「お伽噺を君に」 「ん…」 口の中が生暖かい。 それでも、とろりと流れてくる液体が欲しくて舌を差し出せば、軽く咽奥で笑うような感覚が伝わってくる。今、村田はどういう状態にあるのだろうか?よく分からないが、喉の渇きが強くて、とにかく何かを飲みたかった。 こく… こく… 幾度か水分を飲み下してから、ゆるゆると戻ってきた意識の中で、自分が屈強そうな男に口移しで水を与えられているのだと知った。ファーストキスの相手がマッチョメンだという事実にちょっぴりしょっぱい気分はしたが、このままそれ以上のものを奪われそうな気配はしないので、取りあえず気を取り直した。 『ここは…どこだろう?』 異空間から放り出された時に、砂漠だと知って慄然としたのは覚えている。ここは襤褸布に囲われた小さなテントの中だが、暑さと大地の感触から言って、まだ砂漠から出られたわけではないらしい。 「気がつかれました?」 ハスキーな声の主を見やると、フードを取って肩口で跳ねるオレンジ色の髪が溢れ出てきた。瞳の蒼とも相まって、何とも賑やかな彩りの男である。 厚みのある精悍な唇が微かに濡れているのを、ぺろりと紅い舌が舐めていく。あれが、どうやら先程まで村田のそれと繋がっていたのかと思うと、微かに羞恥を感じる。 だが、それと恩義とはまた別問題だ。 「うん…水、ありがと」 「ああ、こりゃ嬉しいですね。不敬だと殴り飛ばされたらどうしようかと思ってました」 にしゃりと笑う男は、癖のある人物であるに違いない。双黒ということで一定の敬意は示してくれているが、こちらの中身次第ではどう出るか分からないタイプだ。ただ、少なくとも魔族ではあるようでほっとする。この姿で人間の国に落ちていた日には、石持て追われた挙げ句になぶり殺しにされるか、下手をすれば不死の妙薬として生きながらにして腑分けされていた可能性もある。 それを考えれば、少々マッチョメンに唇を奪われたくらい何て事はないだろう。よく見れば愛嬌のある顔立ちをしているから、生理的に嫌なタイプではないし。 「《お礼はちゃんと言え》って、僕の友達がうるさく言うんでね」 「そりゃあ良いお友達だ」 そうだ、ユーリは一体どうしているのだろうか? 「その友達は《まずは自分から名乗れ》ってのにもうるさいんで言わせて貰うと、僕の名は村田健っていうんだ」 「へえ、良いお名前ですね。ムラ・タケンで?」 「その切り方だと、《村他県》みたいだね。村田って呼んでよ」 「呼び捨てで良いんで?」 「うん」 この男が果たしてどういう陣営についているかも不明なうちに、全てを明かすことは出来ない。そもそも、双黒の大賢者という存在は現在の眞魔国ではどういう位置づけにあるのだろうか?一応、双黒というだけで一定の敬意は向けられているから、それなりに尊敬はされそうだ。 「俺の名はグリエ・ヨザックと申します。ヴォルテール軍所属の兵士ですよ」 「ヴォルテール…ふぅん」 こくんと頷いて、取りあえずコンラートの話と照らし合わせてみる。少なくとも、コンラートの立場から言えば《良いもん側》の人物であるらしい。見た感じ混血のようだが、そうすると、フォンヴォルテール卿グウェンダルは純血貴族の誇りだけで物事を判じる性質ではないようだ。 「ねえ君、ここがどこだか教えてくれないかな?」 「土地の名前でよろしいですか?」 「出来れば、ざっくりと地図も書いて貰えるとありがたい。あと、軍務に差し障りが無い範囲で良いから、ここ17年の間に眞魔国で起きたことを教えて欲しい」 「17年間…?」 ぴくりとヨザックの眉が跳ね、何処か不審感を滲ませた眼差しで村田を見やる。 「何故、そこまで遡られるので?」 「君だって、僕がこの辺の出では無いのは分かるだろう?僕は眞王の命を受けて行動している、異世界の者だ。こう言えば、多少は裁量してくれるかな?」 「…!」 多少吹いてみたが、正確には嘘というわけではない。村田健として眞魔国を訪れたことはなくとも、彼の中に刻まれた4000年という月日は眞王の命に従った結果である。 『4000年もあんな奴の為に生きているのかと思うと、凹むなぁ…』 ユーリの為ならば1万年でも生きられると思うのだが、1万年後に魂を受け継いでいる者がそう思うかは不明だ。かつて、4000年前に死した大賢者は、この使命を誉れとまでは思わなかったものの、一応は能動的に受け止めていたわけだし。 「眞王陛下のお声を、受けられたことがおありで?」 「少なくとも、17年間ほどは無いね」 「そうですか…ま、そりゃあそうか」 ヨザックは多少がっかりしたらしい。村田が頻繁に眞王と声を交わしていたなら、聞いてみたいことがあったのだろう。 「ともかく、君が知っている限りのことを教えてよ。眞王の遣いに対して…ね」 「あな恐ろしや恐ろしや…。眞王陛下の御遣いに対して、塞ぐ口などございませんよ」 「君は取捨選択出来る男のようだけどね」 「さて、どうでしょう?」 肩を竦めながらも、ヨザックは色々と語ってくれた。自分の私見と客観的事実を整理しての論述には、頭の良さを感じさせる。しかも、やはり彼には村田を眞王の遣いとして恐れ平伏しているという感じは無い。一筋縄ではいかない男のようだ。 話の中で驚いたのは、この男がコンラートの元同僚であるという事実だった。激戦地アルノルドと《死の道》の二つを乗り越えて生きていられた兵士はごく僅かであったと言うから、砂漠のど真ん中でその男と真っ先に会えたという事実は、奇妙なまでの符号を感じさせた。 『眞王の企みだとかいうのでないと良いな』 あの男が未だに全ての運命を握っているとは考えたくなかった。寧ろ、これは希有な存在であるユーリが、運命を導いたのだと思いたい。 『ウェラー卿が銀細工人形として生きていて、眞魔国に来たかもしれないってことは…まだ言わない方が良いだろうな』 村田自身も彼らがどうなったのかを確信しているわけではないし、そんなことはないと信じたいが、何かの齟齬で彼らがこちらの世界には来られなかったという可能性もある。ぬか喜びさせたり落胆させたりするのは無意味なことのように感じられた。 「…で、君は僕をフォンヴォルテール卿に紹介はしてくれるのかな?」 「勿論ですとも」 嘘ではないだろう。まだ村田の正体については懐疑的なものの、双黒を一兵士の身分で独占するほど自分を過信もしていないらしい。 * * * 馬に乗った記憶は腐るほどあるのだが、ヨザックに乗せられるとやはり大きさや、伝わる暖かさに驚いた。砂漠に向いた地力の強い馬種について滔々と語ることは出来ても、実際に村田健自身が自らの心と体で感じ取るのは違う。砂漠の陽射しを避ける為に着せ付けられたフード付きのマントも暑いし、獣臭くて困惑してしまう。 「馬に乗るのは初めてで?」 「ま、そんなところだよ」 くす…っと後ろ頭の上で苦笑されたら、何だか耳朶が紅くなった。よほど世間知らずだと思われたのだろうか? 「可笑しいかい?」 「いえ、意外と率直なんで驚いたんですよ」 「自分が出来ないことや、知らないことについて虚勢を張ったってしょうがないからね」 「へぇ…それもお友達の教えで?」 「そうだね」 「良いお友達だ」 「まあね」 「あはは、本当に素直ですね」 今度の笑いは、苦笑ではなかった。どこか感心したような声は、多分柔らかい微笑みと共に紡がれたのだと思う。なんだか余計に落ち着かなくなってきて、村田は珍しく思いついたままを口にした。 「ねえ、君はウェラー卿コンラートの友人だったのかい?」 すると、ヨザックは一拍置いてから乾いた笑いを浮かべた。 「友人?そんな良いもんじゃありませんよ」 シニカルな声に、村田はどうしたものかと迷ったが、暫く沈黙が続いたせいで聞かずにはおられなくなった。無理に話題を変えたところで、この蟠りを残したままではろくな会話にはならないと踏んだのである。 「…どうしてって、聞いても良いのかな?」 「……それは、眞王陛下の御遣いとしての命ですか?」 「いいや、村田健個人としての質問だよ。別段、君に答える義務はない」 その言葉に何を感じたのか、ヨザックから伝わっていた頑なな拒否が少し薄らいだ。 「僕の…お礼や挨拶にうるさい友人は、ウェラー卿が大好きなんだ。だから、彼にまつわる話題を集めてやったら喜ぶと思ったのさ」 「へぇ…」 どこまで信じたのかは分からないけれど、ヨザックは彼にしては訥々とした口調で、苦い過去を噛みしめるようにして語った。 「……あいつは、俺の恩人でした。シマロンの強制収容地区で、母親の死骸と一緒に襤褸布みたいに転がってた俺を救ってくれたんです。こんな言い方をするとちょいと恥ずかしいですが、まあ…憧れてました」 「ふぅん」 「でも、俺は役立たずだったんですよ。例の法術兵器の核がデカイ法石だと分かってて、砕くのを躊躇した」 ヨザックの声が微かに震える。その瞬間を思い起こしているのだろうか?見上げた先に痩せっぽちの小鳥が飛んでいくのを見やりながら、ヨザックはぽそりと呟く。 「鳥がね…落ちてきたんですよ。空を飛んでた鳥が、何かの拍子に法石の影響を受けて、翼が石になって…地面にぶつかったら、《割れた》んです。生き物なのにね」 それはきっと、瞬間的に沸き上がった生理的な嫌悪であったのかも知れない。 「死ぬのは怖くなかった筈なのに…」 《生き物ではなくなる》のには、耐えられなかったのか。 だが、誰がヨザックを責めることなど出来るだろうか?少なくとも、あの当時眞魔国の中にあって、安寧を貪っていたなんぴとにも、その権利はないだろう。 あるとすればそれは…。 「あいつは、迷いませんでした」 ああ…そう、コンラートだけが、無言でヨザックの怯懦を責めてしまうのか。本人は全くそんな頓着など無く、ちっちゃくて可愛いユーリの成長を見守りながら、結構幸せに過ごしていたというのに。 「馬上から飛んで行く間にも、法力に触れた肉体がどんどん石化していくって言うのに、あいつは怯むこともなく剣を突き立てたんです。バキ…って、断末魔みたいなおぞましい音がしたのと同時に、あいつは完全に石になっちまった」 声が、震える。 当時の感情が今なお、この男を捕らえて放さないのか。 「俺は…何も、できなかった」 村田の胸が、きゅうっと締め付けられる。村田はコントラートが、元の姿ではないとはいえ生きていることを知っている。ただ、それは《生きていたことを知っていた》とも言える。何の証明もなく、今生きているという確証もないまま、ぬか喜びをさせる無意味さと、何とかしてこの男を励ましてやりたいという気持ちの間で、村田は揺れた。 『恩人だからかな?』 普段の、人間関係が希薄でも全く気にならない村田としては妙な反応だった。もしかすると、ユーリの影響で何かが変わってしまったのかも知れないし、ヨザックが特別そういう気持ちにさせる男なのかも知れない。 「…あんたは、頑張ったよ。生きて…戦い抜いたじゃないか」 「そうですかねぇ?」 「そうだよ」 やっぱり上手く行かない。 きっとユーリなら、語彙は少なくたって溢れるような想いを懸命に伝えて、何とかしてヨザックを元気にさせようとたのだろうけど、たったこれだけの応答で早くも村田の羞恥心は火を噴きそうだった。物凄く柄にもないことをしているという自覚があったのだ。 ヨザックが黙っているものだから、変なことを言ったのではないかと思って微かに頬が紅くなるけれど、彼は大きな掌でぽすっと村田の頭を包むと、着せてくれたフード越しに撫でてくれる。《子ども扱いするな》と言いたいような気もしたが、あんまり手が気持ちいいので黙っておいた。 「ありがとうございます」 「素直だね」 「あなたのお友達を、見習おうと思いまして」 「良いことだね」 くすりと笑った声は、二人とも含みのない素直なものであった。 * * *
『なーんでこんな話、してるかなぁ…』
暫く進む間にヨザックは、旅の中で体験した話を面白おかしく話してくれた。二人とも《らしくない》遣り取りをしたという自覚があるから、自ずと内容は過激になって、ちょっとした下ネタも絡めながらゲラゲラ笑ってしまった。暑くてしょうがないのに、馬上で密着しながら過ごすひとときは意外なほど楽しかった。 だが、ヨザックは砂地が中心の砂漠から岩場に移動してきた頃、急に緊張感を見せて馬から降りると、注意深く痕跡を辿った。 「どうかしたの?」 「…どうもこりゃあ、本隊を狙ってる連中が近づいていますね」 「シュピッツヴェーグ軍かい?」 「おそらく」 そう言うと、再び村田と共に馬へと跨ったヨザックは、一転して猛烈な速度で駆け出した。 「舌を噛まないで下さいね?」 「大丈夫。少し馴れてきたし」 実際、数時間に渡って馬に乗っていると少しずつ感覚が蘇ってくる。尻の皮が急に厚くなるわけはないが、それでも、かつて村田と同じ記憶を持っていた者達は、この大地の上で馬を駆っていたのだ。 「見えて来ました。あれです」 崖の上から見渡した先に、まだ襲撃を受けた形跡のないヴォルテール軍が見える。覚えのある紋様の旗印が棚引く様を、村田は懐かしい映画のシーンでも思い起こすように眺めていた。 ヨザックは素早く背嚢から数種類の薬品を取り出すと、手際よく調合して狼煙を上げる。それに気付いたらしい本隊では急に動きが大きくなり、迅速に移動が始まった。それに合わせて、ヨザックも本隊を目指す。早く村田を本隊に預けて、単身で動きたいのだろう。確かに、ヨザック本人はともかくとして、こんな砂漠地帯で余計な荷物を載せられた馬は辟易しているようだ。 事情としては分かる。だが、村田個人としては少し惜しいような気がした。どうやら、自分で思っている以上にヨザックとの会話を楽しんでいたらしい。 『無事でいてくれると良いんだけどな』 斥候は単身で行動する分、身軽さはあるが敵に捕捉された時には情報を絞り取ろうと、拷問に掛けられることが多い。国内事情で捕まる分には普通、そこまで心配ないはずなのだが、何しろヨザックの場合は混血という側面がある。未だ差別意識の強いシュピッツヴェーグの純血連中なら、無能であればあるほど単純な方法で情報を奪おうとするに違いない。 崖を迂回して本隊に合流しようとしたヨザックだったが、暫く行ったところでまた何かに気付くと、自分だけ馬から降りた。 「ちょいと悪いんですがね。先程確認した方向に走っちゃ貰えませんかね。なに、先程から見てましたら、あなたはなかなか筋が良い。一人でも馬に乗っていけますよ」 「囲まれちゃった?」 狼煙をあげた分だけ、あるいは、村田を乗せていた分だけ、ヨザックは行動を制約されたのだ。敵の斥候の目を欺けなくなるくらいに。 ヨザックは単身残って、村田が上手く本隊に合流できるよう抵抗する気で居るのだろう。 「お察しの良いことで」 《分かっているなら行ってくれ》と言いたげにヨザックは馬を走らせようとするが、彼にとっては都合の悪いことに、村田は馬を御する方法を思い出し始めていた。駆けさせるのではなく、落ち着けさせる方のやり方も…である。 「どうどう、ちょっと待ってねー。君のご主人を置いていくのは、恩義に悖るのさ」 「何を…っ!」 本気で怒った顔をすると、なかなか野性味があって怖そうな顔になるが、怯みはしなかった。 「シュピッツヴェーグの血筋については、記憶がある。とにかく力ある者には弱いんだよね」 「何をするつもりで?」 「ま、やるだけやらせてよ」 ぱちんと決めたウインクは、なかなか上手に出来た。これで、《交渉》の方も上手くできれば良いのだが、どうだろう? * * * 「そこの者、馬から降りろ!グリエ・ヨザック、貴様も下手な動きは見せるなよ!」 岩場の影から現れた数人の斥候は、居丈高に叫びながら弓を引いた。手つきからしてなかなかの手練れのようだ。ヨザックが警戒したのも、馬上で撃たれた場合に村田を護ることが出来ないと踏んでいたからだろう。 しかし、村田は斥候に恐れ畏まったりはせず、寧ろ傲岸として叱責を加えた。 「貴様、誰に向かって口を利いているつもりだ?」 突如として纏うオーラを変えた村田に、敵の斥候だけでなく、傍らに立っていたヨザックまでもがぎょっとして振り返る。だとすれば、往年の威迫をちゃんと村田は放出できているのだろうか?蘆花の元で魔力を練る訓練をしていたのも幸いした。村田は魔力持ちと思しき斥候達に向かって、威嚇するように魔力と鋭い声の打撃を加えていった。 「な…な?」 「嘆かわしいことだな…《双黒の大賢者》の名は、この地では語り継がれてはいないというのか?」 ふぁさ…。 腹立たしげに、意識的な低音を響かせながら被っていたフードを払えば、紛う事なき双黒が斥候達の膝を砕く。 「そ…双黒の…」 「大賢者……様っ!」 「これは…失礼致しました!知らぬ事とは言え、お許し下さい猊下…っ!!」 ふん…っと鼻を鳴らして、村田は不快げに眉根を寄せる。 「僕は待つのは嫌いだ。とっとと行って主に伝えろ。双黒の大賢者が眞魔国に還ってきた…とな」 「は…ははっ!直ちにお伝えします故、どうか我らの働きました無礼は平にお許し下さい…!」 「構わないよ。きちんと歓待してさえくれれば僕は文句は言わない。さあ…君たちの主は僕の持つ権威を有効に使える男だろうか?気にくわなければ、僕はフォンヴォルテール卿につくよ?」 くすくすと思わせぶりに嗤いながら言ってやれば、斥候達は身も世も無い様子でおろおろと慌てふためいていた。 「今すぐ馬車を用意してよ。じゃないと、僕はこのままヴォルテール軍の斥候についていくよ?」 「そ、それだけはお許し下さい!」 「ああ…それから、僕は眞王からの命を帯びているんだけどね?彼は十貴族同士が相打ちかねない今の状況を実に憂いている。まさかとは思うけど…君たちの主は、自ら攻撃を仕掛けたりはしないよね?」 「は、はは…っ!そそそそ、そうですともっ!!我が主、シュトッフェル閣下は眞王陛下の忠実な下僕でございます故!」 一転して婉然と微笑みかければ、眞魔国では二割り増し華麗だと褒め称えられる双黒の威力なのか、斥候達は青ざめさせていた顔を今度は紅潮させて舌を縺れさせた。 心なしか、ヨザックは呆気にとられてぽかんと口を開いているようだ。 「では、用無しになったこの男は離してやれ」 「しかし…」 「下僕と言ったのは単なる比喩かい?それとも、眞王には従っても、この僕には従えぬと?」 ゆるりと頭を巡らせて半眼で睨み付ければ、斥候は慄然として背筋を伸ばした。そして、ヨザックに対しては憎々しげな声で吐き捨てる。 「グリエ・ヨザック。貴様には耳がないのか!猊下のお達しだぞ?今すぐ立ち去るがいい!」 すると、他の斥候達も嘲るような声を上げた。双黒の大賢者という大きなカードを奪い取ったと認識して、圧倒的な優位を感じているのだろう。 「そうだ。貴様らの主に伝えるが良いわ。猊下の後ろ盾は、シュトッフェル閣下が頂いたとな!」 全くもってそのつもりなどないが、何とかしよう。とにかく、摂政という立場にある相手とやり合うのであれば、ここで肉弾戦を繰り広げるよりは村田の能力を発揮できるに違いない。眞王がまともな状態ではないとしても、眞王廟の巫女達を説得できるだけの秘密は幾つも知っている。そもそも、彼女たちの能力が損なわれていなければ、村田が近くに行っただけで魂の形を判別できるだろうし。 ただ、これでヨザックとは会えないのだと思うとやはり淋しい。優越感と劣等感の入り交じった膏顔でにやついてる連中についていくのかと思ったら、不安と苦痛も感じる。 『でも、これで良いはずだ』 国の中枢に近い方が見えてくることもあるし、別の場所に辿り着いているだろうと期待するユーリ達の為に、何かしてやれることもある筈だ。それに、自分の身と引き替えにヨザックを逃がすことも出来る。 しかし、ヨザックは犬の子のように散らされたりはしなかった。 「そんな殺生な〜っ!猊下、俺との約束はどうなっちゃうんですか!?愛してるって言って下さったのにぃっ!うう…俺の純情を弄んだんですかっ!?」 「…!?」 思わず声が裏返りそうになるのをすんでの所で止めれば、哀れなほど打ち拉がれた(ように見える)ヨザックが、新妻座りで《よよ…》と泣き崩れていた。これでは《何も知らないOLに結婚を餌として近づいたものの、実は妻子持ちだった部長が喫茶店で別れを切り出している図》(←長い)ではないか。 しかし、こういうノリは嫌いではない。 「しつこいな…。君だって愉しんだろうに」 「猊下のお情を頂いた夜は熱く激しかった…っ!ああ…もう俺は猊下の虜なんです。猊下を思うと、尻孔が疼いて堪らない…!」 《僕が攻めなんだ…》設定上の無理に色々と突っ込みたいが、なんだか行きがかり上、乗らないわけにはいかない気がする。何だか斥候達が、昼ドラの展開に目を見張る主婦みたいな顔をしているし。 「ふ…仕方ないな。君たち、情夫を一人連れて行っても良いかな?」 「しかしこの男は…」 「今では双黒の大賢者の忠実な下僕だ。文句があるかい?」 「は…はは!」 平伏した斥候達に向かって一瞬、ぺろりと舌を出して見せたヨザックは、そのまま村田にも共犯者然とした笑みを向ける。 『やっぱり食えない男だ』 再認識しつつも、口元には堪えきれない笑みが浮かんでしまう村田であった。 |