第九話 善意の連鎖
分解し尽くされた迦陵頻伽の中核は、結局自分自身を構成していた触手によって縊(くび)り殺されることになった。 不気味な断末魔が響いた瞬間に、有利の眼差しが痛ましげに眇められたが…流石の有利もあの生命体を蘇らせるだけの慈愛を持つことは出来なかった。濃い過ぎる悪意の念は有利の許容範囲を大きく逸脱しており、自分の慈愛によって変わってくれるなどと期待することは、とてつもなく自己を過大評価しているように思われたのだ。 中核を押し潰し、喜びに沸く触手達には分散を命じた。 再び悪意に満ちた存在によってかき集められることがないとは言えないが、無邪気に有利の指示を受け入れる触手達の命まで奪うことは考えられなかったのだ。 それに、迦陵頻伽の強すぎる結界によって歪められた国土は荒廃しており、もはや自力では殆ど作物が育たない状況に陥っていた。この国の土の要素と共鳴したグウェンダルの助言もあり、有利はこの触手達に地中を這い回り、ミミズのように大地を肥やすことをお願いした。 触手達は快く受諾すると、奇妙に微笑ましい仕草でぺこりと一礼し…まさしくミミズのようにのたうちながら地中へと潜り込み、四散していった。 こうして、長年にわたって生贄を責めあげた触手は、新たな使命と生とを得ることになったのである。 そして後に残されたのは、起伏の激しい大地に転がる少年少女達…いまだ混濁した瞳に感情の色を伺うことは出来ず、身体中にまとわりつく厭らしい粘液は孔という孔から淫らな水音をたてながら零れている。そこに土がまとわりついた様は、写真や映像で見たことのある…戦争被害者の様子そのものだった。 『雨よ…清めて…癒して……』 『御意っ!』 漸く現地に駆けつけることの出来た水蛇は、暖かな…霧のような雨を降らせると、汚された少年少女達を浄化していった。その水の雫に混じって降り注ぐのは有利の慈愛…そして、癒しの力だった。 「あぅ…」 「う……ぁ……」 まだ、自分たちが解放されたという自覚のない生贄達ではあったが、暖かく清らかな雫を全身に受けて、心地よさそうに瞼を閉じ…唇の端をあげている。 陰惨な責め苦によって身体が物理的に修復されていくこともだが、それ以上に…長い間味わうことの無かった真心の温もりが、沁みいるように彼らの心を浸していくのだった。 『なんだろう…』 『とても、暖かい……』 少年少女達の整った面差しが、容貌相応の年齢を思わせる無邪気さをみせ…同時に、無意識の涙に頬を濡らしていた。 誰かが、自分をとても慈しみ…愛おしく思ってくれている…。 その実感が、彼らを喜びの涙でひたしていくのだった。 『風と火よ…乾かして……』 『御意…!』 白狼族と火の蝶が絡まり合うようにして飛び交うと、生贄達の身体はふわりと中空に浮き、さらりとした感触の熱風に包み込まれてその身を乾かされていく。 この様子をエルンストの結ぶ映像で見やりながら、村田が感心したように呟く。 「いやぁ…凄く大規模な全自動洗濯機みたいだねぇ?今度あの方法で冬布団洗って貰おうかな…」 「猊下…感動が台無しですよ?」 流石のエルンストもげっそりしたように嘆息する。 どうやら彼は結構感動していたらしい…。 『土よ…蔓草で掬い上げて…そして、彼らを眠らせてあげて……』 『分かった』 『御意』 グウェンダルとエルンストの指示に従い大地から伸び出してきたのは、青々とした若芽を備えた柔らかい蔓草の群れだった。無数の蔓草は格子模様に巧みに伸びあい絡み合い…柔らかなベットのように生贄達を包み込む。そして、ぽう…ぽうっと綿帽子を開花させると、更に蔓草のベットをふくふくにしていった。 その中に横たわる少年少女達の姿は、鞘に収まった空豆のようであった。 皆、ちいさな赤ん坊のようにくるりと丸くなって健やかな寝息を立て…ひとときの癒しに満ちた眠りを味わうことになった。 そしてそこまでの行程を終えた途端、有利の身体からはかくりと力が抜けてしまった。 その身体を抱き留めたのは、無論ぴたりと寄り添っていたコンラートである。 「ユーリ…大丈夫ですか?」 「……ぅん…」 声を出すのもやっと…という感の有利は、鋼の背から降りて大地に足をつけることになっても、とてものこと一人で歩くことなど出来ない状態であったから…不承不承ではあるがコンラートにお姫様抱っこされることになってしまった。 他の妖怪の配下として動く複数の生命体を従わせ、更に、数多くの生贄に治癒を施すことは、四大要素の力を従えた有利にとっても大きな負担となったのだ。 四つの要素それぞれに命じて単独攻撃して貰うのが最も負担は小さいが、基本的に攻撃の力を主体とする要素達を、共鳴や癒やしの力へと変換していくにはやはり有利のコントロールが必要なのだ。 「有利…寒いだろう?そんな男のジャケットよりも、私の水干を着ると良い」 水竜の姿から白拍子姿に戻った水蛇がそう促すが、有利はふるるっと首を振ると、きゅ…っとジャケットの襟合わせを寄せた。 「ん…上様……ありがと…でも、これが良い」 《これで良い》ではなく《これが良い》…。その表現に対して不満げに唇を尖らせながら、水蛇は自分の主とその護衛を見やった。 有利の上体をすっぽりと覆っているのは、先程着付けられたコンラートのジャケットで、柔らかいハニーブラウンの生地は仄かに持ち主の香りと温もりとを残しており、包み込まれた有利を幸せな心地にしてくれるのだ。 「ユーリ…無事か?」 白狼族の銀から飛び降りると、グウェンダルが駆け寄ってきた。 「グウェン…うん、平気だよ」 こくこく頷く有利であったが、そのくたりと脱力した様子や、ジャケットの下から覗く痛ましく引き裂かれたドレスに、グウェンダルの眉間には常以上の深度で縦皺が構築される。 「そんな顔しないで…?グウェン…」 「うむ…」 グウェンダルは小さく頷くと、じぃ…と華奢な主を見つめた。 「何?」 「……よく、頑張ったな」 「…え?」 どういう顔をして良いのか分からないのだろう…グウェンダルは憮然と羞恥とが複雑に綯い交ぜになった形相で有利を見つめ、途切れ途切れに言葉を紡いだ。 「お前は…先程、私に聞いたな?《呆れないか》…と。私は…少なくとも、今現在の私は、お前のなす事に呆れたりはしない。以前の私なら、他国の…別種族への大きすぎる配慮など無用のものだと切り捨てただろう。だが…今は、違う。私はお前がいない眞魔国で、お前の残した他国との繋がりをそのまま継承していった。その過程で…漸く気付いたのだ。お前のもたらした有形無形の善意は、必ず何らかの形で眞魔国にも帰ってきている。お前は…悪意と憎悪の連鎖を断ち切る、稀代の名王なのだと…私は思っている。だから、今回のこともきっと何かしら良い形で収束する。そう…思うのだ」 「グウェン……」 言われている意味を理解した途端…ぼろぼろと溢れ出すように涙が黒瞳から滴っていった。 「あ…ああ…っ!そ、そんなに泣くものではないっ!」 「らって…らってぇ……」 「ほら…鼻が垂れているではないか!」 あたふたとハンカチを有利の鼻に押し当てる姿は父親か保父さんのようで、見守る人々の口元にはどうにも生暖かい笑みが浮かんでしまう。 『全く…敵わないな……』 少しばかり複雑な心境なのはコンラートであった。 コンラートの存在は勿論、有利にとっては大きな支えであり、無くてはならないものだろう。だが、それとはまた違ったベクトルで、有利はグウェンダルという男を必要としているのだ。 有利にとってのコンラートはどちらかといえば母性的な…包み込むような優しさで支えてくる存在であり、原則的に有利を批判することがない。よほどのことでない限り大目に見るし、大抵のことは称賛の対象になる。 正直、《生きてるだけで丸儲け》というくらいの有様だ。 それに対してグウェンダルは父性的な…乗り越えなくてはならない壁とでも言うのだろうか?常に資質を試されているような緊張感を感じさせる存在である。 そんな彼に認められることは、有利にとって随分と大きな意味を持つに違いない。 「何だ…眠ったのか?」 「疲れたんだろうね。それに…グウェンの今の言葉ですっかり安心してしまったんだと思う」 「全く…子どものような顔をして……」 コンラートとグウェンダルはすぅすぅと健やかな寝息をたてる有利を優しい眼差しで見守った。今は、眠れるだけ眠らせてやろう。目が醒めたとき、彼は…今度は一国の王としてこの国と向かい合うことになるのだろうから…。 * * * 有利は一昼夜のあいだ、昏々と眠り続けた。 その間に眞魔国重鎮の面々と四大要素は天羽國の要所を押さえ、状況把握を進めていった。 王城を占拠していた村田はエルンストに指示を出して国家要人を軟禁状態におき、互いに連絡しあえないようにしておくことと、決して自害されないよう留意することを厳命した。 後者については特に気を使い、首吊りに仕えそうな布や帯、食事の際に使う箸やナイフにも気を配り、必ず回収させるほど徹底させた。 『事態収束まで一人たりと死なせてはならない』 その通達が慈愛や労りとは真逆の発想…《犯罪責任者に勝手に死なれては事態収拾が面倒になっていけない》という考えに基づくものであることは、眞魔国側の身内にとっては明白であったが、存外天羽國の面々からは好意的に受け止められたようである。 少なくとも、彼らを制圧している連中が暴虐の限りを尽くすような一群ではなく、話し合いをもって国交と見なす、政治的な国家体制であるらしいことが伺われたからであろう。 それに、天羽國の政治中枢に鎮座する面々はとかく儀礼事を好み、自分たちの体面が保たれることを常に最大の関心事としている。よって、軟禁状態とはいえど本来の肩書きに相応しい生活を(一時的にとはいえ)保証され、《話し合い》までの期間は安全が確保されているという現状は、彼らが迦陵頻伽の最期を確認したときの絶望に比べれば、数段マシということなのかも知れない。 * * *
コンラートは有利の守護を水蛇・白狼族・胡蝶に託すと、トーリョを介して鳶種の全てに、寄生生物を無害化したのが有利であることを知らしめ、また、そうである以上彼らには無条件に白羽根の一族に従う義理はないのだということも提示した。 また、鳶種の代表を選出させることで、眞魔国が鳶種を天羽國の下僕としてではなく、独立した種族として扱っていることを強調した。 実際、トーリョや代表として選出された長老に聞いたところ、鳶種はやはり白羽根の一族とは異なる種族であったものが、数百年ほど昔に迦陵頻伽によって制圧され、寄生生物を植え付けられて従属することを余儀なくされていたらしい。 新たに生まれた子供達は、《鳶種とは偉大なる迦陵頻伽と王を頂点とする白羽根族に尽くすことが、絶対の至上命題である》と教え込まれて育ったために、差別をある程度違和感なく受け入れていたようだったが、古い昔…自由であった時代を知る者にとっては、ここ数百年は地獄のような日々であったという。 独立独歩の精神を持つ尚武の民…その誇りを忘れることなく抱いていた長老はコンラートの前に額づくと、心を尽くして礼を述べた。 「誠に…なんと礼を申せばよいのか分かりませぬ…っ!」 「礼を言うのはまだ早いですよ。あなたが礼を尽くすべき相手は俺ではありません…我が主、シブヤ・ユーリなのですから…」 「は…これは失礼……。ですが、ウェラー卿の武勇優れたることなしに、我らの仲間が救われることも無かったことでしょうし…。いやはや…トーリョが申しておりました情景を儂も是非眼に刻みたかったものです…っ!華海鼠を一撃で屠り、天を埋め尽くす怪鳥の群れをやすやすと撃ち落としていかれるとは…っ!さぞかし国元でも武名の張ったお方であられるのでしょうな?」 長老の、皺深い面に似合わぬつぶらな瞳がキラキラと輝く…。 武張った鳶種の民にとってトーリョから伝え聞く(余程の勢いで伝えてくれたようだし…)コンラートの武勇伝は既に伝説と化しそうな勢いであるらしく、コンラートが鳶種と顔を合わせれば、全員がメジャーリーガーを目の前にした野球小僧のような目をするのだった。 これは長老にしても同様であるらしく、正直…コンラートを辟易させていた。 この男は有利に対する称賛はどれほど言葉を尽くしても不十分だと思うのだが、面と向かって自分を称賛されると尻が浮くような面はゆさを感じるのだ…。 「いや…それほどでも……」 「そーうなのよぅ、長老様!この男…いや、お方は、国元ではルッテンベルクの英雄と讃えられていてですねぇ…国一番の勇者と崇められてるんですよーっ!」 コンラートは熱すぎる長老の語りを何とか止めようとするのだが、調子に乗ったヨザックが生き生きと相槌を打ってしまう。この男としては、からかい半分というのも勿論あるが…コンラートを英雄と崇める連中に、友人のことを自慢したくてしょうがない衝動に駆られているというのも事実である。 「おい…ヨザ……」 「おお…そうでしょうとも、そうでしょうとも…!グリエ様、どうか儂らにその辺りのお話をとっくりと…」 「いいですよぅー。あ、でも酒が無くなっちゃったなぁ…。折角の英雄譚なんだしぃ…良い酒を酌み交わしながら語りあいたいですねぇ?」 「ああ…っ!これは気が利かぬことを致しました…!これ、メイサ!ヨーミ!儂の倉にある一番言い酒を樽ごと持っておいで!」 「いや…そんな気遣いは…」 「うわーい!長老ったら太っ腹ーっ!!さー、グリ江、何のお話からしちゃおっかなー!」 この様子を伺っていたトーリョや、他の鳶種までもがわさわさと寄り集まってくる。 「何!?コンラッド様の英雄譚だって!?」 「おい、スーニャ!お前さん字が綺麗だったよな!?是非書きとどめておいてくれよ。今日聞けなかった連中にも伝えてやりたいし、俺は何度も読み返したいよ!」 「ああ、そりゃあいいね!」 わいわいと盛り上がっている連中を止めるものは、もはや何もなかった…。 『あー…あぁー………』 コンラートはちびまる子ちゃんの祖父を思わせる横に長い楕円形の目元になると、じり…じりり…っと後退していった。 このまま自分にお鉢が回ってきて、《英雄様かく語りき》などとこっぱずかしい手記を残されるのが心底嫌だったのである。 * * *
コンラートが何とか賑わう大広間を抜け、屋敷の外に出れば…くすんだ灰色の夜空に朧な月が透過して見えた。薄雲の掛かった朧月…というわけではなく、薄まった結界越しに現実世界の月が透けて見えているらしい。 ひんやりとした風が頬を撫でていくのにも、この世界に入ってから感じていた違和感が薄れ…この世界を囲む森からの薫風がかおって来るのだと知れる。 宴席の熱気に火照っていた頬が冷まされるのを心地よいくて、そのまま佇んでいたコンラートだったが、ふと…幾らか離れた距離から向けられる視線に気付いた。 「……」 振り向くと、そこにいたのは無愛想な顔をした鳶種の男…。陽気に立ち騒ぐ仲間達とは一種異なる雰囲気は、見覚えのあるものだった。 いや…見覚えどころではない。 忘れるわけがない…。 この男は、有利を浚い…コンラートに傷を負わせた男だった。 男は他の鳶種のように無邪気に駆け寄ることは流石になく…仲間から一歩離れた場所に一人佇んでいた。 その眼差しに浮かんでいたのは敵意ではなかったが…どこか、複雑なものを感じさせる色合いを呈していた。 『この男…トーリョと同様、命がけでユーリを護ろうとした』 あの時は迦陵頻伽から有利を救い出すことに必死でそこまで意識にとどめはしなかったが…考えても見れば奇妙なことであった。敵対している立場の男が、浚った少年を命がけで護ろうとするなど…。 しかし、ぴん…っと脳裏に掠めるものがある。 『奇妙…でもないのか?』 この男には、コンラートがかなりの手応えを感じるほどに斬りつけている。その場所は翼の付け根だった。 …だが、迦陵頻伽の目を刺し貫いた時、男の翼は高速で飛行できるほどに回復していた。 まず間違いなく…有利が治癒を施したのだ。 『……』 理由は、分かる気がする。 おそらく、この国に入る前に男が力尽きたのだ。 そして有利は逃げることもせず、死にかけた男を救うために力を使ってしまった。 有利の長所であり短所でもある、傷ついた者を救わずにはいられない性質…。それが、よりにもよって自分を浚った相手にまで発現してしまうとは…。 流石のコンラートも、複雑な心境に陥らざるを得ない。 「…君には礼を言うべきなのか、恨み言を聞かせるべきなのか…迷うところだな」 「……出来れば、恨んでくれた方が気が楽だ」 憮然とした顔で言われると、奇妙なおかしみさえ感じる。性根はざっくりとした侠気のある男なのだろう。 流石にあのような経緯をへて、好意を持つことは出来ないが…。 「…あの方は、どうしている?」 「ユーリかい?眠っているよ…とても、疲れていたから」 「そう…だろうな……」 有利のことを思うのだろうか…一瞬、金属のように頑なな瞳に柔らかい色が掠めた。 間違いない…この男は、有利に惹かれている。 そう思うだけで目元に不快感が滲んだ。 「目が醒めたら、会わせては貰えないだろうか?」 「…会ってどうする気だ?」 コンラートの口調には無意識に苦みが混じり、苛立ちを隠せない自分の狭量さに腹が立つ。有利がこの男を救ったのは純然たる哀れみの念からであり、他の者が同じ状況に陥っていたとしても同じように救ったことだろう。この男に対して特別な想いがあったはずはない。 なのに…ただこの男の思いが有利に向いているというだけで苦い味が口腔内に広がるのだった。 『会ってどうしようと言うんだ。…愛を囁くとでも?』 コンラートの心の声が聞こえているのかどうなのか…男は鈍色の瞳を眇め、渋い声で絞り出すように言った。 「……すまない…忘れてくれ。俺も、会って何が言えるというわけでもない」 「そうか……」 何とも気まずい沈黙が漂った。 居心地の悪い空気にコンラートが口を開きかけたとき…男は、ぼそりと呟いた。コンラートに向かって話していると言うよりは…何処か独白めいた言葉だった。 「あんたに斬りつけられた傷で、俺は死にかけ…国境近くの森に墜ちた。あの方は、倒れた俺に気づいたとき…転がっていた木ぎれを掴んで殴りつけようとした」 「…っ!…勘違いじゃないのか?」 思いがけない告白にコンラートの眉が跳ねる。 「間違いない。殺気を感じた」 そんな筈がない。有利が…意識を持たぬ者を武器で殴打しようとするなど…。 その理由を探ろうとした途端…脳裏で跳ねたのは、この男が、コンラートを傷つけたという一点であった。 『…俺を、傷つけたから…あのユーリが、殺意さえ抱いて殴打しようとした…?』 有利は…何も考えずにこの男を救ったわけではない。胸中に激しい葛藤を渦巻かせながら、苦吟の選択を迫られて…結局、己の信条を通してしまったのだ。 その逡巡の苦痛が如何ばかりであったのか…それを察すれば切ないほど胸が痛むのだが、同時に沸き上がってくる想いがある。 『…まずい……。嬉しい……』 思わず口元がにやけそうになってしまうのを必死で掌で隠すが、男の方は自分の思考に没頭しているのか、コンラートの表情筋の変化には気付かない様子だ。 「だが…あの方は俺を殴ろうとして出来ず…次には逃げようとした。だが…薄れ行く意識の中で、あの方の声を聞いた。悪態をつきながら…それでも、俺にあたたかな力を注ぎ込んでくれた。あの方は…一体、どういう方なのだ?何故…俺のような者を助けようとしてくれたのだ?」 男の声は狂おしく…押さえきれない慕わしさに、金属めいた男の印象が生身の激情に取って代わる。その様子を見やりながら、コンラートはくすりと苦笑するのだった。 「多分…君が思っているとおりの子だよ。やさしい…時として、残酷なくらいやさしい子だよ。彼に惹かれることは無理もないことだとは思うけど…報われない想いを楽しむ自虐的な趣味でもなければ、早々に諦めた方が良い。諦められれば…だけどね」 コンラートの眼差しは婉然として見えるほど無駄に悩ましく、彼自身…長い間その《自虐的な趣味》を《楽しんで》いたことは間違いない。 どうやらその思いは嬉しすぎる方向に報われた様子だが、切なく想う期間すらも喜びであったことは疑う余地もない。 「俺には…自虐の趣味も、衆道の趣味もない」 むっつりとへの字口を引き結んで言う男に、コンラートはすっかり余裕を取り戻した表情で笑うのだった。 「そのうち目覚めるさ」 「嫌だ」 「なら…とっとと諦めて、記憶からユーリを抹消することだ」 その存在を記憶している限り、諦めることなど出来ない…暗にそう匂わせて意地悪そうに嘲笑(わら)うコンラートを、鳶種の男は嫌いになることに決めた。 「………」 逃げるように見られるのは不本意だが、男はばさっと翼を羽ばたかせると夜空に身体を浮かせた。 自分でも何を言いたいのか分からないまま、《元敵》などと語り合うものではない…。男は、コンラートに斬りつけられたときよりも強い敗北感に見舞われて、翼で風を掴み、高度を上げていく。 せめて、生まれて初めて手に入れた《自由》というものを満喫してみようと思った。 もしかしたら…飛んでいるうちに、あの少年のことも忘れられるかも知れない。 それが幸せなことなのか不幸なことなのか…自分でも良く分からないのだけれど…。 「おい、君…名前を教えてくれないか?俺はコンラート…コンラート・ウェラーという者だ」 「………ザザだ」 振り返ることもなく名乗った男…ザザは、一瞬胸を掠めた想いに…あの少年を忘れることなど出来なくなっている自分に気付かされて唇を引き曲げた。 コンラートと名乗った男が、自分の名を少年に伝えてくれるかも知れないなどと考えて…胸をときめかせてしまった事がどうにもこうにも恥ずかしく、錐揉み飛行を余儀なくされたのであった…。 * * *
グウェンダルや四大要素の面々は天羽國の民の動揺や、国土の様子を確認していった。 天羽國の民は白羽根の民と鳶種とでそれぞれ異なる集落を作って生活しており、鳶種はともかく白羽根の民の動揺は激しかった。 迦陵頻伽(の、中核)が滅んだことでこの国を覆っていた強大な結界は崩れ、僧侶達の力で何とか国土としての形式は保ってはいるが、長年にわたりねじ曲げられ続けた大地の要素は怒っていた。 強制的な支配が及ばなくなった今…グウェンダルの言葉添えがなければ、僧侶者の張る結界など拒絶しかねないほどなのだ。そのことは、弱いながらも殆どの民が結界に関する妖力を持つ白羽族にはよく分かっていた。 それに、強い力を持つ妖怪はこの程度の結界には惑わされない。おそらく、子ども達を浚われた妖怪達の間にこの知らせは伝わり、自分たちは虐殺されるだろう…。 しかも、普段格下として扱ってきた鳶種はもはや彼らの下僕などではなく、戦闘力の高い独立種として大手を振って歩いている。 彼らにも今までしてきたことを返されるのではないか…。 唾棄され、家畜のように使役されるのではないか…。 このような疑心暗鬼に陥った民が暴走しないように抑えておくのが、最も配慮を要する作業であった。 グウェンダルは白狼族を細かに白羽根族の集落に送ると(尤も、彼には命令権はないのであくまでお願いという形であったのだが)、 『とにかく、この国の王と我が王とが会談を行い、この国の指針が決まるまでは早まってはならない。また、我が王がいたずらに庶民を苦しめることだけは無いと確約できる』 と、厳に伝えておいた。 また、鳶種にもこれまでの報復行為は行わないようにとの通達(これまたお願いなのだが)も出したが、これは念のため…というほどのものであった。 自由を得た彼らにはすっかり心の余裕が出来上がり、もともと良い意味で侍めいた倫理感の持ち主が多いことから、過去の恨みにかかずらって自分の株を下げようとするような輩は居なかったのである。 グウェンダルは更に、国中に放置されていた迦陵頻伽の犠牲者を回収した。 彼らは妖力の小さな鳶種であったり、檻の中で精力を吸い尽くされたり迦陵頻伽に飽きられてしまったせいで、迦陵頻伽に繋がる地茎の端に連なるようにして放置されていた面々であった。 強健な肉体と精神力を持つ鳶種は栄養を与えて眠らせておけば回復するだろうが、少年少女達の回復には時間が掛かるものと思われる。少なくとも、有利の魔力と体力が回復したのを見計らって治癒を施さねばならないだろうが、危険な状況にある者については可能な限りグウェンダルが治癒を施していった。 『哀れな…』 迦陵頻伽の檻の中に直接入っていた子ども達は、主の嗜好を満足させるために何らかの栄養を与えられていたようで、うつくしい容色を保っていたのだが…放置されていた者達は大半がやせ衰え、荒んだ目をしていた。力無い幼獣を放ってはおけぬグウェンダルにとっては、見ているだけで胸が潰れそうなほど辛い光景であった。 触手から解放されても蹂躙され続けた記憶がなくなるわけではなく…ことに、有利の慈雨を受けていない子ども達は心から血潮が吹き出るほどに傷つけられており、眠っていてすらも全ての刺激に怯えて身を竦めるのだった。 そんな子ども達を一時的にとはいえ癒すことになったのは、土の要素を司ると共に幻影を生み出すことも出来るエルンストだった。 「ユーリが目覚めても、一度にこれだけの人数を癒すことは困難ですからね」 そう言うと、彼は子ども達に思い切り幸せな夢を見せて眠らせたのだった。 懐かしい…故郷の人々が彼らを抱きしめてくれて、綺麗なもの、美味しいものに囲まれて笑っている夢…。 ずっと、彼らから奪われてきた情景であった。 もしかすると、彼らは既に郷里では忘れ去られた存在であったり、穢れてしまった身は帰還しても疎まれることさえあるかも知れないが…せめて、そんな現実に立ち向かう前に、自分自身に挫けてしまわぬように…安らぎに満ちた夢を見せてあげることは無意味ではないだろう。 * * * 有利に連なる人々はこのように行動し、実施内容・結果については今現在最高位に在る大賢者の元に届けはしたが、その動きは大賢者や他の誰かから指示されたわけではなく、自分の考えで行っていた。 だが、その行動にブレがなかったのは奇妙でも何でもない…。 何故なら、全ての者が《有利ならきっとこうすることを望むだろう》との想いで行動しており、その判断に狂いはなかったからだ。 王が熟睡している間にも、王の期待するとおりに…いや、それ以上の動きを見せる臣下。ニーが知ればまたも《羨ましい…》と零すであろう信頼関係が、ここにはあるのだった。 |