第8話 呼応



 

「結界が…解けたぞ!」

 水の要素を司る妖怪、水蛇(みずち)が白装束の流麗な袖を振り、狂喜して跳躍すると…森の景色の一部が水面のように揺らぎ、するりと水蛇の姿を飲み込んだ。

 かつて幼い有利に忠誠を誓い、その成長を体内から見つめ続けたこの妖怪にとって、有利から引き離されて立ち竦むしかないこの状況は拷問にも等しい時間だったのだ。元々独立独歩の要素が強い妖怪のこと、結界が解けると見るや後も振り返らずに突進してしまった。

「やれやれ…どうやら、動きがあったようだね?僕らも行くかい?」

 嘆息して村田が土の要素を司る男…コンラートによく似た容貌のエルンスト・フォーゲルに声を掛けるが、彼は軽く首を振ってみせた。

 嫌みなほどにスーツ姿と銀縁眼鏡の似合う男は、そういう仕草がやはり嫌みなほどに決まる。

「そのまま飛び込んではありがたみがないでしょう?どうやら我々は、お仲間からも《腹黒い》と思われている節がある…ならば、期待にはお応えしなくてはね」

「何か考えはあるのかい?」

「まずは下調べといきましょう…」

 エルンストは大地に手を当て…結界の解かれた天羽國へと探索の触手を伸ばした。

 

*  *  *

 

「呼んでいる…」

「呼んでいますねっ!」

 有利の思念…《応えて…》という声が、魔力を持つグウェンダルと、有利と契約を交わした白狼族、銀の元へも届いた。

 すっかり迷子になって途方に暮れていた一人と一頭は、声のする方角へと勢いをつけて進んでいく。

「それにしても…あの臭い華の香りが無くなった途端にこの腐臭…それに、その元となっているらしいあの妖怪達は一体何なんでしょうね?」

 銀は鼻ずらに皺を寄せて愚痴った。この国に入ってからというものの、急に大地を埋める花が枯れ果てたり、その下から無数の腐臭漂う妖怪達が現れたりと不気味なことこの上ない…。

 白狼族も人間の住む世界とは別に、草原を主体とした別世界を構築して暮らしている一族だが、こんなに悪趣味な世界に暮らしたいとは思えない…。一体、どういう趣味の連中なのだろうか?

「ぬ…一人、意識のある奴がいるな…。ギン、降りてくれないか?」

 グウェンダルは触手に繋がったままぴくりとも動かない連中のなかに、まだ瞳に光を残した男が身じろいでいるのを発見した。

 手持ちの剣(珍しく有用性の高い、アニシナの隠し剣である)で触手を裂き、眞魔国ではないので不十分ながら、治癒の力を男に注ぎ込むと…有利を浚った連中と同種と思しき者だと気付いた。

 窶(やつ)れてはいるが、暫く治癒を受けると口をきけるところまで回復した。

「お前…達は……?」

「貴様の仲間に浚われた少年を捜している」

「ああ…あの不気味な檻に繋がれる《乙女》か…」

 ぶる…っと背筋を震わせて男は縮こまった。強靱そうな男だが…彼の胆力をもってしても、触手に繋がれた日々や檻の恐怖は抜けきらないらしい。

「檻とは何だ?一体…」

 

 

 グウェンダルは鳶種の男から大体の事情を聞くことが出来た。

 その男はもともと、外界から《乙女》を浚ってくる部署にいたのだが、自分が浚うこととなった乙女を恋しく思うあまり、檻の秘密を知ってしまったのである。鳶種の男は武人的性格が強いせいか華奢なタイプに弱く、強健さを買われて略奪役に配属されるものの、時折こうして役目を放棄しようとする者が出てしまう。また、白い羽根を持つ連中(貴族階級は全て白羽根の連中で占められているらしい)よりも基本的に戦闘力が高いということもあり、生まれたときから裏切り防止として心臓に寄生生物を埋め込まれるようになっているのだ。

 この男も惚れた《乙女》を救い出そうとして心臓を潰され掛け、そのまま触手に繋がれる身となったのであった。

 

 

 男の話を聞くと、銀もグウェンダルも急に寡黙になってしまい、有利の気配を辿って空を飛びながらも…どこか意気消沈とした様子であった。

「旦那…白狼族の鋼があの方にしようとしたことを…聞いたことはございますか?」

「うむ…君達の世界へと通じる門を開けるために、ユーリに…」

「ええ…あの方を…有利様を、強姦しようとしたのですよ。鋼のために申しますが…決してあの男は有利様を無為に嬲るためにそのような事をしようとしたわけではありません。門を人間に壊され、閉じられた世界から出られなくなった我らを救おうとしたのです。ですが…有利様にそんな事情は関係ない…。俺達のために身体を捧げなくてはならぬ法などなかった…。それなのに、あの方は全て許して下さった…。そして、門を開くために力を貸して下さった…。俺はあの方を、絶対にお救いしたいのです…。あのような方を辱めにあわせる者など…決して赦しはしないっ!!」

 ぎりり…っと犬歯を噛み合わせると、赤黒い歯肉が盛り上がり口角が釣り上がって悪鬼のような形相になる。

 そんな銀の首筋の毛を、グウェンダルは優しく撫でつけるのだった。

「あいつは…そういう子だ。いつもそうだった……」

 眞魔国に《王》として招聘された有利は、生贄や性の奴隷にされるために連れてこられたわけではない。やる気がないのなら(眞王の呪いを受ける可能性があるとは言われていたが)王になる事を拒否する事も出来た。実際、子ども子どもした有利の様子に不安を覚え、誰よりも強く王にならぬ事を勧めたのはグウェンダルだった。

 だが、有利は王になる事を選んだ。

 そうである以上は、有利はグウェンダルの助言に従う必要があると…それが当然なのだと思い、厳しく指導した。

 だが…今になって気付く…。あれは…精神的な強姦に等しかったのではないかと…。

 

『眞魔国の王になる以上、お前の郷里の事など関係ない!』

 

 そう言い捨てるたびに、有利の瞳が哀しげに曇った。

 あれは…地球での生活を…十五年の人生を、全て否定する言葉だった。

 眞魔国で必要な事は全て、眞魔国で学び直せばいい。二つの世界で齟齬が生じるのならば地球側の事は切り捨てろ…。

 それが、どれほど残酷な言葉だったのか、グウェンダルには察してやる事が出来なかった。今まで生きていた意味がないと言われているのと同じ事だったというのに…。

『だから私は…地球に来る事を望んだのだ』

 あのような子どもを育んだ世界がどういうところなのか、純粋に知りたかった。

 知った上で有利を支えてやりたい…そう思ったのだ。

『私は…あいつが知らない事を多く知っている。だが、あいつが知っている事の多くを私は知らない…』

 

 その最たるものが、有利の持つ寛容性だった。

 

 組織のために、部族のために、国のために…どれ程ちっぽけな存在でも足蹴にすることなど許さないくせに、自分が犠牲にされそうになっても(勿論、冗談じゃないと反抗はするが)その事について後日、内省する者を敢えて鞭打とうとはしない。

 実際…有利の体内で創主を目覚めさせ、始末してしまおうなど…危険きわまりない、成功の保証など何もない賭だったというのに…彼は、眞王も大賢者も纏めて許してしまった。

 愛する国から引き離され、用済みとばかりに地球に強制送還された事も…全て許してしまった。

 …そういう子どもなのだ。

 

『ユーリは…国というものが時として、個人を踏みにじる性質を持つことを知っている』

 しかし、有利はその体制を決して許しはしない。

 どんなに時間が掛かっても、その仕組み自体を変えようとする。

 だが…その為に誰かを傷つけた者が後悔の沼に沈むとき…有利は、必ずその者に赦しを与えるのだった。

 それは、支配者と呼ばれる階層に座す者としては希有の性質なのだと、あの子どもは気付いているのだろうか?

 《悪を憎んで人を憎まず》…地球で何の気為しに見ていたテレビで、子ども番組に出てくる大仰な動きの男がそんな事を言っていた。馬鹿馬鹿しいと…昔のグウェンダルなら一笑に付しただろう。

 そんな話が通るのなら拘置所はいらない。何でもかんでも許しては、何度裏切られるか分かったものではない。一度罪を犯した者は、そういう性質を元々持っているのだから油断してはならないのだと…。

 

 だが…だとしたら、許されないのは自分自身だと…グウェンダルは思ったのだ。

 

 《眞魔国のため》…その命題の元にグウェンダルは判断し、行動し続けてきた。

 だが…眞魔国とは何だろう?

 国とは、誰のためにあるものなのだろう?

 そして、本当に国のためになることとは、一体どういうことを言うのだろうか?

『眞魔国の民として誇りを持て』

 訓示を垂れるとき、あのシュトッフェルは決まり文句のようにそう繰り返していた。

 だが…誇りとは、持とうとして持てるものだろうか?

 心の奥底から…誰に強制されたわけではなく、ふつふつと沸き上がってくるのが真に《国を愛する》という気持ちではないだろうか?

 体面だけを取り繕う者は、いつか気付く。自分の偽装の裏にある醜い現実というものに…。そして、愚かな者は必ずその偽装が《仕方のないものなのだ》、《この事によって多くの者が救われる》と言い訳をするのだ。

 母ツェツィーリエも、叔父シュトッフェルも、彼らなりに国を愛していたろうし、誇りもあったろう。だが…その誇りが国に…何より、民にもたらしたものは多くの不幸だった。

 

 戦争を呼び…。

 国土の荒廃を呼び…

 何より、差別を放置した。

 

 そんな彼らを蔑んでいた頃のグウェンダルは、気付かなかった…。

 有利が現れるまで…自分もまた、同じ罪を犯している事に…。

 

 グウェンダルは、かつての戦争の折に母の逃避と叔父の暴走を止める事が出来なかった。だが、その時には彼の発言権が著しく制限されていたのだと抗弁する事は出来るだろう。

 だが…その後の二十年に渡って、グウェンダルの権限は飛躍的に向上し、叔父の権勢は地に落ちていたのだ。その期間中…一体グウェンダルは何をしていたのか?

 

 仕事をしていた。

 誰よりも勤勉に、円滑に、業務をこなし…称賛を受けていた。

 当然だと思った。

 グウェンダルは誰よりも…彼の価値観の上では最上位の誠実さを見せて働いていたのだから。

 

 しかし…有利が眞魔国にやってきて外の世界との繋がりを見せたとき…グウェンダルは、自分がある領域において何一つ《働いて》いない事に気付いたのだった。

 彼の弟…コンラートは獅子奮迅の働きによって国の英雄と呼ばれる身になった。

 だが…グウェンダルは彼を含めた混血魔族の扱い自体を向上させる事に何一つ手を加える事はなかった。また、そもそも戦争の主因となった人間との確執についても、丹念に外国情勢を知るべく調査員は派遣したものの、その根本解決には何が必要かなどという発想は持たなかった。

 その必要があるという概念自体が、皆無だったのだ。

 グウェンダルの勤勉さ、誠意とは…全て、彼が従来持っていた既成概念の中におけるものだった。

 

『ユーリのやることは何もかも出鱈目に見えて、大きな指針が常にぶれることなく存在した』

 それは、実に単純にして明確な指針…《誰かを足蹴にすることなく、仲良く暮らす事》。

 その指針をやっと肯定的に見られるようになったのは、皮肉な事に…有利が地球に強制送還されてからだった。

 有利の残した課題は多く、仕事は山積していた。

 

 だが…楽しかった。

 

 粗いながらも有利の残した礎の上に人間との融和がもたれ、混血魔族の地位は明らかに向上した。古い世代には拘りを多く持つ魔族が多いので、そう一気に変わる事はないだろうが…有利が推奨した公的な学校制度によって若い世代の考えは生活に根ざした形で変わっていき、純血・混血・人間についての隔意自体が薄れ始めている。 

『ユーリ…これは、王としてのお前の功績なのだ』

 その事を、伝えてやりたい。

 何しろグウェンダルは不器用な男なので…その辺りをきちんと有利に伝えてやった事がないのだ。

 言いつけ通りできたときに褒めた事はある。可愛がった事もある。

 だが…王として、《我が頭上に在るのはお前だけなのだ》と…そう、伝えてやった事がない。

『あいつは…まだ、誤解しているような気がする』

 グウェンダルが可愛い物好きだという性質、そして、自分が眞魔国ではやたらと可愛い物扱いされているのだということから…有利はグウェンダルの自分に対する扱いが格段に優しくなったのを、そういう事情なのだと勘違いしている節がある。

 

  王としては認められていない…。

 

 眞魔国に帰ってきてからも、有利の言葉尻にはそういう意味合いが感じられた。

 グウェンダルはかつて、アニシナの薬で一時的に正直者になってしまった折に、正直な心情を吐露したことがあるが…その内容も不味かったように思う。

 《いつでも有利を抱きしめ、可愛がりたかったが、眞魔国のために心を鬼にしていた》…という流れは、なるほど有利に対して個人的愛情を注いでいることにはなるが、王として尊崇しているようにはとても聞こえない。 

 何しろ、考えを整理できないまま一番伝えたかった想いだけが溢れ出てしまったのだから仕方がないと言えば仕方ないのだが…。

 その後…有利がこの世界の連中に浚われるに際して、最悪な形でグウェンダルの回想を聞かれている。

 昔…有利を初めて眞魔国に迎えたときの印象は、今ではすっかり変わってしまっているというのに…。

『ユーリ…お前は眞魔国へと帰ってきてくれたとき、私を《一番の忠臣》と呼んでくれたな?ならば…私は、王としてお前を想っている事を、何としても伝えねばならない』

 早く有利に会いたい。そして…伝えたい…。

 要素を呼ぶ有利の声を聞きながら…ふと、グウェンダルは地上に降りるように銀に頼んだ。

「どうなさったんで?」

「うむ…試してみたい事があってな?」

 グウェンダルは大地に手をつくと、瞼を閉じて意識を集中させる。

 眞王に忠節を誓った眞魔国の要素ほどではないが…確実に、大地に眠る力がグウェンダルに呼応しているのを感じる。既に他者の支配を受けているようではあるが、その力は今のところ随分と混乱しており、グウェンダルの呼びかけにも囁くようにではあるが、答えを返してくれる。

 

『我らはねじ曲げられし者』

『長きに渡り、もとの姿を失いし者』

 

「うむ…やはりな。この世界の結界が緩んでいるのだ。先程まで静まりかえっていた土の要素の声が聞こえる…!」

 続けて呼びかければ、土の要素がおずおずと問いかけてくる。

 

『そは誰か?』

『我らを呼ぶは誰か?』

 

 苦痛に満ちた声は、救いを求めているようであった。よほど今の支配者に辟易していると見える。

「私はこの世界に浚われてきた少年を捜している。協力してくれれば、君達の願いも聞こう。どうだ?」

 

『我らの願いは一つ』

『あるべき姿に戻る事』

『叶えて貰えるか?』

 

「我が力の及ぶ限り」

 ひそひそと囁き交わす声は、暫くするとこっくりと頷くような印象を返してきた。

 

『信じよう』

『あなたの波動は心地よい』

『我と同調せよ』

『あなたの願う事を為そう』

 

「では…頼みがある……」

 グウェンダルは土の要素にあることを願い出…それは受け入れられたのであった。

 

*  *  *

 

『応えて…』

 有利に抱きしめられたトーリョが、ぴく…と肩を揺らした。体内を構成する組織群が…有利の呼びかけに応えだしたのだ。破壊された組織が加速的に修復をはかり、締め付けられて動きを拘束されていた心臓も拍動を再開する。

『お願い…締め付けたりしないで?』

 有利の囁きを受けた寄生生物もまた、可愛いおねだりに胸(?)をときめかせてしまう。

『そこにいても良いよ…でも、締め付けたりしないで?この人が死んじゃったら、お前だって困るだろ?』

 囁く意味が言葉として伝わるわけではないのだろうが…下等な寄生生物にとっても自分の生存に関わる耳寄り情報は首肯できるものであったらしい。迦陵頻伽からの指令が混乱している事も手伝って、すっかり有利に靡いてしまった。

『俺の言う事…聞いてくれる?』

 もしもこの寄生生物に言葉を交わす生理機能があれば、きっと《はぁ〜い》とよい子のお返事をしたに違いない。この時も、それに準ずる承伏の意志を有利に伝えてきた。

『ありがとうね…』

 嬉々として有利のお願いを聞き遂げた寄生生物は、仲間に対しても信号を発信し始めた。 そのせいだろうか、大地に叩きつけられていた鳶種の男も、ふらつきながらも起きあがり、駆け寄ってきた仲間の肩を借りて迦陵頻伽の放つ砲火やのたうつ触手から逃れた。

 迦陵頻伽はいまや眼球を潰された怒りで我を忘れており、嘴の中に火球を作り出すと、気配がする方目指して撃ち込んでいるのである。

 触手もまた目標物は定められないものの、こちらは下等ながら自律性を持っているのか、トーリョに断ち切られて多少怯えていた連中も、攻撃されないと見るやぬらりと鎌首を擡(もた)げ始めた。

 しかし結界を解かれた今、そんな触手の動きをおめおめと見逃す筈のない男がいた。

 ぬるぁ…っと一際高く伸び上がって獲物を狙った触手は数十本…

 …有利達を取り囲むようにそそり立ち、触手が狙いを定めたその時…疾風が一閃したかと思うと、有利を狙う全ての触手が身の丈の半ばほどで切断された。

 触手達は自分が斬られたという事も理解できぬほどの瞬速で断ち切られると、空中でなお淫らがましくうねりながら落下していった。

 そう…コンラートが、白狼族を駆って檻の頂点部分まで達していたのである。

「ユーリ!」

「コンラッド…っ!」

 触手を威嚇するように剣を振るい、コンラートの腕が力強く有利とトーリョの身体を抱え上げた。

 伝わる肌合いの感触が…押しつけた胸から伝わる香気が…互いが互いであることを知らせてくれて、喉奥からくぅ…と熱い感情が込み上げてくる。

「コンラッド…コンラッド……っ!」

 もうそれしか口に出来ない様子で、ぼろぼろと涙を零しながら有利がしがみついてきた。

 雛罌粟のように可憐なドレスは無惨に引きちぎられ、露わになった胸や、股の辺りで裂かれたスカートから覗く下肢の白さが…胸に痛いほどの憐憫を沸き上がらせる。

『こんな恰好をさせられて…辱められるなど…っ!』

 掻き抱くコンラートの腕には、無意識に力が籠もってしまう…。

 華奢な体格だからこそ、有利は人一倍男らしさに拘る。

 力強い腕、逞しい膂力…そんなものなくたって十分有利は男らしいとコンラートは思うのだが…やはりお年頃の少年としては、見てくれというものは気になる事だろう。

 それが…捕らわれた先で無理矢理女装をさせられた上に衣服を引き裂かれるなど、どれほど屈辱的なことだったろうか…っ!

『許さん…決して、決して……っ!』

 迦陵頻伽の火砲が掠めそうになるのを凍鬼で弾き返しながら、コンラートは憎悪に満ちた眼差しを送った。

 …が、

「コンラッド…」

 すりり…と一心にすり寄ってくる仕草の愛らしさに、思わず憎しみを忘れてしまいそうになる。

 恐るべし、渋谷有利…。凄まじい癒し効果である。

「ユーリ…可哀相に…怖かったでしょう?」

「へー…き……あんたが、絶対助けに来てくれるって…分かってたもん…っ!」

「ユーリ……」

 らぶらぶいちゃいちゃと愛の交歓をかわすカップルの下で、白狼族の鋼が苦鳴を上げた。

「ぐぇ…ちょ…3人は無理……どっかで降ろして……」

「何を言っている?」

 突然冷え切った声が響いたかと思うと、しゃりん…と凍鬼の刃が鋼の首筋に押し当てられる。

「タカヤナギ…俺はね、どうもこの気色悪い檻を見ていると何かを思い出すんだよ」

「………………気色悪い思い出は……記憶の彼方に消し去った方が幸福かと……」

 鋼の首筋の毛が恐怖に逆立ち、ふっさりとした尻尾が下に巻き込まれそうになってしまう…。それは何とかなけなしの自尊心をかき集めて堪えたものの、尻尾の先端は明らかにビクビクと震えていた。

「そうしたいのは山々なんだが…俺は生憎と物覚えが良い方でね…。特に、ユーリに関することでは忘れようと思っても忘れられないんだよ。なぁ…君、ユーリに対して昔…随分な事をしようとしたことがあるよな?」

「ハイ…」

 声に潜む明瞭な殺意は、鋼の心臓を寄生生物よりも強烈に締めあげようとしていた。

「コンラッド…鋼さん……」

 有利ははらはらと見守ってはいるが、止めてはくれない。その様子から見ると、有利にとっても鋼に襲われかけた記憶は辛いものであったに違いない。

  その事はある意味、コンラートの冷厳な物言いよりも堪えた。

 鋼にとっても、いまやこの渋谷有利はなにものにも代え難い価値を持つ少年なのだから…。

「…飛べるよな?」

「ハイ…死ぬ気で飛ばせて頂きます」

 鋼は泣きそうになりながら答えたが、同乗者の一人が離脱を申し入れた。

「俺…は、平気です……」

 口角から血を滴らせながらも、存外元気な様子でトーリョはぴょこんと起きあがると、羽ばたいて鋼の背から飛び退いた。

「助けるつもりが、助けられてしまいました」

「何言ってる。本当に…助かったよ」

 正直、半裸の有利に抱えられているトーリョを見たときには状況も忘れて嫉妬しかけてしまったコンラートだったが…大きななりのわりに若い柴犬のように純朴な目をしたこの青年は、なかなか憎めないものがある。今も申し訳なさそうにぽりぽりと頭を掻いているものだから、状況も忘れて吹き出しそうになった。

「一人で飛べるかい?」

「平気です。俺はもう…自由に飛ぶ事ができる」

 トーリョはそう言うと、力強く鳶色の翼をはためかせた。

 翼で掴む大気が堪らなく心地よいと言いたげに、目を細めてぐぅん…と背筋を伸ばせて見せた。

「この方が…そうしてくだすったんです」

 有利の呼びかける声が、トーリョにも聞こえた。

 彼は、誰が自分を自由の身にしてくれたか知っていた。

 ならば…やるべき事は決まっている。

「コンラッド様、ユーリ様、なんでもお申し付け下さい。このトーリョ、命を尽くしてお仕え申し上げますっ!!」

「ありがとう…」

 有利がはにかむように微笑みながら囁くと、純朴なたちのトーリョはそれだけで耳元まで真っ赤に染めていた。

「では、遠慮無く頼ませてもらおう。俺達と…そして、この檻に捕らわれた生贄を、あの化け物鳥の砲火から護ってくれ」

 コンラートが指示をだすと、トーリョは心得たとばかりに頷いて天を舞った。

「ユーリ、もう一度…呼びかけられますか?」

「うん…て、俺が呼びかけをしているの…分かったの?」

「分かりますよ…あなたの声なら。どんな声でも…」

「コンラッド…」

 コンラートには魔力がない。よって、有利の呼びかけに感応する器官というものは持ち合わせていない。だが…分かるのだ。彼が強く願い…呼ぶその声ならば。

 にこ…と微笑んで言い切るコンラートに有利の頬が染まり、鋼の歯茎が浮く。

 だが、鋼は黙して語ろうとはしなかった。

 今、彼の背中に乗っている男が有利以外の男に対して…少なくとも、自分に関する限り…遠慮容赦などという言葉を持ち合わせないことを知っているからだ。爽やかな顔をして、攻撃の手法は結構えげつないことを、この白狼族は身をもって知っている…。

「さあ…ユーリ……」

「うん……」

 

「やぁ…頑張ってるね、渋谷…」

 

 突然…空の一角が小石を投じられた水面の様に歪んだかと思うと…そこから年若い少年の声が響いた。

 年若い…とはいえ、その声に潜む威厳…風格…そして、腹蔵に多くのものを抱えていると思しき印象は、どこか奇妙なくらい明瞭に伝わってくる。

「村…田!?」

 そう…声の主であり、空の大きな範囲を占める映像として現出した人物は、にこやかな微笑みをたたえた大賢者…眞魔国が誇る、智慧(と、腹黒さ)の具現者村田健少年であった。


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