2
昏々と眠る王子には目覚める気配もなかったのだが、彼女の居場所は、もはやそこしかなかったのである。 この国の重鎮であった父は軟禁状態にあり、言えば面会はさせて貰えるだろうが…きっと自分以上に困惑している父の姿を見たいとは思わなかった。また、贅沢と身を飾ることにしか興味のない母はただ泣くばかりであろうから、やはり顔を合わせて建設的な会話が成り立つとは思えない。 『自分で何とかしていくしかないのだわ。自分の身を護ることも…ミェレル様をお守りするのも…』 彼女はまんじりともせずに王子を見つめ、そして…彼が目覚めた後どうすればいいのかをずっと考え続けた。 『ムラタ様はユーリ様のなさることをしっかり見ておけと言っておられた…』 その有利はいまだ深い眠りの中にあり、その寝姿を愛らしいとは感じても、有用な何かを読み取ることは出来なかった。 全て、彼が目覚めてからの話になるのだろう。 『ミェレル様…私たち……どうなってしまうのでしょう?』 握った華奢な手は…まだ、握りかえしてはくれない。 握りかえしてくれることが、今後あればいいのだけど…。 彼に目覚めて欲しい。 けれど…目覚めたとき、今よりも状況が悪く展開するのは怖い。 どっちつかずな状況に惑い…ニーは不安な夜を過ごすのだった。 * * * 「ん…」 「お目覚めですか?」 「コンラッド…。んー…うん……。もうちょっと寝ててもいい?」 ほにほにとした幸福な眠りの余韻に浸りつつ…有利はくぅん…っと伸びを打つと、コンラートにおねだりした。なんだか、とても彼に甘やかして欲しい心地なのだ。 「良いですよ。ですが、寝返りを打って落ちないようにね?」 「え?」 言われてぱちぱちと瞬きをすると、有利は自分が大きな空豆の鞘のようなベットに寝かされ、その傍らに剣を携えたコンラートが座しているのを確認した。 身につけているのは見慣れない貫頭着のようなもので、薄いが十分に暖かさのある布団を被せられていた。 朝なのか夕方なのかよく分からないが、空からは蜜柑色の光が降り注いでおり、コンラートの輪郭を縁取るラインが淡く金色がかっていて…彼の琥珀色の瞳が一層優しく見える。 辺りを見回せば、迦陵頻伽が地中から這い出てきた際に盛り上がった土塊などで地形は起伏に富んだものになっているが、それほど荒涼とした感じが無くなっている。 何故だろう?…と、思ったら…土塊の表面に、明るい色をした苔が産毛のように生えているせいだと知れた。 ねじ曲げられ、乱された大地が本来の力を取り戻しつつあるのだ。 『良かった…』 ほ…っと安堵の息を漏らしながら更によく見ると、土塊の中から伸び出した巨大な空豆ベットは微かに風に揺れ、有利と同様にころりと丸まった子ども達が眠り続けている。 ミェレル王子を見守るニーもいたし、幾人かの鳶種が警護陣を敷いているのが見て取れた。 ただ、みんなこちらに気を使っているのか、目が合っても敬意を込めて一礼するだけで、向こうから声を掛けたりはしなかった。どうやら、有利とコンラートの関係は(何処まで赤裸々に…かは分からないものの)、周りに伝わりまくっているらしい。 あまり…その事については追求したくないが。 その事から思考を遠ざけようと大きく伸びを打った有利は、自分の身体が随分と楽になっていることに気付いた。 『あ…身体、すごい軽い……』 思考が明瞭になり、心身に活力が蘇っている具合から考えて、どうやら有利はかなりの時間眠っていたらしい。 「俺…どのくらい眠ってたんだろう?今は朝?夕方?」 「朝ですよ。もし起きられるようなら湯を浴びて、衣装を整えましょうか」 「うん。それよりお腹空いたな…。ずっと食べてないんだ」 「そうですね…聞きました。ハンガーストライキをしようとしていたんですって?」 咎めたものか褒めたものか迷うように、コンラートの柳眉が眇められる。 絶食によって有利が消耗するのは勿論困るのだが、毒や薬を盛られてはまずいという判断もまた妥当なものであるからだ。 とにもかくにも…彼にまだ力が残されている間に救い出すことが出来て本当に良かった。 「胃に優しい…お粥か何かを用意して貰いましょう」 「ん…そーゆーのが嬉しいな」 コンラートが巡回していた鳶種に一言二言伝えると、少年めいた面差しの鳶種は嬉々として駆け出していった。 「なんか…茶色い羽根の人達は凄く友好的だね?」 「ええ…まぁ、事情がありまして…」 お粥が届けられるまでのあいだ、二人は互いの間に起こったことについて情報交換を行った。コンラートは四大要素の力を借り、この国に入ったこと…その際、怪物に食べられかけていたトーリョという青年を救ったことを説明した。 「トーリョ…俺を助けようとしてくれた人だね?」 大柄で如何にも屈強そうなのに、純朴そうな面差しと、きらきら輝く少年のような瞳が印象的だった。思い出すと、自然に柔らかい微笑みが浮かんできてしまう。 「ええ、とても純朴なたちの良い青年です。彼が迦陵頻伽の目を潰してくれなければ…被害はもっと大きなものになったでしょうね」 そこでコンラートは、少しだけ言い淀んだ。 「本当に…良かった。眼を潰すことが出来て…」 《良かった》…とは言いつつも、何処か複雑な心境を滲ませた言い回しに、有利はきょとりと小首を傾げる。何か、その事についてコンラートを悩ませるような事柄があったろうか? 『あれ…眼って…?』 そういえば…生物離れした妖怪の迦陵頻伽にも、鳥めいた身体には二つの目があった。 一つはトーリョが潰し、もう一つは…。 は…っと、有利の瞳が見開かれる。 あれは…あの男は……。 「あの化け物鳥の目を潰した奴…」 「……トーリョの他に、もう一人いましたね。あれは…」 有利の瞳が惑うように揺れたが、それでも…意識して真っ直ぐコンラートに向けられると、微かに震える声がある事実を告げた。 「…うん。あんたを、傷つけた奴だ」 コンラートが気付いているだろうことを有利は確信していた。 あの男の傷がどれだけ深かったかは、優れた武人であるコンラートに解らないはずがない。あれだけの傷を短時間に治すことが出来るのは…有利だけだろう。この種族に治癒の力がないことは大体察しているだろうし…。 『俺が…助けちゃった……。よりにもよって…あの男を…っ!』 有利を浚い、コンラートを傷つけたあの男…。 彼が天羽國にはいる前に力尽き、死にかけているのを見たとき…。 頭の中がぐちゃぐちゃになるくらい動揺し、困惑し…怒りと憎悪と慈愛が、気狂いの絵描きがキャンパスに叩きつけた絵具のように綯い交ぜになったことが、今になって鮮明に思い出される。 助けたくなんてなかった。 いっそ、自分の手で殺してしまいたかった…。 けれど…消え入りそうに霞んでいく命の存在を、放置することさえ出来なかった…。 「あいつの傷…俺が、治したんだ」 指先がひどく冷たくなり…喉奥が熱く掠れる…。 けれど、コンラートに嘘だけはつきたくなかった。 「そーじゃなきゃ…コンラッドが身体張って斬りつけてくれた刀傷のおかげで、あいつ…意識無くしてたんだから…俺、走って逃げることだって出来たはずなのに…」 目元が熱くなるが、泣くわけにはいかなかった。 今泣けば、コンラートは有利を責めることが出来なくなる。 あの男を救ったことは…コンラートに対しても、他の仲間に対しても…どんなに詰(なじ)られても仕方のないことなのだから。 『俺があの時、あいつを見捨てて逃げていれば…こんなにややこしいことにはならなかった』 生贄を救えたことや、鳶種を寄生生物から解放できたことは偶然の積み重ねによる僥倖というものであり、コンラートが身を挺して戦ったことを無にしてしまったことは、全くの別物と考えなくてはならない…。少なくとも、有利にはそう思えた。 「ごめんなさい……っ!」 真っ青になって震える有利を、そっとコンラートの腕が包み込む。伝わる熱と覚えのある香気を吸い込めば、慕わしさと申し訳なさとで胸が締め付けられてしまう…。 「すみません…ユーリ。あなたを責めるつもりはなかったんです。昨夜…俺は、あの男…ザザに会って…大体の事情は聞いていました。あなたが嬉々としてザザを救ったわけではないことも理解しています」 「コンラッド…」 「あなたの《情け》が、ザザを救わずにはいられなかった…そうでしょう?」 「うん…ごめんね……俺…どうしていつもこうなんだろう…安っぽい同情で、みんなを振り回して…結局、一番大事な人を傷つけちゃう……っ!」 「安くなんかないよ…ユーリ。ね…そんな風に落ち込まないで?」 「だって…っ!」 コンラートの言葉が、声音が、やさしすぎて…有利は涙を止められなくなった。ぼろぼろと溢れてくる涙を嘗めとられても抵抗することも出来ない。
それに…暖かな舌がぺろぺろと頬を伝う感覚に、何故か記憶が呼び覚まされる。 有利の飼い犬が、酷く落ち込んだ主を慰めようと無心に頬を嘗めていたときと…同じ感覚だ。 「ユーリ…俺は、ユーリを見ていると信じることが出来る。この世界には…善意の連鎖というものが存在するのだと…」 「え…?」 「報復の連鎖、悪意の連鎖というものはとても簡単に…どこででも見ることが出来る…。親を殺された者が下手人を殺し、下手人の関係者がまたその者を狙い、いつしか憎しみの渦の中に大勢が絡め取られて逃げることも出来なくなる…。恨みには恨みを、憎しみには憎しみで返したくなるのが世の常で、これは眞魔国でも地球でも変わらない。けれど、あなたは与えられた苦しみを憎しみによって増幅させるのではなく、断ち切ってしまった。そして、治癒を施すという善意によって、あの男の誠心を導き出した」 「でも…それは…偶然で……」 コンラートの発言はどうにも身びいきが過ぎるような気がして、名付け親の甘さなのだろうかと勘ぐってしまう。 「彼が予想以上の規模で報いてくれたことは偶然もあるでしょう…他の状況であればああはならなかったかも知れない」 『何しろ、あの男はあなたに惚れていますからね…』 迦陵頻伽によって有利が辱められる様を見せつけられることがなければ、あの男が決断することはなかったかも知れない。 「ですが…唯一つ、偶然ではないことがあります。あなたが、ザザを救ったことです。これだけは決して偶然などではない。あなたの慈悲は、偶然湧き出たものなどではない…俺にしても、トーリョを救っていなければどれほど俺個人の雄を誇ったところで、それは空しいものになったかもしれない」 華海鼠を屠ったことも、空を埋め尽くすほどの怪鳥を全滅させたことも…有利を失うという絶望の前には何の意味も成さなくなったことだろう。 それを回避し得たのは…コンラートの武勇だけの力ではなかった。ほんの気まぐれ…あるいは、純朴そうな青年の様子に、恩を売っておけばなにがしかの情報が得られるのではないかという、ある種の下心あってのことだった。 それがまさか…命を賭してコンラートの思い人を救ってくれるなど、発想の何処にもなかった。 あれこそがまさに、善意の連鎖が生んだうつくしい華であろう。 そうしてくれるのではないかと狙ってもたらすことなど出来ない…確かに、奇蹟に近いことなのかも知れない。だが…有利とコンラートがそれぞれに鳶種を救ったという事実無しには、可能性は奇蹟以前に絶無の状況であったはずだ。 「その他のことは確かに偶然なのかも知れない…いつもいつも期待することは許されない、奇蹟なのかも知れない…ですが、あなたがザザを救っていなければまた新たな鳶種があなたを狙ったかも知れない。今度は慎重に装備と時期を整えて…俺であっても防げない規模であなたを浚ったかも知れない。そうであれば、仲間を殺された鳶種は決してあなたを許しはしなかったことでしょう」 使命を成しどけたザザの為に沈黙を守ろうとした仲間といい、華海鼠に襲われる仲間を見殺しに出来なかったトーリョといい、鳶種は使命感が強く情に厚い種族のようだから、それは間違いないだろう。 「あるいは、リスクが大きすぎるからとあなたを狙うことを諦めたとしても、この国の体制は何一つ変わることなく…生贄は毎年連れ去られ、多くの子ども達が恥辱と苦しみの中で絶叫しなくてはなかったことでしょう…。子を奪われた親や仲間達は嘆き…憤怒の焔で身を灼いたことでしょう。そして、鳶種も差別の漆黒から抜け出ることは出来なかった…」 特に当事者である子ども達は、今こうして…ふくふくとした寝床を与えられ、何とかして彼らを癒やしてあげたいという善意に触れることもないまま…憔悴しきって自我を崩壊させていったことだろう。 「あなたの《情け》が…彼らを救ったんですよ?」 「ちがうよ…俺の力なんかじゃ……」 強い罪悪感のためか、頑なに抗弁しようとする有利の傍に…そっと近寄ってくる気配があった。 口出ししようとして…けれど、雰囲気を壊すことを恐れるように、しずしずと気配は近寄ってきた。 「…ニー?」 気高い…と言えば聞こえは良いが、高慢な態度が鼻につく節のあった少女は…すっかり憔悴しきった顔に、以前には見られなかった健気な色を浮かべて有利を見つめていた。 「…差し出がましいようではありますが…ミェレル様をお救い下さったことに…お礼を申し上げたくて……」 「お礼なんて…」 「お礼と言うよりも、まず謝罪ですわね。誠に…申し訳ありませんでした……」 深々となされる最深度の礼は、彼女の心に大きな変化があったことを伺わせた。 「私自身がなした数々の無礼…そして、この国がユーリ様になしたあまりにも大きな無礼…とても謝って許して頂けるようなものではございませんし、後者については私如きが申し上げて償えるようなものではないと理解はしております。ですが…どうか、この想いだけは受け取ってくださいまし…」 「いいよ…もう、いいよ。ニー…あんただって辛かったろ?恋人を…あんな風に……」 コンラートが同じ立場であったら、果たして有利はニーほど冷静に振る舞うことが出来ただろうか?錯乱し、取り乱し…周り全てに八つ当たりしていそうな気がする。 「ユーリ様……」 ぼろ…っとニーの瞳から涙が溢れ出した。 ニーは元来気の強い達で、《慰め》などという事柄を軽視していた。 慰められて泣く女など、如何にも愚かで自立心のないことだと馬鹿にしていたものだった。泣くくらいなら自分の頭で考え、行動し、道を拓けばいいのに、他人に情けを掛けられて泣くなど実に被建設的なことだと思っていたのに…今は、涙を止めることが出来なかった。 彼女は生まれて初めて、自分の頭で考え、行動しようとしてもどうにもならない現実にぶつかってしまったのである。 そんな時に掛けられた有利の言葉はあまりにもやさしく…暖かく…ニーの心に染み入ってしまった。 彼が…社交辞令ではなく、本心からニーを哀れみ、ミェレルの不幸を嘆いていてくれることが分かったからだ。 「どうして…そんなにも、お優しいのですか…?どうして…」 「やさしくなんかないよ…心が弱いだけなんだ、きっと…。俺…誰かが泣かなくちゃいけないこととか、辛いと思ってるってコトに耐えることが出来ないんだ」 「ですから、そういうのをお優しいというのです」 珍しくも、本心から人を褒めるという事を実施しているニーは、否定されて意固地になった。やはり気が強いという性質は、ちょっとやそっとで変わるものではないらしい…。 「だから違うって…」 こちらも自分を過剰評価されることに拒絶感を持つ有利である。そう簡単には認めない。 「お優しいと言ったらお優しいのです!私の言葉が信じられないとでも言うのですか!?」 ほとんど《俺の酒が飲めねぇのか》と難癖をつける、場末の飲屋に屯(たむろ)うオヤジ状態である。 「ユーリ様がどう感じておられようと、あなたの優しさで私は救われたのです!ミェレル様は残酷な檻から解放されたのです!私は…私は……このご恩に報いずにはいられないのですっ!あなたがどれだけお嫌でも、絶対にこのご恩をお返しするまでは枕を高くして寝ることは出来ません!」 引用が色々間違っているような気がする上に、礼というより脅し文句の様相を呈しているが…言いたいことはよく分かる。 女の底力を感じさせる意思表明に、呆れ半分、感嘆半分で有利とコンラートが口をぽかんと開けていると…くすくす…と、小さく軽やかな声が響いてきた。 は…っとあげたニーの面が《信じられない》というように強張り、ついでくしゃりと歪み…幼子のように一心に、とたとたと空豆ベットの一つに駆け寄っていく。 有利からは少し離れた場所にあるそのベットは、ミェレル王子が寝かされていた場所だった。 『相変わらずだね…』 とか、 『また会えて嬉しいよ…』 とかいう切れ切れの言葉が風に乗って流れてくる。 ミェレル王子は大きな傷を抱えていても恋人を思いやることの出来る、芯の強い人でらしい。 ニーはもう涙を止めることが出来ない様子で、盛大に涙を流し…鼻水まで垂らして、とても貴族の子女には見えない有様であった。だが…そんな彼女はつんとすました顔の何倍も魅力的に見えて、可愛らしく映る。 「ね…ユーリ。一つだけは信じられることがあるでしょう?少なくとも…あなたはひとつのカップルを救うことが出来たんです。それは…掛け値なしに素晴らしいことだとは思いませんか?」 さしもの頑固者の有利も、これにはこくりと頷くほか無かった。
あとがき |