第十話 国を継ぐ者 

 

 薄青い色彩に染まる天空に、流線を描いて白狼族が飛ぶ。

 それは、天羽國に不穏な動きがないか見守る哨戒と同時に、外部からの侵攻が見られないかどうかを確認する意味合いも兼ねていた。

 外界の色彩がうっすらとではあるが透けて見える空は、最も結界が緩む場所だからだ。

 白狼族にとって天羽國側には何の思い入れもないが、一方の眞魔国側に何かあっては一大事と、彼らがこの国を出るまでの間は自発的に哨戒活動を行っている。

 

 

 迦陵頻伽が滅びてから2日後…天羽國の中枢にある石舞台では3つの勢力の首脳が一堂に会し、話し合いが持たれることになっていた。

 閉塞感をなくすため…という意図で選ばれたこの場所は、開けた草原の中に大ぶりな岩が無造作に転がる上に、調度品だけを持ち込んで行う野外会議である。…で、あるから天空を駆ける白狼族には丸見えであるし、天羽國の民も、流石に飛び回ってこそいないものの遠目の利く連中には会議の様子がよく見えるようになっていた。

 美しい眞魔国国王と大賢者を見守ることにしか興味のない白狼族と異なり、天羽國の面々には髪の毛の先から爪先まで緊張感が漲り…まんじりともせずに話し合いの行く末を見守っている。

 

 天羽國側の…白羽根の一族からの代表は国王、宰相、ニーの父である大臣の3名。

 彼らは凝った装飾の施された美服に身を包んでいるが、その顔色は一様にどす黒く…彼らの煩悶の深さを物語っている。

 

 鳶種の代表は長老1名。

 いままで白羽根族との身分の違いを示すように短衣しか身に纏うことを許されなかった彼だが、今はこざっぱりとした生地ではあるが丈の長い貫頭衣を身につけ、鮮やかな紺色の飾り帯と、銀の鎖が年降りてなお強健な老人を威風堂々たる姿に見せている。

 彼の炯々たる瞳には取り戻した自信と自由とが燦然と輝いており、数日前の彼に比して10才、20才は若ぶりに見えた。

 

 眞魔国側の代表は国王、宰相、大賢者の3名。

 苔むす大地を踏みしめて歩いてくる魔王は裾や袖口に銀糸の縫い取りを施した他は、装飾の少ない黒衣を身に纏っていた。

『ほぉ…』

 鳶種の長老…そして、自分たちの思惑に取り憑かれてつい先程まで目をぎらつかせていた天羽國の重鎮達も、薫風を受けながら歩む少年王の姿に見入っていた。

 この国に浚ってこられ、強制的に着せられていた蒼いドレスもこの上なく美しかったが、望まざる装衣に包まれた様子にはどうしても退廃的な艶が混じり、苦痛と嫌悪が端々から滲むようであった。

 だが…今、誇らしげに顔を上げ…堂々と歩いている様の、なんと朗らかなことだろう。彼が身につけたいと望み…そして纏う衣装は、彼の姿を颯爽たる少年王に見せている。

 両脇に控える宰相と大賢者が身につけているものも、当然仕立ては良いのだが…特段豪奢という印象があるわけではない。だのに…彼らが身に纏う気配は燦然としたもので、無言のうちに敗者である天羽國の重鎮を圧するのであった。

 石舞台の上に一同が会した時点で、話し合いの帰趨など決まったようなものであった…。

 

 

 勿体つけた儀礼が一通り済むと、《ほんじゃま…》っと、有利は本題に入った。

「俺が求めることはただ一つ…。迦陵頻伽によって傷つけられた生贄の子ども達に対する謝罪・賠償…そして、二度とこんな方法で国を護ろうとしたりしないで欲しいってことです。前者の…えと、リコンについては…」

「渋谷、履行。…っていうか、君は難しい言葉を使おうとしなくて良いよ」

 苦笑混じりに村田が指摘を入れる。

「う…あ、そーだな。先に言ったコトをちゃんとやってくれたかどうかの確認は、俺達眞魔国のみんなも確認しますから、なるべく早くやっちゃって下さい。それから、後から言った方は長いこと見守らなくちゃならないことだから…鳶種の代表の人を政治の中枢に組み込んで、監査機関として独立させて下さい」

「鳶種を…監査機関に…?」

 ぐぬ…っと宰相の喉奥から苦鳴にも似たうなり声が響く。

 宰相はスーラー・ガルパという名の中年太り甚だしい男で、先程からやたらと汗をかいては手元のハンカチで顔を拭い続けている。

 だぶついた皮膚が弛んで幾重にもかさなり、顎から胸元にかけては二段顎どころか、蛇腹のような有様になっている。服を脱いだりすれば、腹の方もさぞかし凄いことになっているであろう。敢えて見たくはないが…。  

「スーラー殿…我らの立場をお考え下さい!」

 悲鳴のような声を上げるのはニーの父親であるナントカ大臣である。肩書きが長すぎて有利には覚えられなかったが、何か文化行事に絡んだ役職であったように思う。

 彼は酷く神経質な達のようで、先程から何度も彫刻を施した卓の側面をカリカリと掻き続けている。

 そして、スーラー宰相の不満げな物言いが有利達の機嫌を損ねると思ったのか、捕まった小動物のように怯えてびくびくと肩を震わせた。

 この二日で余程心労が降りかかったのか、元々の性格上の問題なのか…極度の怯えが浮かぶ顔にはクマが掛かり、随分とくすんだ色合いをしている。

『なんとまぁ…潤いのない重鎮だねぇ…』

 チャスカ王に会談の申し入れをしたとき、村田は3名という枠だけ伝えておいて、王以外は肩書きを問わず、誰を選んでも構わないと言った。

 こういう非常事態だからこそ、真に頼りになる人材を選ぶと思ったのだが…。

 やはり肩書きで選んでしまったのか、もしくは信頼に足る人材の限界なのか…どちらにせよこの国の中枢はどうにも能力・魅力共に乏しいらしく、村田の知的好奇心を掻き立てるような会話は先程から何一つ行われていない。

 容貌から言えば飛び抜けて美麗なチャスカ王ですら、げっそりと目元の窪んだ様子が容色を衰えさせ…発言にも覇気がない。

『この国は…終わってるな』

 あるいは、数百年の昔…まだ、チャスカ王が若く覇気に富んでいた(…と、思われる)頃も、宮廷の人材というのはこの調子だったのかも知れない。

 だからこそ彼は政治的活力を宮廷の自助努力によって培うことよりも、手っ取り早く力強い迦陵頻伽に頼ったのだろうか?

 チャスカ王は軽蔑…というより、寧ろ哀しみを帯びた眼差しで仲間を見やっており…この国の行く末を話し合うというよりは、その行き着く先…終焉を見守る人のようだった。

 彼にとってもこの国は、《終わっている》ものなのだろう。

「チャスカ王…聞いてる?」

「ええ…聞いております。ユーリ陛下」

 《陛下》と呼ぶその声音に、微かな自嘲が混じる。

 迦陵頻伽の鏡が指し示したうつくしい生贄…その彼が、この国の礎を根本から突き崩した。そのことが、忸怩たる思いで胸に蘇るのかも知れない。

「全て仰るとおりに致します」

「チャスカ王…!」

「そうですとも、王よ…ここはユーリ陛下の仰るとおりに…!」

 宰相と大臣とがそれぞれの反応を見せるが、そのどちらにも反応を示すことはなく、チャスカ王は淡々と書面にサインを書き綴った。

 正式な国交がない二国間の交渉上、この紙切れにどれ程の制約力があるかは不分明であるが…。

 一通りの遣り取りが終わった後、チャスカ王は力無く脱力した様子で、差し出された茶を啜った。

 この席には(遠目に観察されているとはいえ)、3つの勢力の代表以外にも3人ほど傍仕えとして佇んでいる者達がいる。みな、白と黒の可愛らしいお仕着せをきた白羽根の一族の侍女である。

 彼女たちは最初こそ不安げな顔つきをしていたが、眞魔国側の面々が出してきた条件が、天羽國の行ってきた行状から考えれば破格とも言えるほど甘い処遇があったことや、なにより、眞魔国の面々の美麗なさまに素直に心奪われているらしく、不躾にならない程度に送ってくる視線には乙女らしいときめきが見られる。

『女の子ってのは強いねぇ…』

 今までの既成概念が突き崩されても、自分の世界を構築できる女性がいる国は強い。さて、この国はそんな女性達の力を汲み取って、傾きかけた国威を盛り返すことが出来るのだろうか?

『ま…僕としては渋谷が無事に帰ってきてくれるだけで他はどうでも良いんだけどね』 

 どうでもいい…といいつつ、多少気に掛かってしまうのは、ひとえに主の懸念がそこにあるからである。

 この会談に参加した面々を見ていると、どんどん有利の眉根が寄っていくのが分かる。政治的な細かいやりとりが分からない彼でも、いや…彼だからこそ、分かるのかも知れない。

 この連中には、沈みかけた天羽國という船を安全な岸辺に運ぶだけの才覚など有りはしないのだと…。だが…彼らに舵取りが出来ないとして、有利にはどうすることができるだろう?

 《眞魔国首脳が代わりに統治しましょう》などと持ちかけるなど愚の骨頂であり、どんんな美辞麗句を用いようとも、天羽國からは《火事場泥棒》としか思われまい。

 結局、この国はこの国の者によって苦難を乗り越えていくほか無いのだ。

 だが…一体誰の手で?

 …有利には分かるわけがない。

 眞魔国側が提示した書面にチャスカ王がサインした段階で、有利は会談を切り上げても良かったのだが…手持ちぶたさに白磁の腕を弄びながら言葉を探しているのは、自分にはどうにもならないと分かっていても、この国にとってもプラス要素をなんとか見いだしたいと望むゆえだろう。 

「あの…チャスカ王、ミェレル王子とは会ったんですか?」

 散々迷った挙げ句…言いにくい事柄を、それでも敢えて有利が口にすれば…チャスカ王の口元が不穏に歪んだ。

「…どんな顔をして会えと?私は…息子を肉奴隷として迦陵頻伽に捧げた男ですよ?」

 まさにその通りなのだが…開き直ったかのような口ぶりは嘲りさえ含んでいるようで、有利の神経の弦を乱雑に引っ掻いた。

「だからこそ…ちゃんと会って話さなくちゃ…」

 言ってから…有利の眼差しが伏せられる。

 流石に家庭の事情にまで入り込みすぎたと感じたのだろう。その心理を敏感に察知したのか、チャスカ王の口調は居丈だかな高慢さと、対照的な卑屈さが同居する…何とも気色の悪い物言いになった。

「はは…は。そうですな。私はあなたの提案通りにすると先程制約したばかりですな?ははは…息子は文書に明記されたとおり《生贄の子ども》だ。まこと、謝罪・賠償の対象となりましょう。誠心誠意、謝らなくてはなりませんなぁ…」

「いい加減にしろよっ!」

 だんっと有利の拳が卓を叩く。

「謝るってそういうことじゃないよっ!そんな風に謝られたら、相手は余計に腹が立つよっ!!」

「ですが、文書に明記されているのは《謝罪・賠償》でしょう?あなたの言う《そんなふう》というのは曖昧で、成し遂げられたかどうかの評価基準が不明瞭ですな…」

 傲然と居直るチャスカ王には悪い意味での威圧感があり、有利はふるふると唇を噛んで言葉を探す。

「せめて…せめて、自分の子どもにくらい、ちゃんと謝れよっ!だって王子は、あんたのことをずっと信じてたんだろ?それを…それを……っ!」

「おやおや…お優しいことですな。私の息子のために涙まで零して下さるのですか?流石は《仁慈に篤い高徳の王》だ…」

 その肩書きは…ほんの2日前までは、チャスカ王のものだった。少なくとも、閉ざされたこの国の中ではそうだった。

 自分の息子すらおぞましい醜宴の生贄として差し出したことに、羞恥や後悔を覚えない日はなかった。だが…王としての自分に向けられる尊敬と称賛の眼差しは、毒のようにチャスカ王を狂わせた。

『良いのだ…私は、この国は、これで良いのだ…』

 そう言い聞かせてきた日々を、このちっぽけな少年が突き崩した。

 いや…違う。

 突き崩したのはこんな少女めいた王などではない。

 あの凄まじい武威で防衛線を壊滅させたどころか、その主軸である鳶種を手懐けてしまった魔性の男、コンラート・ウェラー…そして、王を護る四大要素の力だ。 

 あんな絶大なと力さえなければ、今もチャスカ王はこの国の中心で胸を張って生きていられたはずなのだ。

『それを…それを……っ』

 この二日間、呼び名の不明瞭な感情がずっと胸の奥で蟠(わだかま)っていた。

 その想いの正体に、今…初めて気付いた。

 これは…《憎悪》だ。

 憎い…この少年が、憎い。

 自分から何もかも奪い去り、羞恥によって自害することさえも許さなかったこの少年が憎くてたまらない。

 チャスカ王の瞳が獣じみたぎらつきを帯び始めたことを敏感に察知し、グウェンダルと村田が無言のまま立ち上がりかけたとき…

 リィィン……

 …と、涼やかな鈴の音が鳴らされた。

「…何だ?」

「あれは…伝令の鈴だ。危急の用件を伝える際に、鈴の音で知らせるようになっているのだが…一体、誰が?」

 不審げな声の中、侍女が鈴の音との間でやりとりをすると…蒼白な顔で発言した。


「あ…あの、会談が終わりましたことを控え室でお待ちの方々にお伝えしましたら…ミェレル王子が皆様にご挨拶がしたいと仰っておられるとのことなのですが…如何致しましょうか?」

 チャスカ王と有利の険悪な雰囲気に怯えていた侍女は、惑うようにつっかえながらそう言った。

「ミェレル…が?」

 先程までの攻撃的な色が瞳から消え、チャスカ王は鞭打たれた犬のように怯えて見えた。

 彼にとっていま最も恐ろしい相手は眞魔国の王でも鳶種の長老でもなく…自分の唯一人の息子なのだということが明瞭に伝わってくるようだった。

「通…」

 声帯が硬直してまともに発声できなかったことを、チャスカ王は深く後悔することになる。

「お通しして」

 悠然とした語調で、大賢者村田健が指示を出したからだ。

 勝利者である眞魔国重鎮の許可は、天羽國王のそれに勝る。

『そうですよね?』

 とでも言いたげな村田の視線を、チャスカ王は憎悪を込めて睨み返した。

 

 

 するすると…長い裾野を優雅に捌いて、一人のうつくしい少年が苔むす大地を歩んでくる。その様子に気負いはなく、足取りは春の散策でもしているかのようなゆとりがあった。

 幾らか痩せてはいるものの、安らぎに満ちた睡眠と栄養価の高い食事、そして何より…誠心誠意尽くす恋人の愛情にひたされたせいか、ミェレル王子の白い肌には艶が戻り、何より、薄青く澄んだ瞳には強い生気が蘇っていた。

 王子は座したる面々から数歩離れた場所…石舞台の手前に当たる部分で歩みを止めた。

 石舞台に登るのは3勢力の重鎮として、会談に列することを許された者と傍仕えの者のみ…そのどちらにも属なさい自分には、例え現王の子とはいえ石舞台に登る権利はないのだと周囲に知らしめるようであった。

「皆様、お恥ずかしながら長きに渡り囚われの身になっておりました、この国の第一王位継承者…ミェレルでございます。この度はこの座に列することを許されぬ身ながら、ひとつお願いがあってこの場に参りました。どうか、発言のお許しを願えましょうか?」

「良いよ良いよっ!そんなとこにいないでさ、こっちにおいでよ王子!!」

「いいえ…」

 有利の申し出に控えめに頭を垂れ、申し訳なさそうに王子は申し出を断った。

「有り難きお言葉ながら、私はまだそこに列する資格は持ちません。ですが…ユーリ陛下とは是非、この国の行く末を共に語り合わせて頂きたい。ですから、単刀直入にお願いを申し上げます」

 ミェレル王子の声は爽やかで、優しい中にも強い芯の強さ…押しの強さが感じられた。

「父上…退位して頂けませんか?」

 涼風の中で詩でも詠み上げるような流麗な声、そして、和やかな笑顔。

 とても王権交代を狙う野心家とは思えないような様子に、流石の村田ですら一瞬声を失ってしまった。

 ただ、やはり回復の早さと状況を面白がる肝の太さは村田が髄一であった。

「あ…はははっ!こりゃ良い!!大したものですね、チャスカ王。あなたの息子さんはなかなか剛胆な方だ」

「な…何……をっ!」

 チャスカ王の方は状況を面白がるどころではない。

 確かに、息子に対して強い罪悪感や怯えは持っていたものの、それらは全て《何故あのようなことをしたのですか?》と、泣きながら糾弾されることであったのに…何故この少年はこうも朗らかな顔をして、王権の交代など迫るのだろうか?

 チャスカ王には驚異的な力をもつ魔王よりも、大賢者よりも…あれだけの辱めをうけながら底知れない余裕をみせる息子が恐ろしかった。

「どうでしょう?」

「馬鹿を言うな!お前になど務まるものか…っ!わ、私がどれだけ苦心してこの国の基盤を作ってきたと思う!?」

「ええ、大変そうでしたよね。私はお側にお仕えして、父上のお仕事ぶりを拝見しておりました。そして、その苦労に報いるように富んでいく我が国の民を見て、父上を篤く尊敬申し上げたものです。あの檻に繋がれるまでは」

「…………っ!」

 最も痛いところをつかれて絶句している父を尻目に、王子は淡々と言を連ねた。さすがに先程のように朗らか…とは言いかねる語調であったものの、それは苦痛に満ちた過去を告白していると言うよりは、どこか書籍の中の出来事を語るかのように客観的な言いようであった。     

「あの檻に捕らわれている間、ずっと考えていたのです。こんな犠牲の上にたつ国家とはどういうものなのだろうかと。確かに、迦陵頻伽の強力な結界によって我が国は滅多に他種族の侵攻を許すことはなく、例え侵入されたとしても強靱な鳶種の戦士と迦陵頻伽の手札が護ってくれる。それで永遠に成り立つのであれば、世界とはそういうものなのだろう。例え不条理に見えたとしても…私達生贄がどれほど嘆いたところで、それが絶対的な決め事であるのならば、この桎梏から逃れる術などありはしないのだと」

「み…ミェレル…」

 息子の言葉がある意味、父の行いを容認するような発言であったことから、チャスカ王は微かに生気を戻した瞳で息子を見やった。

 だが…息子の瞳にあったのは父に対する共感でも…軽蔑ですらなく、哀れみの念であった。

「私は、ずっと考えていたのです。苦痛から逃れるための幻想に過ぎないのかも知れませんが…ずっと、ずっと…あることだけを考えて気が触れることを回避し続けてきたのです」

 ミェレル王子の前で、何人もの生贄が発狂していった。

 色狂いに堕ちることで精神の平衡を保とうとした。

 だが…王子は一つの夢を抱くことで自我を保ち続け、それ故に、ある意味…誰よりも強い苦痛・羞恥と闘うことになったのである。

「もしも…私がこの檻から逃れることが出来たなら…どんな事をしてでも、この檻を破壊すると誓いました。そして…迦陵頻伽の力を借りずに、天羽國の民の力で国造りをしていこうと…ずっと…その事だけを夢見続けてきたのです」

「は…はは!…そうだな…お前は、そういう理想かぶれなところが昔からあったな…。だが、政治とは…国の舵取りとは綺麗事で成り立つものではないのだ!汚いことに手を染めねばやっていけないことばかりで……」

「ですが今、少なくとも父上にはこの国の舵取りをする力はありません」

 政治のなんたるかを説こうとする父に、王子はさっくりと指摘して見せた。

「父上の信用は国内でも地に落ちております。ことに…少しずつ目覚めつつある生贄であった方々にとって父上は蛇蝎の如き存在…国元に戻ったとき、彼らがまず為すだろうことは種族の矜持にかけて父上を血祭りにあげにくることでしょう。結界の力は既に弱々しいものになっておりますし、鳶種の方々が命を賭けて父上を救ってくれるとはとても思えません」

「わ…私を…血祭りに…だと?」

「当然でしょう?迦陵頻伽滅びたるいま…責任の所在は父上にあるのですから」

「それが…な、何故お前と王権を交代するという選択に繋がるのだ!?血祭りがなんだ…私は、最後の一人となろうとも天羽國の王として雄々しく闘い…」

「そのような決意は迷惑です」

 きっぱりとした発言に、王は喉頸を占められた鶏の様な声を出した。

「そうではないですか?宰相…ロドウィア大臣」

 静かな声音に指摘され…宰相と大臣とにさっと目線を走らせたチャスカ王は、これまで、宮廷内でもっとも彼を強力にバックアップしてきた…彼もまたそれに見合った権益を与えてきたはずの面々を見やった。

 彼らの瞳の中には無数の計算が渦巻いているようだったが…そのどれもが、《チャスカ王を見捨てる》という結論に達していることがありありと伺えた。

「私個人の能力が国を背負って達に相応しいものであるかどうかは確かに不分明です。ですが…これだけは確かなことがあります。私は…生贄だったのです」

「確かにね…これは、同じく生贄の痛苦を受け続けた皆さんにとっては最も重要なことだ」

 《和平を保ちましょう》…そう言ってくる国の代表が、自分を傷つけた当事者であるのと、同じように傷つけられたあるかどうかというのは、彼らにとって極めて大きな差異となるだろう。

 全ての種族がそれで友好的になるとは言えないものの、その程度が大きく違うことだけはたしかである。  

「そうです。私は生贄だった。そのことを、最大限に活用したいのです。民に対しても…外交に対しても…!」

「そ…そんな、同情を買うようなやり方で上手くいくものか…っ!」

「どうでしょうね?確かに、保証はありません。ですが…私たちは保証など無くても、己の信じる道を行くしかないのです。少なくとも、私はそのように進んでいきたいのです。父上…」

「嫌だ…」

「父上……」

「嫌だ、嫌だぞ!私は王座をお前のような甘いことを言う王子に譲ったりするものかっ!」

「そうですか…甘いのはお嫌ですか…。それでは、父上の身柄を生贄の皆さんにお渡ししてもよろしいでしょうか?」

「……何?」

 さらっと言われた言葉にチャスカ王だけでなく、すっかり傍観者と化している面々(村田を除く)までもが目玉を飛び出さんばかりの勢いで驚いた。

 まさか、理想主義者(…に、見える)王子がそんなことを言い出すとは予想だにしなかったのであろう。

「何しろ、父上は沢山の種族の方を浚うように命じておりますので、腑分けが大変になりますよね」

「腑分け…だと……?」

「ええ、どこか一つの種族にお渡しするわけにはいきませんから、平等に腑分けする必要があるでしょう?その際も、父上をどこかに逃がして影武者をたてたと疑われてもいけませんから、やはり公開処刑という形式をとらざるを得ませんので、随分と血なまぐさいことになってしまいます。ですから…なるべくこの手法は避けたいと考えていたのですが…父上がそこまで甘い考えを持つことを忌避されておられるのでしたら仕方がありません。宰相、早速日取りと場所、処刑方法について各種族の方々をお招きして調整して下さい」「は…はい……」

 小さく…だが、明確な了解の証を寄越す宰相を、チャスカ王は信じ難いものを見る目でみた。

「いやいや、待ってくれ…王子。折角だから、その調整は僕がやらせて貰おう」

 大変機嫌が良さそうな様子で、村田が挙手をする。

「大賢者様…ですが、お手数ではありませんか?」

「いやいや、何々。僕の頭脳には四千年の英知が詰まっているのさ。その中にはあらゆる拷問・処刑に関する知識が存在する。きっと生贄の皆さんが納得するような処刑方法を提示することが出来ると思うよ?例えば、両の掌に棘突きの鉄鎖を通して支柱に繋ぎ、爪先がもうちょっとで地面に届くかな?くらいのところでぶら下げる。そして、まずは足の親指から順に生爪を剥がす。これは意外に痛いみたいでね…やっぱり、指先は最も痛点が多いせいなんだろうね。それから、指の遠位指節間関節、近位指節間関節、リスフラン関節、ショパール関節、距腿関節、膝関節…と、順に切断していくんだ。この時、気をつけなくちゃいけないのが失血死さ!苦しみ半ばで死んでしまうと、観衆…いやいや、生贄の皆さんや、その種族の人達が納得しないだろうしね」

「何か、それを防ぐ方法がおありなんですか?」

「うん…傷口をね、その度に焼きごてで灼いちゃうんだよ。結構凄い匂いがするけど、この方法だと横隔膜の直下までくらいは生きたまま解剖することが出来るよ?」

「ああ、それは凄い…それですと、流石に皆さん納得されるでしょうね!それに、相当細かく腑分けできるでしょうから、各種族にも行き渡りそうですね」

「うん、全身の関節は200程度あるし、臓腑も分ければかなりのもんだよ?」

「では、よろしくお願い…」

「止めろよっ!!」

 トントン拍子に進んでいく話を断ち切ったのはやはりこの人…渋谷有利であった。

「止めろよ…止めてくれよ……。そんな血なまぐさい話するのは勘弁してくれよっ!謝罪のさせ方って…もっと他にあるだろう?」

「おや渋谷、君的にはどういうやり方があるんだい?」

「一軒一軒、謝って歩くとか…」

「誠心誠意謝っても許してくれるかどうか分かんないのに、この王と来たら、思いっきり寛容な僕たちの和平条約に対して礼の一言もないんだよ?しかも、被害者たる息子に対してもこの通り詫びどころか侮蔑を持って報いる始末だ。こうなったら最大限、国のために活用できる方法で死んで貰うほか無いだろう?」

 冷然とした村田の言葉に、チャスカ王は初めて《国のため》ということばを恐怖と共に感じることになった。

 これまで、その言葉はチャスカ王自身が発する言葉であった。

『すまない…国の為なのだ』

 《泣いて馬謖を斬る》との言葉が人間の世界にはあるようだが、まさにその心境で幼気(いたいけ)な少年少女を…息子を、檻へと導いてきたのだ。

 そんな彼らに精一杯の優しさを見せることで、満足感さえ感じながら…。

 それがどれほど驕った考えであったのか、王は…自分が犠牲者として俎上に横たえられようとした今、初めて気付くに至ったのである。

「でも、駄目だ!駄目だよ…!誰かの犠牲で上手くいく世の中なんて、俺は大嫌いだっ!!」

「やだなぁ、渋谷。まさに君のような理念をこそ、チャスカ王は忌避しているんだよ?君は自分の価値観を他国の王に強いるのかい?それは流石に僕らが戦勝国の重鎮であるとはいえ、些か驕った考えではないかい?」

「そ…それは……」

 理路整然とした村田の説得に、有利の態度がぐらつきを見せた。

『納得しないでくれっ!!』

 悲鳴に近い心地で心中に叫んだ瞬間…チャスカ王の緊張の糸は切れた。

 がく…っと膝が崩れ、無様に床の上にへたり込むと…呆然とした様子で、血の気の失せた唇を震わせたのだった。

「王位を…譲る」

 口にすれば一層脱力感が増したのか…チャスカ王は呆けたように空を仰ぎ、そよぐ風が頬を撫でていく感触に、自分が酷く脂っこい汗をかいていたことに気付いた。

『緊張…していたのだな』

 思えば、彼のこれまでの生涯は緊張の連続だった。

 純粋に国のためにと奔走した青年期、真っ当な手法では動こうとしない臣下に手を焼き、度重なる他種族の侵攻と略奪行為に傷つく民を思って涙を流した。

 苦しかった…。

 辛かった…。

 誰かに、助けて欲しかった。

 力強い誰かに…。

 そんな時、声を掛けてきたのが迦陵頻伽だった。

『力が欲しいか?国を纏め、民を護る力が…』

 甘い声に頷き、契約を受け入れた。

 そして…今に至る。

『私は…間違っていたのだろうか?』

 間違っていたのかどうかは分からない。だが、少なくとも…恥じてはいたと思う。

 だからこそ、純粋な眼差しで尊敬してくる息子には、真実を話すことが出来なかった。

 そして…すくすくと成長していく息子がいつか王位を継ぐことが、次第に恐怖へと変わっていった。

 王子は全てを知るだろう。

 その時…《仁慈に篤い》筈の自分をどう見るのだろう?

 怖かった…純粋な眼差しが軽蔑に曇るのが怖かった。

 だからあの時…迦陵頻伽に息子を求められたとき、断ることが出来なかったのだ。

 いっそ…二度と自分の目に付かない場所に、息子を閉じこめてしまいたかったから…。

 その結果が今、目の前にある。

 息子は別段、父のことを何とも思っていない様子だ。淡々と…政治的材料として扱っているに過ぎない。      

『もういい…何もかも、終わったのだ』

 そう思えば急に身体が軽くなったような気さえする。

 もう…自分には何も背負うべきものはないのだから…。

「父上…では、契約の儀式を…」

 息子に促されるまま、チャスカ王はふらつく足取りで石舞台の端まで歩くと、やや見下ろす位置にいる息子の手を取った。

「我…チャスカ王は、新たなる王に王権の全てを委譲する」

「我、ミェレル王。王権を受けたり」

 儀式好きな種族にしては簡潔なやりとりが交わされると…チャスカ王はふわふわと覚束ない歩様ながら一人で歩いていった。

 背中にのし掛かっていた全ての重みを、息子に与えて…。

 

 

 有利はその背中を見送った後、ミェレル…王に、向き直った。

 正直…何と声を掛けて良いのか戸惑っていたのだが、淡々として一礼するミェレル王を見た途端…その華奢な肩を胸に抱き寄せた。

「魔王…陛下…?」

「頑張ったね…頑張ったね……」

「……っ」

 涙混じりのねぎらいの声に、ミェレル王の喉がつかえる。

 さきほどまで…実の父と凄惨なまでの会話を交わして飄然としていた彼が、何も声にすることが出来なかった。

「ミェレル…あんた、父さんを殺したくなんかなかったんだね?でも、この国の行く末も放っておくことは出来なかった…だから、王様になるんだね?苦しいこと、哀しいこと…全部、自分で背負っていくつもりなんだろう…?」

 ぼろ…っと、ミェレル王の薄青い瞳に涙が盛り上がる。

 どうして…この王の言葉はこんなにも胸に沁みるのだろうか?

 迦陵頻伽の檻から解放されたときもそうだった。傷つき…病みかけた心と体を癒したのはこの人の想いだった。

『君を…愛している人がいる。君は…愛されている』

 言葉ではなく…イメージが、情感が…暖かな雨粒と共に身体中の細胞に染み渡っていった。

『ああ…私は、生きていても良いのだ』

 久し振りに…本当に、とてもとても久し振りに心の底からそう信じることが出来たから、ニーに向き合うことも出来た。彼女の一途な愛を、受け止めることが出来た。

 まだ自分には、それを受け止めるだけの価値があると信じることが出来から…。

 だから、憎しみを捨てることが出来たのだ。

 この…信じられないくらいやさしい人が、信じられないくらいの愛をこの国にくれたから…父を、許すことが出来たのだ。

 父もまた…哀れな人だと思うことができた。

「一人では…背負いません。ニーが、います。そして…あなたもいてくれる…そう、信じても良いのでしょう?」

 にこ…と微笑んだ顔は先程の超然とした容貌を振り捨て…年相応のあどけなさで少年王をやさしげな顔立ちに見せていた。

 その顔を覗き込むことは、強く抱き合う有利には出来なかったけれど…気配から察したのだろう。朗らかな笑顔で応えるのだった。

「いるよ…みんないる。あんたはきっとこれから、沢山の辛いことに向き合わなくちゃいけない。だけど…ゼッタイ、俺はあんたの味方だよ?これだけは、信じてね」

「信じます。信じさせて下さい…そうであればこそ、私は歩いていくことが出来る…」

 抱き合う二人の少年王の姿は、見守る人々の胸を静かな感動で満たしていった。

 

 吹き抜ける風は爽やかに…この国の、新たなる幕開けを祝福しているかのようだった。

   

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あとがき

 

 やっと終わった天羽國の話…。私的にはこれでケリをつけたつもりですが、当然、この国の未来は多難かと思われます。

 

「別れ別れになったコンユが互いを思いながら切なく再会の道を模索する+長男が次男や有利に今までゴメンナサイと思う」というテーマを達成するための材料として登場した国ですが、なんとか力強く生きてて欲しいな…と思う次第です。

 

 次回はやっと学校に帰ってきまして、締めくくりの話と相成ります。

 10万打いくまでに完結しようと思ったのですが…。微妙に間に合わなそうな予感…。