり一瞬対応が遅れたゲルトの右肩へとグウェンダルの剣が、左肩からは、ウェラー卿コンラートの剣が宛われ、そのまま袈裟懸けに斬り裂いていく。

 ブシャアアアア……っ!!

 ×の形に鮮血を噴き上げるゲルト。
 絶叫の形に強張った口元は、おぞましい悪夢の登場人物のようであった。かつて激戦の中では幾度も見た、死者のそれである。

 傍らを見やれば、革を主体としたものとはいえ、やはりそれなりの重量がある鎧を纏っても動きの鈍らない男が、返り血を浴びた凄惨な姿でそのままゲルトを足蹴りし、仰向かせた首に迷いのない剣を撃ち込む。驚異的な回復力を持つというゲルトに、そのままとどめを刺す気なのだろう。

『なんという…っ!』

 先程まで血の気を失って倒れていたとは思えないくらい、コンラートの動きは俊敏であった。動作に合わせて翻る頭髪はダークブラウンで、日の光を浴びて幾らか明るさを増しているせいか、多くの兵が憧憬を込めて呼ぶとおり《獅子》さながらの姿であった。

 油断無く眇められた眼差しは鋭くゲルトを睨み付け、隙のない剣先が十分な勢いで頸部を断ち切ろうとする。

 しかし、ゲルトも相当なしぶとさを見せた。

 バチ…っ!

 スパークするような光が放たれたかと思うと、コンラートの剣が折れてくるくると断端が宙を舞う。既に《死の道》で負荷を掛けられ続けていた剣は、いかな剣聖の技能を持ってしても、ゲルトの魔力に耐えられなかったらしい。

「ちっ!しぶとい男だっ!」
「ぐふっ…ぐ、ぐぅ…っ!」

 血泡の混じる叫びを上げながら、憤怒の表情を浮かべたゲルト。凄まじい姿となった彼は、白目を剥いたまま空中へと浮かび上がっていった。

 ドロ… 
 ギュロロロロ…っ

 その周囲に逆巻くおぞましい力に、グウェンダルは吐き気を催した。ゲルトの周辺だけ要素が無理矢理ねじ曲げられ、締め付けられ、苦悶の悲鳴を上げているようなのだ。

「この力…もはや、魔力とは呼べないのでは…」

 グウェンダルがぼそりと独白したその時、突如としてゲルトの表情が変わった。憤怒の中に《何故?》という困惑の色が掠めたのである。

「ぐぁ…が……っ!?」

 ボコ…コッ
 ボコォオ……っ!

 ゲルトを包む力は先程とは別のベクトルに歪み、崩れて、ゲルト自身の肉体を侵していった。ぼこぼこと盛り上がる傷口は、毛細血管や肉芽組織が無秩序に膨れあがり、まるで癌細胞のように不気味な色合いを湛えて、不規則な形状の瘤になっていく。

『怒っている…のか?』

 先程までは無理矢理服従させられていた要素が、ゲルトの力がある程度衰えたことで本来の勢いと性質を取り戻したらしい。彼らは一様に怒りを込めて、ゲルトに癒しを与えることを拒んでいた。

 《よくも…っ!》
 《よくもよくも、あのお方を傷つける為に、我が力を使ったな…っ!!》

 怒気を孕んだ要素達は次々にゲルトの肉体を内側から壊し、二度と再生を赦さぬと言う勢いで引き裂いていく。おそらく、ユーリを傷つける為に使われたことに対して、要素達が激怒しているのだ。 

「ぐ…っ…は、ぁ…っ!?」

 ゲルト自身も異変に気付いているのだろう。驚愕に満ちた顔つきで自分自身の身体を見つめ、救いを求めるように中空を掴もうとする。強張った指先はしかし、何を掴むことも出来ないまま見苦しく蠢いた。

「た…すけ…っ!」

 とうとう、誇りを振り捨てて救いを求めた男に、コンラートは労りすら込めて折れた剣を翳した。

「切れ味は悪そうだが、とどめを刺しても良いかな?」
「い…いやだ…っ!」
「そうか、では傍観しようか?このままだと、肉芽組織に埋め尽くされて苦しみ足掻きながら死んでしまうと思うんだが」
「それもいやだぁああ……っ!」
「…見苦しいな。それじゃあ、まるで北○の拳の、登場したと思ったら瞬殺される雑魚キャラみたいじゃないか。せめてラ○ウのように堂々たる死にっぷりをみせろよ」

 口をへの字に枉げて、謎の言葉を繰り出すコンラートに合わせている余裕などないようで、ゲルトはぐぶぐぶと血泡を吹きながら、ガクリと意識を失った。

 そのまま弾けてしまうのではないかと思われたのだが、直前になってから要素の暴走が止まったのだ。何故なのかと疑問に思うグウェンダルの傍らで、ふらつきながらよちよちと歩いていく者がいた。ひらりと舞う布地は、すっかり煤や埃に汚されてしまった真珠色のドレスであった。

 痛々しい姿になりながらも、瞳一杯に涙を湛えて、銀細工人形を宝物のように抱きしめたユーリは夢のように美しい。正気を保っているのかどうか分からないが、子どもに還ってしまったようにあどけない表情のまま、コンラートを求めてすらりとした右腕を前方に差し出した。

「コン…ラッ……ド…?」
「ユーリ…っ!!」

 素早く駆け寄ってきたコンラートが抱きしめると、華奢な体躯はそのまま力を失ってしまう。ゆっくりと膝を突きながら体勢を降ろしていったコンラートは、そのまま横抱きにして負担が少ないように配慮した。そしてユーリの頬についた煤に舌を這わせ、袖口で拭こうとしたものの、その袖自体がこの上なく汚れているのに気付いてきょろきょろと辺りを見回した。

 だが、頬にユーリの両手が添えられると、振り切るなんてことはしなかった。とろけそうに甘やかな笑みを注ぐと、これまた響きの良い柔らかな声音で囁きかける。

「ご心配お掛けしました、ユーリ」

 ああ…コンラートの声だ。
 間違いなく、生の声帯が奏でる本当の声だ。
 生きている者の、声だ。

 気が付けばグウェンダルの目尻には熱い涙が溢れ、衝撃から蘇ったヴォルフラムもまた、堪えきれぬ涙に《ひっく、ひっく》と子どものような泣きじゃっくりを繰り返しながら、ものも言わずにグウェンダルの腕にしがみついた。すりすりと額を寄せてくるのは、込みあげてくる感情を自分でどうすることも出来ないせいだろう。

「コンラッド…だぁ……っ!」

 ぶわぁ…っ!と涙を黒瞳いっぱいに溢れさせたユーリは、ヴォルフラムと同じように泣きじゃくりながらコンラートの鎧にしがみついた。

「ああ…!折角のお召し物が汚れてしまいますっ!血糊だってべったりついていますし…」
「そんなの、今更だよっ!それよか…あんたが生きてるって確かめさせて?お願い…ね、俺をいっぱい抱きしめて?」
「ち、ちょっとだけ待ってくださいっ!」

 コンラートはわたわたと鎧を脱ぐと、すこしだけマシになった姿(?)でユーリを《むきゅう〜っ》と抱きしめた。《嬉しくて堪らない》という表情は、見ているだけで幸せになれそうな、弾むような質感に満ちていた。

「ああ、ぁああ〜…ユーリ、こんな抱き心地なんですね?ちいさくて、しなやかな筋肉の良い感触がするんですねっ!ああ、髪もさらさらでなんて気持ちが良いんだろう!爆炎を浴びてもこうなんですから、風呂上がりにはもっとずっと気持ちいいんでしょうね!ああ…ああ、ずっと、ずっと知りたかった…っ!」

 きゅむきゅむと、ユーリの存在を確かめるように何度も角度を変えて頬を擦り寄せ合うと、コンラートは感極まったように甘く囁きかけた。

「しばらく抱いていて良いですか?あなたという存在を…たっぷりと感じていたい」
「うん…いっぱい、抱いて?」

 乙女のように可愛らしく囁いていたユーリだったが、次第に正気が戻ってきたのか、はたまた、羞恥心が蘇ってきたのか、本来の男らしさも垣間見せてコンラートにしがみついていった。

「…そんで、俺にも触らせろこの野郎っ!もー、あんたがなかなか動き出さないから、俺、気が狂っちゃうんじゃないかと思うくらい心配したんだからなっ!」
「すみません…。俺も早く戻りたかったんですが、何しろ平泳ぎでしか前進出来なかったのですよ」
「…平泳ぎ?クロールですらなく?」
「ええ。魔石が砕けた衝撃で銀細工から心が分離出来たまでは良かったんですが、無重力状態みたいになってしまって、走って元の身体に戻ることが出来なかったんです。色々と試してみた結果、平泳ぎが一番推進力があったんですよ…。客観的に見て、緊張感は相当無かったんですけどね」

 確かに緊張感はない。
 無事に戻ってきた今だから思うのかも知れないが、あの切羽詰まった状況で、必死に平泳ぎするウェラー卿コンラートというのは、かなり目眩がするような絵図らだ。

「そっか…あんたも大変だったんだなぁ〜」 

 ふなふなと泣きじゃくるユーリの髪を撫でつけ、頬に幾度も唇を触れさせ、すっかり出来上がった恋人同士みたいにコンラートはユーリを愛撫する。
 だが、勢い余ってユーリの唇に自分のそれを寄せていくと、びくんと怯えるように震えられてしまった。おそらく、石化の呪いを解いた時の痛みが、反射的に蘇ってきたのだろう。

「すみません、ユーリ。辛いことを思い出させてしまいましたか?」
「うーん、あれはかなりしんどいファーストキスだったかも」

 ぷくんと唇を尖らせるユーリは不満げではあったが、コンラートの唇自体には嫌悪感は無いようで、薄くて形良いそれへと指先を這わせると、確かめるようになぞっていた。
 その仕草は完全に、仲睦まじい恋人のそれであるからして、周囲で見守っている者達は次第に居たたまれない心地になってしまう。ヴォルフラムは何時突っ込もうかと身構えているし、グウェンダルは傍観することに決めると、軽く視線を外し気味にした。

「では、仕切治しをさせてください。あれは石像相手だからノーカウントです。今度は本当の意味でのファーストキスを俺に下さい。絶対後悔させませんからっ!」

 拳を硬く握り、琥珀色の瞳をキラッキラさせながら約束するコンラートは、随分と過去のイメージからは懸け離れていた。
 この男は、こんなにがっついていただろうか?やはり、17年の禁欲生活はあまりにも長すぎたのか。それとも、これが本来の性格なのか。兄としては色々と複雑だ。

「ききき…キスって…。の、呪いはもう解いただろぉ〜?」
「ええ、ですから本当の意味でのキスが欲しいんですっ!そして、そのままの勢いで《初めての夜のお供》も、《生涯の伴侶》の座も勝ち取りたいんです…っ!」
「え…えぇええ〜っ!?それは、ま…マジで言ってるの?」
「超絶ド・マジです。生身の肉体を取り戻したら、いつか絶対にお願いしようと思っていたんです!」
「…ホントに?俺のことからかったり…してない?」
「俺がそんな性質(タチ)の悪い嘘を付いたことがある?」

 ごり押しから一転して、傷ついた少年よろしく《きゅうん》と切なげな声を漏らせば、一発でユーリはオチた。

「……………不束者ですが、末永く宜しくお願いします」
「こちらこそ、宜しくお願いします!」

 頬を上気させ、三つ指突いてお願いするユーリに、コンラートは喜悦に満ちた笑顔を浮かべて唇を寄せていく。だが、不意にグウェンダル達の視線に気付いたユーリは、ぼふんと顔を真っ赤にしてコンラートの口元で自分の両手をバッテン型にクロスさせる。

「こここ…ここじゃヤダっ!」
「すみません。気遣いが足りませんでしたね。ユーリの初体験なんですから、二人きりでなくてはいけませんよね?」
「うん…。後で、ね?」
「ええ」

 初々しくはにかむユーリの様子に、コンラートの精悍な面差しはてろってろに溶けきっている。ルッテンベルクの生き残りが見れば、さぞかし腰を抜かす事だろう。

『ふふ…あんなに全開の笑顔など、今まで見たこともないな!』

 大声で腹を抱えて笑い出したいような…それでいて、切なさに泣いてしまいそうな心地でグウェンダルは首を巡らせた。喜びが強すぎて、一体どういう表情を取ればこの場に相応しいのか、全く分からないのだ。

 その時、変に勇気ある若者がビクビクしながら声を掛けてきた。

「あ…あの…グウェンダル閣下、お取り込み中申し訳ないのですが、シュピッツヴェーグ軍の襲来に対して、如何対処しましょうか…」
「ぬ…」

 そうだった。この件に関しては全くもって解決していないのだ。コンラートが無事なら他のことはどうでも良くなっていたが、いつまでもそのままというわけには行くまい。

「ともかく、防衛陣を突破されるな。籠城で時間を稼ぎ、その間にこの暴挙を他の十貴族に訴えるのだ」

 迂遠ではあるが致し方あるまい。どれほどシュトッフェルが憎くとも、シュピッツヴェーグの兵とて眞魔国の同胞なのだ。勿論、戦闘となれば大切なヴォルテールの兵とて多くが喪われる。
 私闘とも言える無為な戦いの中で、前途ある若者達を喪うわけにはいかない。政治的な決着が付けられるのであれば、可能な限りその範疇内で収めたいのだ。

『ゲルトは、嗤うだろうな』

 穢れなき巫女を強制的な性交で…おそらくは、強力な媚薬なども使って堕落させ、貴重な情報を得たというゲルト・アガザもだが、きっとシュトッフェルもまたそれに近い方法で情報を得ていたに違いない。
 これが国家間の諍いであり、籠絡すべき相手が一国の中枢にいる王族・貴族や軍人であれば、グウェンダルとて《性》を諜報の道具として使うことも吝かではない。だが、相手が同胞…それも、罪もない清らかな乙女であるというのに、手段構わず目的を遂げるようなやり方は出来ない。

 すると、傍らから爽やかな顔をしたコンラートが声を掛けてきた。ユーリとの間に確約を取っているせいか、先程までのようながっついた感じはない。寧ろ、余裕さえ感じさせる居住まいで申し出をしてきた。

「グウェン、俺もこんな戦いで兵を喪いたくはない。だから、俺にも手伝わせてくれないかな?」
「しかし、お前は元の肉体を取り戻したばかりで疲れているのではないか?」
「グウェンやヴォルフが回復させていてくれたから、きっと大丈夫。それに、こちらにはユーリがいる。居住まいを正して、少しユーリが回復できるだけの時間を稼いでくれたら、俺たちが《布告》をしてみるよ」

 コンラートが鮮やかな笑顔を浮かべると、ユーリもまた疲れ切っているだろうに、気丈にもにっこりと微笑んで見せた。

「うん、俺だってやる時ゃやるよ?ただ、今度はちゃんとした王様っぽい服が良いけどね」
「ああ、それは大丈夫だ。状況が整い次第、魔王としての名乗りを上げられるよう、正装黒衣は一式用意している」

 グウェンダルが確約すると、ユーリは勇ましく拳を突き上げた。

「よっしゃ、見てろよ〜悪代官!」
「ええ、《蘇ったルッテンベルクの獅子》と《双黒の魔王陛下》の威光を、とくと仰がせてやりましょう?」

 おおおぉぉ〜っ!!

 破壊し尽くされ、血まみれになった室内に、およそ相応しくない元気いっぱいな歓声が湧いた。広々とした蒼穹には白い雲が棚引き、彼らの前途を祝福しているかのようであった。



*  *  * 




「グウェンダルの奴は何か言ってきたか?」
「いえ。防備は固めておりますが、まだ使者も矢文も届いてはおりません」
「ふぬぅ…奴め、どう出るかな?」

 己の利を確信しているせいか、戦場では常に後方に構えているシュトッフェルも、今回は珍しく陣営の先頭に立っている。機能性よりは華美であることを重視した鎧兜はぎらぎらと夏の陽光を弾き、そのせいで暑いのか、先程からやたらと水分を採っている。もしもグウェンダルの方から積極的に打って出た場合、用足しに行っている暇など無いと分かっているのだろうか?副官のフォンシュピッツヴェーグ卿カンターレはこめかみを指で強く押さえた。

 彼らの前には頑丈なヴォルテール領境の防御壁があり、陣営と壁の間には荒涼たる砂地が広がっている。かつては夏場ともなると青々した草原が広がっていたものだが、今や切迫した《枯化》は眞魔国全土に広がり、実りをもたらす土の要素遣いは何処に行っても高給で雇われる。この状況下で自分の領土に《要素遣いを寄越せ》と要求するだけでも理不尽だというのに、ヴォルテール領に現れたという双黒までも寄越せと要求するのだから、それはグウェンダルとて頑なになるだろう。

 カンターレとて分かってはいるが、ごり押しでも何でも、そうしなければシュピッツヴェーグ家は立ちゆかぬ状況になっている。国庫から秘密裏に持ち出せる額はとっくに限界値を超えており、国庫の経理についてはヴァルトラーナも不審に思い始めている。幾ら体勢的には仲間とはいえ、妙なところで潔癖なあの男は、《陰謀》はともかくとして《不正》には厳しいのだ。下手なことをすれば、最強の味方であるビーレフェルト家から糾弾されかねない。

 彼の目を眩ます為にも、シュトッフェルは華々しい功績を残しておく必要がある。また、双黒の少年が他の十貴族の後ろ盾を得てしまう前に、シュトッフェルの手中に収めておくべきだろう。

『問題は、双黒がフォンヴォルテール卿よりもうちの閣下を気に入ってくださるかどうかなんだが…』

 そこはもう、どうしようもないだろう。例え《気にくわない》と言われたところで、血盟城の奥深くに軟禁してしまって、その権威と魔力を利用していくしかない。甚だ情けない話ではあるが、それしかこの厳しい時代を乗り切っていく術はないのだ。

「ん…?」
「あれは何だ?」

 兵士達のざわめきを耳にして、目線を防御壁方向に向けてみると、その最上階には何故か美々しいお仕着せを着た二人のトランペット奏者が現れ、高らかな音色を奏でた。その音調は、貴賓が現れることを示すものであった。

 すると、これまでがっしりと閉じられていた巨大な跳ね橋が《ゴゴゴゴ…》と重々しい音を立てながらゆっくりと降ろされていく。《すわ、突撃か》と勇んだシュピッツヴェーグ軍であったが、ヴォルテール領内には整然と居並んだ軍勢がいたものの、突出してくる気配はないので、こちらも反射的に飛び出すというわけにはいかなかった。しかも、ヴォルテール軍は丁度跳ね橋の幅だけ、中央の道を空けているのである。何もないその空間に飛び込んで行くのは、勇気ではなく無謀というものだと誰もが思った。

 それにしても、一体どうしたというのだろうか?ヴォルテール領内に布陣する兵士達の表情はいずれもきらきらと輝くようであり、《同族内で相打ちかねない》という切迫した雰囲気はまるでない。ことに、ルッテンベルク師団を主体とする騎兵部隊は、誇らしげに胸を反らせてさえいる。まるで、この世界に怖いものなど何もないとでも良いだげな表情ではないか。

「ど…どうしたんだあいつら?」
「なんだって、あんなに余裕のある面構えをしてやがるんだ?」

 その時、不審げにざわめくシュピッツヴェーグ軍に対して、伸びやかな声音が蒼穹を突くようにして響き渡った。


「一同、控えおろう…!」


 その伸びやかな咆吼には自然な威厳というものが感じられ、決して居丈高などではない。反射的に服従してしまいたくなる《何か》を孕んだ声に、誰もがぴしりと背筋を正してしまった。自軍の長が発した声には一度としてこのような反応を示したことはないというのに、敵軍の《呼ばわり》に対してこのような反応を示すとは一体どうしたことか。

『それにしてもこの声、どこかで聞いたことがあるような…』

 思い出せないが、そのせいで余計に引っかかるものを感じる。どうやら兵士達の間でも同じような思いを共有しているのか、そっと目線を交わしながら、一体誰の声であるのか探り合っている。

 すると、ヴォルテール軍の中央に開けられていた空間にするすると紅いカーペットが敷かれていき、花籠を持った女達が奥から順々に花弁を散らしていく。これは一体何の真似なのか。
  

「次期魔王陛下、双黒の君のおなりである…っ!!」


 再び伸びやかな声が大気を震わせた時、シュピッツヴェーグ軍の前列に位置していた者達、そして、遠眼鏡で様子を伺っていた物見の兵士達が一様に顎を外しそうになっていた。おかげで、高らかに告げられた《次期魔王陛下》という言葉にも、《そんな馬鹿な》等と言った否定の声を上げられた者は居ない。

 悠々たる態度で赤絨毯を歩いてきた人物は、噂に聞く双黒であった。それは分かる。もともと知っていたのだからそれ自体は驚くことではない。だがしかし…知っていることと実際に見て感じることの間にはこれほどの差があるのかと、人々は瞠目して見守った。

「な…んて……」
「美しい……っ!」

 双黒の少年はしなやかな体躯を、魔王にのみ赦される黒衣で包んでいた。季節柄、幾分薄手の生地なせいか、少年が歩くたびにやや広めにとった裾や袖口が優雅に揺れ、やはり風に靡くさらさらとした黒髪と合わせて、うっとりするような美しさを呈している。また、こぶりな顔の中で印象的な輝きを持つ黒瞳の、なんと愛らしいことだろう?生き生きとした光に溢れ、敵として布陣しているはずのシュピッツヴェーグ兵に対しても、親しげに微笑みかければ、清らかな蕾が澄んだ大気の中で開くように、におやかな愛らしさを放つのであった。

 しかし、シュピッツヴェーグ兵の驚きはそこに留まらなかった。双黒の背後にぴたりと連れ添った美丈夫が、彼らの記憶を刺激したのである。

「ま…さか……っ!」

 あんぐりと口を開けた兵士達は、まるで幽霊でも見たかのようにわなわなと打ち震え、対照的に、ヴォルテール領の兵士達は歓喜の叫びを上げたいのを、すんでのところで我慢しているような様子であった。

 眩しい夏の陽光を弾く頭髪は、光に透けてやや明るい色合いを呈し、その渾名通り鬣のように靡く。更に目の良い者が確認したのは、琥珀色の瞳に散る銀色の光彩であった。それは、眞魔国間の中で《彼》だけが持つ特別な色合いであった筈だ。

 あれは…
 あの男は…っ!

「ウェラー卿…コンラート………だと?」
「まさか…そんな!だ、だってあのお方は《死の道》で石になられたはず…っ!」

 驚愕に見開かれた瞳の前で、かつて《死の道》で散ったはずの男が悠々たる態度で双黒に付き従っている。その姿はあの日から全く変わっていないかのように若々しく、凛々しい《ルッテンベルクの獅子》であった。





→次へ