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昼ご飯なのか夜ご飯なのか…夜空しか臨むことの出来ない不思議な蓮華の上で囚われの身になっている有利は、こちらの世界で目覚めてから二度目に用意された食事を断ると、世話係であるニーにそう求めた。 こちらの世界で、不用意に飲食物を口にすることは出来ない。 その大前提が覆されない以上、持久戦になれば時が経てば経つだけ不利になっていくのは明白だ。それなら、動きがとれる内に少しでも情報が欲しい。 『コンラッドは…絶対に助けに来てくれる』 何しろ向こうには悪魔の知恵袋…大賢者村田健も健在だ。何かしら方法を考えてくれるに違いない。 コンラートが助けに来てくれた時、決して足手まといに何かなりたくない。 その為には、今の有利が出来ることを精一杯やっておきたいのだ。 「お言葉、確かに承りましたわ」 ニーは端麗な面差しで微笑むと、暫くの後に数人の男達を連れてきた。彼らは有利を浚った浅黒い肌の男達によく似ているが羽根の色は薄墨色で、筋肉質な身体に刻まれた複雑な紋様の入れ墨の紋様も少し違っているようだ(もしかしたら、役割事に種別が違うのかもしれない)。 「何をしておる!姫をお待たせするでない!」 居丈高なニーの言葉に、男達は感情のこもらぬ瞳で黙々と従う。 『身分とかが違うのかな?』 何物も見逃さぬように…聞き漏らさぬように…。有利は細心の注意を払って、そうとは知られぬように状況を観察していく。 見ていると、やはり男達がニーの言葉に従うのは敬意や親しみから等ではなく、嫌悪しつつも逆らうことの許されない立場上のものであるらしい。同様に、ニーもまた男達を蔑んでいる様子がありありと伝わる。 『随分と世知辛い関係だよな…』 この国の住民全てがこうなのだとしたら、えらく殺伐とした国である。 「さ…姫、こちらへどうぞ」 彼らは大きな花籠のようなものを綱で吊ったものを抱えており、有利にそこへ乗るよう促してきた。 籠に乗せられると男達が一斉に羽ばたき、綱で繋がれた籠はふわりと空中に浮かんだ。『うわ…』 蓮華の上空5メートルほどの高さを飛ぶ籠から下を覗き込めば、くらりと目舞う程の深淵が広がっていた。蓮華と蓮華の谷間は何処まで続いているのか分からないほどの闇に包まれ、落下しようものなら何処まで落ちていくか知れたものではない。 だが…小さくない量の誘惑も感じる。 『ここから落ちたら…逃げられるんじゃないのか?』 有利は追いつめられた時に身体の奥底から秘められた力が放出されるという、漫画のような体験を何度も繰り返している。 もしかして、今度も上手くいくのではないか…。 どくん…どくん…… 鼓動の音が胸腔内で激しく打ち鳴らされるに従い、籠の縁を掴む手に力が籠もり…掌にじわりと汗が浮いてくる。 『落ちて…みるか?』 それは、勝算のある賭なのだろうか? 何の情報も手に入れていないこの状況で、試して良いものなのだろうか? 迷いと衝動が突き上げる中、思いも寄らぬ事態が起こった。 籠を繋ぐ綱の一つが、切れたのだ。 丁度有利が身を寄せていた側の綱がブツリと切れたことで、有利の身体は一瞬にして籠から転げ落ちると凄まじい速度で落下していった。 『風よ…っ!』 噴き上がる汗が冷める間もあればこそ、有利の懸命の呼びかけに対して風はそよとも動かない。ただ、囂々(ごうごう)と音をあげて有利の身体を深い闇の中へと引き込もうとしている。 やはりこの世界で要素を従わせることは出来ないのだ。 『コンラッド…っ!!』 悲鳴を上げることも出来ずに喉を逸らし…真珠色のドレスを閃かせながら落下していく有利。彼が気を失いかけたその時…水面に向かって突き込む様な速度で空中を斜走してきた者があった。 滑空する流線型の物体は、鳶色で構成されていた。 蓮華の茎の途中…薄闇の間に太い茎が林立する奇妙な空間で受け止められた有利は、最初、自分を助けてくれたのが籠を支えていた有翼人達の一人なのだと思っていた。 だが…震える有利を抱き留め、強張った背を撫でつける腕の優しさに見上げると、そこにあったのは見覚えのある顔貌であった。 「あ…あんた……」 切ないような眼差しで有利を見つめていたのは、誰在ろう…有利を浚った張本人ではないか。 礼を言うべきなのかどうなのか流石の有利も一瞬迷ったものの…やはり、一つの事象に対して義を尽くすべきとの思念が高まり、ぺこ…と会釈すると礼の言葉を口にした。 「あんがと…危うくぺしゃんこになるトコだった…のかな?」 この深淵に底が在れば…の話だが。 「……いや」 礼を言われるとは思っていなかったのだろう。 男は困惑したように眉根を寄せていたが、褐色の肌を赤黒く上気させ…慌てたように顔を背けると、上空に向かって飛び始めた。 見上げた先には血相を変えて急降下してくる有翼人達の姿がある。どうやら、彼らには林立する茎の間を高速降下するという芸当は出来ないようだ。 「やっぱ…逆戻りするだけだよなぁ…」 はぁ…と嘆息するが、暴れたりはしない。この場で暴れてまた落ちてみたところで、風の要素が答えてくれないのではまた振り出しに戻るか、最悪本気でぺちゃんこになるかだ。 「…王の間で、……を、見るな」 「ん?何か言った?」 男が何か小さく呟いたような気がして顔を覗き込むと、また男は頬を赤らめ…怒ったような顔で有利を睨み付けると、鋭い声で一言呟いた。 「迦陵頻伽様の目を、見るな」 「へ?」 ぽかんとして再び聞き返すが、今度は答えて貰う間はなかった。 ばさばさと羽音を立てて降下してきたニー達に囲まれたからだ。 ニーは有利が無事な様子に安堵した様子だったが、一方で鋭すぎる眼差しを男に送っている。大切(…なんだろう、多分)な虜の救い手に対して向けるには、その視線は穏当なものではなかった。 案の定、蓮華の一つに有利の身が下ろされるなり、ニーの鋭い平手が男を襲った。 「誰が蓮華郷に入ることを許可したかっ!貴様の役割を忘れたかっ!!」 「申し訳…ございません」 男は深々と腰を落とし土下座せんばかりの姿勢でニーに謝意を示すが、彼女の怒りはおさませなかった。 「おおかた盗人仕事を生業とする鳶種の分際で、美しい姫に焦がれて様子を伺っておったのだろう…この、恥れ者がっ!!」 ニーの足が容赦なく男の顎を蹴り上げ、倒れた男の顔面に更なる蹴りを加える。 「止めろよっ!そいつ、俺のこと助けてくれたんだぜっ!?」 「まぁ…お優しいこと」 息を弾ませて笑うニーの眼差しには、ぞっとするような嫌悪の念が込められていた。 鳶色の翼を持つ男の肩を持つことが、余程気にくわなかったらしい。 『何なんだよ…この国は……』 不安と疑問とを抱えながらも、有利はニーに促されるまま再び籠の住人となった。 * * * 宵闇の空を渡る銀狼の群れが、風を切って飛んでいく。 眼下に見下ろす土地は奇妙なほど広大な花畑で、強い香りが中空を飛行していくコンラート達の鼻腔にまで届いてくる。 白を基調とした花弁の集合体は風を受けて一斉に揺れるのだが、その様は美しいと言うよりも何処か禍々しさを感じさせるものであった。 「さーて…入ってはみたものの…あてはあんのかい?隊長」 「さてね。不本意ではあるが、ここはタカヤナギ達の鼻を信じるほか無いだろう」 天羽國に侵入したコンラートとヨザックは銀色に輝く白狼族の背に身を預け、彼らの進に任せて飛ぶほか無かった。 天羽國の国土に関する知識など当然皆無であるし、魔力を持たない彼らには有利の存在を辿る術を持たない。 突入に際して何らかの反撃を想定していた彼らは臨戦態勢で乗り込んでいったのだが、どうやら的の糸口が掴めぬ現状下では体力の温存に努めるほかないようで、少しでも体力の低下を防ぐために狼たちの背に腰を下ろしていた。 実際問題、暇である。 暇だとついつい無駄口の一つも叩きたくなるのが人情というものだろうか。 「なぁ…隊長、こーして少ない頭数で敵陣に斬り込んでるとさ…思いださねぇか?」 「アルノルド…か?」 「へへ…あん時は今の状況に比べれば情報だけはたんまりあったがね、その分勝ち目の薄い戦いだって事だけは分かりすぎるほど分かってたよな」 「その割には嬉々としてついてきたじゃないか」 当時、既に《お庭番》的な業務で定評のあったヨザックは純血魔族のお歴々の弱みなども幾つか握っており、本人が希望しさえすればアルノルド行きを拒否することも可能であったはずだった。なにも、あの戦いに全ての混血魔族が動員される義務があったわけではない。 だのに、ヨザックはわざわざ自ら希望してコンラートの部隊に移転希望を出したのだ。 「そりゃあ、あんたの下にいた方が色々と楽しいと思ったからさ。まあ…戦後暫くはそいつも若さ故の幻想だったんじゃないかと疑ったこともあったがね?」 戦後暫く陥っていた厭世状態のことを指していると察して、コンラートは口端に微苦笑を浮かべた。 「あの頃はまぁ…色々とあったからな」 「なー…隊長?これだけの年月が経ってても、あんたはまだあの辺の事情を俺には話してくれないのか?」 冗談めかせた口調ながら…ヨザックの蒼瞳にはそれだけではない真剣味が含まれている。 そう…彼は真剣だった。この上なく。 何故なら、情報のない敵陣に斬り込んで行く前に、この愛すべき元上司に聞いておきたいことがあったからだ。 「あの戦の後腑抜けになっちまったあんたに、誰もがスザナ・ジュリアとの仲を疑ったもんだった…。彼女の死がそこまであんたに打撃を与えるって事は、さぞかし深い仲だったんだろう…てね?」 「お前はどう思ったんだ?」 《別意見があったのではないか》と暗に問われ、ヨザックはシニカルな笑みを浮かべた。 「俺は周りほど、あんたが純粋無垢な奴だとは思ってなかったからね。女一人喪っただけで腑抜けになられたんじゃあ、命がけで救った意味が無いじゃないかと腹立たしく思ったのは確かだ。あんたがああまでイカレちまった訳は他にあるんだと思ったよ。もしかしたら、そう思いたいばかりに理屈をそこに持って行ったのかも知れないがね」 「ふふ…」 コンラートは曖昧な笑みを浮かべて友人を見やった。 《また誤魔化されるのか?》とヨザックが疑ったのも束の間…コンラートは予想外の率直さで事の次第を語り始めた。 「戦役が終わり…俺の傷もそれなりに癒えた頃、俺が眞王廟に呼ばれたのは知っているな?」 ヨザックがその辺りを嗅いで廻っていたことはすっかり知られているのだろう。何となく意地悪な言い回しであった。 ふん…と鼻を鳴らしながら頷くと、コンラートは何とも言えない笑みを浮かべて語った。 「そこで、眞王陛下の御意志を賜ったのさ。スザナ・ジュリアの魂を地球に運び、そこで次代の魔王陛下に…人間と魔族の混血である胎児に魂を与えよと…それは、スザナ・ジュリアも受諾していたことなのだと…」 「…な……っ!」 「俺は眞王陛下を尊崇していたが…だが、あの方のやり口を愛することは出来ないと悟ったよ。俺はあの時思った。この度の戦にしても、スザナ・ジュリアの死にしても…俺が、混血魔族として生を受け…血で血を贖うような戦いに己と仲間とを捧げたのは、全て眞王陛下の御意志であったのか…とね」 「………っ!」 「俺は疑った…眞王陛下は何故特例的に魔王である母に俺の父…人間との結婚を許したのかと。そして…一つの結論に達した。眞王陛下は、現体制の行き詰まりを打開するために混血である俺に、《英雄》として何人も非難できないような肩書きを与え、新たな魔王…混血の王に仕えさせるために俺のこれまでの生涯を誘導していたのではないかと」 「そいつは…」 それは、コンラート・ウェラーのような男をして絶望させるに十分な理由ではないか。 二十年の時を越え…グリエ・ヨザックは漸く得心行く想いであった。 『そりゃあ…キツいわ……』 混血魔族はコンラートという光輝煌めく旗印に導かれて我が身を戦闘に捧げた。 だが、それは《そうなるように定められていたから》ではない。 コンラート・ウェラーが限界もあれば迷いもある、ただの男であると知っていて…そんな彼を支えたいと願って…彼に眞魔国の未来を託すべく、おのおのがただ一つしかない魂を賭して闘ったのだ。 それを知る彼だから…スザナ・ジュリアを含む同胞の死が、そもそも眞王の《計算》の内に入っていたのかという疑いは、己のアイデンティティーに関わる問題だったのだろう。 幾ら絶対的な存在とはいえ、それはあまりにも魂というものを馬鹿にした行為では無かろうか? 《計算》された結果《算出》された航路を進んでいると自覚させられれば…誰もが、他人が操作する盤上の駒にでも成り下がったような屈辱感を覚えるはずだ。 実際、今初めて真実を知ったヨザックの口内には苦い物が込み上げてくる。 しかし…そうなると、今度はもう一つ疑問に思うことが出てくるのだった。 「そこまで絶望してたあんたが、春になって重い外套を脱ぎ捨てた子どもみたいに、ころりと変わって飄々とした生き方をするようになったのは一体どうしてだい?」 「ユーリに会ったからだ」 即答だった。 その瞬間、コンラートの面差しにはヨザックが評したのと同様の…重い外套を脱ぎ捨て、春野の原に飛び出していく子どものような朗らかさがあった。 「はぁ?でも…」 先程の話で言えば、コンラートは確かにユーリが15歳になる前…その誕生の際に地球に渡っていたことになる。だが、そんな生まれるか生まれないかの境に居合わせたところで、それほど人生観が変わるものだろうか? 「正確には、ユーリの父君に会った事がきっかけかな?彼は、魂を運んできた俺のあまりのやる気の無さに本気で腹を立ててこう言ったんだ。《そんな奴に俺の子は渡せない》ってね」 「ああ…ショーマか…」 如何にも勤め人風の容貌にもかかわらず、彼の骨子に一本強い軸心が通っていることはヨザックも知っている。 「話してみると、彼は地球の魔王の依頼を受けはしたが、そのやりようが彼の許容範囲を超えていればどんな手を使ってでもユーリを護るつもりでいたようだった。それに、何と言っても地球の魔族というのは魔王を絶対的な存在とは認めていない。それは大きな違いだ」 「そんなに違うかねぇ?」 「大違いさ。少なくとも俺は、あれほどの嫌悪感と無力感に襲われながらもジュリアの魂を昇華させることもなく、言われるままに地球に運んでしまったんだ。理屈ではなく、それこそ魂に刻まれているんだろうな…眞王への絶対的服従というものが」 「……まぁ、な」 ヨザックは不快げに眉を寄せた。 自由奔放に生きているような彼であっても、何かと身分を越えた発言を王族に対しても平気で行うような男であっても…確かに眞王に逆らうことには強い精神力を要することだろう。 「だが、彼は違う。魔王や眞王に敬意は払いつつも、いざとなれば拒否し、離反することも可能な存在だと見なしていたんだ。その上、ミコさんは人間だ。元から眞王だの魔王だのに払うべき敬意自体を持っていない。誰よりも何よりも家族を大切に思う…そんな気持ちの方が強い女性だと知った。そこに…俺は希望を覚えた」 「眞王の思い通りに動かないような新魔王の誕生を信じて…か?」 「そうだ。あの日…ユーリが生まれた日に、俺は確信したんだ。地球でショーマとミコさんに育てられた子なら、唯々諾々と思うままに操られたりはしないのではないかと。そして…願いは叶えられた」 コンラートの瞳には煌めくような銀が踊り、迸るような歓喜が浮かび上がる。 「眞王陛下がユーリに期待していたのは純血・混血を問わず、有能な者が登用されて眞魔国が活性化されることと、緩まってきた箱の封印問題を解消する事の二点だったはずだ。しかし…ユーリはその二点だけでなく…眞魔国だけの問題でなく…人間世界との融和を目指すようになった」 「まぁねぇ…あんだけ甘っちょろい発想の大風呂敷な子どもに育つなんて、流石の眞王陛下でも思いつかなかったろうな…」 気が小さくて泣き虫で…それでも前に向かって進んでいく有利に、彼を蔑んでいた者も敵対した者も、いつか頭を垂れて友和を結んでいた。 こんな魔王を、誰が想像したろうか? 「実際、眞王陛下自身にも直接伺ったことがあるんだよ。創主を打ち倒し、ユーリが地球に強制送還された後、《あのような魔王の登場を予測していましたか》とね」 「眞王陛下は何と?」 「やはり、そこまで予測することは出来なかったと。だが、《だからこそ俺は地球の魔族に託したのだ》とも言っておられたな」 「…するってーと、眞王陛下にとっても賭だったわけかい?」 「そうなんだろうな。俺がアルノルドの直後に感じていた事柄についても話してみたが、えらく憮然として言っておられたよ。《お前、舞台を作ったからと言って、俺が何でもかんでも思うように出来ていると本気で信じているのか?そうであれば苦労などしない。誰も彼もが俺の期待通りに動いてくれていたら、俺は四千年の昔に冥府に旅立っていたさ。期待して裏切られて…今漸く俺は、俺として存在出来るようになったのだ》…と、随分人間くさい口調で語っておられた。俺は…あの会話で随分と気が楽になったな」 眞王もまた完璧な存在などではないと知ったとき、コンラートは己の生涯が操られたものではなく、自分自身の選択と責任によって構築されたものなのだと再確認するに至ったのである。 それは、再び生を受けるのと同じくらい新鮮な気持ちであった。 「俺は今…自分自身の意志で生きている。再びそう信じることを可能にしてくれたのは…ユーリの存在だ」 有利がいなければ…眞魔国は、世界はその存在を喪っていただろう。 そして何よりも…コンラート・ウェラーという個人はとうの昔にその精神を灰燼に埋めていただろう。 何よりも大切な…崇高な存在。 愛おしい存在。 今、彼らが救おうとしているのはそういう子どもなのだ。 「行こう…ユーリの元へ…っ!」 こんな状況下で為されるとは信じられないほど朗らかな笑みが秀麗な面に閃くと、コンラートの表情は少年のように純粋な光を湛えて前を見据えた。 その様に、ヨザックは深い敬愛を感じながら…見事な軍隊式敬礼でもって答えたのだった。
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