「お伽噺を君に」
第12話









 空間がびゅんびゅんと視界の横を掠め飛んでいく。

 擬音を付けて表現したのはそう聞こえたからではなく、あくまで体感的なことであった。実際には無音に近く、自分が飛んでいく方向が前なのか後ろなのか、落ちているのか上がっているのかも分からない。辺り一面が殆ど真っ暗闇に近く、たまに光りが見えたかと思ったらライン状に掠め飛んでいくもので、それが《高速で移動している》と体感させている要因だった。そうでなければ、ひょっとして静止しているのではないかと疑ったかも知れない。

 ボブの別荘のようなところで最後の家族団らんをした時、勝馬から《いつ眞魔国に呼ばれても大丈夫なように、遊園地に行ったら必ず乗せていた》と言われたジェットコースターのことを思い出していたが、残念ながら父の気遣いにはあまり意味がなかったようだ。

『ぜんっぜん、違うから親父ぃ〜っ!!』

 乗り物酔いなどそうする方ではないから、あのス○ーツアーズなど何回乗っても爽快なだけだったが、こちらの移動は洒落にならないくらい野放図な勢いで身体を振り回されてしまう。掴む物が何もなく、広すぎる空間をただただ飛んでいくという感覚はなんとも気持ちの悪いものだった。

 それでも絶望したり、不安のあまり発狂しそうになる心配がないのは、そういった感情が湧くたびに、手の中の存在感が支えてくれるからだ。

『大丈夫。コンラッドがいる。はぐれてない。コンラッドが…いる!』

 本当に、それだけがユーリの支えだった。
 そして、それさえあればユーリは生きていけるらしいと再確認もしてみる。

『でも…吐き気ばっかりはどうにもなんないや』

 生きていけるのと吐きそうなのは別の問題であるらしい。うぷ…っと込み上げてくる酸っぱい味に、《そろそろ吐く》…と覚悟を決めたその時、漸く有利の身体はぽぅんと中空に投げ出された。放物線を描きながら草原に投げ出されたユーリは、ズザザザ…っ!とそのまま何mか草の上を滑ってから漸く止まった。幾らか頬や手足に擦過傷は負ったものの、大きな怪我はせずに済んだようだ。

『コンラッド…いる』

 息も整わないまま、ぜいぜいと荒い息を吐きながら何度も銀細工人形の感触を確かめていたら、コンラートもまた、ちいさな手できゅうっと握りかえしてくれた。彼が目を回しているのかどうかは分からないが、取りあえず意識は確かなようだ。

 身体が静止しても内耳のリンパ液はぐるぐると回り続けているのか、回転性の目眩が止まないし吐き気も強くて、ユーリの方は当分動けそうにない。ただ、しっかりとした大地に触れていると随分と気持ちが楽になる。確かめるように固い地盤を撫で、ざわざわと生えだしている雑草の類に鼻面を寄せて青臭いような匂いをかぎ取ると、次第に心理的な安寧は得られてきた。

「コンラッド…大丈夫?」
「俺は平気です」

 内耳などないせいか、元々鍛えているのか、コンラートは思いのほか元気に立ち上がると、横倒しになったまま動くことのできない有利に気遣わしげな眼差しを送った。
 ひとまず、魔石の消耗によって全く動けないという状況ではないようで、ほっと安堵の息をつく。

「ですが、ゲルトはともかくとして猊下と離れてしまったのは痛いですね」
「うん…」

 村田がゲルトと一緒でも心配だが、一人で落とされていてもやはり心配だ。
 特に、人間の土地に一人でいたりしたら、何をされるか分からない。コンラートのお伽噺では多少表現を和らげていたものの、やはり人間が魔族を憎み、特に黒を嫌悪すること甚だしいことは理解できていた。
 一刻も早く有利たちの状況を整えて、村田と合流したいところだ。
 それにはまず、現状把握が第一だろう。

「ここってどこだか分かる?」
「どう…でしょう?」

 草原に投げ出した身体をごろりと動かして空を仰ぐと、ユーリはそのまま言葉を失って見惚れてしまった。

「…っ!」

 そこにあったのは、群れなす星々の煌めきであった。霞のように見えるほど白く滑る帯と、銀・赤・蒼を混ぜて光る粒達。これほど圧倒的な星空というものを、ユーリは未だかつて目にしたことがなかった。人工物による光を浴びぬ夜とは、これほどに荘厳な色合いをしているのか。

 ぽかんと口を開けたまま、どれほどの時間を過ごしたろうか。ふと我に返ると、ユーリは吐き気を忘れて上体を起こし、ちいさな子供みたいにぺたんと座って星々を見上げていた。

 傍らを見やると、丈高い草の中に半ば隠れるようにして銀色の人形が立っていた。ユーリと同様に言葉を無くして、空を見上げ続けていたコンラートは、ユーリの視線に気付くと、ほぅ…っと長い息を吐いて感慨深そうに呟いた。

「眞魔国の…空です」
 
 声は感情の高ぶりを反映するように、微かな震えを帯びていた。それはそうだろう。17年ものあいだ隔絶されていた故郷に、今漸く触れる事が出来たのだから。

『コンラッドは、凄い人生を乗り越えてきたんだ』

 コンラートが生身の人間…いや、魔族として暮らしてきた世界に、僅かなりと触れたことで、今更のようにユーリは実感する。彼は、全てを奪われて地球にやってきたのだ。家族も友人とも切り離されて、これまでの栄光も、思い出を忍ぶ物さえも携帯することを赦されずに、ただ命と心だけをもってユーリの元に来てくれたのだ。

『全部取り返してあげたい。コンラッドが本来手にすべきだった人も物も気持ちも全部、戻してあげたい…』

 それはずっとユーリの心にある、切なる願いであった。

「ここは…」

 コンラートは何かを確かめるように、空と周辺の地形を見比べてからユーリに向き直った。

「ここはヴォルテール領の一部です」

 《ヴォルテール》の名を口にした時、コンラートの声には微かに緊張が混じった。と、同時に、別の感情もそこには入り交じる。強すぎて明確には表現しにくいその気持ちは、きっと彼なりの思慕の念であるのだと思う。

『ヴォルテールって、コンラッドのお兄さんがトップに立ってる土地だよな?』

 純血魔族としても最高峰の血脈を継ぐ兄は、誇り高き男であるという。親しくしていたという話は聞かないが、物語風味に語られるコンラートの言葉から、彼がどれほど兄を慕い、尊敬しているのかは痛いほど伝わってきた。

『ああ…お兄さんが、コンラッドのことを少しでも…コンラッドが想うその1/10でも良いから、気に留めていてくれますように!』

 暗闇の中で星明かりを浴びて、一人立つ銀細工の騎士。言葉を呑んだコンラートは、再び打ち震えるようにして空を仰ぐ。
 彼の中には、今どれほどの感情が込み上げているのだろうか。もしも涙を流す器官が備わっていたならば、彼は声を上げて泣いたろうか?いや、ユーリの前ではやはり遠慮して我慢するだろうか?

『でも、今くらいは思ったままの気持ちを味わって欲しいな』

 ユーリはそうっとコンラートの身体を抱き寄せると、胸に抱いて優しく囁きかけた。

「おかえり、コンラッド。あんたの故郷に」
「そしてあなたの国でもあります」
「そっか。そうだよね…」

 いつか、ユーリもこの世界を《故郷》と感じる日が来るのだろうか?それはまだよく分からない。今のユーリにとっての故郷とは、やはり地球であり日本でしかない。物語の中で漠然と思い浮かべていた世界を、リアルに感じ取るにはまだまだ時間が掛かりそうだった。

 そういえば、と、ユーリは自分の頭髪をツンと指先で引っ張る。

「人間の土地でないのなら、この頭とかも隠さなくて良いかな?」
「いいえ、逆に高貴過ぎて狙われてしまう可能性があります。フォンヴォルテール卿の関係者や、身分が確かな者と渡りを付けるまでは、なるべく目立たないように隠しておいた方が良いでしょう」

 《フォンヴォルテール卿》という言葉の響きに、つくんと胸が痛む。兄弟としてグウェンダルと呼んだって良いと思うのだが、彼ははにかむように苦笑して、呼び名を変えることはなかった。何とかして彼らの仲を取り持ちたいが、まあ、まずは無事に会えるかどうかの方が問題か。

「でも、俺たち何も持ってきてないよな?」
「そうなんですよね…。ユーリの格好も、人前に出るには結構問題がある衣装ですし…」
「確かに!」

 何しろ、有利が今着こんでいるのは真っ白な修験着なのだ。真っ黒な学生服だと魔王しか身につけられないからそれはそれで問題だが、上下真っ白というのもやはり奇妙だろう。

 肌合いから察してこちらも夏のようだが、夜であるせいか濡れた身体には肌寒く感じた。白い修験着は濡れてぴったりと張り付いているから、寒さも手伝って胸の尖りが痛いほど痼ってしまう。

「うへぇ…乳首が目立っちゃうよ。恥ずかしー」
「魅惑的すぎて大問題ですね!」

 コンラートも激しく同意してくれるが、微妙に問題の意味合いが違うのは気のせいだろうか?コンラートは時々、ヴィクサムと同じような観点で物を言っているような気がするのだが…。

 すると、有利の修験着の中からしゅるんと飛び出してきたものがあった。

「アヤ!」

 元々は蘆花の配下であった小妖怪は、自分を構築していた糸をしゅるしゅると解いていくと、小さな綾珠からは考えられないくらい大きな布地をあっという間に織り出して、最後にぷつんと糸を切った頃には、一組の洋服とマントを作り出してくれていた。ちゃんと有利の容姿を隠してくれるフード付きなのが、細やかな心配りを感じさせる。少し男の子が着るには可愛すぎる赤を基調とした長衣とズボンだが、上下純白よりは目立たないだろう。

「うっわー!マジで助かるよ。ありがとうね、アヤ」

 綾珠は嬉しそうにくるくると回転すると、早速着替えた有利を包み込むように大きな珠に変化する。そうすると外気が適度に防がれて、丁度良い温度になった。少々床に彎曲がついているのが難ではあるが、横になるとそこそこの弾力性もあって、土の上で寝るよりは遙かに寝心地が良い。

「何だか至れりつくせりだなぁ」
「お疲れでしょう?厚意に甘えて、しっかり休んでください」
「うん」

 何とか眞魔国に来られたことが確かめられたことで、すっかり安心したせいもあって、有利はあふぅ…と欠伸を漏らすと、コンラートの勧めに従ってころりと横になる。

「お兄さんに会うの、楽しみだね…!」
「ええ、本当に」

 こっくりと頷くコンラートは、この時まだ知らなかった。
 自分がいない17年の間に、眞魔国で一体何が起きていたのかを。



*  *  * 



 
 翌日目覚めたコンラートは、明るい陽射しの中で更に細かく位置を割り出すと、有利のポケットに収まって指示を出していった。眞魔国は骨飛族をはじめとして風変わりな生物も多く生息しているから、銀細工の人形が動いていても地球ほど大騒ぎにはならないはずだが、有利との会話からウェラー卿コンラートであることが知られてしまう可能性がある。このような姿になったことを家族に知られたくはないコンラートは、こちらでも基本的に人形らしい行動をとることになった。

 色鮮やかな葉が生い茂る常緑樹の森を抜けるまでは、山道が少々険しくても有利の心は浮き立っていた。ずっと約束していた眞魔国に、無事コンラートを連れてこられたことが嬉しくて堪らなかったのである。
 コンラートは土地の情報に詳しく、この季節にも食べられる果実のことを教えてくれたから、蛋白が少なくてちょっと物足りないものの、何とか空腹は凌げていたし、湧き水を見つけて飲んだりも出来た。
 だから、濃い緑の香りを吸い込みながらの道行きは、まるでピクニックみたいに感じられていた。

 その雰囲気が急に変わったのは、街を探そうとして高い峰の上から景色を見やった時だった。

「…あれ?」
「…っ!?」

 有利もコンラートも、思わず息を呑んだ。
 コンラートが探そうとしていたのは、ヴォルテール領の端にある《大門街》であった。その名の通り巨大な門を持つこの街は、領主の住まう土地でもあり、通商に訪れる人々で賑やかな雰囲気を持っている。実際、街の中自体はコンラートから聞かされていたとおりの様子なのだが、違うのは、門を越えた向こうの景色だった。

「砂漠…?でも、こっちの方はこんなに緑がいっぱいあるのに!」

 そう、門扉に境されたヴォルテール領の外には、見渡す限り広漠たる砂地が広がっているのだ。幾つかの灌木は生えているものの、それらはねじくれて苦鳴をあげているかのようで、まるでハロウィンの絵の中に出てくるお化け木みたいに見えた。

 ヴォルテール領内とのあからさまな差異に、どうしても違和感を拭えない。そう思ってから街の様子を見てみると、何となく不穏な気配も感じられる。

 商いをしている店舗や行き交う客もちゃんといるのだが、かなりの割合で同じ色をした制服の集団を見て取れる。遠目で詳しくはよく分からないが、歩き方の雰囲気などから軍人なのではないかと察せられた。彼らは一般市民よりもきびきびと歩き、何かを調達しては一つの方向に向かっていく。それは、一際大きな建物の方角だった。

「ええ、おかしいです。以前はこんなではありませんでした。ユーリ…魔力で何かを感じませんか?」
「う、うーん…俺も修行始めたばっかりで、あんまりよく分かんないんだけど…」

 それでも瞼を閉じて気配を感じ取ろうとすると、どうやらシールドのようなものが領土の境にある高い壁際に張られていて、そこから向こうでは大地の要素が捻れたり、混乱したりしているようだった。そのせいか、一応は落ち着いて見える領内の要素もどこか落ち着かない雰囲気である。

 掻い摘んで要素達の様子を伝えてみると、コンラートは悩むように俯いてしまった。



*  *  * 




「土の要素…ですか。フォンヴォルテール卿は魔族の中でも有数の魔力の持ち主で、土の要素を従えています。彼の領内であればとりわけ土の要素の祝福が得られるのは分かりますが、相対的に外界がこんなにも枯れ果てているというのは得心行かない。まさか…彼が故意にそうさせているのでしょうか?」

 グウェンダルは厳しいが、他人に対してそうであると同時に、自分を律することについてはとりわけ厳格であったはずだ。何らかの欲に駆られて領内だけを富ませているのだとすれば、彼はコンラートの知らない年月の中で、すっかり変わり果ててしまったのかも知れない。

 信じたくない。
 だが、これほど明確な変化を突きつけられると、コンラートは動揺を抑えきれなかった。

 自分が命がけで護った国が天国のようになっているとまで夢見ていたわけではないが、部分的にとはいえ大地が荒廃し、大切な人たちが堕落していたりしたら、一体何の為の犠牲だったのかと嘆きたくなってしまう。

 苦しげに街の様子に目をやるコンラートを、有利は細い指先でちょいちょいと撫でてくれた。

「行ってみようよ、コンラッド」
「ですが、もしもフォンヴォルテール卿の性格が変わり果てていたら、双黒であるユーリを利用しようとするかも知れません」

 自分で言っておいて、嫌な想像に泣きたくなってしまう。《廉潔の士》として知られていた彼がそんなことをするなど考えたくもないのに、有利の身を案じれば、どうしても最悪の事態を想定せざるを得ないのである。

 けれど、ユーリはコンラートの頭部をツンっと指先で突くと、優しい声で窘める。

「自分が信じてもないような事、言っちゃ駄目だよ」
「ユーリ…」
「ほら、泣きそうな顔してる」

 有利はそう言うと、銀細工のコンラートをポケットから取りだして、悪戯めかせて兜に音を立ててキスをした。  
「ゆ…ユーリ!?」
「えへへ、景気づけのキスだよ!」

 照れたように《女の子じゃなくて悪いけどさ》等と言っているが、有利だからこそコンラートの胸はこんなにも弾むのである。

「気分切り替えて、あの街に行ってみよう。そんで、お兄さんに会おう。コンラッドが会いたくないなら、俺が話してみる。あんたはポケットの中でちゃんと聞いていてね。きっと、お兄さんは変わっていないよ。もしも変わっているとしても、コンラッドが嫌だと思うような方向には変わっていないと思う。だって、コンラッドが石化してまで護った人だもん。絶対に私利私欲に走ったりしてないって!」
「ユーリ…俺も、信じたいです。そうなのだと…あの兄が、強欲に駆られたりすることなどないと…!」
「信じよう、コンラッド。そんで、確かめるんだ」

 主従は意気を合わせると、日暮れまでに街に入るべく、山道を急いだ。



*  *  * 



 
 峰から見下ろした時には近いと思ったのだが、慣れない山道を降りていくのは結構な難事だった。特に、履き物が修験着に合わせて草履だったのが拙かった。第1、2指の間が擦れて血が滲み、一歩あるくごとに痛くて堪らなくなった。コンラートはせめて少しでも有利の身を軽くしようと降りて歩くことを望んだが、有利は許さなかった。理由を口にはしなかったが、やはりコンラートが力を使うことで魔石が劣化してしまうことが恐ろしかったのだ。

 漸く街の入り口に達した時には、もうふらふらで一歩も歩けないような状態だった。一銭も持ってはいないのですぐには買えないと思うが、どこかで日雇いのバイトをする代わりに、古い靴を貰えないだろうか?

 しかし、街に入ろうとするとちょっとした関所が待っていた。有利たちがやってきたのはヴォルテール領内の山だから壁はないのだが、それでも乗り越えるには難渋しそうな柵が張り巡らされていて、所々にある切れ目の部分に2人組の衛兵が立っている。
 篝火はぱちぱちと爆ぜて、黒い煙が夜空に流れていった。明暗のバランスがきつすぎてよく見えないが、衛兵達の表情がそれほど険しいものではないことに少しほっとする。

「こんばんは〜」

 有利はひょこひょこと脚を引きずりながら眞魔国語で話しかけ、よろめきつつも柵の脇を抜けていこうとしたのだが、衛兵は見咎めるように肩を掴んだ。それほど横暴にされたわけではないのだが、山歩きに疲れた身体にはそれだけでも堪えた。

「君、随分と軽装で山を越えてきたもんだな。血が出ているじゃないか。一体何処から来たんだ?」
「え…と」

 おかしい。コンラートから聞いていた話では、そもそもこんな場所に衛兵など立っていない筈だし、遠目に確認してから問いただした時にも、《おそらく軽い警戒ですから、明らかに武装していない子どもであれば、すぐに通してくれるでしょう》と言っていたのだが、こんなに色々聞かれるとは思わなかった。
 もしかすると、家出してきた子どもだと思われているのだろうか?

「あの…。山で芝刈りをしていたら、父さんとはぐれて迷子になってたんです。行く時には馬車に乗せて貰ってたから草履でも大丈夫かと思ったんだけど、自力で歩いたら凄く痛くて…」
「ふむ。それは難儀だったな」

 人の良さそうな衛兵は本気で心配しているのか、しゃがみ込むと有利の草履を脱がせて傷の具合を検分してくれた。動き方から、彼自身も脚を酷く痛めているらしいと分かったから、前線では働けない人なのだろう。

「じゃあ、帰りますね」

 これで何とか通してくれる…と、思いきや、もう一人の衛兵が思いがけないことを聞いてきた。

「では、家の場所と両親の名前は?」
「え!?」

 聞いてきただけではない。衛兵は小脇に提げていたバッグの中から分厚い台帳を取り出すと、有利の返答を待ち構えている。

『あの中に、街に住んでいる人の情報が全部入ってんの!?』

 領内からの出入りで、しかも、領土の境を全て眞魔国内のいずれかの領土と接しているヴォルテール領で、何故こんな警戒が必要なのだろうか?考えられるのは、内乱で国内分裂が起きているか、あるいは他国との戦争によって領土が割譲され、ヴォルテール領のどこかが他国と接するようになったかだ。

 これは下手なことを言うと、とんでもないところにしょっ引かれて尋問を喰らってしまうかも知れない。

『こういう時は正直が一番かも』

 幸い、衛兵は職務に忠実ではあるが心根は優しそうだ。真っ正直に申告したら、何とか分かってくれるのではないだろうか?そう思って口を開きかけた時、人形として過ごすつもりでいたコンラートが、ぴょこんとポケットから頭を出してきた。
 
 怪しい銀細工人形に衛兵達は顔色を変え、剣を抜くと、危うく脚の悪い方が警告の角笛を吹き鳴らそうとしたが、すんでのところでコンラートが止めさせた。

「よすんだバドック!俺だ、コンラートだ!!」
「な…っ!」

 二人の衛兵は凍り付いたように、その場に立ち竦んでしまった。
 


*  *  * 


 

 キィ…。

 質朴な造りの扉を開けると、ふんわりと食欲をそそる良い香りがした。肉付きの良い女将さんがぱちぱちと爆ぜる薪の上で、美味しそうなスープを煮ている。ここは衛兵達の詰め所で、狭い建物の割に大きなテーブルには何人かの衛兵が座っている。全員が混血で、馴染みの男達だ。

 彼らは帰ってきたバドックとレイダースを労ったが、連れている華奢な子どもを不思議そうに眺めた。何か訳ありの者であれば、まずは食堂に隣接した収監所で詰問されるのが習わしなのだが、バドックの交代時間から考えると、そのままこちらにやってきたとしか思えないからだろう。事実、バドックは収監所を経由せず直接子どもを食堂に連れてきた。

 バドックが後ろ手に鍵を閉めたのにも、何人かが不思議そうな眼差しを送ったが、特に聞いては来なかった。ヴォルテール領の衛兵としてだけではなく、軍人としても一番の古株であるバドックを、みんな信用してくれているのだろう。

「お帰りあんた、レイダースもお疲れ様。あら?どこかの子どもまで拾ってきたのかい?」

 衛兵詰め所の食堂で女将さんをやっているのは、バドックの妻ベルダだ。公私混合になりそうなものだが、お互い年をとっている二人だから人前でいちゃいちゃすることもないので誰も文句は言わない。それに、ベルダは料理の腕前が抜群であることから、衛兵達はすっかり懐いており、若い連中の中には《母さん》と呼ぶ者もいる。

「すまないな、ベルダ。食事に余裕はあるかい?みんなもすまない。ちょっと事情があって、この子に食事を摂らせてやりたいんだ」

 無骨ながら気の良い連中揃いらしく、みんな笑顔を浮かべて手を振った。ベルダもこっくりと頷くと、自然な動作で脚の悪いバドックから杖を受け取り、椅子を人数分並べててきぱきと食卓の準備を進めた。

「スープは明日、井戸水で冷やしたのを食べようと思っていたから、多めに拵えておいたよ。パンは少々心許ないけど…そこの子は随分と腹を空かせているようだし、たんと食べさせてあげな」

 ベルダはそう言うと、自分たちの割り当て分である黒パンを切ってくれた。現在の食糧事情から考えると、希少なパンはそう景気よく分けてやる訳にはいかないのだが、バドックの眼差しから汲み取ったのか、比較的大きめに切り出してくれた。

「ありがとう、ベルダ」
「うふふ、今日は熱いスープだけど勘弁しておくれね?まあ、暑い時分には胃を暖めた方が良いって言うしね。ああ、それにお腹が落ち着いたらすぐに足の治療をしようね?妙な靴を履いているけど、殆ど切れっ端みたいになってるじゃないか!あたしのお古をあげるから、そっちを穿きな」

 子どもはぺこりと頭を下げると、嬉しそうに声を弾ませた。

「ご飯時に押しかけてきてすみません。俺、ユーリって言います。今夜はご馳走になります。靴も嬉しいです〜っ!ボロボロになっちゃったから、どうしようかって思ってたんです」

 マントを着た子どもは、伸びやかな良い声をしていた。心がぱぁっと明るくなるような可愛らしい声に、ベルダや衛兵達の目元も柔らかくほぐれる。

「あはは、ご馳走って程の物もないけどねえ!靴もあんまり期待しないどくれ?ま、早くマントなんか脱いで手を洗っておいで!腹が減ってるだろう?」
「はいっ!」

 元気にお返事はしたものの、マントを脱いで良いのかどうか迷う様子であった子どもは、何故かポケットの中身を覗き込んでから小さく頷いた。

「ん…?」

 ポケットの中で人形が動いたことにベルダは不思議そうな顔をしていたが、続けて起こった出来事に度肝を抜かれてしまって、すぐにそれどころでは無くなった。

「お…」
「お、お…っ!?」

 ベルダや詰め所にいた衛兵達だけではなく、子どもを連れてきたバドックまでが呆気にとられて目を見張る。ふわりとマントを脱いだ子どもは、魂を抜かれるほどの美貌の持ち主であると同時に…


 混じりっけ無しの、双黒だったのである。





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