「お伽噺を君に」
第10話









 龍に頼むと願いは聞いてくれたものの、《指輪なんて小さなものは見つけられないかも知れない》と言われた。すぐにヴィクサムは《では、私が共に行こう。小さいけれど、身につけていた時の記憶が刻まれた物体なら、探すことが出来るから》と答えていた。
 そこで龍に頼んでヴィクサムが滝壺に入ることにしたのだが、そこで有利に願い事をしてきた。

「すまないけど、ユーリも一緒に行ってくれないかな?君の魔力を少し借りたいんだ」
「良いよ」

 ヴィクサムの魔力は有利の潜在能力に比べれば弱いが、流石に長年使っているだけあってコントロールに優れている。ある程度方向性を促すことで、有利の同意があれば魔力を思う方向に発現させることが出来た。

「すまないが、騎士殿はここで待っていて貰おうか?」
「…仕方ないな」

 コンラートは銀細工なのであまり濡れると腐食の心配があるのと、何と言っても滝壺に巻き込まれてしまうことで壊れてしまう恐れがあった。有利とヴィクサムは龍の力で呼吸が保全されるが、やはり何かの拍子にはぐれてしまうのは怖い。

 仕方なしに、滝の傍でコンラートはじっと待つことになった。

 ザブゥン…っ!

 滝壺から現れた龍に跨り、有利とヴィクサムはざんぶりと川の中に入っていった。



*  *  * 



 
「ああ、見つかったよ!ありがとう」
「どういたしまして」

 激しい水流で泡立ち、視界の見通せない滝壺の中で指輪なんか見つかるのかと半信半疑だったのだが、程なくして指輪は見つかった。ぐるぐると水の中で踊ってたそれに、ヴィクサムが素早く伸びる触手のようなものを放ったのだ。色々と便利な能力を持っているものである。

「さっきの触手みたいなやつ、俺も修行したら使えるようになる?」
「ああ、俺が教えてあげるよ」

 背後から有利の耳朶に囁きかけられる声は無駄に甘くて、有利はふるりと背筋を震わせた。

「ちょ…!ち、近い!近いからヴィーっ!」
「私は、もっと近くで君を感じたいよ」
「え?」

 ヴィクサムの歯が紅く染まった有利の耳朶をかしりと甘噛みしていると、龍が身をくねらせて滝から離れていく。だが、どうしたものか水の外には出なくて、流れが穏やかな下流に向かってしまう。

「ちょ…っ!ど、どこに行くの!?」
「良いトコ」

 有利は知らない。実はヴィクサムもこの龍とは意思疎通を図っていて、川の上流で計画されている開発を止める代わりに、有利と共に下流のある地点に運んで欲しいとお願いされていることなど…。

 暫く流れたところでザバっと水中から出て行くと、そこには川辺を見守るログハウスのような場所があった。

「ふへ〜…。えらく滝壺から離れちゃったみたいだなぁ」
「まあまあ。疲れたろう?少しあそこで休んでから、また龍に頼んで戻して貰おう」
「えー。でも、コンラッドが心配しないかな?」
「まだ日も高いし大丈夫。それに…私もたまには、騎士殿の監視なしに君と語り合いたいよ?」
「ヴィー…」

 ヴィクサムが有利の肩を優しく握ると、華奢な体躯はそれだけで軽く動きを封じられてしまう。

「またセクハラトーク?」
「ハラスメントになるのなら、とても嫌だな。私はセクシャルな意味で君と愛し合いたいだけだよ」
「それが困るんだって〜!」
「本当に?私と触れ合うのはそんなに…嫌?」

 切ない眼差しを淡く濡らしてヴィクサムが見上げてくる。普段は大人の男として強く押しているくせに、こんな時に限って小犬のように甘えたり拗ねたりしてみせるのは卑怯だ。有利としても、あまり酷い言葉をぶつけられなくなってしまう。

「嫌悪感まで覚えるのだとしたら、辛いな」
「け、嫌悪とか、そこまで気持ち悪いとかじゃないんだけど…」

 でも、やはり戸惑いや《なんか違う》という感覚が拭いきれない。ヴィクサムの長い腕で抱きすくめられて、逞しい胸に頬を押しつけられると、こういう時に感じられるであろう安心感やときめきとは違う、違和感を覚えてしまう。

 そう、嫌悪感ではなく違和感なのだ。

 こんな風に抱きしめて欲しい相手はこの男ではない。そんな風に感じてしまうのだ。
 有利が抱きしめて欲しいのは…。

『コンラッド…』

 きゅん…と胸が疼くように痛む。

 具現化したコンラートに抱きしめて貰ったことなど無いのだが、あの凛々しい青年の姿を思い浮かべただけで、この胸は如何ともしがたいときめきを覚えてしまう。英雄に対する淡い思慕であるのかも知れないけれど、少なくとも、ヴィクサムには感じない気持ちだ。

「あのさ、ヴィー…。俺…悪いけど……」

 何とかヴィクサムを傷つけないように退けようとするのだけど、今日の彼はいつもとは違っていた。がっしりと抱きしめられた身体は微動だに出来ず、優しい手つきではあるのだけれど、頬に寄せられた手が有利の顔を否応なしに仰向けさせてしまう。

「あ…あの…」
「嫌悪でないのなら、大丈夫だよ?」
「え?」
「ユーリみたいなタイプは無意識に《好き》だと感じても、なかなか認識出来ないからね。身体が気持ちいいと感じ始めたら、自然と愛情も芽生えてくるよ。なに…大丈夫。全部私に任せていたら、とろけるような快感を教えてあげる」

 にっこりと微笑むヴィクサムの瞳の奥には、どこか決然とした覚悟があった。《なんとしてもここで決めてやる》…そんな思いを感じ取ると、有利は今更のように背筋が寒くなるのを感じた。

 ここで有無を言わさず抱かれて、その気持ちよさから自分の気持ちが変えられてしまうなんてとんでもないことだ。
 ことに、有利の中にあるコンラートへの思いが歪められてしまう可能性を感じたら、それだけでどうしようもない程の恐怖を感じた。

「ヴィー…や、やめ…っ!」

 思いがけない場所にヴィクサムの手が伸びてきて、有利はびくんっと身体を震わせる。白衣の裾野を割って、形良く大きな掌が太腿を撫で上げてきたのだ。しかも角度を変えた唇が至近距離に迫り、今にも有利のそれに重ねられそうになる。

「止めて…本当に止めて…っ!俺、あんたとそーゆーことになる気なんかないからっ!!」

 悲鳴のような声を塞ぐようにヴィクサムの唇が重なろうとする。粘膜から伝わる輻射熱が感じ取れるまでに接近したその瞬間、有利は今までにないほど必死になって《呼びかけ》を行った。

「助けて…っ!コンラッドぉ…っ!!」

 瞳に涙を浮かべて大切な人の名を口にした瞬間、ドォン…っ!と身体の中で力が弾けるのを感じた。



*  *  * 




『ユーリが戻ってこない…!』

 一体何があったというのだろうか?コンラートは血の気を引かせて泉の脇を行ったり来たりしてみるのだが、深い滝壺の中は飛沫が跳ねて全く様子が分からない。ちいさな指輪を探すから多少は時間が掛かるだろうかとは思っていたが、それにしたって時間が掛かりすぎではないだろうか?

 それに、一緒に行った相手が悪い。

『ヴィクサム…あの男、まさかユーリを無理矢理手込めにする気じゃないだろうな!?』

 艶やかな容姿と逞しい体躯、冗談めかせた言い回しと、時折みせる真剣な眼差しは、有利を狙う相手として最も警戒していた筈だった。だが、有利が嫌がれば深追いはしなかったものだから、どこかコンラートの中にも《こいつは最悪な手段は執らない》という信頼感のようなものが出来ていたのかも知れない。

 だが、彼は決して暇な立場ではなく、攻略に時間の掛かりすぎる現状に焦れてもいたし、そもそも有利が魔力を発現させて眞魔国に赴くことを望ましいとは思っていなかった。若く未成熟な肉体に、そうと知られずに媚薬でも仕込み、感じてしまう身体をとろけさせていけば勝負も早く付くと考える可能性はあった。

『ユーリを抱く?あの男が?』

 白い肌に不躾な舌を這わせ、しなやかな下肢を開いて欲望の楔で貫くというのか?
 どぅ…っと、体内には流れていないはずの血流が頭に集まってくるのを感じて、コンラートは如何ともしがたい目眩に苦鳴を上げた。

「ユーリ…ユーリ!何処にいるんですか…っ!?どうか返事をして下さいっ!!」

 声の限りに叫ぶものの、応える声はなく、どこに探しに行って良いのかすら分からない。己の無力を嘆き、コンラートは気も狂わんばかりの焦燥感に炙られていた。
 
『見つけたら、あの脂下がった男をズタズタに引き裂いてやる…っ!』

 臓腑が煮えくりかえるような怒りを感じながらも、ふと脳裏を掠める声があった。

 《その力は有限のものだ》…《使用頻度が限界を超えれば、そうやって人形の姿で動くことも出来なくなるぞ》、襲撃者ゲルトはそう言っていた。単なる脅しとも考えられるが、実に説得力はある。

『俺はユーリを護ることすら出来ずに、力尽きてしまうのだろうか?』

 死ぬこと自体は恐ろしくない。だが、有利を護れない自分は死よりも惨めで恐ろしい。

「嫌だ…嫌だユーリ…っ!どうか無事でいてくれっ!!」

 悲痛な叫びを放つコンラートは、不意に衝撃のようなものを感じた。ドォン…っと腹に響くような音響は、どうやら下流の方角から伝わってくる。胸騒ぎを覚えて駆け出してみれば、暫く走ったところで有利らしき人物の声が聞こえてきた。



*  *  * 




『どうもおかしい』

 勝利は村田と連れだって蘆花邸の裏庭で雑草を刈り取っていたのだが、鎌の扱いにどうにか慣れてきた頃、ふと疑問を感じ始めた。
 
「おい、弟のお友達。妙な感じがしないか?」
「渋谷のお兄さんもですか?実は僕も気に掛かるんですよね」

 村田は強張った背筋を緩めようと背伸びをしながら、眇めた眼差しを滝の方に向ける。草むしりを免れたヴィクサムと有利が、指輪を探しに行っている方向だ。勝利達は勿論自分たちも行くと言い張ったのだが、勝利と村田はどうもあの龍に嫌われているようなので、近づくことが出来ないのだ。

 そんなわけで淋しい面子で草むしりをしていたのだが、ふと、大気が震えるのを感じた。修行を初めてそれほど日数が経過しているわけではないのだが、こと有利に関しては関心が強いせいなのか、彼の感情が激しく揺れる時には独特の気配を感じられるようになっていた。

「まさかとは思うが…あの野郎、ゆーちゃんにおかしな真似をしようとしているんじゃないだろうな!?」
「可能性としてはありますね。思ったように靡かないことに少し焦っていたようだから、身体から陥落していこうとでも思ったのかな?」
「おっそろしい事を言うな、弟のお友達!」
「おっそろしい事をやろうとしている奴の方が問題でしょ?」
「当たり前だ!こうしちゃいられないっ!!」

 勝利は勢い良く割烹着を脱ぎ捨てると、いっさんに滝の方角目がけて駆けて行った。

 すると、気配のする方角に向けて小動物のようなものが駆けていくのが見えた。もはや人目に触れないようにすることも放棄した、銀細工人形である。彼もまた何らかの懸念を抱いているらしく、下流に向かって走っていた。

 放っておこうとも思ったのだが、やはり何だかんだ言って面倒見の良い勝利にはそれができない。それに、以前襲撃してきたゲルトが言っていた、この人形の耐用年数のことも気に掛かる。

『こいつが力の使いすぎで二度と動かなくなったりしたら…ゆーちゃんはショックで寝込んじまうかもしれないな…』

 赤ん坊の頃から密接な関係にあったコンラートは、きっと有利にとっては親兄弟にも等しい存在なのだろう。実の兄としては多少面白くない部分があるとしても、やはり護ってはやりたい。

「ちょこまか走ってる場合じゃないだろ!来いっ!!」
「お兄さんっ!」

 ひょいっと摘み上げられたコンラートはかなり驚いたようだが、少し照れたように感謝の言葉を口にした。

「ありがとうございます。助かります」
「そういうのは後からにしてくれ。今は有利の身が心配だ!」
「はい!」

 珍しく目的の一致した三人は、一路有利の元へとひた走った。



*  *  * 




『力が、溢れ出してくる…!』

 ヴィクサムの強制猥褻行為に憤ったせいなのかなんなのか、有利自身にはコントロール出来ないくらいの力が噴き出してきて、統制がつかない状況になってしまう。どうどうと逆巻く水は川を干上がらせるほどで、この界隈に住む水龍や河童達が悲鳴を上げて狼狽えているのが分かる。

 痛いほど敏感になった知覚は様々な要素や精霊・妖精達の存在を感じるのに、有利自身はまるで無慈悲な神のように圧倒的な力を暴走させてしまう。

『違う…こんなんじゃない。こんな風に暴れたかった訳じゃない』

 ヴィクサムは力の直撃を受けてぐったりと大地に伏せており、先程からぴくりとも動かない。まさか…殺してしまったのだろうか?

『やだ…やだよお…っ!』

 泣きたい心地で混乱しているところに、大気を割くようにして現れたのは、よりにもよって黒衣の破壊者であった。

「ほう…なるほど見事な魔力だ。あの素っ頓狂な人格は表に出ていないようだし、俺には都合の良い状況だな」

 ゲルトはにやりと口角を歪ませると、右手を翳して有利に向ける。混乱しきっている力を誘導して、彼の思うようにコントロールするつもりなのだろうか?

「さあ、その力を使って眞魔国への扉を開け…!我が力を、真の魔族の中で輝かせる為の踏み台となれ…!!」

 高らかに叫ぶゲルトは、眞魔国での覇権を狙っているのだろうか?コンラートの話によると、魔族は人間の土地では基本的に魔力を発揮しにくいと聞くから、この地球ですらかなりの魔力を行使できるゲルトは、眞魔国であれば恐ろしいほどの力を発揮するのではないだろうか?

 それこそ、お伽噺に出てくるイメージ通りの《魔王》として君臨するのではないか。

『そんなことさせるもんか…!』

 眞魔国は、コンラートが命がけで護った国だ。
 彼がなによりも大切に想っている、家族がいる国だ。

 そんな場所に、このように不吉な男を招き入れるわけにはいかない…!

「駄目…お前は、駄目…っ!」
「はは、駄目だと?偉そうな口を利くものだな。出来損ないの落ちこぼれのくせに」

 ぐさりと胸に刺さる《落ちこぼれ》という言葉は、かつて野球部の監督から突きつけられた台詞だった。

『何がキャッチャーがやりたいだ。そんな小さな身体でやっていけるわけかないだろうが!大体、お前には野球センス自体ないんだよ。要するに、落ちこぼれってことだ』

 後味の悪い試合の後でキャッチャーミットの手入れをしていたら、監督は侮蔑に満ちた表情と言葉で有利を嬲った。少し酒臭かった気もするから、隠れてブランデーか何かを引っかけていたのかも知れない。

『覚えとけ。野球にしても人生にしても、結局は選ばれた奴だけがトップに立つんだ』

 そんなことはない。
 頑張ったら、いつか報われる日は来るのだ。

 そう信じようとする心を踏みにじるように、かつての心ない言葉が…ゲルトの罵倒が心を引き裂いていく。

「なるほど大した容姿と魔力ではあるが、全く使い切れていないじゃないか。とっとと諦めて膝下に跪くが良い。魂が幾ら上等でも、お前自身には魔王としての資質など欠片もないのだから」

 くつくつといやらしいげな嗤いを浮かべて、ゲルトは長い爪を伸ばして有利の首筋を掻いていく。チリ…っと鋭い痛みを立てて、柔らかい皮膚が裂けたのが分かった。けれど、ヴィクサムを傷つけてしまったことで混乱している力は、上手くゲルトの行為を防ぐことが出来ずにいた。

「…っ!」
「無能なんだよ、お前は。自分で何か考えようとするよりも、優れた人物の言うままに動いた方が、余程有益な存在になれるぞ?その方が、あの騎士人形だって有り難いだろうよ。無能な主に付き従って、空しく時を過ごすより…な」

 ガリ…っ!

 一際強く首筋を掻き毟られて、血潮が肌を伝っていくのが分かった。
 だが…有利は怯む心を抑えて瞼を閉じると、一心に《呼びかけ》を行ってた。

 祈る相手は、あの上様。

 どこかで別人格になってしまうことに抵抗感を覚えていた有利だったが、今必要なのは、彼しかいない。魔力云々以前に、独特の珍妙な間合いでゲルトの嗜虐趣味をはぐらかすことの出来る、あの飄々とした性格が必要なのだ!

『上様…お願い……っ!!』

 両手を組み合わせて深い祈りを捧げた時、有利の頭蓋内に白いスパークが弾けた。





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