「お伽噺を君に」
第16話









「グリエが捕まっただと!?」
「はい、印を残しておりました」

 驚くべき知らせに、グウェンダルは珍しく語調を荒げた。別方面に配置していた斥候が、異常を察知して調べて来たのだ。
 狼煙を上げてきた時期から見て、そのすぐ後にシュピッツヴェーグ軍に捕捉されたらしい。国内でのことだから、そこまで過酷な拷問などに掛けられる恐れは無いと思うが、心配なのは彼が混血であることだった。

 吹き付けてきた熱砂が目元を掠めるのを掌で振り払いながら、グウェンダルは苛立たしげに舌打ちをした。

「くそ…っ!」

 懸念はあるが、シュトッフェルが強攻策に出ているところから見ると、ヴォルテール領のことも心配だ。探索行は一度切り上げて、自領で体勢を整えるべきだろう。

『何とかして逃げてこい、グリエ』

 それだけの能力がある男だ。今までも何度か苦境を乗り越えている。アルノルドと《死の道》を越えてきた精鋭が、シュピッツヴェーグ軍如きの責めに屈するとは思わなかった。

 今はそう信じて、軍を進めるしかない。



*  *  * 




 るんる、らんら、るるらららん。

 衛兵バドックの妻ベルダはここのところずっとこんな調子で、気が付くと鼻歌など歌っている。理由はと言うと、この家に何とも可愛らしいお客様がやって来ているからだ。今日は彼を喜ばせる為の《贈り物》を大袋に詰めているから、家へと急ぐ足取りも一層軽やかだ。道行く途中にもチョイと大袋の中身を覗き見れば、にやにや笑いが涌いてきてしまう。

『ああ、きっと似合いなさるに違いない!』

 異世界からやってきたという不思議な少年ユーリは、双黒だというのに全く気取ったところがなく、ベルダに対しても《何かお手伝いすることありますか?》とつぶらな瞳で問うてくる。畏れ多くて頼めたことはないわけだが。

 ある事情があってグウェンダルの庇護を求めているという彼は、活発な性質だというのに家の外には出られない状況にあった。双黒はあまりにも目だちすぎるから、ヴォルテール領に出入りする外部の商人やなんかの目に留まれば、たちまち噂になってしまうからだろう。

『このままじゃあお気の毒だからね。たまには気晴らしをさせて差し上げなきゃあ!』

 うふふ、と含み笑いをしながら自宅兼衛兵詰め所の扉を開けたベルダは、少しだけ懸念するように眉を顰めた。脂下がった数人の衛兵達が、傅くようにしてユーリをちやほやと取り巻いているのだ。気持ちは分かるが、愛くるしい貴人であるだけに、万が一妙な輩の毒牙に掛かったりしては一大事だ。


「ユーリ様、どうぞお菓子でも召し上がって下さいまし」
「もう良いですよ。こんなにお菓子を貰っても、食べきれないし…」
「馬鹿だなボブ、ユーリ様は男の子だぞ?お菓子よりも手入れの行き届いた剣とか、馬具の方がお気に召すさ」
「いやいやいや…だから、気を使わないで…」

 ベルダは勢いよく息を吸い込むと、肺活量の限りを尽くして衛兵どもを怒鳴りつけた。

「あんた達っ!仕事をとっちらかして何やってるんだね!ボブ、あんたはもう交代の時間だろうっ!パーシー、リック、あんた達は日誌の整理がまだだろう!?」
「はっ!はいっ!!軍曹殿っ!!」
「誰が軍曹だいっ!!」

 ベルダが銅鑼声を張り上げれば、生半可な士官学校出の上官などよりも余程怖いと専らの評判だ。若い衛兵達も名残惜しそうではあったが、すたこらさっさと退散した。ただ、しつこい連中は扉に取り付いたまま、しぶとく甘い声を掛けていたけれども。

「ユーリ様〜。また後で伺いますねっ!」
「遊び道具や気晴らしの品も持って参りますねっ!!」
「うん、気に掛けてくれてありがとうね!」

 にこぉっとユーリが微笑めば、辺りにお日様の光をたっぷりと浴びたみたいな空気が満ちる。ベルダも思わず笑顔になったが、それに気をよくした衛兵がまだ何か声を掛けようとしていたので、ギロリと鬼の形相で睨み付けてやった。勿論、ユーリの方を振り返った時には慈母の微笑みを浮かべていたわけだが。

「まあまあ、むさ苦しい連中に囲まれてさぞかし邪魔くさかったでしょう?」
「いえいえ、皆さん凄く良くして下さって、俺が暇だろうってんで色んなお菓子とか遊び道具を持ってきてくれたんですよ?」

 確かに、この物不足の時期に良くもこれだけと感心するほど質量共に大した品が集まっている。ユーリが《これ美味しかったですよ》と焼き菓子を差し出してくれれば、ベルダは恐縮しながらも受け取ってしまった。

「まあ美味しい」
「でしょー?」

 ふくく、と微笑み合いながら視線を交わす瞬間の何と楽しいことだろう。子供が居たら(ベルダとバドックの子では、相当がっしりした子になったろうが)、こんな気持ちになったろうか?等と夢想してみる。

「ふふ、では私も僭越ながら贈り物を差し上げてもよろしいですかね?」
「えー?ベルダさんまで気を使わなくていいのに」
「ふっふふぅ〜、そりゃあ無理ってものですよ。ユーリ様を見ていると、何かして差し上げたいって気持ちで一杯になるんですもの!」
「嬉しいけど…申し訳ないなぁ」
「まあそう言わずに受け取って下さいな!」

 そう言ってベルダが大袋の中身を大きな木製テーブルの上に広げると、ユーリはひくりと微妙に口角を歪ませた。



*  *  *




「えーと…あのぅ……。これ、カツラ…と、ドレス?」
「ドレスなんて良いもんじゃありませんけどね。なんと!御領主様のお館に勤めているメイドの制服ですよ!」

 そうでしょうね。
 それは分かってます。

 言いたいが、ベルダがあんまり佳い笑顔でユーリを見つめているので、言えない。
 ただ、意図だけはどうしても確かめておきたかった。

「ええと…。俺、は…これを着てどうしたら良いんでしょ?」

 すると、ベルダもある程度はこの反応を予測していたのか、余裕綽々という顔をして瞳を輝かせた。ちょっと気の利いた悪戯を思いついた少女みたいな顔に、ユーリはきょとんと小首を傾げる。

「グウェンダル閣下がおいでになるまでここに閉じこめられておいでじゃあ、退屈でしょうがないでしょう?ですから、お館に入り込んで少しばかり冒険をなさっちゃどうかと思うのですよ!」
「冒険って…それ、捕まりません!?」

 意外とはっちゃけた人だなと思ったのだが、ベルダはうきうきしていた表情に少しだけしっとりとした大人の色を滲ませた。

「ユーリ様は決して悪いお方ではありませんもの。ですから、憧れのコンラート様のお姿を少しくらい垣間見たって、罰は当たらないと思うのですよ」
「コンラッド…の?」

 言われてみて思い出す。そういえば、領主館にはコンラートの石化像が収められているのだ。すると、途端にむくむくと好奇心が涌いてくるのだから現金なものだ。

『ど…どうしよう……』

 ちらりと見やれば、くりくりと可憐な巻き髪と、ふわりとしたフォルムの蒼いメイド服が目にはいる。心なしかイメージにあるメイド服に比べると色合いが明るいのは、黒に通じる濃い色合いは身分の高い者だけが着るからだろう。だが、そのせいで余計にメイド服は可愛らしさの強調された色合いに見えてしまう。

迷う気持ちはありつつも、かなり気持ちが傾いているのはやはりコンラートの石化像が気になってしょうがないからだ。グウェンダルに事情を話せばきっと見せてはくれるのだろうが、彼が何時戻るかはよく分かっていない。そうなると、少しフライングしてでも見てみたいなという気持ちは確かにある。

「それに、ユーリ様も働いてみたいと仰ってたでしょう?グウェンダル閣下がお戻りになるまでの間だけ、実際にメイドとして働くのも一つの手ですよ?」

 これが決め手になって、結局ユーリは抵抗感を覚えつつもメイド服に袖を通すことになったのであった。



*  *  *




『お…おっかしいよなぁ〜、やっぱり』

 カツラを被ってメイド服を纏い、久し振りに屋外に出てみたら、目線を向けた人達が一様に息を呑んでいるものだから、顔から火を噴きそうに恥ずかしかった。顔を隠そうとして俯き加減になると、どこからか《いっやぁ〜今時珍しいほど清楚なお嬢さんだね!》とか、《ひゃあ〜恥ずかしがり屋さんだね。可愛いね〜》と上擦ったような声が聞こえてくる。

『凄い羞恥プレイなんですけど…っ!』

 火照った頬に手を添えていれば、また《かっわ・い・い〜》と鼻に掛かったような男達の声が共鳴している。冷やかしにしたってしつこすぎやしないか。

「も…行きましょ?ベルダさん」

 半泣きになってベルダを促せば、まるでお母さんみたいに手を繋いでくる。照れくさいが、にこにこしているベルダがあんまり嬉しそうなのと、故郷に残してきた母親のことが思い出されて、結局仲良しの親子みたいにぽてぽてと歩くことになった。



*  *  *




『何だか妙なことになってきたな…』

 ユーリのエプロンのポケットに収まったコンラートは、この状況を少し不本意に思っていた。自分の石化像がどうなっているのか確認はしてみたいものの、よりにもよってユーリが可愛らしいメイド服に身を包んでいるというのに、ベルダが傍にいるせいで姿を現せないのだ。口の堅いバドックと違って、ベルダは良くも悪くも《気の良いおばちゃん》だから、コンラートが銀細工人形になってしまったことなど迂闊に漏らすと、思いも寄らぬ多方面に知られてしまう恐れがある。

『あぅうあ〜…でも、少し良い角度から見られないだろうか?』

 勝利にどう宥め賺されても頑として女装などしない子だったのに、一体どうして今回に限ってその気になったのだろう?そしてまた、こんな好機に限ってどうしてコンラートはガン見出来ないのだろう?

 世の中ってしょっぱい。

 こっそり寂しげな溜息を漏らしていると、館に向かう途上で聞き覚えのある声が掛けられた。

「ユーリ様、そ…その格好はどうなさったんで?」
「バドックさん!」

 街路に設置された立ち飲みカフェ(?)で、素焼きのマグカップに入った飲み物を啜っているのは、イルバンド・バドックだ。いい年をした男が仄かに頬を染めて、ユーリにうっとりと見惚れている。釣られてこちらに目を向けた連中も《うわ!》とか、《ひょえっ!》なんて声を口々にあげて、中にはマグカップの中身をボタボタと零してしまい、衣服を濡らしている者さえいた。

『そりゃあ見惚れてしまうのも無理はない』

 ポケットの中から見上げているだけでも、飽かず見惚れてしまうほどユーリは愛らしかった。
 まろやかな頬から愛くるしく小振りな鼻、ふっくりとした唇に掛けて絶妙なラインを描いているし、長い睫に縁取られた瞳は、色硝子越しにも澄んだ色味を湛えている。そして何より、溢れ出す生気が鮮やかにこの人を包み込んでいた。

 コンラートには魔力はないのだが、それでもこちらの世界にやってきてからは肌合いに感じるものがある。ユーリはこの世界に満ちる濃密な要素に、強く慕われているのではないだろうか?地球にいた頃よりも更に艶やかさを増している肌や、ふわりとした空気感がそれを物語っていた。

 眞王の通達が無くとも、見える目を持つ者の瞳には、この少年が際だった存在であると感じ取れることだろう。

「おい、バドック!お前、この別嬪さんと知り合いなのか?」
「その制服は領主様んトコのメイド服だよな?いやぁ〜、こんな娘さんに傅かれるなんて、グウェンダル閣下が羨ましいなぁ〜っ!」
「なあ、あんた名前はなんて言うんだい?えらく可愛いなぁっ!!」

 バドックの仲間らしい男達が目の色を変えて身を乗り出してくると、ユーリはきょとんとしながらも応対をした。褒め言葉にいては社交辞令とでも思っているのか、軽くスルーしている。

「お…いえ、あたしはユーリって言います。えと…領主様のお館で、メイドの修行をさせてもらいたくて、田舎から出てきました!」
 
 うぉおお〜っ!!

 声は少女のものとしては低いものの、弾むような躍動感や響きの良さが感じ取られたのか、男達は一斉に身悶えして眦を下げている。

「いやいやいや〜。なんなら俺のとこで修行しないかい?君のためなら身を粉にして働いて、お給金を払うからっ!」
「馬鹿言ってんじゃねーよ、ボルガーっ!こんな上等な娘さんをメイドにするなんて、身の程知らずにも程があるぜっ!!」
「なんだとぉ〜っ!?」

 どつきあいを始めてしまった仲間達をよそに、バドックは騒ぎになっては拙いと、さり気なくユーリを誘導して小道に入った。

「お館でメイド修行って…それは、本気で言ってらっしゃるんですか?」
「あたしがお勧めしたのさ、文句があるかい?」
「あるかってお前…!」

 ベルダの物言いに対して怒気を示し掛けたバドックに、ユーリは宥めようと懸命に声を掛けた。

「あ…あの、俺もコンラッドがどうなってるのか知りたかったんです…!」

 きゅるんと可愛く上目づかいをされると、真面目なこの男は目のやり場に困ったように挙動不審に陥ってしまう。

「グウェンダル閣下がお戻りになるまで待てなかったんで?」
「堪え性がなくてゴメンなさい…」

 頬を染めて俯くユーリに、くすりとバドックは苦笑する。

「しょうがありません。俺も行って、衛兵に話をつけてきましょう」
「良いの!?」

 バドックが行ってくれたのは正解だった。衛兵はバドックにユーリの素性を問いただすと、何点か確認を取ってから領主館に入れてくれた。館の従業員を正式採用する際にはグウェンダルが直接面接をするのだが、あと数日で帰ってくることが分かっているから、それまでの仮採用という形になったようだ。
 一方、ベルダはここでお別れとなった。彼女もまた《飯炊き》という重要業務を果たすよう、バドックに諭されたからである。

「バドックさん、我が儘聞いてくれてありがとうございます」
「いいえ、お気持ちも分かりますしね」

 ユーリが礼を言うと、バドックははにかむように笑って見せた。豪奢な造りの廊下を歩きながら、バドックは懐かしそうな…そして、切なそうな眼差しを浮かべて奥まった部屋にはいる。

「ここが、コンラート閣下のお身体を安置してる部屋です」
「…ここ?」

 スゥっと、建て付けの良い扉は軋む音も立てずに開く。17年の間も忘れられることなく、部屋自体も丁寧に手入れして貰っているらしい。壁に掛けられたタペストリーや絵画も見事だし、磨き抜かれた大理石の床面には塵一つ落ちていない。
 ただ、家具らしい家具と言えば椅子が二つある程度で、中は閑散としている。どこにもコンラート(の、石像)らしき姿は見受けられなかった。床面の色合いが幾分暗めのこともあって、全体的にがらんとした空虚さを感じる。

「あ…っ!」
 
 しかし、ユーリはそこに何かを発見したようで、息を呑んで一点を見つめている。

「ああ…やっぱりユーリ様には見えるのですね?」

 羨ましそうなバドックの声に、コンラートにも察しが付いた。どうやらコンラートの像は厳重な魔力の障壁に護られているようだ。だからこそ、こんなにもあっさりと部屋に入れたのかも知れない。眞魔国有数の魔力遣いであるグウェンダルには、入室は許しても、石像には決して触れさせないという自信があるのだろう。

「ご兄弟で何か思い出に浸られる時以外は、基本的にコンラート閣下の像を隠しておられるのですよ。それこそ、メイドがお伽噺を信じて《運命の口吻》など仕掛けたせいで、唇や鼻が欠けてはいけませんからね」

 そう言えば、眞魔国にもそんなお伽噺が幾つかあったっけか。


*  *  * 




『これが…コンラッドの像……』

 ノイズのようなものが間に介在しているようだが、それでも朧気な姿が部屋の中央に見て取れる。深い飴色をした木材に天鵞絨を張った二つの椅子に挟まれるようにして、石像は立っていた。普段はグウェンダルとヴォルフラムが、ノイズを払ったその姿を眺めているのだろう。

 彼らは一体どんな気持ちで、この像を見つめているのだろうか?

 具現化したコンラートと寸分違わぬ姿ではあるのだが、浮かべられた表情の険しさは今まで見たことがないものだ。ユーリの知っている彼は何時だって雄々しかったり、優しそうだったりしたのに、深々と足下の法石に剣を突き立てたその姿は、激しい苦悶の直中にあるようだった。

 表面は丁寧に拭われたようだが、それでも消えることのない黒い染みは、きっと幾人もの死者がぶちまけた血飛沫なのだろう。コンラート自身の血ではないのだろうが、彼がどれほどの死と恐怖の中にあったのかと思うと、ユーリの胸は狂おしいほどに締め付けられる。

『苦しかったよな…怖かったよな?』

 当時も既に百年近くは生きていたと言うが、自分の肉体が生命体ではない《物体》に変わっていく恐怖は、耐え難いものであったはずだ。それも、変化は意識を奪うように一気に進んだのではなく、腕からじわじわと体幹に伝わっていったのだという。

 そう考えたら堪らなくなって、目元に涙がわき上がってきた。

「コンラッド…苦しかった?」
「昔のことです」

 ふるる…と首を振るコンラートは、確かに当時の苦しさを引きずっているようには見えない。それに、どうやら自分の元の姿は見えていないらしい。

『この魔力の壁って、外したら拙いかな?』

 傍らをちらりと見やると、ユーリと同じ方向にバドックが懸命に目を凝らしているが、やはり見えないらしい。ふぅ…っとついた溜息から、ユーリと共にいることで何か見えるのではないかと期待していたらしいことが分かる。グウェンダルに頼み込めば見ることは出来るのだろうが、そこはやはり遠慮があるのだろう。
 気の毒なくらいガッカリしているように見えて、自分だけが見てしまったことが申し訳なくなってくる。

 防御の為とはいえ、混血には決して見ることの出来ないシールド内に置かれているとなると、もしかしてコンラートが石化して以降はその姿を見ていないのだろうか?

『少しだけでも、見せてあげられないかな?』

 じぃ…っと訴えるように魔力壁を見つめていたら、その願いに呼応するようにふるふると要素達が応えようとする気配を感じた。今までは水の要素としか共鳴したことがないのだが、土の要素もまた、ユーリに応えてくれるのだろうか?

『頼んでも良い?』

 無意識のうちに障壁へと近寄っていけば、リィン…リィイイン…っと啼くような大地の囁きに集中する。これはきっと、要素と共鳴しているのだろう。
 障壁は強い魔力で構成されていたが、彼らは一様に疲弊してもいるようだった。グウェンダルからの依頼で常時コンラートの像を守護し続けているのだから当然と言えば当然だが、どうやらそれだけではないようで、コンラートの像からは忌まわしい波動が伝わってくる。

『なんだ?これ…』

 ぶるりと背筋が震える。それは、やはり土の要素に関わりのあるものであるようなのだが、何かが酷く歪んでいる。それがずっとコンラートを蝕み、苦しみの表情を浮かべさせているように思えて、ユーリは知らず像へと歩みを進めていった。

 ふわ…っとベールを剥ぐようにして、地の障壁がユーリに道を拓く。その狭間から覗いたコンラート像に、背後でバドックが息を呑んでいるのが分かった。ポケットの中ではコンラートもまた、はっとしたように身体を強張らせている。

『これが石化の呪い?俺に…解けないかな』

 もう周囲にあるものを石化させるような力は持っていないようだが、禍々しさだけは伝わってきて指が震えてしまう。指先にちりちりとした痛みと抵抗感のようなものも感じられた。

『可哀想に、コンラッド…!肉体を石に変えられてしまうなんて、おっそろしい呪いに掛けられて…!』

 ぐうっと喉が迫り上がるような哀しみを感じると同時に、苦悶に満ちた石像に何とかしてぬくもりを与えたいと願ってしまう。ほんの僅かでも、この苦しみを取り除いてあげたいと。

『そういえばお伽噺だと大抵、こういう時は《お姫様のキスとか涙で元の姿に》ってのが定番だよな?』

 このファンタジーっぽい世界観に《打ち出の小槌》は無いだろうから、やっぱりその辺だと思うのだが、ユーリのキスではダメだろうか?思いついた途端に指を自分の唇に添えると、カァっと頬が染まるのを感じる。照れくさかったり、《こんなパチもん姫じゃダメかな!?》という疑問も渦巻くのだが、同時に、コンラートをそんな方法で目覚めさせるのが自分だったら良いのにと思ってしまう。

『コンラッド、しょっぱい気分になっちゃうかな?』

 懸念はあるものの一か八かにかけて、ユーリはゆっくりと像に近寄ると、爪先立って背を伸ばし、苦悶を浮かべる薄い唇に自分のそれを沿わせようとした。

 と、その時…。

 バァアアン…っ!

 背後で、木材が軋むほどの勢いで開け放たれたのが分かった。



*  *  *




 ヴォルテール領にほど近い領域までやってきた時、グウェンダルは不審な気配を感知して顔色を変えた。鋭い声で副官に探索隊の指揮を委ねると、自らは馬に鞭を入れて早駆けさせる。

「兄上、どうなさったのですか!?」
「強い魔力を持つ者が、館に入り込んだ…!」
「なんですって!?」

 併走してきたヴォルフラムも血相を変えるが、彼に合わせて馬の速度を落とす気はなく、容赦ない加速を掛けてそのまま突撃していく。
 一方、グウェンダルの鋭い声を聞きつけた探索隊から、命令を無視して離脱してくる兵がいた。鮮紅色の頭髪を靡かせた、部隊屈指の騎兵だ。

「…アリアズナ、貴様っ!」
「お叱りは後ほど受けます!」

 はいやっ!

 アリアズナ・カナートはグウェンダルさえも追い越そうというのか、愛馬を駆って突出していく。詫びるようグウェンダルに向けた眼差しは頭髪同様、血のように紅かった。
 部隊からは更に幾人かが離脱し掛けたが、それはアリアズナの部下であるケイル・ポーが叱責を与えて食い止めた。彼らはいずれも、ウェラー卿コンラートと深い結びつきを持つルッテンベルク師団の一員であった。ただ、実際にコンラートと肩を並べて戦った兵は両手の指で数えられるほどしかいない。《死の道》からの生存者はまだ幾らかいるのだが、兵士として職務を続けられるだけの肉体を保持出来たのはやはり、ごく僅かでしかなかったのだ。

 生き残った古参兵は《死の道》後に参入したケイル・ポーをはじめとする新兵達に、半ば伝説のような口調でコンラートの武勇を語っていたから、直接彼を知らない兵士であっても、《館に侵入者》との知らせには自然と身体が動いてしまう。だが、責任感の強いケイル・ポーは自分たちがグウェンダルの配下であるという意識が強い為、彼の命令無しに動くことは無かった。
 とはいえ、僅かな生き残りであり、同胞として…友人として、コンラートの最期を見届けたアリアズナの想いもまた無碍には出来ないらしく、追いかけてまで彼を止めることはしなかった。彼らにだけは、コンラートの危急に際して衝動的に動くだけの意義があるとも思っているのだろう。
 ケイル・ポーは声を張ると、グウェンダルの背中に向かって嘆願した。

「申し訳ありません、グウェンダル閣下!どうかうちの上官を伴わせて下さい!!」
「全く…!」

 《ちっ》と舌打ちを一つすると、グウェンダルは奥歯を噛みながら馬を駆けさせた。コンラートの危機に際して、血の繋がりもない者に先を越されるとなると少々腹立たしいのだ。我ながら稚気の混じる対抗心であった。

 相手は騎兵の中でも卓抜した騎乗術を誇るアリアズナだが、グウェンダルも馬の鍛錬にかけては優れた能力を持つ。そして何より、自ら仕掛けた魔術網によって、館の状況を逐一知ることも出来たから、より的確な方面に向けて馬を進めることが出来た。アリアズナが先を行っていたのは僅かな間で、すぐにグウェンダルの後を追う形となる。

『賊の位置は…』

 コンラートを安置した部屋にまでは侵入していないようだが、館に仕掛けた反応器は、これまで感知したことがない程の魔力に振り切れそうになっている。こんな強さの魔力を持つ者など、ヴォルテール領はおろか眞魔国全土でもついぞ見たことはない。
 胸がチリリと焦げ付くような痛みを訴える。これほどの魔力の持ち主であれば、グウェンダルの障壁を越えてコンラートに危害を加えることも可能だと、警告音が大きく唸っているのだ。

『コンラート…っ!』

 血を吐くような叫びを胸に響かせながら領土境の門扉を潜っていけば、普段は冷静沈着な領主が血相を変えた姿に、衛兵達も異常を感じて問いただしてくる。

「何かあったのですか!?」
「館に賊が侵入している!強い魔力の持ち主だ…っ!!」
「な…っ!」

 強引に馬を進めていけば柵が目の前に出てくるが、ダ…っ!と加速を付けて迂回することなく飛び越え、グウェンダルは殆ど直進するようにして館を目指す。アリアズナも躊躇無く後を追い、近隣の住民に悲鳴を上げさせていた。

 その間にも、魔力の気配はコンラートの像へと近づき、とうとう、室内に入り込んだのが分かった。グウェンダルは悲鳴に近い叫びを喉元で飲み込む。

『これ以上、コンラートを傷つけることは赦さぬ…っ!』

 高ぶりすぎた怒りと憎しみに眩暈さえ感じるが、そんなことで速度を緩めるわけにはいかない。もう二度と、あのように《何もかもが手遅れ》という虚無感を味わいたくはないのだ。

 コンラートのことに意識を集中させれば、どうしてもあの日以降のことばかりが思い出される。
 奇跡的に無傷で持ち帰ることは出来たものの、苦悶の表情を浮かべ、大量の血飛沫を浴びた弟の姿は無惨としか言いようがなかった。せめて綺麗にしてやろうとは思ったのだが、他人の手が触れて万が一傷つけたらと思うと怖かった。だから、少々がさつなところがある末弟にも触れさせず、グウェンダルが袖を捲って来る日も来る日もゴシゴシと磨いたのだ。

 けれど、完全に汚れを落とすことは出来なかった。搬送中に石の隙間に入り込んだ血が完全に固まってしまったのだろう。大きな染みがいくつも残ってしまって、それが死してまでもコンラートを汚しているように感じられてならなかった。
 
 何度も直接手を触れて撫でつけたりしてみたが、その度に冷たくザラザラとした石の感触に眉根を寄せた。生きている間に直接触れたことなど一度もなかったが、それでも、多くの疵を付けられながらも、どこか高貴な輝きを持っていた肌は、こんな感触では決してないはずだ。

『私は…兄だというのに、一度としてお前を抱きしめてやったこともなかったな』

 彼が喜んでいる時も哀しんでいる時も、肩を抱き寄せてやったことすらなかった。感触すら思い起こすことのできない事実が、グウェンダルの至らなさを思い知らせるようであった。

『こんな酷(むご)い姿にさせてしまうまで、私は何をしていたのか…』

 部屋の中に納めた上に、障壁を掛けて人の目に触れぬようにしたのは防衛の意味だけでなく、凄惨な姿を興味本位の者に見せたくなかったのかも知れない。

 だから、館に納めて以降にコンラートの姿を見た者は、グウェンダルとヴォルフラムに限られていた。その弟も、コンラートを見ていると苦しくなってくるのかすぐに退室してしまうのだが、グウェンダルだけは夜明け近くまでコンラートの像に話しかけたり、鼻の下辺りに希少なワインを寄せたりすることが多かった。やった後は決まって、自分でも《馬鹿馬鹿しい》と思うのだが、そうやって話しかけたり、好きだった(推測だが)嗜好品を嗅がせてやったら、少しはこの苦しげな表情が和らぐような気がしたのだ。

『生きている間には、優しい言葉一つ掛けてやることも無かったのに、今更…手遅れになってからこのような事をしてどうなるというのだろう』

 《見苦しい》と分かっていて、どうしてもコンラートの像と二人きりになると、飽かずそんな行為を繰り返していた。気が付けば、それは空しくともグウェンダルにとって大切な習慣になっていた。

 そのコンラート像に今、危機が迫ろうとしている。
 侵入者は微かに兄弟を繋いでいた絆までも、無惨に断ち切ろうというのか?

「コンラート…っ!」

 声を忍ばせることを一時忘れて、グウェンダルは知らず叫んでいた。



*  *  * 




『くそ…追いつけないっ!』

 持てる技能の限りを尽くして馬を奔らせているというのに、グウェンダルはともかくとしてアリアズナとの距離さえどんどん離れていくことに、ヴォルフラムは苛立たしげに舌打ちをした。

 ゴウ…っ!

 砂塵は容赦なく吹き付けて、先行者との間の厳然たる差を思い知らせてくる。

「くそ…くそぉお…っ!」

 コンラートの危機だというのに、どうしてこんなにも思うように動けないのか。悔しさはトラウマを刺激し、こんな場合ではないというのに過去の記憶を蘇らせる。

 かつてヴォルフラムはコンラートの愛をたっぷりと受けながらも翻心してしまったのは、ひとつにはビーレフェルト領でヴァルトラーナから受けた指導の影響が大きい。だが、決してそれだけを鵜呑みにして反抗心を燃やしたわけではなかった。ヴォルフラムの心に影を投げかけたものが何であったのか。後になって考えてみると、それは一種の《嫉妬心》だったのではなかろうかと思う。コンラート自身への嫉妬ではなく、コンラートを愛する者達、ことに、混血への嫉妬であった。

 コンラートはヴォルフラムに昔から甘かったから、ずっと《僕が一番愛されていて、一番コンラート兄上の心に近く寄り添っている》と自負していた。ところが、ある日コンラートが前線帰りの混血兵と再会を喜び合っている姿を見た時、初めて《入り込めない》という実感を覚えてしまったのだった。

 明日をも知れぬ危険に身を置く同胞が、無事に生きて帰ってきた。それがどれほど得難い喜びであるのか今ならヴォルフラムとて知っている。皮肉なことに、元の姿では還ることの無かった兄を目にした時、初めて思い知らされたのだ。

 けれど甘やかされて育った当時には、そのような実感などまるでなかったから、ただコンラートが混血であるというだけで、自分とは違う生き物であると…本当に分かり合うことが出来るのは、混血の仲間しかいないのではないかと疑ったのだ。

 それから何かにつけて食ってかかり、混血を殊更侮蔑するような言いぶりで責めていけば、コンラートは愁眉を深めて哀しげな顔をした。決して声を荒げて怒ったり、殴りつけてくるようなことはなかったけれど、ヴォルフラムにとってはそれが余計に疑いを深める要因となっていた。

『僕には何を言っても無駄だと思ってるのだ!』

 幾ら可愛がってくれても、それでは永遠に真の意味で分かり合うことなど出来ない。だからこそヴォルフラムは必死になってコンラートを怒らせようとした。怒ってくれたら、もっと心の近くに行けると思ったのだ。

 そうやって意地になってしつこく傷つけた報いが、これなのか。

「くそぉお……っ!!」

 どんどん遠ざかっていくグウェンダルとアリアズナの騎影に向かって射るような視線を向けながら、ヴォルフラムは苦鳴をあげた。



*  *  * 



 
「コンラート…っ!」

 館の入り口で疲弊しきった馬を乗り捨て、廊下を全力疾走して突入した部屋の中では、今まさにコンラートの唇へと、メイド姿の少女が口吻ようとしているところだった。

「貴様…何をするつもりだ!」

 打ち付けるような怒号をあげると、少女が驚いたように振り向いた。

「…っ!?」

 その貌に、グウェンダルの呼吸は一時停止してしまう。このような時でなければ、もっと長い間我を失って見惚れていたかも知れない。それほどに、少女は鮮烈な美しさを湛えていた。

 また、少女の瞳には一片の禍々しさもなかったから、少なくともコンラートを破壊する為に来たわけではないと知って肩の力が抜ける。修行不足であれば、そのままへたり込んでいたかも知れない。

 だが、少女が不審者であるのも事実である。少女の服装はこの館のメイド服だが、顔に見覚えはない。館の従業員を採用する際には、間諜を恐れてグウェンダルが直接面接するのだから、これはやはりおかしい。
 グウェンダルは努めて厳しい表情を作り出すと、つかつかと歩み寄って少女の肩を掴もうとした。

 だが…きゅるんとした愛らしい容貌の少女が、微かに瞳を潤ませて見上げてくると、《貴様は何者だ!?》等と言った荒々しい怒声が、グ…っと咽奥で縮こまってしまう。

「お兄さん…!」
「な…?」

 どうしてそんなにキラキラとした瞳で見ているのだろうか?しかし、少女は胸の前で組んでいた手を解くと、不意にエプロンのポケットに手を差し入れようとする。そこにちらりと銀色の色彩を見て取ると、グウェンダルは反射的に少女の手首を捕らえて荒々しく床面に押さえつけた。何か鋭利な刃物でも携帯しているのかと思ったのだ。

「わ…っ!」
 
 女とはいえ、間諜なら何らかの体術を仕込んでいてもおかしくないようなものだが、少女はあまりにもあっさりと押し倒されると、じたばたとグウェンダルの下で藻掻いている。華奢な体つきの少女を大柄な身体全体で押さえ込んだような形になるから、なにやらこちらの方が悪いことをしているような気分になってしまうではないか。

『べ…別に手込めにしようとしているわけでは…!』

 誰にともなく言い訳したくなってしまうグウェンダルだった。その横ではグウェンダルの心理を読み取ったように、にやにやしているアリアズナがいる。彼は突入までの緊迫した表情など一体何処へ行ったものやら、すっかり飄々としたいつもの様子を取り戻して、愉しげに見守っていた。

「やれやれ。随分と肝を冷やしましたが、こりゃあ心配し損ってもんだ。随分と可愛らしいメイドさんじゃありませんか。大方、コンラートの奴に憧れて《王子様への魔法のキス》を試そうとしたってとこじゃないですか?ねえ閣下、離してやっちゃどうですかね?」
「…我々を油断させようと言う腹かも知れないぞ?それに、お前には感知出来ないだろうが、この娘の持つ魔力は尋常ではない」

 そう、魔力のことさえなければグウェンダルとてアリアズナと同様の判断を下したかも知れないが、こうして直接触れてみると、その驚異的なまでの魔力に度肝を抜かれる。十貴族に名を連ねる純血魔族の中にあってさえ、これほどの魔力を感じたことはないのだ。こんな娘が、グウェンダルの不在中に館に入り込むなど、どう考えても意図的なものがあるはずだ。

「グウェンダル閣下、申し訳ありません!この方を案内したのは俺なんですっ!」
「バドック。貴様、どういうつもりだ?」
「それがそのぅ…」

 ぎろりと睨み付ければ、バドックは首を縮こめて背筋を震わせる。グウェンダルの一瞥がよほど殺気だって見えたらしい。

 バターン…っ!!

 そこに、一足遅れてヴォルフラムも突入してきた。未だグウェンダルが拘束している少女を目に留めると、遅れてきた気恥ずかしさも手伝ってか、荒々しい息もそのままに、血走った目つきで抜刀する。窓から差し込む夏の陽射しが不吉にぎらついた光沢を醸し出すのを、バドックが悲鳴を上げて留め立てする。

「ヴォルフラム閣下、どうかお止めください…っ!!」
「黙れ!貴様が手引きしたのか!?裏切り者め…っ!この娘に罰をくれて遣った後に、然るべき処分を加えてやる!」

 ヴォルフラムはそう言うと、細身の剣をブン…っ!と唸らせて少女に斬りかかっていった。

「や…止めてくれっ!!」

 その時、藻掻いた少女のエプロンからコロコロリンと転がり出てきたのは、銀細工の騎士人形だった。人形遊びをするような年には見えないが、ポケットに入れていたのがグウェンダルが警戒した短刀などではないと分かって、拘束していた手を緩めてやる。

 …が、実のところこの人形はナイフよりも大きな意味を持つ存在だったのである。

「兄さん、ヴォルフ…!ユーリを傷つけないでくれ…っ!!」

 床に立った銀細工人形は両手を掲げて、伸びやかな美声をあげたのである。
 あまりにも懐かしい…ウェラー卿コンラートの声で。

 しかも、そちらに気を取られている間に少女が立とうとしたから、反射的に手を振り翳して掴もうとすると、ずるりと髪が抜けてしまう。

「…っ!?」

 栗色の巻き毛の下にあったのは、さらさらとした質感の漆黒の髪。そして…グウェンダルの手か髪が掠めたのか、痛そうにぱちぱちと瞬いた瞳からころりと色硝子が外れてしまう。



 そこにいたのは…夜の帳(とばり)を切り取ったように美しい漆黒の瞳と髪を持つ、双黒の少女だった。





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