「はじめてのお散歩」−1






 《彼》には自分のものと呼べるものは何一つ無かった。何しろ、名前すらなかったのである。
 ただ、彼にはとても大切な人がいた。
 その人といつも一緒に居られたから、ちっとも寂しくはなかった。

 名前など誰も呼ばないのだから(だって、誰も彼の存在に気付いていなかったし)、別に無くても良いと思っていたのだが、気付いてくれたとってもとっても大切な人が、《上様》と呼んでくれたから、それからは名前も大切だと思うようになった。

 今までが寂しかったわけではないけれど、今から大切な人に名前を呼んで貰えなくなったら、きっと死にたくなるくらい寂しいと思う。きっと、自分は贅沢を覚えてしまったのだろう。

 でもしょうがない。暖めた甘い蜜のようにとろとろと、あの人の呼ぶ声は五臓六腑に染み渡るのだから。

『上様、いつもありがとう!』
『上様、助かったよ!』
『上様、大好きだよ』

 名を呼ばれたり、存在に気付かれなくても、その人の為になるのなら全然構わないと思っていたくらいだから、慕わしく名を呼ばれ、感謝なんてされるようになった日には、百倍くらい嬉しいと思うようになった。

 そうしたら先日、大切な人は《嬉しい》が千倍になるようなことを提案してくれた。

『ねぇ上様。精霊になって具現化してみない?今の俺は随分と要素に愛されちゃってるから、綺麗な水を拠り代にすれば、《きっと出来るよ》って村田が言ってくれたんだ』

 わくわくと弾むような声は、そうなることをとっても期待している声だった。

『俺ねえ、ずっとこの世界がどんなに綺麗で楽しいか、上様に直接知って貰いたかったんだ!』

 それは以前にも申し出をしてくれた事だった。でも、その時にはやんわりと断った。だって、知ってしまったら何度もそうして欲しいと願ってしまいそうだったのだ。そうすることで大切な人が気を使って、《何度も肉体を提供しなくてはいけない》なんて思わせたら悪い。

 何しろとても優しい子だから、下手をすると《俺ばっかりいつもこの身体を使ってるのは狡い》なんて思いかねない。この身体は間違いなくこの人のものなのだから、上様は彼の身が危ない時だけ出てくれば良いのだ。

 そう思っていたのに…何ということだろう!
 この人の肉体とは別に、上様の身体が出来るのだ。そして、大好きなこの人と連れだって、城下町の探検に行けるのだ。

 新年を間近に迎えた王都では、街の中に幾つも屋台が建ち並び、みんな年越しの食料と、古い年の悪疫を祓い、幸福を呼び込む為の縁起物を買いに来ているから、非常に賑やからしい。

『それは楽しみだ』

 うきうきわくわくしながら上様は思った。

『ユーリ…可愛いお前の姿を、直接見られるのだな?』

 幼い頃から、何時だって彼の姿を確認するのは鏡越しだった。それを直接眺める事が出来るのだ!

 一も二もなく、上様はユーリの案に同意した。

 
 
 

*  *  * 




 眞魔国第27代魔王を襲名したばかりの渋谷有利は、フォンウェラー卿コンラートと結婚したばかりでもある。だが、彼は他の男とデートの約束をしている。それも、夫であるコンラートを護衛にして…だ。

「嫉妬しちゃう?」
「しないとは言い切れません」

 双黒の大賢者から意地悪そうに囁かれて、ここ近年、自分が結構嫉妬深いことを知ってしまっているコンラートは、困ったように苦笑した。

「でも、邪魔はしません。お相手がお相手ですから」
「まあねぇ…」

 血盟城の中庭から滾々と湧き出している清水を拠り代として、そこにユーリと村田の魔力も合わせて上様の精神体を定着させると、空中から舞い降りるようにして凛々しい青年が現れた。背格好は渋谷有利の造作を反映しているのだが、より雄々しい上様の性格を反映して、《若武者》と称したいような風貌に仕上がっている。

 《デートをしよう》とユーリに言われているせいか、上様は全裸ではなく、いつでも出かけられそうな衣服を身に纏っていた。

「どうだ?ユーリ、おかしくはないか?」
「全然おかしくないよ、上様」
「そうか!」

 にぱっ!と破顔する上様に、明確な嫉妬などぶつけようがない。
 ひたすらに無償の愛を捧げておいて悔いや欲の欠片も見せない上様は、コンラートにとっても尊崇すべき存在なのだ。ユーリに容姿がそっくりで、ずっと一緒に育ってきたという観点から言っても、《ユーリの双子の兄》とでもいうような存在感がある。
 悪いが、実の兄である勝利よりもコンラートにとっては尊重すべき相手であった。

 上様はきょろきょろと辺りを見回していたが、ひゅうっと強い風が吹くと、驚いたように身を震わせた。

「ふむ…これが、寒いということか?」

 上様は吐いた息が白くなるのにも、目をぱちくりとして驚いている。いつもは緊急事態の時だけ物理的な存在に変換されていたから、落ち着いて外界の感触を味わうなど初めてのことなのだ。

「上様、コート着なよ」
「ままま、待てーいっ!ユーリ、それではお前が風邪を引くではないかっ!!」

 ユーリが羽織っていたコートを貸そうとすると、上様は柳眉を跳ね上げて歌舞伎役者のように大見得を切る。凛々しい姿と大仰な身振りが合わさると、何とも言えない微笑ましさが漂って、ついついコンラートの眼差しも柔らかいものになるのだった。

「上様、どうぞ俺の上衣を着てください」
「ぬ…この俺がちょちょいのちょいと念じれば、極寒の地でも凌げるような豪勢な毛皮がぱぱらぱーと出てくるのだぞ?」
「折角の魔力を消耗しては、後がお辛いでしょう?」
「うむ、それもそうか…」

 上様はユーリの魂に蓄積された記憶が地球生活で良い感じに濃縮された存在なので、魔力の本体はユーリの魂に依存している。水の要素とより深く交われるようになれば具現化も安定してくるかも知れないが、やはり最初の内は消耗が予想された。なるべくなら魔力を使わないに越したことはないのだ。

「そうだよ上様、これからいっぱいデートして美味しい物食べたり、綺麗なものを見たりするんだから、なるべく疲れないようにしないとね」

 ユーリにも窘められると、上様は得心いったという顔をして重々しく頷いた。

「ふむふむ。《いつもすまないねぇ、ごほごほ》というような状態になっては確かに困るな。大概、こういう流れだと《そいつは言わない約束よ》と健気に囁いていた町娘が、借金のカタに浚われてしまうからな。ユーリが浚われたりしては困る」

 コンラートの大きなコートからちょこんと指先を覗かせつつも、胸を反らせた状態で悠々と腕組みをした姿は、実にアンバランスで微笑ましい。

「上様は、それを阻止する桜吹雪の将軍様っぽいよね」
「うむ、城下町探索ときたらその展開だな。よし、今の内に桜吹雪の仕込みを…」
「だから上様、余計な魔力使っちゃ駄目だってば!」

 諸肌脱いで肩に入れ墨を仕込もうとする上様を、ガッっと羽交い締めするようにしてユーリが止める。
 色んな意味で賑やかな道中になりそうである…。


 

*  *  *  



 
 中天にある陽光を弾いて、真っ白な雪に包まれた街並みがきらきらと輝いている。上様は目をぱちくりと開き、ついでに口もちいさく開いて《ほぅ〜》と感嘆の声を上げた。《眩しい》という感覚を味わうのも、きんきんと鼻が痛むような冷たさも初めて感じるものだった。

 ふかふかとした雪に《触れたら冷たい》と、知識としては知っていた。魂の中には沢山そういう知覚情報が含まれていたし、ユーリの中に存在している時にも、彼の感覚を仲介して冷たさを感じていたからだ。

 けれど、細かな綿雪がふっこりと空気を含んだ様子は何とも柔らかそうで、《もしかして暖かいのでは》なんて想像もしてしまう。ことに、まだ誰にも荒らされていない植え込みに積もった雪は、濃い緑色の葉っぱの上で綺麗に膨らんでいるから、上様は恐る恐る指を突き刺してみた。

 触れた瞬間は、見た目通りの柔らかさで《ふこっ》と沈むのに感動したが、そのままじっとしていたら、やっぱり雪に包まれた雪はじんじんと痛むほどに冷たくなってくる。

「おお…冷たいな!」
「うん、冷たいねぇ」

 上様にとって何もかもが珍しいのだと知っているから、何かを突拍子もなく試してみても、ユーリはちっとも急かしたりはしなかった。ゆっくりとお散歩するのが目的だから、好きなところに好きなだけ居て良いのだという。

『夢のようだ』

 いや、正確に言うと今までが夢のようにふわふわと不明瞭だったのだから、《現実のようだ》と感嘆した方がよいのだろうか?よく分からないが、とにかく感動だ。

 金物屋の店頭には、磨き込まれた金属製の胴鍋が置いてあって、そちらを覗くとまるで双子の兄弟のような二人が見える。赤茶色に瞳と頭髪を揃えたユーリと上様である。ユーリはカツラとコンタクトだが、上様の方は地毛だ。元々自分の意志で姿を具現化できる上様は、本当はどんな姿でもとれるのである。それをユーリに似せているのは、やはり彼と近しいものでありたいという気持ちの表れなのだろう。

「上様、あれ飲んでみない?」
「おお〜良い匂いがするではないか!」

 小犬みたいにはしゃいで駆け寄ったのは、温かい飲み物を売る屋台である。赤と緑を基調とした大きなマグカップ一杯にたっぷりと入った飲み物は、《蜜葡萄酒》と呼ばれ、香り付け程度の葡萄酒と蜂蜜、乾果物、少しスパイシーな香辛料が入っている。酒とは言いつつもアルコール度数が1%未満ということもあって、雪が降り積もるこの時期だけは子どもでも飲むことを赦されている。この辺りは日本に於ける甘酒のような立ち位置だろうか?

 飲食物を口にしたことなど初めてなものだから、幾分緊張した顔つきになってしまう。そのせいか、見守っているユーリやコンラート、屋台の女将さんまでが心なしか固唾を呑んで見守っていた。

 ユーリの動作を真似て、ふーふーと息を吹きかければ、その仕草に周囲の人々の目尻が下がる。どういう意味の表情かは大体分かる。上様も、ユーリの動作に対して同じような表情をしているからだ。
 あれは、目にしたものが可愛くて堪らないという顔だ。

『むむ…しかし、ユーリはともかくとして、俺にまでそういう顔を向けずとも良かろうに』

 とは思うのだが、そんな小さな屈託など蜜葡萄酒を一口含んだ瞬間に跳ね飛んでしまった。

「う、まーい!」

 ゴゴゴゴ…っと味○様のような感動の波を背に、上様は歓喜の声を上げてしまう。熱さと美味しさの間で鬩ぎ合いながら、ふーふーズズズと冷ましたり啜り込んだり繰り返していると、屋台の女将さんは笑い皺を目尻に刻んで、実に嬉しそうに笑った。

「はは、そりゃあ喜んで頂けて良かった!そんなに美味しそうに飲んでくれりゃあ、どうしたってお愛想したくなるね」

 そう言うと、女将さんは《内緒》という風に口元に指を翳し、茶目っ気のある目つきで大ぶりな乾果物を一つマグカップに摘み入れてくれる。

「おお、すまんな女将。しかし、俺よりもユーリにやりたいのだが…」

 ユーリは遠慮して《上様が食べなよ!》と言ったのだが、女将さんは笑いながらユーリの方にももう一つおまけしてくれた。

「わあ、ゴメンなさい!」
「魔王陛下と同じ名前をした可愛い子に、おまけをしたって誰も文句なんか言いやしないわよ」
「じゃあ、ありがとうって言った方が良いね?」
「ああ、ついでに笑ってくれたりすると、そりゃあ素敵に嬉しいさ」

 女将さんが人好きのする笑顔でそう言うから、頼まれなくなってこちらも笑顔になる。にぱりと笑った上様とユーリが美味しそうに蜜葡萄酒を飲み干していくと、通りがかった人々も《こりゃ旨そうだな》と立ち寄っていく。思わぬ客寄せ効果をあげて、乾果物分くらいは貢献出来ただろうか?

「ぷはあ!旨い、旨いぞ女将っ!もう一杯っ!」
「はいはい」

 もう一杯同じ容器に注いで貰ってから、今度は焼き菓子の店に行った。子どもの顔ほどもある大きさの焼き菓子は人形や鈴など様々な形に整形され、そこに粉砂糖を溶かしたものに食紅など混ぜ込んで色づけがされている。

 その中に、縁取りだけがされていて中央部分には飾りのない硬い焼き菓子があって、それが色取り取りの紐に吊されている。上様が興味を惹かれたように一つ手に取ると、店番の老人が人の良さそうな顔を綻ばせた。

「ふむ、こちらは変わっているな」
「おや、ご存じないんで?坊ちゃん。それに名前を書いて、名札代わりにするんで」
「ほう?」

 上様はきらきらと瞳を輝かせると、首から下げていた蝦蟇口財布をパチンと開いて金を払った。

「ユーリ、ここに名前を書こう!」
「そ…そう?でも、子どもしかつけてないけど…」

 言われてみれば、誇らしげに名札焼き菓子を提げているのは小さな子どもばかりで、少年期を越えた者は全くつけていない。可愛らしすぎる形の焼き菓子は、子どもっぽく見えるのだろうか?でも、上様はどうしてもこれが身につけたかった。

「むー、これをつけるのは恥ずかしいだろうか?」
「どうかなー」

 上様は焼き菓子のプレートを眺めると、唇を尖らせてぽつりと零した。

「ユーリに付けて貰った名前を、皆に知ってほしいのだが…」

 ユーリは目を見開き、次いで、ふわぁ…っと柔らかい笑みを浮かべると、こくりと頷いてプレートを手に取った。

「うん、じゃあ筆文字っぽくしてカッコよくしよう。それに、俺も一緒につけるよ。今日はまるでお祭りみたいな雰囲気だもん。ちょっとくらいはっちゃけたって、ちっとも可笑しくないよね?」
「うむうむ、ちっとも可笑しくなんかないぞ?」

 名前に対する拘りが伝わったのか、ユーリは字体を工夫して《上様》と書き込んだ焼き菓子を、勲章みたいに首から提げてくれた。ユーリもやはり、同様にして焼き菓子プレートを提げる。

「ふっふっふっ…お揃いだな、ユーリ!」
「うん」

 目を細めてこっくりと頷いたユーリと手を繋げば、軽くコンラートの眉が跳ねたが、上様を敵視はしていない彼のこと、すぐに表情を和らげて見守ってくれた。

『大概、ユーリのこととなると心の狭い男だが、俺のことは認めてくれているらしい』

 上様だってコンラートには一目置き、ユーリの夫として相応しいと思っているのだから、上手く共存できているのだろう。そうでなければ、どんな手を使ってでも叩きのめしている。

 多分無いとは思うが、万が一浮気などしようものなら…即座に陰茎を切り落として、自分の口に突っ込んでやるくらいなことはするつもりだ。

『ユーリが泣くだろうから、そのような事になる前に何とかするがな』

 この辺りは双黒の大賢者とて同じ信念を持っていることだろう。グリエ・ヨザックと恋仲になっているとはいえ、やはり彼もまたユーリに対する思い入れと、彼を傷つける者への激甚な怒りは、上様に匹敵するものがある。

『しかし、今のところそのような怒りをぶつける先は無いな。王都の連中は実に気持ちの良い奴らばかりだ。何処に行ってもユーリの名を讃え、その名を持つ者にまで祝福を分け与えている』

 そう、焼き菓子の店でも《ユーリ》と名前を入れたら、店番の老人が嬉しそうに飾り用のナッツや乾果物の砕いたのを、焼き菓子に張り切れない位にくれたのだ。結局、両手一杯に握らされて、今もそれをポリポリ囓りながら散策している。

「楽しいな、ユーリ。胸がわくわくふくふくするぞ?」
「俺もだよ」
「おお、あちらにも面白そうなものがあるな。蛇が出せそうな籠と笛だ!れっどすねーくかもーんっ!!」
「あっちのジャグリングも楽しそう!」

 最初の内は《上様を楽しませる為に》と気負っていたらしいユーリも、そのうち自分自身も冬の城下町探索が楽しくて、きらきらと瞳を輝かせて駆けていく。そうすればやはり好奇心旺盛なユーリのこと、どうしても集中力が疎かになってしまうのは致し方ないことであった。それに、宵闇が迫って来たせいで視野が悪かったのも災いした。

 ドンっ!

 イルミネーションのように蝋燭や油紙に包んだ灯火を燃やしている光景に目を奪われていたら、うっかり反対側から歩いていた酔漢とユーリの肩が当たってしまった。すると、さほどの勢いで当たった風もないのに、男はもんどおりうって転げ回ってしまう。

「あっ!ご、ゴメンなさいっ!」
「うぉお、痛てぇ、痛ええ…っ!」
「えええぇぇ!?そ、そんなにっ!?」

 おろおろと狼狽えながらユーリが男の傍に寄ろうとすると、すかさず上様が間に入ってきた。

「すまぬ、ユーリ。俺も楽しげな景色に目を奪われていて、注意力が些か散漫になっていたようだ。このような者に当たる前に、庇ってやれたのに…」
「ううん。俺こそ不注意でゴメンね」

 護衛役のコンラート達お庭番は、相手が武装していたり暗器を隠し持っていて、殺気を抱いているようならすぐに察知して寄ってきてくれるのだが、逆にこのように難癖を付けて金を巻き上げようとする輩に対しては反応が遅くなる。風貌の悪い者が近寄るだけで周囲を囲めば、お忍びの楽しみも削がれてしまうからだ。
 上様もそれは分かっていたので、何かとユーリを庇ってはいたのだが、先程だけはつい失念していた。

「やいやいやいっ!俺っちの繊細な肩が砕けちまったじゃねぇか!この落とし前どうつけてくれるっ!!」
「うん、じゃあすぐ癒しの術を…」
「そんなもんじゃ割にあわねぇぜ!身体は治っても、俺っちの繊細な神経を痛めやがった落とし前がつかねぇや」
「えー?じゃあどうしろってのさ」
「どうしろって?へへ…」

 男はにやにやと脂下がった顔つきでをして、ユーリにねっとりと舐めるような視線を這わせていく。どうやらユーリの美貌に惹かれ、下卑た欲望を満たす為に難癖を付けに来たのは間違いないようだ。

「ちょいとその辺の宿に入って、心から謝ってくれりゃあそれで良いのさ」
 
 《貴様、なんと分かりやすい悪漢だ》…上様は呆れたようにそう言おうとしたのだが、その前に、周囲で何事かと見守っていた屋台の亭主や、通行人が間に割って入ってきた。

「ちょいと旦那、こんな良い夜に騒ぎなんて無しにしましょうや」
「そうそう、ほぅら、うちの自慢の肉まんじゅうだ。ほかほかで旨いこいつを食べれば、肩も楽になりますよ。きっと、今夜は冷えるから余計に痛んだんだ」

 引きつった顔つきでふとっちょの亭主が肉まんじゅうを差し出すが、難癖をつけてきた男は馬鹿にしたように鼻を鳴らす。

「馬鹿野郎!子どもじゃあるまいに、肉まんじゅうで治る怪我なんかあるもんかっ!」
「いやいや、そう言わずにさ」

 そんな遣り取りをしている間に、さささ…っと出てきてユーリと上様を誘導しようとしたのは、どうやら亭主の連れ合いの女将さんのようだった。やはり肉まんじゅうの良い匂いをさせたふくよかな人で、先程ユーリ達にも肉まんじゅうを売ってくれた。

「さ、うちの人が相手している内に逃げちまいな」
「でも…!」
「良いから良いから。うちの人はああいう手合いの相手には馴れてるのよ。ちょいとあいつは筋者でね?変に揉めるといつまでも集(たか)られちまう。だから、身元を突き止められたりしないうちに、今日はお帰んなさい」

 そう言ってくれるのは有り難いが、男の方はそのように穏やかな纏め方をされるのは不本意であるようだった。女将さんがユーリ達を逃がそうとしているのが分かると、亭主を突き飛ばして駆けてくる。

「やいやいやい!当たり逃げしようなんて、そうは木綿ギルドが卸さないぜっ!」

 肩が砕けているとか言いながら、飛びかかるようにしてユーリを捕まえようとするが、それこそ木綿ギルドも縮緬問屋も卸さないのである。

「うちの坊ちゃんに何か用だろうか?」

 人を逸らさぬ笑顔を浮かべた青年が、男の目には止まらぬような素早さでユーリの前に割り込んでくる。勿論、影から機を伺っていたコンラートだ。

「へぇ…こいつは綺麗な男が出てきたな。なんだ、こっちの儒子(こぞう)達の使用人か?」
「生涯を捧げている、僕(しもべ)だ」
「ふふん…そういうことなら、主人共々お相手して貰おうかねぇ…。おい、お前ら!」

 にやつく男の背後から、仲間と思しき風体の男達がわらわらと出てきて、10人ほどでコンラートやユーリを囲む。あからさまに武器を持っている者はいないが、それだけに、向こうから武力行使をしてこないと、即座に叩きのめすというわけにはいかないようだ。

「何の相手をさせるつもりだ?」
「分かってねぇのか?へへ…初(うぶ)な事を言いやがる。ちょいと俺の下半身を、慰めて貰うだけさ。ついでに俺の仲間達もまとめて相手をしてくれりゃあ、あんたにも良い思いをさせてやるぜ?」
「ほう?」

 その時、男は漸くコンラートから吹き付けてくる、研ぎ澄まされた冷気に気付いたようだ。冴え冴えとした琥珀色の瞳に凍える烈気が宿り、男の陰部を凍らせようとするかのように、圧倒的な威迫を放つ。

「随分と強欲な男のようだ。我が主に、薄汚い欲望の相手をさせようとは…」

 コンラートは人を凍えさせるような眼差しで串刺しにすると、ぽつりと殺意を込めた一言を呟く。

「その罪、許し難い」

 コンラートの覇気に晒されて口をぱくぱくと言わせていた男に、上様が尋ねる。

「おい、そこな男。仲間はこれで全部か?」
「ば、馬鹿野郎…こここ、こんなもんじゃねぇよっ!おい、野郎共みんな出てこいっ!!」

 難癖男同様にコンラートの覇気に恐れを為していた連中は、急かされても出足が鈍いようであった。

「おいコラっ!俺に何かあったら、後でタダじゃすまねぇぞ!?」

 脅されると、男達は渋々といった感じで近寄ってくる。この男、腕っ節は大したことは無さそうだが、おそらく蛇のように執念深く仕返しをして来るに違いない。

「野郎共、掛かれっ!」

 わぁあ…っ!

 半ばやけくそと言った感じで、十数人の男達が襲いかかってくる。勿論、それを看過するような上様達ではなかった。





 

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