『お前はこの国の王なのだぞ!この程度のことを耐えられなくてどうする?』 イルカキーホルダーと共に眞魔国に来てから暫く…有利はかなりの期間、地球に帰ることが出来なかった。 矢継ぎ早に事件が起こっている間は良かったが、ぽこんと平和な生活が訪れたとき…有利はすっかり郷里恋しさで参ってしまい、政務にも常以上に身が入らなくなった。 その事で叱責された有利はしょぼんと肩を竦めて、虐められた小動物のように瞳を潤ませたが、グウェンダルの言葉も尤もだと思うのか…言い返すことはなかった。 ただ、寂しそうに窓の外を見つめ…夜空に広がる星々を眺めていた。 『星座…地球とは違うよね』 『当たり前だ』 言い捨てたのは、その日機嫌が悪かったからだった。 片頭痛が酷かったし、仕事は思ったように進まなかったし…見た目がやたらと可愛い王がしょんぼりしている様子に、必要以上に優しくしてしまいそうな自分がなんと言っても嫌だった。 だから、努めて素っ気ない態度を貫いた。 宵闇よりもなお深い漆黒の眼差しが…空漠とした寂寥感を湛えていることになど、構っていられなかったのだ。
第5話 王として
勢いで空間の裂け目に潜り込み、天羽國へと侵入したグウェンダルは… …迷子になっていた。 右を見ても左を向いても花ハナ華…そして、花畑との境界線が球状に曲がって見えるほどの広大な空…。 がらんどうの空間が広がっているのに…何故か息苦しさを感じて、グウェンダルはシャツの第一ボタンを外した。 きっちりとした着こなしを旨とする彼としては珍しいことだった。 「それにしても…果てしなく続いているような花畑だな…」 眼下に広がる白を基調とした花畑から時折風に煽られた香気が漂ってくるが、強すぎるその香りはグウェンダルの好みに合わない。更に、鼻の利く白狼族にとっては鋭痛として捉えられるらしく、しきりと鼻ずらを顰めていた。 「なんと酷い匂いだ…自然の匂いとは思えない!まるで娼婦の白粉のようなしつこさだなぁ…。全く鼻が利きません」 「そうだな…」 「旦那…それで、どっちに行けばいいか分かりますか?」 「…分からん。すまないが…暫く飛んでくれ」 突入しさえすれば敵が攻めてくるだろうから、それを捕らえて道案内…などと、彼らしくもなく計画性のない行動に出てしまったグウェンダルは、心底途方に暮れてしまった。 グウェンダルを快く騎乗させてくれた白狼族の銀に対して丁寧に詫びを入れながら、とにもかくにも手がかりはないかと空を飛び続ける。 晴れ渡った夜空にはどこか人工物を思わせる空々しさで星々が広がっているが、 そのどれにも当然のごとく見覚えはない。 空を見上げるうち…グウェンダルの脳裏には、記憶の底にあった苦い記憶が蘇ってきた。 『星座…地球とは違うよね』 あのとき…有利はどんな思いで呟いたのだろうか? 自ら《魔王になる》と宣言したとはいえ、そうせざるを得ない状況に追い込んだのはグウェンダル達、眞魔国の要人であった。 そもそも、彼があの若さで…何の下準備も予備知識もなしに眞魔国にこざるを得なかったのは、一体誰のせいなのか? 『もう、疲れちゃったわぁ〜…』 母が美しく彩られたマニキュアに、甘い吐息を吹きかけながら魔王業を放棄したとき…グウェンダルは止めなかった。 この母が…愛すべき女としての器量は人一倍持ちながらも、哀しいほど王質を欠くことを熟知していただけに、誰が来ても今以上に悪いということはあるまいと踏んでいたのだ。 それに…今ならば、自分には力がある。 どんな王が来ようと、支えきれる。 王よりも王らしく、この国を治めてみせるという自負があった。 だから、有利がやってきたときには…唯もうひたすら腹が立った。 眞王陛下は一体玉座をなんだと思っているのか? ここは美人コンテストの優勝者を頂くための座ではない。 一国の運命を導くために重責を担う場なのだぞ? 誰が来ようと支えてみせるとは言ったが、物事には限度というものがある! 腹が立って腹が立って…。意識して厳しく有利に当たった。 『グウェンは怒ってばっかりだ!』 ぷくぅっと頬を膨らませて子どものように怒っていた有利が、そんな態度を示さなくなったのはいつ頃からだったろうか? おそらく…魔笛事件の後あたりからではないだろうか? 彼なりに思うところがあったのだろう、少しずつではあるが眞魔国語の読み書きも覚え、仕事内容も理解するようになった。 そして…今まではコンラートにしか語らなかったろう、個人的な寂しさ、辛さを初めてグウェンダルに対して口にしたのが…あの星降る夜だった。 『星座…地球とは違うよね』 今になって…あの言葉がどれほど重い意味を持っていたのか実感できる。 あって当たり前の存在…あることが当然と思っていた世界から切り離される痛みは、どれほど大きなものなのか。 『ここは…故郷ではないのだ』 グウェンダルとて軍人であるからには、戦地に立った事もある。だが、仰ぐ夜空が違ったことまではないし…帰り道とて当然知っていた。 自力では帰る術がない。 この…百数十年の時を生きた自分ですら不安に駆られる状況の中、王たる重責を担わされた弱冠16歳の少年が、どれほど心細い思いをしたのだろうか? しかも…彼は一度、コンラートを失った。 失っただけでなく、敵として相まみえたのだ。 絶対的な守護者としてウェラー卿コンラートが傍にあったからこそ、愚痴もこぼし、励ましも受けられたろう有利が…《敵》として、再会させられたのだ。 その場にグウェンダルは居なかった。 だが、カロリアの地で弟の不始末を詫びるため膝をついたグウェンダルは…叱責よりも辛い処遇を受けることとなった。 『グウェンのせいじゃないよ』 有利は微笑んでそう言ったのだ。 『そんな顔をして…微笑むな…っ!』 叫びたかった。 そして、抱きしめてやりたかった。 《どうして?》《何故?》…問いかけたい思いを体腔中に溢れさせながら、外に向かって駄々っ子のように吐き出すことなく、有利はグウェンダルに微笑みかけたのだ。 心を無惨に引き裂かれながら…噴き上げる血にまみれながら、《苦しい》とは言わない。 かつて、グウェンダル自身がそうしろと言ったとおりに。 『お前はこの国の王なのだぞ!この程度のことを耐えられなくてどうする?』 かつて自分が投げかけた言葉が、氷水のように背を打った。 唯の子どもではなく、彼は王として振る舞わねばならない。 間違ってない。 間違っていないのに…。 グウェンダルは、己の不甲斐なさと世の中の全てに対して苦鳴の咆吼をあげたくなった。 『ユーリ…無事でいるのか?どうしているのだ…?』 会って、何と言ってやればいいのかは分からない。 今更あの頃のことを言ったところで、それこそ彼は笑うだけだろう。 だが…言ってやることが、出来なくなったら? どくん…っと、胸の中で心臓が抉られたような感触があった。 冷たい汗が背筋を伝い、指先が強張るのが分かる。 『コンラートのことといい…ユーリのことといい…私は、後悔ばかりしているな』 自嘲に唇を歪ませながら、グウェンダルは見知らぬ空を眺めた。 * * * 有利が篭によって運び込まれたのは、ひときわ大きな蓮華の花弁の上に建つ館であった。 広い着地点に降り立つと、篭を運んできた鳶色の有翼人達はニーに采配されてまた別の場所に向かって飛び立ち、館の中から出てきた白い有翼人に導かれることとなった。 壁がほとんど無い不思議な造りの館は、彫刻に植物の蔓が絡まる柱だけは無数にあり、細かな細工の衝立も随所に置かれているため、壁がない割に意外と見晴らしは悪い。 ちょこまかと曲がりくねりながら道案内をされると、迷路のように入り組んだその道は非常に覚え難かった 一人で振り出しに戻れと言われても無理だろう。 「こちらが王の間になります」 「ん…」 軽く息が上がり始めた頃にたどり着いたのは、幾重にも折り重なった綾織りの御簾の前だった。 厳かに上がっていくその御簾の向こうに、並み居る臣下を従えた、堂々たる偉丈夫が立っていた。 身の丈はグウェンダルと同じくらいだろうか。 年の頃は人間で言うと50代半ほどかと思われる。 筋骨逞しい肢体には威厳と穏やかさとを兼ね備え、金襴とした衣装も燻したような風合いを持たせているせいもあって、華美になりすぎない。 眩しいほどの純白の翼を背に負い、凛然と佇む風情はまさに王者… 彫りの深い面差しの中で英知を湛えた双弁が輝き、秀でた額から隆とした鼻筋、引き締まった厚めの唇に至るラインは、その横顔を《民を導く王》という名のレリーフにでも刻みたいような鮮やかさだ。 銀の混じる黒髪を艶やかに梳(くしけず)り、琉球風に頭頂部で纏めた髪には、美しい金細工の王冠が頂かれる。 およそ王位に就く者として必要とされる、美的要素の全てを兼ね備えた男性であった。 『ちぇ…こちとら、それでなくても王様稼業に相応しくない容貌だっつーのに、衣装でまで差をつけるなよな…』 有利はそっと心の中で嘆息した。 有利が身に纏っているのは青い雛芥子のようなドレス。ふわふわと幾重にも重ねられた薄い生地は少しずつ色味が違っており、膝下あたりからはある程度透けて見えるので、ほっそりとした脚の曲線を見て取ることが出来る。 広い襟ぐりは華と蝶をあしらったフリル飾りで縁取られて胸元をふっくらとして見せ、きゅっとくびれた細腰を際だたせる。また、ウエストには複雑な紋様の縫い込まれたサッシュが巻かれ、腰で華結いされた様子が愛らしい。 さらりとした黒髪にも同様の飾りが添えられ、更に銀糸を絡めた綾紐が二重にかけられている。 こちらは堂々たる…美少女ぶりであった。 有利本人にとっては不本意なこと甚だしかったが…。 『せめて…俯いたりはせず、堂々と…』 意識して背を伸ばし、凛としてまっすぐに王を見つめ返せば…王の瞳は柔らかく微笑み…居並ぶ侍従や臣下達からは《ほぅ》…と感嘆めいた吐息が漏れる。 「このように美しい華を、我が天羽國にお呼びできたことを、迦陵頻伽様のお告げに感謝せねばなるまい。姫…どうぞこちらへ」 長衣を纏う長い腕が優雅に翳され、有利を招く。 だが、有利は静かに拒否を示した。 「申し訳ないけど、あなたの元には行けません。俺はこの国に望んで招かれたわけじゃありませんから。どうか、俺をもと居た場所に戻して下さい」 「それは叶わぬのだ…すまない、姫」 王の目元が切なげに歪む。 「俺は、男です。姫って呼ばれる筋合いはない。それに、俺はここに無理矢理連れてこられる時に、大切な人を傷つけられました。まずはその事について謝って貰いたい…っ!」 有利を護るために闘い…傷つき、落下していったコンラート。 その姿を思い浮かべるだけで、有利の体腔内には烈火のごとき怒りが沸き上がるのだった。 「申し訳ない…あの者達は荒っぽい行いが目に余ることも多々あるのだ…私から、十分に叱責を加えておきましょう。だが、私はこの国の王として、賓客としてあなたをお招きしたのだ。決して粗雑な扱いなどいたしませぬ。どうぞ、こちらへいらして下さい…」 ざわざわと臣下達が囁く。 「そうとも、あの下賤の者達…あの連中の所行のおかげで王が頭を下げねばならぬとは…っ!」 「何でも、一人はおめおめと捕まったというではないか…っ!」 王と臣下の物言いに、有利は大きな矛盾を感じた。 「扱いの問題じゃないんだよ、王様。それに…あんたの言い方、ちょっとおかしいよ?」 「おかしいと…申されるか?」 途端に、臣下達の怒りの矛先が有利へと変化する。 「なんと…王に対してあのような…」 「これまで、このような態度をとる姫などおりませんでしたぞ?」 臣下達が囁き交わす様子からして、これまで捕らえられてきた《姫》達は随分と従順であったらしい。如何にもご立派な王様に、敬意を示す者ばかりだったのだろうか? そして…先ほどからの臣下達の口ぶりを総合していくうち、有利の脳内である事柄が整理されていった。 ニーに対して漠然と抱いていた不信感の理由が分かったような気がしたのだ。 この連中は有利をこの国に浚っておきながら、その事については全く恥じていないくせに、実行犯である連中だけを蔑み…そして、被害者たる有利にその感情を共有せよと言っているのだ。 『あの連中は嫌な奴らですよ、でも、私たちはとても品が良くて綺麗で、あなたに優しい者なのですよ』 …なんてタチが悪い! そんなやり口に騙されて従順な態度を示してきたいままでの《姫》とやらは、余程のうっかり者揃いであったに違いない。 または、《浚われてきた》という恐怖を緩和するために、《自分はここで大切にされるはずだ》という願望に縋ったのかも知れないが…。どちらにしても、建設的な思考とはほど遠い。 「だって、俺を浚って来いと命じたのはあんただろう?違うのか?」 「如何にも…」 「《私から、十分に叱責を加えておきましょう》なんて、随分な言い方だぜ。無理矢理浚ってこようとすれば、そいつの仲間は誰だって引き留める。それこそ…身体張ってね。そうなりゃ、浚おうとする方だって命がけになるに決まってる。それを…さもあの連中だけが悪くて自分は関知してないみたいに言うのって、おかしいよ?…なんか、すげぇ…詐欺っぽい」 言いつつ、有利はほとほと自分の語彙力のなさに呆れてしまった。 これがグウェンダルやギュンターなら、さぞかし法制用語や丁寧な宮廷言葉を駆使して相手の無法を追求するだろうに、有利が口にすると、まるで学級会並になってしまう。 だが、その事を恥じて口を閉ざすわけにはいかなかった。 『俺は結局コーコーセーなわけだから…変にムツカシイ言葉を使って、自分で何言ってるのか分かんなくなっちゃしょうがないもんなっ!』 幾ら相手が威厳矍鑠とした王様であっても、やっていることの可笑しさは唯の高校生にだって分かる。 荒っぽい連中に浚わせておいて、一転して貴賓として扱い実行犯の非道を詫びる…。 なんて浅ましい目眩ましだろう。 「あんたは王様だ。命令を下す人だ。そして、命令を下した以上、その責任を持たなくちゃなんないのは実行した連中じゃない…あんた自身だろう!?」 有利は、王として一つだけ…これだけは絶対に守ろうと決めていることがある。 最高責任者としての、《責任》を担うこと。 有利自身は統治能力も軍政能力も何もない、ただ大雑把な夢だけを持つ《子ども王》だ。 だが、それでも… 《王》は《王》なのだ。 その身にかかる《責任》だけは、誰にも委ねるべきではない。 グウェンダルやギュンターやコンラート…その他多くの人々に、有利は支えられており、眞魔国の繁栄を分かち合っている。 だからこそ、彼らが有利の命令に基づいて行った事柄によって不可避の事故が起きたときに、責任をとるのは自分なのだ。 『俺がやった訳じゃない』 その言葉だけは、決して口にしない… そう決めているのだ。 そして今…数少ない有利の、《王として為すべき行為》のうち、最も重要な要素を汚したのが目の前にいるチャスカ陛下だ。どれほどこの人物が《王様然》といた風貌をしていても、彼に対する敬意は風の前の塵の如く消え失せてしまった。 トカゲの尻尾切りが国家戦術としての常套手段なのだとしても、それは有利にとっては許し難い行為なのだ。 「実行犯の遣り口云々じゃない…俺は、とにかくここに連れてこられたこと自体が不本意で、許せない」 「許せない…か、それでは私が姫を浚うように命じたことは認めましょう。ですが…あなたがどう思おうと、あなたの身は我らにとって大切な宝なのだ。帰せと言われても、帰すことなど出来ない。姫…あなたは、我らの儀式にその身を捧げていただく。我らと…我らの国のために」 「ぶっちゃけ出したな王様…結局、スムーズにいこうが行くまいが、俺は生け贄か何かに使われるって訳だ」 「生け贄などではありませんよ。あなたは迦陵頻伽様の籠に入り、そこで永遠の生命を授かるのです」 「かりょうびんが?…って、ナニ?」 「迦陵頻伽様は神に等しい存在なのです。一年に一度、儀式を通して我らの前に姿を現され、天災や反乱といった、国の行く末に繋がる事柄を王族に伝えて下さる。そしてこの時、傍仕えの聖なる姫君として、あなたのような美しい少年少女を指名されるのです。あなたはあの鏡に映ることで、神聖なる乙女の資格を与えられたのですよ」 鏡と言われて、有利はきょとんとする。 チャスカ王の示した先には大きな壁付けの鏡が置かれていたが…銅鏡のようなそこは磨き抜かれている風なのに、何も映っていないのだ。神託がある時だけ、受信するように映し出されるのかも知れない。 銀細工と瑪瑙、紅玉などをあしらった鏡は古めかしく…そして、えらく巨大だ。高さは3メートル程度、幅も1,5メートルはゆうにあるだろうか? 『こんなに大きいのに、普段は何も映んないなんて使い勝手が悪いよなぁ…』 思わず庶民的な発想をしてしまうが、問題はそこではないことを思い出す。 「……で、その傍仕えの期間ていつまでなの?」 「永遠です」 「今まで傍仕えにされた人たちはどうしてんの?」 「分かりません。籠から出てきた者はおりませんから、よほど居心地がよいのでしょう」 「この儀式って、いつからやってんの?」 「およそ300年ほどかと」 「……1年に1回の儀式で300年以上もやってて、帰ってきた人がいないなんてさ、どう考えたってそりゃ生け贄以外の何者でもないだろう?」 はぁ…っと有利が嘆息すると、堪え切れないといった風情で叫んだ者が居た。 「馬鹿なことを仰るものではありませんっ!ならば、ミェレル様は生け贄にされたとでもおっしゃるのですか!?チャスカ王が…我らの王がそのような無体をするとでも!?幾ら聖なる乙女とはいえ、これ以上の暴言は許しませんよ!!」 それは、ニーの叫びだった。
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